舞弥は、自分の足で部屋に入った。
ただし、それは切嗣に支えられてのことだった。
アイリスフィールは、椅子から立ち上がりかけて、そのまま固まった。
セイバーは一歩前へ出る。
「切嗣。何があったのです」
切嗣は答えなかった。
舞弥を寝台へ横たえる。傷口は塞がれている。だが、自然な処置ではない。セイバーにもそれは分かった。魔術とも違う。もっと古く、もっと強引で、それでいて精密な何かだった。
「敵にやられたのですか」
「遠坂だ」
切嗣は短く答えた。
セイバーの目が鋭くなる。
「ならば、なぜ私を」
「君を出せば、アーチャーが出る」
切嗣は舞弥の呼吸を確認しながら言った。
「そうなれば、話が変わる」
「話?」
セイバーは眉を寄せた。
「会談ではなかったのですか」
「会談にはならなかった。だが、話は聞いた」
アイリスフィールが、切嗣を見る。
「切嗣……?」
切嗣は少しだけ沈黙した。
それから、いつもの低い声で言った。
「聖杯は、このままでは使えない」
部屋の空気が止まった。
セイバーが一歩近づく。
「それは、どういう意味ですか」
「遠坂が見せた」
セイバーの目が鋭くなる。
「遠坂時臣が?」
「ああ」
「では、貴方は彼の言葉を信じたのですか」
「信用はしていない」
切嗣は即座に答えた。
「だが、嘘をつくなら、もっと都合のいい嘘をつく。あれは遠坂自身にとっても不利な事実だった」
アイリスフィールが静かに尋ねる。
「遠坂は、以前とは違っていたの?」
切嗣は舞弥の傷口を見た。
あの場で自分を撃たせた男。
舞弥を傷つけ、それでも見捨てず、王の財宝を使って命を繋いだ男。
聖杯の異常を隠せば、まだ勝者を目指せたはずの魔術師。
「分からない」
切嗣は言った。
「変わったのかもしれない。あるいは、僕が最初から読み違えていた」
「言峰綺礼のこともですか」
セイバーが尋ねた。
「綺礼を殺したのは遠坂だ」
アイリスフィールの表情が変わった。
「遠坂が……?」
「綺礼が彼を殺そうとした。遠坂は生き残った」
切嗣は短く告げた。
「僕が最も警戒していた男を、遠坂時臣は返り討ちにした。そしてその後に、聖杯の異常を僕へ知らせた」
「ならば、遠坂は我々の味方なのですか」
「違う」
切嗣はようやくセイバーを見た。
「敵か味方かで数えられる状態じゃない。だから、君も見る必要がある」
「答えになっていません」
「今は、それ以上言えない」
セイバーの顔に、不信が浮かぶ。
切嗣はそれを見ても、説明を足さなかった。
舞弥が薄く目を開ける。
「切嗣……」
「喋るな」
切嗣は彼女の肩へ布をかけた。
それから、セイバーを見る。
「次に見る時は、君も来る」
「何を、ですか」
「聖杯の中身だ」
セイバーは言葉を失った。
切嗣は窓の外を見た。
朝の光は、白く冷たかった。
彼はまだ、あれをどう扱えばいいのか分かっていなかった。
ただ一つだけ、はっきりしている。
あの泥へ願ってはいけない。
時臣が遠坂邸へ戻った時、門の前には凛がいた。
葵に止められたのだろう。門の内側で、じっと待っていた。
時臣の姿を見ると、凛は駆け寄りかけて、途中で止まった。
「お父様」
「凛。中で待つように言ったはずだ」
「待っていました。ここは中です」
時臣は一瞬だけ言葉を失った。
それから、小さく息を吐く。
「桜は」
凛が聞く。
「今は安定している」
「もう、痛くないの?」
時臣は、すぐには答えなかった。
その沈黙で、凛は自分の問いが子どもじみていたことを悟った。
痛いかどうかではないのだ。何かが、桜の中に残っている。
それを父は知っている。
そして、自分にはまだ教えるつもりがない。
「今すぐ苦しむ状態ではない」
時臣は言った。
「危険は?」
「今のところ、こちらには届いていない」
「こちら?」
「桜にだ」
凛は唇を結んだ。
「……誰から?」
時臣は、少しだけ目を伏せた。
「今のお前が知る必要はない」
「私は姉です」
「だからこそ、今は桜のそばにいなさい」
凛は反論しかけた。
けれど、父の声には拒絶だけではないものがあった。
隠している。だが、遠ざけているだけではない。
凛を守るためでも、桜を守るためでもあるのだと、悔しいことに分かってしまった。
「……分かりました」
凛は小さく言った。
「でも、いつか教えてください」
「必要になれば」
「必要にならなくても、です」
時臣は、凛を見た。
凛は目を逸らさなかった。
「私は、桜の姉です」
時臣はしばらく黙っていた。
それから、静かに頷いた。
分かっている。凛はそう言った。
だが、その顔は、まだすべてを知るには幼い子どものものだった。
それでも、足は動かさなかった。
時臣は、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
「凛」
「はい」
「お前が命令を守ったことは、桜を守ることに繋がっている」
凛の目が揺れた。
「本当ですか」
「本当だ」
時臣は静かに答えた。
