砂漠は消え、朝の橋の上に川風が戻る。
ウェイバーは膝をついたまま、しばらく動けなかった。
ライダーの姿はない。戦車もない。砂漠も、軍勢も、あの馬鹿みたいに大きな笑い声も、もうどこにもない。
ただ、橋の上に黄金の王が立っている。
ギルガメッシュは、ウェイバーを一瞥した。
「征服王は、貴様に見届けよと言った。ならば、そこで潰れているな」
それだけだった。殺すか、殺さないか。それを問うことすらしなかった。
ウェイバーは唇を震わせたが、返事はできなかった。両手を橋の石に突き、どうにか立ち上がろうとした。
ギルガメッシュは、もう彼を見ていない。
時臣は、その横顔を見ていた。
「王よ」
「何だ」
「彼を、試されないのですか」
「征服王が役目を与えた。別の王が、そこへ口を挟む必要はあるまい」
ギルガメッシュはつまらなそうに言った。
「それに、今は次がある」
「セイバーですか」
「そうだ」
王は川の向こうを見た。
「騎士王もまた、杯を見なければならぬ。あれは己の願いを、まだ願いとしてすら見ておらぬ」
時臣は頷いた。
ウェイバーは、震えながら立っていた。
見届けるために。それだけで、ギルガメッシュは十分とした。
セイバーは、切嗣の説明を最後まで黙って聞いた。
いや、説明と呼べるほどのものではなかった。
ライダーは消えた。アーチャーが討った。
聖杯は、このまま使えない。そして、君も見る必要があると、それだけを伝えた。
「切嗣」
セイバーの声は硬かった。
「それで、私に何を見ろと言うのです」
「聖杯の中身だ」
「聖杯の……中身?」
切嗣は答えなかった。
舞弥は別室で休ませている。アイリスフィールもそちらに残した。切嗣はセイバーだけを連れ出した。
セイバーは、それがまた自分だけに詳しい事情を伏せたまま進められていることを理解していた。怒りはある。だが、切嗣の顔を見て、その怒りを一度飲み込んだ。
切嗣は、いつものように冷たいが、何かが違った。
迷っている。それを認める男ではない。
それでも、迷っている。
「私は、貴方の道具ではありません」
「知っている」
切嗣は短く言った。
セイバーは眉を寄せた。
その返答は、彼女が予想していたものとは違った。
「ならば、説明すべきです」
「見れば分かる」
「見なければ分からないものを、貴方は私に隠していたのですか」
「僕も、見たばかりだ」
セイバーは言葉を止めた。
切嗣はそれ以上、何も言わなかった。
大聖杯の気配は、地の底に沈んでいた。
直接そこへ触れられる場所ではない。時臣が用意した観測点。そこに、ギルガメッシュの宝具群が再び並んでいる。
鏡、天秤、伏せられた銀の器、透明な板、黄金の楔が空中で組み合わさり、ひとつの装置を形作っていた。
セイバーは、足を止めた。
「これは……」
「覗き窓だ」
ギルガメッシュが答えた。
「勘違いするな、セイバー。これは杯が貴様に慈悲を見せるのではない。我が泥を黙らせ、器の形だけを映してやる」
「泥?」
ギルガメッシュは笑った。
「見れば分かる」
その言い方は切嗣と同じだった。
だが、込められた意味はまるで違う。
セイバーはギルガメッシュを睨んだ。
「貴方は、また人を弄ぶのか」
「弄ぶ価値があるならな」
「アーチャー」
「そう怒るな。そうだな、騎士王。どうだ。我の妃となれば、その悩みごと抱えてやってもよいぞ」
「断る」
返答は即座だった。
ギルガメッシュは、少しも傷つかなかった。
「そうか。ではよい」
あまりにあっさりと、興味を失った声だった。
セイバーはかえって険しい顔になる。
「貴方は……人の誇りを何だと思っている」
「誇りがあるなら、なおよい」
ギルガメッシュは笑った。
「ならば己の願いを見ろ。誇りとは、目を逸らさぬ者が口にするものだ」
セイバーはそれ以上返さなかった。
時臣は一歩前に出た。
「セイバー。これから見せるものは、現在の聖杯そのものではありません」
「どういう意味です」
「現在の聖杯には異常があります。願望器としての応答に、別のものが混じっている。王の宝具によって、その混入を遮断し、正常な願望器であればどのような確認を返すかを仮想的に示します」
