優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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24.凛の願い

 時臣が戻った時、凛は離れの工房の前にいた。結界の線より内側へは入っていない。時臣が命じた位置から、半歩も越えていなかった。

 だが、ただ待っていたわけではない。

 床に置かれた宝石の配置を見ている。香炉から流れる白い煙を見ている。

 桜を包む薄い膜が、どの瞬間に揺れ、どの瞬間に静まるのかを、必死に覚えようとしている。

 時臣は、扉の前で足を止めた。

 

「凛」

 凛は振り返った。

「お父様」

「ここで何をしている」

「見ています」

「何を」

「桜を守っているものです」

 時臣は、すぐには返せなかった。

 

 凛は続ける。

「まだ、触っていません。中にも入っていません。約束は守っています」

「分かっている」

「でも、見てはいけないとは言われていません」

 その言い方に、時臣はわずかに目を細めた。

 反抗ではない。言葉の隙を突いているわけでもない。

 凛は本気で、何かを学ぼうとしている。

 

「桜は今どうでしょうか」

「安定している」

「間桐の命令は来ていないのですか」

「届いていない」

 凛は小さく息を吐いた。

「よかった」

 

 時臣は、結界の向こうに横たわる桜を見た。

 眠っているようにも見える。だが、本当に眠っているのかどうかはまだ分からない。

 ただ、連れ出した時よりは呼吸が落ち着いていた。

 それだけが、今の救いだった。

 

「お父様」

「何だ」

「聖杯は、何でも願いを叶えるものではないのですか」

 時臣は凛を見た。

「誰から聞いた」

「聞いていません」

 凛は首を振った。

「でも、お父様の顔がそうでした」

 

 時臣は黙った。

 凛は、桜の方を見たまま続ける。

「お父様は、何かを見てきたんですよね。桜を助けることと関係があることですか」

「……ある」

「なら、教えてください」

「今のお前には難しい」

「なら、難しくないところから教えてください」

 時臣は、言葉を失った。

 

 その時、背後で声がした。

「よい返しだ、小娘」

 凛が振り返る。

 空気が、金色に揺れた。そこに、ギルガメッシュが立っていた。

 葵にはまだ見せていない。凛にも、これまで見せていなかった。だが王は、当然のようにそこにいた。

 凛は目を大きくした。驚いてはいたが、怯えはしなかった。

 

「……あなたは?」

「我を前にして、まず名を問うか」

 ギルガメッシュは笑った。

「よい。時臣の娘にしては、肝が据わっている」

 時臣が一歩前へ出る。

「王よ。凛にはまだ」

「黙っていろ、時臣」

 

 ギルガメッシュは凛を見た。

「小娘。貴様は聖杯に何を願う」

 凛は眉を寄せた。

「いきなり、何ですか」

「問うている。答えよ」

 凛はギルガメッシュをじっと見た。

 姿も気配も、ただ者ではない。そんなことは子どもでも分かる。だが、凛は後ろへ下がらなかった。

 

「桜を助けたいです」

「粗い」

 即答だった。

 凛の顔がむっとする。

「じゃあ、どう言えばいいんですか」

 ギルガメッシュの笑みが深くなった。

「そうだ。それを問え」

 

 凛は困惑した。

 時臣は、ギルガメッシュの意図を少し遅れて理解した。願いの形。切嗣も、セイバーも、自分も、それを定められなかった。だが凛は、少なくとも逃げずに聞いた。

 どう言えばいいのか、と。

 

「願いとは、泣いて投げるものではない」

 ギルガメッシュは言った。

「形を定め、何を残し、何を捨てるかを知ったうえで差し出すものだ。桜を助けたい。では、何から助ける」

 凛は桜を見た。

「あの家から」

「それだけか」

「……桜の中に入れられたものから」

「それは何だ」

 凛は言葉に詰まった。

 

 父は、詳しくは教えてくれなかった。

 母も、泣きそうな顔をして、桜のそばにいてあげなさいと言っただけだった。

 桜は戻ってきた。戻ってきただけで、終わってはいない。

 それだけは、凛にも分かっていた。

 

「悪いもの」

 凛は、悔しそうに言った。

「桜を痛くするもの」

「悪いものとは何だ」

 

 凛は答えられなかった。

 悔しそうに唇を噛む。

 

 時臣は静かに言った。

「桜には、間桐の術式が残っている。蟲による干渉、外部からの命令、監視、追跡、再接続の痕跡がある」

 凛の顔が白くなる。

 それでも、目を逸らさない。

「それを、取ればいいのですか」

「簡単には取れない」

 

 時臣が答えた。

「無理に剥がせば、桜の魔術回路や神経を傷つける。今は、止めて、封じて、外から届かないようにしているだけだ」

「じゃあ、どうすればいいのですか」

「調べる。切り離す順序を見つける。桜の身体を壊さず、間桐の術式だけを弱める方法を探す」

「聖杯は――」

 凛は、ギルガメッシュを見た。

「聖杯は、それをできるんですか」

 

