言峰綺礼だったものは、灰になっていた。時臣はしばらく、その灰を見下ろしていた。
炎はもう消えている。室内には焦げた布と血の匂いが残り、床にはアゾット剣が落ちていた。時臣はまずそれを拾った。拾い上げる手つきは、奇妙なほど丁寧だった。
それから、刃についた血を布で拭う。自分の血だった。
時臣はそれを見て、わずかに眉を寄せた。痛みのためではない。血の量を確認し、魔術行使に支障があるかを測っただけだった。
「左脇腹、浅からず。肩は骨に響いたか」
独り言のようにつぶやき、時臣は懐から小さな宝石を取り出した。
砕く。柔らかな赤い光が傷口に沈み、流れていた血が止まった。完全な治癒ではない。戦闘続行と後始末に必要なだけの処置。魔術師らしい、必要十分な処理だった。
黄金の王は、その様子を見ていた。ギルガメッシュは椅子に腰かけたまま、頬杖をついている。先ほどまで弟子を焼き殺していた男が、今は床の焦げ跡と魔術式の乱れを検分している。激情もない。祈りもない。後悔らしいものも見えない。
それが愉快だった。
「時臣」
王が声をかける。
時臣はすぐに向き直り、一礼した。
「はい、王よ」
「貴様、思ったより冷静だな」
ギルガメッシュは笑っていた。
「弟子を殺した直後に、まず己の血を止め、床の術式を確認し、証拠の始末を考えるか。まるで、こうなることをどこかで考えていたようではないか」
時臣は一瞬だけ沈黙した。
怒ったわけではない。悲しんだわけでもない。言葉を選んでいた。
「綺礼個人を、明確に疑っていたわけではありません」
「ほう?」
「彼は優秀でした。恐ろしく優秀だった。私の求める役割を理解し、必要な仕事を過不足なく行う。判断も早く、感情に乱されることも少ない」
時臣は灰へ視線を落とした。
「だからこそ、信用しておりました」
「では、なぜ備えた」
ギルガメッシュの声に、楽しげな色が混じる。
「信じていた相手に、罠を張っていたというのか」
「罠ではありません」
時臣は静かに否定した。
「当主の備えです」
その言葉に、ギルガメッシュの目が細くなった。
時臣は、床に残った血を指先でなぞった。血の上に薄い魔術式が浮かび、やがて消える。部屋の結界が、殺人の痕跡を少しずつ隠していく。
「王よ。人は、すべてを語るものではありません。魔術師であればなおさらです。どれほど親しくとも、師弟であっても、親子であっても、明かさぬものはある」
「貴様もか」
「はい」
時臣はためらわず答えた。
「私にもあります。綺礼にもありました。それが悪だとは申しません。秘すべきものを秘すことは、魔術師の常です。彼は魔術師ではありませんでしたが、己の内を明かさぬという点では、むしろ魔術師より徹底していた」
「ならば、信用できぬではないか」
「完全には」
時臣の返答は早かった。
「ですが、完全に信用できる者だけを使う当主など、当主ではありません」
ギルガメッシュは笑みを深めた。
続けよ、と視線だけで促す。
時臣は灰を小瓶に収めた。言峰綺礼の遺灰。教会へ渡すためか、あるいは遠坂家の記録として封じるためか。いずれにせよ、粗雑には扱わなかった。
「本音を言わぬ者は信用できません。本音を言わぬ者とも付き合わねばならない。それが家を持つということです」
「それで、弟子にも焼かれぬよう工房を仕立てていたか」
「工房は、すべての不測に備えるものです」
「言い訳としては整っているな」
「言い訳ではありません」
時臣は、そこで初めてギルガメッシュを見た。
その視線は恭順を保っていた。だが、先ほどまでとは違うものがわずかに混じっている。焼けた弟子の前で、なお自分の理を崩さない男の目だった。
「信頼とは、無防備になることではありません。少なくとも、遠坂の当主にとっては」
ギルガメッシュは、喉の奥で笑った。
「つまらぬ理屈だ」
「承知しております」
「だが、今宵は少し味がある」
時臣は何も答えなかった。
彼は次に、言峰綺礼の右腕へ目を向けた。焼け残った袖の下に、令呪の痕跡がある。時臣は膝をつき、慎重にそれを検めた。
数が多い。通常のマスターが持つ令呪ではない。
時臣の目がわずかに細まる。
「璃正神父の令呪か」
呟きは低かった。
ギルガメッシュはそれを聞き逃さない。
「貴様の弟子は、父の遺したものまで受け取っていたようだな」
「そのようです」
「そのようです、か。実につまらぬ返事だ。もっと怒ればどうだ」
時臣は焼け残った令呪の状態を確認しながら答えた。
「怒りはあります」
「見えぬな」
「見せても、状況は改善しません」
ギルガメッシュは声を上げて笑った。
「ははははは! よいぞ、時臣。貴様、弟子よりよほど性質が悪いではないか」
「恐れ入ります」
「褒めてはおらぬ」
「承知しております」
時臣は、令呪の残滓を封じるための小さな術式を組んだ。璃正の死が教会に伝わる前に、言峰綺礼の死も処理しなければならない。監督役が死に、その息子も死んだ。聖杯戦争の秩序は、表面上さらに崩れる。
だが崩れたことを、そのまま見せるわけにはいかない。時臣はそういう顔をしていた。
ギルガメッシュは、その顔も見ていた。
弟子を失った師。裏切りを処理した当主。自分の傷を計算する魔術師。教会への報告文面を、すでに頭の中で整え始めている男。どれも同じ顔の中にある。
言峰綺礼は、自分の内側を知らなかった。
遠坂時臣は、自分の内側をよく知っている。