凛は、少しだけ俯いた。
「なら、守ります」
その声は小さかったが、折れてはいなかった。
時臣は離れの工房へ向かった。
ギルガメッシュは、いつの間にか隣を歩いている。
霊体のまま、声だけが届いた。
「殺し屋は戻ったぞ」
「でしょうな」
「舞弥も生きている」
「それは何よりです」
「何より、か」
ギルガメッシュは喉の奥で笑った。
「敵の手足を生かして帰した男の言葉とは思えぬな」
「彼女が死ねば、衛宮切嗣は話を聞かなかった」
「本当にそれだけか」
時臣は答えなかった。
工房の扉の前に立つ。
桜の周囲に置いた宝石の反応は、安定している。ギルの封具もまだ機能していた。
臓硯の干渉は、今は届いていない。
時臣は扉を開ける前に、少しだけ目を閉じた。
聖杯、切嗣、セイバー、臓硯。
桜。
すべてが絡まり始めている。
「次は王だな」
ギルガメッシュが言った。
時臣は目を開ける。
「ライダーですか」
「他に誰がいる」
王は上機嫌だった。
「殺し屋は杯を疑った。騎士王もいずれ見る。ならば、征服王が黙っておるはずもない」
「彼は聖杯の異常を知っているのでしょうか」
「知らぬだろうな」
ギルガメッシュは笑った。
「だが、戦の匂いが変わったことくらいは分かる男だ」
「なあ、ライダー」
ウェイバーは、借りている部屋の隅で地図を広げていた。だが、地図など見ていない。
彼の視線は、ずっと目の前の巨漢に向けられていた。
ライダーは窓辺に立ち、冬木の街を見ている。妙に静かだった。
いや、街が静かなのはいつものことだ。
だが、ライダーの背中が静かすぎる。
「何かあったのか?」
「うむ」
ライダーは短く答えた。
「うむ、じゃなくてさ。何が」
「戦の流れが変わった」
ウェイバーは顔をしかめた。
「またそういう、分かるような分からないようなことを」
「分からんか?」
「分からないから聞いてるんだよ!」
ライダーは振り返り、大きく笑った。
「ならば教えてやろう、坊主。聖杯戦争は、勝者を決める戦ではなくなりつつある」
ウェイバーは黙った。
それは、冗談にしては重すぎた。
「どういう意味だよ」
「アーチャーが動いておる」
「そんなの前からだろ。あいつはずっと偉そうに動いてる」
「違う」
ライダーは首を振った。
「あやつは今、勝つためではなく、戦そのものを見ておる」
ウェイバーには、やはり分からなかった。
だが、ライダーの顔が冗談を言っていないことだけは分かった。
「遠坂の魔術師も変わった。セイバーの陣営も揺れておる。殺し屋の気配も濁った。監督役の座は空き、間桐の巣も騒がしい」
「何でそんなこと分かるんだよ」
「王だからだ」
「説明になってない!」
「なる」
ライダーは当然のように言った。
「王は戦場を見る。兵の数だけではない。旗の向き、風の匂い、敵の沈黙、味方の焦り。そういうものを全部見る」
ウェイバーは言い返そうとして、やめた。
ライダーの目は、窓の外ではなく、そのもっと奥を見ているようだった。
「アーチャーは、聖杯を奪って勝者となるのではなく、杯そのものを裁こうとしておる」
「裁く?」
「そうだ」
ライダーは歯を見せて笑った。
「気に食わんな」
「え?」
「実に気に食わん」
ライダーは楽しそうだった。
「戦場に立つ王ならば、まず奪え。掴め。勝て。そのうえで笑って裁け。それを、あやつは最初から上に立って見下ろそうとしておる」
「いや、アーチャーならそうしそうだけど」
「だからこそ問わねばならん」
ウェイバーは嫌な予感がした。
「問うって、誰に」
「決まっておろう」
ライダーはマントを掴んだ。
「英雄王にだ」
「いやいやいやいや!」
ウェイバーは立ち上がった。
「今!? 今行くのか!? 状況が分からないって自分で言ってただろ!」
「分からんから行くのだ」
「それで何でアーチャーなんだよ!」
「この戦の形を変えようとしているのは、あやつだ」
ライダーの声は明るい。
だが、そこには王の重みがあった。
「ならば、同じ王として聞かねばならん。貴様はこの戦をどう終わらせるつもりか、と」
ウェイバーは言葉に詰まった。
「勝てるのかよ」
「分からん」
「分からんって!」
「だが、会わずに済ませるわけにはいかん」
ライダーはウェイバーへ近づき、その頭に大きな手を置いた。
「坊主。これはただの喧嘩ではない。王が王に問う場だ」
「……僕も行くのか」
「当然だ。余のマスターであろう」
「こういう時だけ当然って言うなよ……」
ウェイバーの声は情けなかった。
だが、逃げるとは言わなかった。
ライダーは満足そうに笑う。
「よし。では行くぞ」
「どこに」
「アーチャーのところだ」
「場所は?」
「向こうからでも来るだろう」
「雑すぎる!」
ウェイバーは叫んだ。
ライダーは笑いながら窓を開けた。
冬木の朝風が、部屋へ入り込む。
「戦の匂いが変わった時、王は黙って座ってはおれん」
ライダーは空を見た。
「英雄王よ。貴様が何を見ておるのか、余にも見せてもらうぞ」