舞弥の呼吸が、荒くなっていた。
切嗣はそれを、時臣から目を離さずに聞いていた。
肩から脇腹にかけて受けた焼けるような一撃。
即死ではない。だが、放置できる傷でもない。出血は多くないように見える。だが、魔術による熱と衝撃が肉を内側から傷めている可能性がある。
舞弥は声を上げなかった。
ただ、切嗣の腕の中で、銃を握ったまま呼吸を整えようとしている。
時臣も、それを見ていた。
追撃はしない。
その判断をした時点で、この場の性質は変わっていた。
切嗣の銃口は、まだ時臣へ向いていた。
「命乞いにしては、随分と大きく出たな」
「命乞いではない」
時臣は即座に答えた。
「警告だ」
「僕の願いを、君が知っているとでも?」
「知るはずがない」
時臣は首を横に振った。
「あなたが聖杯に何を求めているか、私は知らない。だが、あなたが聖杯を“願えば世界を変えられる器”として見ているなら、それは誤りだ」
切嗣は答えなかった。
銃口も下げないが、撃たない。
時臣は、それを会話の余地と見た。
「私も誤っていた」
切嗣の目がわずかに動いた。
「遠坂の当主が、聖杯を疑うのか」
「疑わざるを得ない状態を確認した」
「何を見た」
「大聖杯の応答だ」
時臣は慎重に言葉を選んだ。ここで、神秘を飾っても意味はない。
衛宮切嗣は、魔術師の言葉を信用しない。ならば、機能として言うしかない。
「大聖杯は、炉としては機能している。英霊の魂を受け入れる器としても、おそらく動く。しかし、願望器としての応答が正常ではない」
「汚染か」
切嗣は短く言った。
時臣は、その反応の早さを見た。
「それに近い。あるいは、願いを受ける機能そのものに、別のものが混じっている」
「根拠は」
「第三次の記録。遠坂側の観測記録。教会の報告。アインツベルンの記録の不自然な欠落。そして昨夜、私が行った表層応答の確認」
「表層?」
「深層へは届いていない。そこまで踏み込めば、こちらが呑まれる危険がある。だが、炉としての反応、魂受容器としての反応、願望処理としての反応には明らかな差異があった」
切嗣は、時臣を見ていた。
嘘を見抜こうとしている目だった。時臣はそれを不快には思わなかった。この男に信用される必要はない。ただ、無視できないと思わせればいい。
「仮に」
時臣は続けた。
「仮にその異常を取り除けたとしても、問題は残る」
「何だ」
「聖杯は神ではない」
切嗣の目が細くなった。
「願いには、実行形式が必要ということだ。何をどう変えるのか。どの範囲に適用するのか。何を保存し、何を捨てるのか。それを定義できない願いを、まともな聖杯ほど実行しない」
「聖杯が、願いを審査すると?」
「審査というより、仕様確認だ」
切嗣は、かすかに唇を歪めた。
「ずいぶんと事務的な奇跡だ」
「奇跡とは、仕組みを知らぬ者がつける名だ」
その言葉を口にした瞬間、時臣自身もわずかに苦いものを覚えた。昨夜までの自分もまた、聖杯を奇跡に近いものとして見ていた。
根源への道。
第三魔法。
御三家の悲願。
だが、器の中身を見なければならない。
それを、あの王に突きつけられた。
「衛宮切嗣」
時臣は言った。
「たとえば、戦争をなくす、と願うとする」
切嗣の目が変わった。ほんのわずかだった。だが、時臣には分かった。刺さった。
「何を戦争と定義するか。国家間の武力衝突か。内乱か。暴動か。私刑か。個人の殺意まで含めるのか。軍隊を消すのか。武器を消すのか。国家を消すのか。人間の敵意を消すのか。資源の不足を解消するのか。自由意志を制限するのか」
切嗣は黙っている。
時臣はその沈黙を、反論できない証拠として扱わなかった。
答えを急かさず、ただ次の問いを置いた。
「誰も犠牲にしない世界、と願うなら、犠牲とは何か。死者を出さないことか。苦痛をなくすことか。選択の結果として誰かが不利益を受けることも犠牲と呼ぶのか。もし全員の不利益を消すなら、聖杯は何をどう操作すればよいのか」
舞弥の呼吸が乱れた。切嗣の注意が一瞬だけそちらへ割れる。
時臣はそれを見た。この男は、まだ彼女を見捨てていない。
「そして」
時臣は声を低くした。
「異常を含んだ聖杯なら、その問いを正しく返す保証すらない。あなたが望む救済を、あなた自身が最も多く選んできた方法に従って実行する可能性がある」
切嗣の顔から、表情が消えた。
「何が言いたい」
「あなたが願う救済が、あなた自身の手段によって実行された場合、それを救済と呼べるのか」
倉庫の中に、沈黙が落ちた。
切嗣は撃たなかった。時臣も動かなかった。
ただ、舞弥の息だけが荒くなっていく。
「衛宮切嗣。彼女の処置が必要です」
「触るな」
切嗣の返答は即座だった。
時臣は首を振った。
「私の術では不十分だ。先ほどの傷は、単なる火傷ではない。熱と魔力衝撃が筋肉を裂いている。応急止血だけでは持たない」
