時臣が戻った時、凛は離れの工房の前にいた。結界の線より内側へは入っていない。時臣が命じた位置から、半歩も越えていなかった。
だが、ただ待っていたわけではない。
床に置かれた宝石の配置を見ている。香炉から流れる白い煙を見ている。
桜を包む薄い膜が、どの瞬間に揺れ、どの瞬間に静まるのかを、必死に覚えようとしている。
時臣は、扉の前で足を止めた。
「凛」
凛は振り返った。
「お父様」
「ここで何をしている」
「見ています」
「何を」
「桜を守っているものです」
時臣は、すぐには返せなかった。
凛は続ける。
「まだ、触っていません。中にも入っていません。約束は守っています」
「分かっている」
「でも、見てはいけないとは言われていません」
その言い方に、時臣はわずかに目を細めた。
反抗ではない。言葉の隙を突いているわけでもない。
凛は本気で、何かを学ぼうとしている。
「桜は今どうでしょうか」
「安定している」
「間桐の命令は来ていないのですか」
「届いていない」
凛は小さく息を吐いた。
「よかった」
時臣は、結界の向こうに横たわる桜を見た。
眠っているようにも見える。だが、本当に眠っているのかどうかはまだ分からない。
ただ、連れ出した時よりは呼吸が落ち着いていた。
それだけが、今の救いだった。
「お父様」
「何だ」
「聖杯は、何でも願いを叶えるものではないのですか」
時臣は凛を見た。
「誰から聞いた」
「聞いていません」
凛は首を振った。
「でも、お父様の顔がそうでした」
時臣は黙った。
凛は、桜の方を見たまま続ける。
「お父様は、何かを見てきたんですよね。桜を助けることと関係があることですか」
「……ある」
「なら、教えてください」
「今のお前には難しい」
「なら、難しくないところから教えてください」
時臣は、言葉を失った。
その時、背後で声がした。
「よい返しだ、小娘」
凛が振り返る。
空気が、金色に揺れた。そこに、ギルガメッシュが立っていた。
葵にはまだ見せていない。凛にも、これまで見せていなかった。だが王は、当然のようにそこにいた。
凛は目を大きくした。驚いてはいたが、怯えはしなかった。
「……あなたは?」
「我を前にして、まず名を問うか」
ギルガメッシュは笑った。
「よい。時臣の娘にしては、肝が据わっている」
時臣が一歩前へ出る。
「王よ。凛にはまだ」
「黙っていろ、時臣」
ギルガメッシュは凛を見た。
「小娘。貴様は聖杯に何を願う」
凛は眉を寄せた。
「いきなり、何ですか」
「問うている。答えよ」
凛はギルガメッシュをじっと見た。
姿も気配も、ただ者ではない。そんなことは子どもでも分かる。だが、凛は後ろへ下がらなかった。
「桜を助けたいです」
「粗い」
即答だった。
凛の顔がむっとする。
「じゃあ、どう言えばいいんですか」
ギルガメッシュの笑みが深くなった。
「そうだ。それを問え」
凛は困惑した。
時臣は、ギルガメッシュの意図を少し遅れて理解した。願いの形。切嗣も、セイバーも、自分も、それを定められなかった。だが凛は、少なくとも逃げずに聞いた。
どう言えばいいのか、と。
「願いとは、泣いて投げるものではない」
ギルガメッシュは言った。
「形を定め、何を残し、何を捨てるかを知ったうえで差し出すものだ。桜を助けたい。では、何から助ける」
凛は桜を見た。
「あの家から」
「それだけか」
「……桜の中に入れられたものから」
「それは何だ」
凛は言葉に詰まった。
父は、詳しくは教えてくれなかった。
母も、泣きそうな顔をして、桜のそばにいてあげなさいと言っただけだった。
桜は戻ってきた。戻ってきただけで、終わってはいない。
それだけは、凛にも分かっていた。
「悪いもの」
凛は、悔しそうに言った。
「桜を痛くするもの」
「悪いものとは何だ」
凛は答えられなかった。
悔しそうに唇を噛む。
時臣は静かに言った。
「桜には、間桐の術式が残っている。蟲による干渉、外部からの命令、監視、追跡、再接続の痕跡がある」
凛の顔が白くなる。
それでも、目を逸らさない。
「それを、取ればいいのですか」
「簡単には取れない」
時臣が答えた。
「無理に剥がせば、桜の魔術回路や神経を傷つける。今は、止めて、封じて、外から届かないようにしているだけだ」
「じゃあ、どうすればいいのですか」