そのうえで、見せるものを選んでいる。
なるほど。
これはこれで、見物に値する。
「時臣」
「はい」
「貴様は、綺礼が裏切ると思っていたのか」
時臣は手を止めた。
今度は少し長く黙った。
「……思っていた、とは申しません」
「では」
「あり得るとは、考えておりました」
ギルガメッシュは目を細める。
「なぜだ」
「綺礼は、空でした」
その言葉に、王の笑みが変わった。
深くなる。
時臣は気づいていない。あるいは、気づいたうえで言っているのかもしれない。
「私には、彼の望みが見えませんでした。聖堂教会に従い、父に従い、私の命にも従う。だが、その奥に彼自身の願いが見えない」
「それを知りながら、傍に置いたか」
「有能でしたので」
時臣は淡々と言った。
「有能で、任務に忠実で、判断力があり、戦闘能力も高い。危険であることと、有用であることは両立します」
「ならば、貴様が使い損ねたのだな」
「そうかもしれません」
この答えは、ギルガメッシュにとって少し意外だった。
時臣は責任を他人だけに押しつけなかった。綺礼が異常だった、教会が悪かった、璃正が見誤った、そう言うこともできた。だが彼は、自分が使い損ねた可能性を認めた。ただし、それもまた冷静な分析として。罪の告白ではない。
「綺礼の空虚さを、私は埋めるべきものとは見ませんでした。扱うべき性質と見た。そこに誤りがあったのでしょう」
「ほう。貴様、弟子の心を救ってやる気はなかったか」
「私は聖職者ではありません」
「師であろう」
「魔術の師です」
ギルガメッシュは笑った。
「徹底しておるな、時臣」
「そうあるよう努めております」
「だから殺されかけた」
「はい」
時臣は、そこで初めてほんのわずか、自嘲のようなものを見せた。
「そして、だからこそ生き残りました」
ギルガメッシュは杯を取った。中身はすでに空だったが、彼はそれを楽しげに掲げた。
「よい」
王は言った。
「今の答えはよいぞ、時臣」
時臣は一礼する。
「恐れ入ります」
「まだ褒めてはおらぬ」
「承知しております」
同じ返答だった。
だが、先ほどより少しだけ、時臣の声にも疲れが混じっていた。
当然だ。傷は浅くない。弟子を焼いた。神父の令呪を回収し、教会との整合性を取り、聖杯戦争の残りを処理しなければならない。しかも目の前の王は、助けるどころか、すべてを見物している。
それでも時臣は、崩れなかった。
ギルガメッシュはそれを楽しんでいた。
時臣は綺礼の灰を封じ終え、アゾット剣を布に包んだ。弟子に贈った剣を、弟子が師を殺すために用いた。その剣を、師が拾い、証拠として保管する。
悪趣味な巡りだ。
そして、悪くない。
「王よ」
時臣が口を開いた。
「今後の契約について、確認させていただきたい」
「契約?」
「綺礼は、私の排除後に王と再契約するつもりだったのでしょう。璃正神父の令呪を有していた以上、その可能性は高い」
「そうであろうな」
ギルガメッシュは否定しなかった。
時臣の目が、ほんのわずか暗くなる。
「王は、それをご存じでしたか」
部屋の空気が、静かに張った。
普通のサーヴァントに向ける問いではない。問いという形を取った、ほとんど命がけの確認だった。
ギルガメッシュは、上機嫌に笑った。
「知っていた」
時臣は一礼したまま、動かなかった。
「そうですか」
「怒らぬのか」
「怒る資格はありますまい」
「なぜだ」
「私は王を最後に退去させるつもりでおりました」
ギルガメッシュの笑みが止まった。
いや、止まったのではない。形が変わった。
より愉快なものを見る顔になった。
時臣は続けた。
「聖杯を完成させるためには、すべてのサーヴァントが必要です。王も例外ではありません。私はそのための令呪を温存していた。綺礼がそれを知り、王に伝えていたなら、王が綺礼の企てを見逃したとしても、不当とは申せません」
「貴様、よくも我の前で言う」
「申し上げねば、契約は続けられません」
時臣は顔を上げた。
礼は保っている。
だが、逃げてはいない。
「王よ。私はあなたを欺くつもりでおりました。綺礼もまた、私を欺くつもりでおりました。違いは、私が生き残り、綺礼が死んだことだけです」
ギルガメッシュは、しばらく時臣を見た。
そして。
「はは」
笑った。
「はははははははは!」
王の笑いが、焼けた工房に響いた。
「よい。実によいぞ、時臣。今宵の貴様は、どこまでも我を退屈させぬ」
時臣は黙っていた。
ギルガメッシュは椅子から立ち上がる。黄金の鎧が、低い音を立てた。
「よかろう。契約は続けてやる」
「感謝いたします」
「勘違いするな。貴様を許したのではない。貴様がどこまでその優雅な面を保っていられるか、見たくなっただけだ」
「承知しております」
「そして時臣」
ギルガメッシュは、灰を封じた小瓶へ目を向けた。
「貴様は、弟子を焼き、己の企みを認め、それでもなお杯へ向かうつもりか」
時臣の返答は、少しだけ遅れた。
「はい」
それは、迷いのない声ではなかった。
だが、逃げの声でもなかった。
「遠坂の当主として、聖杯戦争を完遂する責務があります」
「責務か」
「はい」
「では、見せてもらおう」
ギルガメッシュは、ひどく楽しげに言った。
「貴様の責務とやらが、何を飲み込むのかをな」
時臣は深く一礼した。
焼けた匂いの残る部屋で、弟子を殺した師は、静かに後始末を続けた。
黄金の王は、それを最後まで見ていた。