優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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19.泥の聖杯

 大聖杯の気配は、沈んでいた。

 眠っているのではない。待っている。

 巨大な炉のように、地の底で静かに熱を抱え、まだ足りない魂を数えている。

 

 時臣は、その前に立った。

 切嗣は舞弥を支えながら、距離を取っている。銃は下げているが、手放してはいない。

 ギルガメッシュは、彼らより少し前へ出た。

「見るだけだ」

 王は言った。

 

「触れるな。願うな。問われても答えるな。今の貴様らでは、答えた言葉の方から食われる」

 切嗣が目を細める。

「食われる?」

「願いとは餌だ」

 ギルガメッシュは笑った。

 

「とくに中身を定めぬ願いはな」

 黄金の波紋が、王の背後に開いた。

 出てきたのは剣ではなかった。

 大きな鏡、古い天秤、杯を伏せたような銀の器、細い鎖、文字の刻まれた楔、用途の分からぬ透明な板。

 それらが空中に並び、互いに噛み合うように位置を定めた。

 

 時臣は、それを見て息を呑んだ。

 宝具というより、装置だった。

 王の財が、一つの儀式場を作っている。

「王よ。これは」

「覗き窓だ」

 ギルガメッシュは軽く言った。

「炉の蓋を開けるわけではない。蓋の上に、映りを出す」

 

 銀の器が伏せられ、天秤が傾く。

 鏡が暗くなる。そして、世界の底が見えた。

 最初に見えたのは、炉だった。

 巨大な構造、魔力の流れ、英霊の魂を受け入れるための器。

 願望器というより、あまりにも巨大な工房。

 

 時臣は思わず言った。

「……炉としては、やはり動いている」

「その通りだ」

 ギルは頷いた。

「貴様らの祖先が作ったものは、愚かではあるが無能ではない。構造そのものは大したものだ」

 

 次に、鏡の中の像が変わった。

 流れの先に、別の層が見える。

 願いを受ける場所。入力された言葉を、結果へ変えるための処理層。

 

 だが、そこに黒いものが混じっていた。

 泥。いや、泥に見える何かだった。

 黒い願い。悪意。呪い。

 人の罪を一つの器へ押し込めたようなもの。

 それが、願望器の層に絡みついている。

 

 切嗣の表情が変わった。

「これは……」

「杯に入った中身だ」

 ギルガメッシュは言った。

「器は器だ。酒を入れれば酒を注ぐ。毒を入れれば毒を注ぐ。泥を入れれば泥を注ぐ。貴様らは、杯だけを見て中身を見なかった」

 

 黒いものが、鏡の内側で蠢いた。

 それは、こちらを見たようだった。

 切嗣の奥にある願いへ。

 セイバーの悔恨へ。

 時臣の根源への欲望へ。

 それぞれの願いの形を嗅ぎ取り、そこへ舌を伸ばすように。

 

 その瞬間、ギルガメッシュの目が冷えた。

「行儀が悪いぞ、泥の願望器」

 王の声が落ちた。

 黄金の楔が、鏡の前へ打ち込まれる。

 黒いものが、そこで止まった。

 さらに、伏せられた銀の器から薄い光が広がる。

 鏡と彼らの間に透明な隔たりが生まれた。

 

 ギルガメッシュは片手を振った。

「こちらを見るな。呼びかけるな。まだ貴様に答える者はいない」

 泥は、鏡の向こうで泡立った。

 だが、届かなかった。

 

 切嗣は、初めて銃ではなく、その黒いものを見ていた。

 時臣もまた、言葉を失っていた。

 昨夜、自分が見たのは表層だった。

 願望器としての応答が異常であることまでは分かった。

 だが、これはさらに深い。願いを受ける層そのものに、悪意が混ざっている。

 

「これが、君の言う異常か」

 切嗣が言った。

「そうだ」

 時臣は答えた。

 声は硬かった。

「ただし、私が昨夜見たのは、ここまでではない。王の宝具によって、より深く観測している」

「観測しているだけか」

「その通りだ」

 ギルガメッシュが答えた。

 

「今はな。中へ入れば食われる。触れれば汚される。願えば、願いの形を奪われる」

 切嗣の喉がわずかに動いた。

「僕の願いもか」

「当然だ」

 ギルは笑った。

「貴様ほど食いやすい願いもなかろう。多を救うために少を殺す。実に分かりやすい。泥にとっては、実行形式が最初から用意されているようなものだ」

 切嗣の顔から血の気が引いた。

 

 ギルガメッシュは楽しげだった。

 だが、その声は笑いだけではなかった。

「殺し屋。貴様が聖杯に世界の救済を願えば、あれは貴様の知る救済方法で世界を処理するだろうな」

 時臣が続けた。

「だから言った。聖杯は、あなたの願いを叶えない。少なくとも、あなたが望む形では」

 

 切嗣は答えなかった。

 舞弥の呼吸が、まだ浅い。だが、ギルの宝具による処置で死は遠ざかっている。

 切嗣は、舞弥を失わずに、その黒いものを見ていた。

 

 ギルはそれを見て、目を細めた。

「よい顔だ」

「黙れ」

「黙らぬ。貴様は今、失ってから悟る機会を奪われた。ならば、失う前に見るがいい」

 黒い泥は、なお鏡の向こうで蠢いている。

 

 だが、王命を受けた宝具群が、それ以上を許さない。

 鏡は見る。天秤は測る。銀の器は隔てる。

 楔は泥の舌を外界との境界へ縫い止める。。

 

 ギルガメッシュは、その中央で笑っていた。

「さて、衛宮切嗣」

 王は言った。

「それでも、あれを願望器と呼ぶか」

 

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