「調べる。切り離す順序を見つける。桜の身体を壊さず、間桐の術式だけを弱める方法を探す」
「聖杯は――」
凛は、ギルガメッシュを見た。
「聖杯は、それをできるんですか」
ギルガメッシュは答えなかった。
代わりに、時臣を見る。
時臣は頷いた。
「現在の聖杯には、異常がある。願いを受ける器に、別のものが混じっている。それが桜の問題と直接同じものではない。だが、無関係でもない」
「泥だ」
ギルガメッシュが言った。
「杯に混じった泥。願いへ舌を伸ばし、願いの形を奪うものだ」
凛は少しだけ身を引いた。だが、逃げたのではない。理解しようとして、一度距離を取っただけだった。
「それを、分ければいいのですか」
ギルガメッシュの目が細くなった。
「ほう」
「聖杯と泥を分ける。桜の中にある悪いものも、桜から分ける。全部同じではないかもしれないけど、でも、やることは似ているのでしょう?」
時臣は、息を呑んだ。
粗い。魔術師として見れば、あまりにも粗い理解だった。だが、間違ってはいない。
凛は続けた。
「なら、桜を助けるために、まず聖杯の泥を分ける必要があるんですね」
ギルガメッシュは、声を上げて笑った。
「よい。実によいぞ、時臣」
「王よ」
「貴様よりよほど願いの形を知っておる」
時臣は何も言えなかった。
凛はギルガメッシュを睨んだ。
「笑わないでください」
「笑うとも。面白いものを見た時、王が笑わずにどうする」
「私は本気です」
「だから面白い」
ギルガメッシュは、凛を正面から見る。
「小娘。貴様の願いは小さい。世界を救うでも、国をやり直すでも、根源へ至るでもない。ただ妹を助けたいというだけだ」
凛は黙った。
「だが、願いとは本来その程度でよい。届くものに手を伸ばし、守りたいものを定める。それができぬ大人どもが、杯へ粗末な夢を投げ込もうとしているだけだ」
時臣は、静かに目を伏せた。
その言葉は、自分にも向けられている。
「王様」
凛が言った。
時臣が顔を上げる。
凛は、まっすぐギルガメッシュを見ていた。
「あなたには、それができるんですか」
「何がだ」
「聖杯と泥を分けることです」
時臣は咄嗟に口を開きかけた。
だが、ギルガメッシュが手で制した。
「できる」
王は当然のように言った。
凛の目が揺れた。
「なら」
「まだだ」
ギルガメッシュは遮った。
凛の顔が険しくなる。
「どうしてですか」
「貴様の言葉は、まだ願いではない」
「私は、桜を助けたいんです」
「それは分かっておる。だが、助けたいだけでは足りぬ。何から、どう助ける。何を残し、何を切る。桜を桜として残すために、何を捨てる。それを学べ」
凛は悔しそうに拳を握った。
ギルガメッシュは笑う。
「だが、覚えておけ」
黄金の目が、凛を射る。
「貴様がそれを自分の言葉で言えた時、王が聞いてやる」
凛は息を止めた。
「本当ですか」
「王に二度言わせるな」
凛は、ぎゅっと拳を握ったまま頷いた。
「分かりました」
その声は震えていた。
だが、怯えてはいなかった。
「学びます」
桜を包む結界の向こうで、薄く宝石が光った。
葵が廊下の向こうから、そっとこちらを見ていた。いつからいたのか、時臣には分からなかった。葵は、ギルガメッシュを見て驚いていた。
だが、それ以上に凛を見ていた。泣きそうな顔で、それでも折れていない娘を。葵は静かに歩み寄り、凛の肩に手を置いた。
「凛」
「お母様」
「一緒に、学びましょう」
凛は目を見開いた。
葵は桜を見た。
「私は魔術のことは分かりません。でも、桜を待つことはできます。あなたが泣きそうな時に、抱きしめることもできます」
凛の顔が崩れかけた。
それでも、泣くのを我慢しようとした。
葵はその頭をそっと抱いた。
「泣いてもいいのよ。命令を守ることと、泣かないことは同じではないでしょう」
凛は、母の胸に顔を押しつけた。小さく、声を殺して泣いた。
時臣は、その姿を見ていた。何も言えなかった。
ギルガメッシュが隣で笑う。
「見たか、時臣」
「何をでしょうか」
「願いとは、ああいうものだ」
時臣は答えなかった。
桜はまだ眠っている。
聖杯はまだ壊れている。
泥はまだ分かたれていない。
何も解決していない。
だが、凛は願いの形を探し始めた。
時臣は、それがこの戦争のどの勝利よりも重い一歩であることを、認めざるを得なかった。