「君に任せる理由がない」
「私にも、あなたに任せる理由はない」
時臣は静かに言った。
「だが、今ここで彼女を失えば、あなたは話を聞かない」
切嗣の目が冷えた。
「人質のつもりか」
「違う。むしろ逆だ。彼女を死なせないことが、この場を維持する条件だと言っている」
その時だった。
「ならば、王の財を使え」
声が、倉庫の空気を変えた。
黄金の光が、時臣の背後で揺らいだ。
切嗣は即座に銃口を動かした。だが、撃てなかった。撃てば死ぬ。そう判断したのではない。撃っても届かない、と理解した。
黄金の波紋の前に、ギルガメッシュが立っていた。
霊体ではない。
王は、ついに姿を見せていた。
「アーチャー……」
切嗣の声は低かった。
ギルガメッシュは切嗣を見なかった。
視線は舞弥に向いている。
「殺し屋。貴様はまた、失う顔をしているな」
切嗣の指が、引き金にかかった。
「つまらぬ」
ギルガメッシュは言った。
「今はまだ、その女を死なせる場ではない」
黄金の波紋から、小さな器が現れた。
瓶とも杯ともつかない、古い医療具だった。続いて、薄い布、細い針、白い香が出てくる。
「時臣」
「はい」
「手順は教えてやる。貴様が処置しろ」
時臣は一瞬だけギルを見た。
「私が、ですか」
「その殺し屋に触らせるよりは、貴様の方がましだ。少なくとも今の貴様は、壊して中身を見る趣味はない」
「王よ」
「不服か」
「いえ」
時臣は舞弥へ近づいた。
切嗣の銃口が、時臣を追う。
「一歩でも余計に近づけば撃つ」
「必要な距離までしか近づかない」
「僕は君を信用していない」
「私もだ」
時臣は即答した。
「だから、手順を口に出す。出血部位の確認。熱損傷の進行停止。魔力衝撃の残滓を抜く。止血。呼吸の維持」
ギルガメッシュが白い布を時臣の手元へ投げた。
「それを傷口へ当てろ。焼けた肉を剥がすな。香は吸わせすぎるな。死なぬが、意識が落ちる」
舞弥はかすかに目を開けた。
切嗣を見ている。
「切嗣……」
「黙ってろ」
声は冷たい。
だが、時臣には分かった。冷たくしなければならない声だった。
時臣は処置を始めた。
布を当てる。香を薄く流す。ギルの器から出した液を、傷口の周囲へ垂らす。
肉が閉じるわけではない。傷がなかったことになるわけでもない。ただ、出血が止まった。焼けた内側の損傷が、それ以上広がらなくなった。呼吸がわずかに整った。
舞弥の身体から力が抜ける。切嗣の銃口は、最後まで時臣から離れなかった。
「死にはしない」
時臣は言った。
「ただし、しばらく戦闘は無理だ」
「余計なことを」
切嗣は低く言った。
ギルガメッシュが笑った。
「余計か。ならばその場で死なせればよかったか、殺し屋」
切嗣は答えなかった。
「貴様は失って進むことに慣れすぎている。今回は違う。失わずに進め」
「お前に言われる筋合いはない」
「筋合いなど問うておらぬ。王がそう裁いた」
ギルガメッシュは、ようやく切嗣を見た。
「さて、衛宮切嗣。これで少しは耳が使えるようになったか」
切嗣は舞弥を支えたまま、時臣を見た。
「続けろ」
声はまだ警戒に満ちている。
しかし、先ほどとは違った。
撃つためだけの声ではない。
時臣は立ち上がった。左腕の痺れはまだ残っている。外部礼装は大きく損なわれた。
だが、話すには十分だった。
「大聖杯の異常を確認する必要がある」
「どうやって」
「修復、あるいは分離を試みる」
切嗣の目がギルへ向く。
ギルガメッシュは笑った。
「我の蔵を使う」
「信用しろと?」
「誰がそのようなことを言った」
ギルガメッシュは鼻で笑った。
「見ればよい。信じる必要はない。見て、貴様の願いがどれほど粗末な仕様でできているか知れ」
切嗣の顔が険しくなる。
時臣が口を挟んだ。
「衛宮切嗣。あなたが私を信用しないことは理解している。私もあなたを信用していない」
「ああ」
「ですが、今この場であなたは話を聞くと言った。そして、聞いている」
「それがどうした」
「昨夜、契約を語りながら、その裏で蟲を這わせる者を見た」
時臣の声は低かった。
「あなたは違う。あなたは最初から撃った。罠も張った。私を殺そうとした。しかし、話を聞くと言った今、その場で裏切ってはいない」
切嗣は何も言わなかった。
ギルガメッシュが楽しげに笑う。
「老蟲よりはまし、というわけだ」
「分かっています」
時臣は、王を見ずに答えた。
「あの方と、衛宮切嗣は違います」
切嗣は、そこで初めて銃口を下げた。
完全にではない。
まだ、いつでも撃てる位置にある。
だが、撃つための構えではなくなった。
「話を聞く」
切嗣は言った。
「だが、納得したわけじゃない」
「十分だ」
時臣は頷いた。
「納得は、聖杯そのものを見てからで構わない」
ギルガメッシュは、上機嫌に笑った。
「よい。では行くぞ。願望器とやらの中身を、貴様らに見せてやる」