優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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20.保留する回答

 黒いものは、鏡の向こうで蠢いていた。

 泥。そう呼ぶほかないものだった。

 それはただの穢れではない。悪意でもない。呪いでもない。

 もっと厄介なものだった。

 

 願いを待っている。

 誰かが口にする言葉を。

 誰かが胸の奥に抱えた祈りを。

 救済、正義、平和、やり直し、根源。

 そういう名を与えられたものを待っている。

 

 切嗣は、舞弥を支えたまま、それを見ていた。

 銃口は下がっている。

 だが、完全に手放してはいない。

 それでも、彼の意識はもう銃に向いていなかった。

 鏡の向こうで、泥がこちらへ伸びようとしていた。だが、ギルガメッシュの宝具が作る透明な隔たりを越えることはできない。

 舌のような黒いものは、境界へ打たれた楔に縫い止められ、こちらへは届かなかった。

 

 それでも、切嗣には、泥が自分へ反応したように見えた。

 それだけで結論は出さない。

 遠坂時臣か、アーチャーが用意した幻覚かもしれない。自分の警戒心が、形のない泥へ意味を見出しているだけかもしれない。

 あるいは、本当にこちらを見ているのか。

 自分の願いを。自分が、聖杯に何を求めているのかを。

 切嗣は銃を握ったまま、鏡の中を見返した。

 まだ、何も確定していない。

 

 多くを救うために、少ない方を切り捨てる。

 爆弾を仕掛け、撃ち、見捨て、壊し、沈め、燃やす。

 それが、最も効率のよい救済手段だと、あれは理解するだろう。

 切嗣は、そのことを理解してしまった。

 

「……これは」

 声は、かすれていた。

 時臣は何も言わなかった。

 ギルガメッシュだけが笑っている。

「どうした、殺し屋。願望器だぞ。貴様が欲しがったものだ」

 切嗣は答えない。

 

 鏡の向こうで、泥が泡立った。

 黒い流れが、二つに分かれる。

 一方は大きく、もう一方は小さい。

 泥は、二つを比べるように揺れた。

 次の瞬間、小さい方の輪郭が崩れ、そのまま消えた。

 

 残った流れが、再び二つに分かれる。

 また、少ない方が消えた。

 それが何を意味するのか、切嗣にはまだ分からない。

 だが、その選び方には覚えがあった。

 

「これは、何をしている」

 問いは、時臣へ向けられていた。

「測っているのだと思う」

 時臣は鏡を見たまま答えた。

「願いと、その願いを実行するために使える手段を」

「僕の記憶を読んでいるのか」

「断定はできまい。だが、あなたの中にある因果を拾っている可能性はある」

「因果?」

「何を望み、そのために何をしてきたかだ」

 

 切嗣は、鏡の向こうを見た。

 誰も殺すな。誰も犠牲にするな。

 ただ、戦争だけを終わらせろ。

 声には出さなかった。

 ただ、泥へ届くように、胸の内で言葉を形にした。

 

 黒い流れが動いた。

 武器を持つ者が呑まれた。

 次に、武器を作る者が呑まれた。

 命令する者が消えた。

 憎む者が消えた。

 やがて、他者を拒む者まで黒い流れに沈んでいく。

 

「やめろ」

 切嗣は、低く言った。

 泥は止まらない。

 争いの原因を取り除く。

 障害となる人間を消す。

 殺すなと命じても、泥は切嗣が知る方法へ戻っていく。

 

「やめろ」

 今度は、はっきりと言った。

 舞弥がかすかに目を開ける。

「切嗣……」

「見るな」

 切嗣は短く言った。

 舞弥は、それ以上何も言わなかった。

 ギルガメッシュが、黄金の楔をもう一本、鏡の前へ打ち込んだ。

 

「行儀が悪いと言ったはずだ、泥の願望器」

 王の声が落ちる。

 黒い泡立ちが、少しだけ遠のいた。

 だが、消えはしない。

「見せすぎたか」

 時臣が静かに言った。

「いいや」

 ギルガメッシュは答えた。

 

