大聖杯の気配は、沈んでいた。
眠っているのではない。待っている。
巨大な炉のように、地の底で静かに熱を抱え、まだ足りない魂を数えている。
時臣は、その前に立った。
切嗣は舞弥を支えながら、距離を取っている。銃は下げているが、手放してはいない。
ギルガメッシュは、彼らより少し前へ出た。
「見るだけだ」
王は言った。
「触れるな。願うな。問われても答えるな。今の貴様らでは、答えた言葉の方から食われる」
切嗣が目を細める。
「食われる?」
「願いとは餌だ」
ギルガメッシュは笑った。
「とくに中身を定めぬ願いはな」
黄金の波紋が、王の背後に開いた。
出てきたのは剣ではなかった。
大きな鏡、古い天秤、杯を伏せたような銀の器、細い鎖、文字の刻まれた楔、用途の分からぬ透明な板。
それらが空中に並び、互いに噛み合うように位置を定めた。
時臣は、それを見て息を呑んだ。
宝具というより、装置だった。
王の財が、一つの儀式場を作っている。
「王よ。これは」
「覗き窓だ」
ギルガメッシュは軽く言った。
「炉の蓋を開けるわけではない。蓋の上に、映りを出す」
銀の器が伏せられ、天秤が傾く。
鏡が暗くなる。そして、世界の底が見えた。
最初に見えたのは、炉だった。
巨大な構造、魔力の流れ、英霊の魂を受け入れるための器。
願望器というより、あまりにも巨大な工房。
時臣は思わず言った。
「……炉としては、やはり動いている」
「その通りだ」
ギルは頷いた。
「貴様らの祖先が作ったものは、愚かではあるが無能ではない。構造そのものは大したものだ」
次に、鏡の中の像が変わった。
流れの先に、別の層が見える。
願いを受ける場所。入力された言葉を、結果へ変えるための処理層。
だが、そこに黒いものが混じっていた。
泥。いや、泥に見える何かだった。
黒い願い。悪意。呪い。
人の罪を一つの器へ押し込めたようなもの。
それが、願望器の層に絡みついている。
切嗣の表情が変わった。
「これは……」
「杯に入った中身だ」
ギルガメッシュは言った。
「器は器だ。酒を入れれば酒を注ぐ。毒を入れれば毒を注ぐ。泥を入れれば泥を注ぐ。貴様らは、杯だけを見て中身を見なかった」
黒いものが、鏡の内側で蠢いた。
それは、こちらを見たようだった。
切嗣の奥にある願いへ。
セイバーの悔恨へ。
時臣の根源への欲望へ。
それぞれの願いの形を嗅ぎ取り、そこへ舌を伸ばすように。
その瞬間、ギルガメッシュの目が冷えた。
「行儀が悪いぞ、泥の願望器」
王の声が落ちた。
黄金の楔が、鏡の前へ打ち込まれる。
黒いものが、そこで止まった。
さらに、伏せられた銀の器から薄い光が広がる。
鏡と彼らの間に透明な隔たりが生まれた。
ギルガメッシュは片手を振った。
「こちらを見るな。呼びかけるな。まだ貴様に答える者はいない」
泥は、鏡の向こうで泡立った。
だが、届かなかった。
切嗣は、初めて銃ではなく、その黒いものを見ていた。
時臣もまた、言葉を失っていた。
昨夜、自分が見たのは表層だった。
願望器としての応答が異常であることまでは分かった。
だが、これはさらに深い。願いを受ける層そのものに、悪意が混ざっている。
「これが、君の言う異常か」
切嗣が言った。
「そうだ」
時臣は答えた。
声は硬かった。
「ただし、私が昨夜見たのは、ここまでではない。王の宝具によって、より深く観測している」
「観測しているだけか」
「その通りだ」
ギルガメッシュが答えた。
「今はな。中へ入れば食われる。触れれば汚される。願えば、願いの形を奪われる」
切嗣の喉がわずかに動いた。
「僕の願いもか」
「当然だ」
ギルは笑った。
「貴様ほど食いやすい願いもなかろう。多を救うために少を殺す。実に分かりやすい。泥にとっては、実行形式が最初から用意されているようなものだ」
切嗣の顔から血の気が引いた。
ギルガメッシュは楽しげだった。
だが、その声は笑いだけではなかった。
「殺し屋。貴様が聖杯に世界の救済を願えば、あれは貴様の知る救済方法で世界を処理するだろうな」
時臣が続けた。
「だから言った。聖杯は、あなたの願いを叶えない。少なくとも、あなたが望む形では」
切嗣は答えなかった。
舞弥の呼吸が、まだ浅い。だが、ギルの宝具による処置で死は遠ざかっている。
切嗣は、舞弥を失わずに、その黒いものを見ていた。
ギルはそれを見て、目を細めた。
「よい顔だ」
「黙れ」
「黙らぬ。貴様は今、失ってから悟る機会を奪われた。ならば、失う前に見るがいい」
黒い泥は、なお鏡の向こうで蠢いている。
だが、王命を受けた宝具群が、それ以上を許さない。
鏡は見る。天秤は測る。銀の器は隔てる。
楔は泥の舌を外界との境界へ縫い止める。。
ギルガメッシュは、その中央で笑っていた。
「さて、衛宮切嗣」
王は言った。
「それでも、あれを願望器と呼ぶか」