「仮想……」
「はい。真実そのものではない。ですが、あなたの願いがどのような処理を必要とするか、その可能性を示すものです」
セイバーは切嗣を見た。
切嗣は何も言わない。
ギルガメッシュが指を鳴らした。
鏡が暗くなる。奥に、黒いものが蠢いた。それが泥だと、セイバーにも分かった。
ただ見ているだけで、胸の奥に沈むものがある。願いと後悔を嗅ぎつけ、こちらへ伸びてこようとする何か。
ギルガメッシュの声が低く落ちた。
「行儀が悪いぞ、泥の願望器」
黄金の楔が打ち込まれる。
黒いものは、透明な壁の向こうで止まった。
「今は貴様の出番ではない」
銀の器が光を放ち、鏡の黒は遠ざかった。
代わりに、白い空間が開く。
声がした。人の声ではないが、意味は分かる。
〈願いを入力してください〉
セイバーは思わず息を呑んだ。
ギルガメッシュが言う。
「言ってみろ、セイバー。貴様が聖杯に何を望むのかを」
セイバーは、長く沈黙した。
そして、言った。
「私は、故国ブリテンを救いたい」
白い空間が揺れ、声が返る。
〈ブリテンの救済とは、何を指しますか〉
セイバーの眉が動いた。
〈カムランの戦いを回避することですか。反乱そのものを発生させないことですか。王国の滅亡時期を先へ延ばすことですか。それとも、国土ではなく、当時生きていた民の生存を優先しますか〉
「それは……」
〈王国を存続させる場合、どの時点の領土、民、統治機構をブリテンと定義しますか〉
セイバーは答えられなかった。
問いは、なおも続いた。
〈アルトリア・ペンドラゴンの治世を維持したまま結末のみを変更しますか。治世の途中へ介入しますか。あるいは、アルトリア・ペンドラゴンが王とならなかった分岐を生成しますか〉
「私が、王とならなかった……?」
初めて示された可能性に、セイバーの声が揺れた。
時臣が静かに補足する。
「願いを実行するには、何を残し、何を変更するのかを定めなければなりません」
「私はただ、国を救いたいと――」
「国とは何です」
時臣の言葉は責めるものではなかった。
「土地でしょうか、民でしょうか、王朝でしょうか。それとも、あなたが守ろうとした理想でしょうか」
セイバーは口を閉ざした。
ギルガメッシュだけが、楽しげにその様子を見ている。
「どうした、騎士王」
赤い瞳が細められる。
「国を救うのであろう。では、何をもって救われたとする」
その言葉に、白い空間が応じた。
〈可能性を提示します〉
光景が開く。
ブリテンだった。だが、セイバーの知るブリテンではない。
選定の剣は、抜かれない。あるいは、別の者が抜く。
諸侯は割れ、同盟は遅れ、敵は早く押し寄せる。
円卓は成立しない。
ガウェインは、オークニーの旗の下にいる。
ランスロットは円卓を知らぬまま、海の向こうで別の運命を辿る。
マーリンは遠くから沈黙している。
モードレッドは生まれないか、別の形で生まれる。
救われた者もいた。
アルトリアが王にならなかったことで、戦場へ出ずに済んだ者。彼女の治世に巻き込まれなかった者。別の小さな幸福を得た者。
だが、失われたものもあった。彼女が守った村、彼女が勝った戦、彼女が結んだ和平。彼女が、王であったからこそ保たれた時間。
セイバーは、それを見ていた。
自分が王でなかった世界。
そこに、自分の罪がないわけではないが、自分の功もない。
彼女が背負わなかったものは、別の誰かの背に落ちていた。
声が問う。
〈確認します。あなたは、アルトリア・ペンドラゴンが王とならなかった世界を望みますか。その世界で救われるものと失われるものを、同じ秤に載せたうえで実行しますか〉
セイバーは唇を開いた。だが、答えは出なかった。
「これは……嘘ではないのか」
ようやく出た声は、怒りに近かった。
「貴方が、私を惑わせるために見せた幻ではないのか」
ギルガメッシュは笑った。
「言うではないか、セイバー」
不快ではなかった。
むしろ、上機嫌だった。
「嘘ではない。だが、真実でもない」
「何を」
「可能性だ。貴様が王でなかった場合に生じ得た枝の一つ。杯が正常であれば、貴様の願いを処理する前に、この種の確認を返すであろうというだけの話だ」