 ギルガメッシュは答えなかった。

 代わりに、時臣を見る。

 時臣は頷いた。

「現在の聖杯には、異常がある。願いを受ける器に、別のものが混じっている。それが桜の問題と直接同じものではない。だが、無関係でもない」

「泥だ」

 ギルガメッシュが言った。

 

「杯に混じった泥。願いへ舌を伸ばし、願いの形を奪うものだ」

 凛は少しだけ身を引いた。だが、逃げたのではない。理解しようとして、一度距離を取っただけだった。

「それを、分ければいいのですか」

 ギルガメッシュの目が細くなった。

「ほう」

「聖杯と泥を分ける。桜の中にある悪いものも、桜から分ける。全部同じではないかもしれないけど、でも、やることは似ているのでしょう?」

 

 時臣は、息を呑んだ。

 粗い。魔術師として見れば、あまりにも粗い理解だった。だが、間違ってはいない。

 凛は続けた。

「なら、桜を助けるために、まず聖杯の泥を分ける必要があるんですね」

 ギルガメッシュは、声を上げて笑った。

「よい。実によいぞ、時臣」

「王よ」

「貴様よりよほど願いの形を知っておる」

 

 時臣は何も言えなかった。

 凛はギルガメッシュを睨んだ。

「笑わないでください」

「笑うとも。面白いものを見た時、王が笑わずにどうする」

「私は本気です」

「だから面白い」

 

 ギルガメッシュは、凛を正面から見る。

「小娘。貴様の願いは小さい。世界を救うでも、国をやり直すでも、根源へ至るでもない。ただ妹を助けたいというだけだ」

 凛は黙った。

「だが、願いとは本来その程度でよい。届くものに手を伸ばし、守りたいものを定める。それができぬ大人どもが、杯へ粗末な夢を投げ込もうとしているだけだ」

 

 時臣は、静かに目を伏せた。

 その言葉は、自分にも向けられている。

「王様」

 凛が言った。

 時臣が顔を上げる。

 凛は、まっすぐギルガメッシュを見ていた。

 

「あなたには、それができるんですか」

「何がだ」

「聖杯と泥を分けることです」

 時臣は咄嗟に口を開きかけた。

 

 だが、ギルガメッシュが手で制した。

「できる」

 王は当然のように言った。

 

 凛の目が揺れた。

「なら」

「まだだ」

 ギルガメッシュは遮った。

 

 凛の顔が険しくなる。

「どうしてですか」

「貴様の言葉は、まだ願いではない」

「私は、桜を助けたいんです」

「それは分かっておる。だが、助けたいだけでは足りぬ。何から、どう助ける。何を残し、何を切る。桜を桜として残すために、何を捨てる。それを学べ」

 

 凛は悔しそうに拳を握った。

 ギルガメッシュは笑う。

「だが、覚えておけ」

 黄金の目が、凛を射る。

「貴様がそれを自分の言葉で言えた時、王が聞いてやる」

 凛は息を止めた。

「本当ですか」

「王に二度言わせるな」

 

 凛は、ぎゅっと拳を握ったまま頷いた。

「分かりました」

 その声は震えていた。

 だが、怯えてはいなかった。

「学びます」

 

 桜を包む結界の向こうで、薄く宝石が光った。

 葵が廊下の向こうから、そっとこちらを見ていた。いつからいたのか、時臣には分からなかった。葵は、ギルガメッシュを見て驚いていた。

 だが、それ以上に凛を見ていた。泣きそうな顔で、それでも折れていない娘を。葵は静かに歩み寄り、凛の肩に手を置いた。

 

「凛」

「お母様」

「一緒に、学びましょう」

 凛は目を見開いた。

 葵は桜を見た。

 

「私は魔術のことは分かりません。でも、桜を待つことはできます。あなたが泣きそうな時に、抱きしめることもできます」

 凛の顔が崩れかけた。

 それでも、泣くのを我慢しようとした。

 葵はその頭をそっと抱いた。

「泣いてもいいのよ。命令を守ることと、泣かないことは同じではないでしょう」

 

 凛は、母の胸に顔を押しつけた。小さく、声を殺して泣いた。

 時臣は、その姿を見ていた。何も言えなかった。

 ギルガメッシュが隣で笑う。

 

「見たか、時臣」

「何をでしょうか」

「願いとは、ああいうものだ」

 

 時臣は答えなかった。

 桜はまだ眠っている。

 聖杯はまだ壊れている。

 泥はまだ分かたれていない。

 

 何も解決していない。

 だが、凛は願いの形を探し始めた。

 時臣は、それがこの戦争のどの勝利よりも重い一歩であることを、認めざるを得なかった。

 

 

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