「この程度で食われるなら、そもそも杯へ願いなど投げ込む資格はない」

 切嗣は、鏡を見ていた。

 顔色は悪いが、目は逸らしていない。

「……これは、僕の望むものじゃない」

 ようやく、その言葉が出た。

 時臣は、黙って聞いた。

 

「僕は、こんなものを望んだんじゃない」

 切嗣の声は、震えてはいなかった。

 だが、何かが崩れかけている声だった。

「それでも、あなたの願いをそのまま渡せば、あれはあなたの中にある手段で実行する可能性が高い」

「……僕の願いを、僕のやり方で実行するつもりなのか」

 時臣はすぐには答えなかった。

「その可能性が高い」

「……黙れ」

「黙りません」

 

 時臣は切嗣を見た。

「これは私自身にも言えることだ。私は根源へ至ることを求めながら、その器が何をどう出力するのかを確かめなかった」

 時臣の声は低い。

「私は、器を見て、中身を見なかった。その結果を、昨夜見た」

 切嗣は時臣を見た。

 その言葉が桜を指していることまでは、切嗣にも分かった。

 だが、今はそれを問う余裕がない。

 

 ギルガメッシュは、鏡の前に立ったまま言った。

「殺し屋。貴様の願いは粗い」

 切嗣の目がギルへ向く。

「世界を救う。戦をなくす。誰も犠牲にしない。聞こえはよい。だが、その願いを実行するには、世界をどう書き換えるか定めねばならぬ」

 ギルは笑った。

「貴様はその定義を持たぬ。ただ、これまで自分が選んできた手段だけを持っている。ゆえに、泥はそれを使う。分かりやすいからな」

「黙れと言った」

「断る」

 

 ギルガメッシュは、楽しげに続ける。

「貴様は今、失う前に見ている。舞弥も、まだ死んでおらぬ。セイバーも、アイリスフィールも、まだ貴様の後ろにいる。失った後で悟るより、よほど贅沢だろうが」

 切嗣は、舞弥を支える手に力を込めた。

 舞弥は小さく息を漏らしたが、何も言わない。

 時臣は、ギルを止めなかった。

 

 残酷な言葉だった。

 だが、必要な言葉でもあった。

 切嗣は、しばらく沈黙した。

 鏡の向こうで、泥が揺れる。

 その向こうに、自分の願いの影がある。

 世界平和。

 戦争の根絶。

 犠牲なき救済。

 どれも、言葉としては美しい。

 

 だが、それをどう実現するのか。

 切嗣は答えを持っていない。

 持っているのは、これまでの選択だけだった。

 少数を殺し、多数を救う。

 それを世界規模で実行するものを、彼は救済とは呼べない。

 

「……今の聖杯は使えない」

 切嗣は言った。

 時臣は、表情を変えなかった。

「同意しよう」

「君たちを信用したわけじゃない」

「承知している」

「アーチャーもだ」

「当然だ」

 ギルガメッシュが笑った。

 

「貴様に信用されて喜ぶほど、我は落ちぶれておらぬ」

 切嗣はギルを無視した。

「君たちを信用したわけじゃない。今ここで結論を出すつもりもない」

「構わない。だが、現状の聖杯をそのまま使用しない。その点では、一致したと見てよいのか」

「一致じゃない」

 切嗣は即座に言った。

「保留だ」

「では、保留で結構」

 時臣は、わずかに切嗣を見直した。

 この男は他者を信用しない。それでも、信用しないことと、自分だけが正しいと思うことを、いま初めて分けようとしている。

 

 切嗣は、舞弥を抱え直した。

「今日は退く」

「彼女の傷は」

「応急処置は済んだ。あとは僕がやる」

 ギルガメッシュが鼻で笑う。

「下手にいじるな。王の財で塞いだ傷だ。貴様の雑な処置で開けば、今度は知らぬ」

 