「ならば、私を試したのか」
「試したのは我ではない」
ギルガメッシュは、鏡の奥を指した。
「貴様の願いだ」
セイバーは黙った。
ギルガメッシュは続ける。
「国を救いたいのか。王であった己を裁きたいのか。そこを定めぬまま杯へ願えば、泥でなくとも躓く」
「私は、ブリテンを救いたかった」
「ならば、ブリテンとは何だ」
セイバーの目が揺れる。
「土地か。民か。円卓か。王の名か。貴様が守れなかった最後の丘か。あるいは、貴様が王であったという事実を認めてくれる何かか」
「黙れ」
「黙らぬ」
ギルガメッシュは冷たくもなく、ただ当然のように言った。
「貴様は今、ようやく聖杯ではなく己の願いを見ている。そこで耳を塞ぐな」
セイバーは切嗣を見た。
切嗣は何も言えなかった。
彼もまた、自分の願いを見たばかりだったからだ。
時臣は、セイバーを見ていた。これは自分にも返ってくる問いだ。
根源は、今も遠坂の悲願だった。
だが、そのために桜を間桐へ送り、凛にも同じ道を背負わせることを、当然としてよいわけではない。自分はこれまで、何を得るかばかりを考え、何を失うことになるのかを見ようとしてこなかった。
願いとは、望む結果を選ぶことだけではない。何を残し、何を代価として切り捨てるのかを決めることでもある。
ならば、根源へ至る道もまた、桜と凛を失わずに残せる形で選び直さなければならない。
セイバーは、光景から目を逸らさなかった。
だが、答えは出せなかった。
「……私は」
続きはなかった。
ギルガメッシュは、それで十分だと言うように手を振った。
鏡の光景が閉じる。白い空間が消え、銀の器が沈黙し、黄金の楔が泥を奥へ押し戻す。
「また来るがいい、セイバー。今度は、貴様が何を願うのかを定めてからな」
「答えを出せと言うのか」
「違う」
黄金の目が、まっすぐにセイバーを見る。
「答えを持たぬまま願うな、と言っている」
セイバーは拳を握った。
怒りはある。屈辱もある。だが、それよりも重いものが胸に残った。
自分が王とならなかった世界。
そんなものを、彼女はこれまで一度も本気で考えたことがなかった。
望んでいたのは、あくまで故国の救済だった。滅びに至った結末を覆し、ブリテンを救うこと。その願いに、自分が王でなかった可能性など含まれてはいなかった。
だが、今はもう、まったく無関係なものとして切り離すことができない。
もし自分が王にならなければ、国は救われるのか。
その代わりに、自分が守った民も、共に戦った騎士たちも、同じ姿では存在しなくなるのではないか。
選定をやり直すという可能性は、自分の失敗だけを消してくれるものではなかった。
自分が王として守り、築き、残したものまで、同じ秤に載せることになる。
王の問答で浴びせられた言葉なら、否定してしまうこともできた。
だが、これは嘲笑でも断罪でもない。
願いを叶えるために、何を変えるのかと問われている。
セイバーは反発しながらも、その問いを退けることができなかった。
切嗣が静かに言った。
「今日は、ここまでだ」
セイバーは彼を見た。
「貴方も、これを見たのですか」
「ああ」
「そして、どうしたのです」
「保留にした」
セイバーは黙った。
切嗣のその言葉が、今までの彼に似合わないものだと分かった。
だが、今の自分にも、それ以外の言葉はなかった。
「私も」
セイバーは、絞り出すように言った。
「今は、答えられません」
ギルガメッシュは笑った。
「よい。答えられぬと知っただけ、少しはましになった」
「貴方に認められても、嬉しくはありません」
「そうか。ではよい」
また、あっさりと興味を外した。
セイバーはその態度にまたしても苛立ったが、今はその苛立ちにすら逃げられなかった。
泥は奥へ沈み、正常な聖杯を模して願いを演算していた機構は、宝具をひとつずつ畳みながら静かに消えていく。
壊れた聖杯は、壊れたままそこにある。何も解決していない。
ただ、願う者たちが、自分の願いの形を初めて疑った。
その一歩は、もう戻れないところまで進んでいた。