 切嗣は一瞬だけギルを睨んだ。

 しかし反論はしなかった。

 舞弥が生きている。それは事実だった。

 敵に助けられたという屈辱も、今は飲み込むしかない。

 

「次は――セイバーにも見せるべきでないかね」

 切嗣の目が細くなる。

「君がそれを言うのか」

「彼女も聖杯を求めている。願いの形を定義できないまま近づけるのは危険だ」

「セイバーは君の言葉を聞かない」

 ギルガメッシュが笑った。

「我の言葉なら、なお聞くまいな」

「でしょうな」

 時臣は淡々と答えた。

「ですが、聖杯そのものを見れば別です」

 

 切嗣は答えなかった。

 セイバー、アイリスフィール、舞弥。

 聖杯。

 考えることが増えた。

 だが、少なくとも一つだけは決まっている。

 今、願ってはいけない。

 

「確認する時間がいる」

 切嗣は言った。

「その間、君たちはどうする」

「大聖杯の観測を続けます。間桐への対処も必要です。こちらにも守るものがある」

「遠坂桜か」

 時臣の目が、わずかに動いた。

 

 切嗣はそれ以上踏み込まなかった。

 今は、その話ではない。

「分かった」

 切嗣は舞弥を支え、ゆっくりと後退した。

 時臣は追わない。

 ギルガメッシュも動かない。

 

 ただ、王は上機嫌に言った。

「逃げるのか、殺し屋」

「撤退だ」

 切嗣は振り返らずに答えた。

「違いは?」

「次に来る」

 ギルガメッシュは笑った。

「よい。その顔で戻ってくるなら、まだ見物の価値はある」

 

 切嗣は答えなかった。

 倉庫の出口へ向かう。

 舞弥の足取りは弱い。切嗣がほとんど支えている。

 それでも、彼女は意識を保っていた。

 切嗣は舞弥の肩を支え、出口へ向かった。

 

 二歩進んだところで、足を止めた。

「一つだけ、確認したい」

 時臣は問いを待った。

「言峰綺礼は、君が殺したのか」

「そうだ」

 時臣の返答に、ためらいはなかった。

 誇る声音でも、悔いる声音でもない。

「彼は、私を殺そうとした」

「だから殺した?」

「だから生き残った」

 切嗣は、しばらく時臣を見ていた。

 それから、再び扉に向かう。

 

 扉の前で、切嗣はもう一度立ち止まった。

「遠坂時臣」

「何か」

「君の言ったことが本当なら」

 切嗣は、少しだけ間を置いた。

「聖杯戦争は、もう勝者を決める戦いじゃない」

 時臣は頷いた。

「ええ。少なくとも、私はそう見ている」

「なら、次に会う時は、もう少し違う話になる」

「期待はしない」

「その方がいい」

 切嗣はそう言い、倉庫を出た。

 

 足音が遠ざかる。

 やがて、外の気配も消えた。

 鏡の向こうの泥は、まだ蠢いている。

 

 ギルガメッシュが指を鳴らすと、黄金の宝具群がひとつずつ閉じていった。

 鏡が暗くなり、天秤が消え、楔が抜ける。

 最後に、泥の気配だけが地の底へ沈んだ。

 時臣は、しばらくその場に立っていた。

 

 左腕の痺れが戻ってくる。

「王よ」

「何だ」

「彼は、戻ってくるでしょうか」

「戻る」

 ギルガメッシュは即答した。

「なぜ」

「見てしまったからだ」

 王は愉快そうに笑った。

「願いを疑った者は、もう以前のようには杯を見られぬ。逃げたところで、問いはついて回る」

 

 時臣は目を伏せた。

「……そうですな」

「それに」

 ギルガメッシュは、時臣を見た。

「貴様も同じだろう」

 

 時臣は答えなかった。

 大聖杯。

 桜。

 切嗣。

 セイバー。

 臓硯。

 問いは増え続けている。

 だが、少なくとも今は、一つだけ進んだ。

 衛宮切嗣は、現状の聖杯を使わない。

 それだけで十分ではないが、始まりとしては足りていた。

 

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