優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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25.聖杯を洗うための宝具

 王の蔵に、夜はない。

 そこには空も地もなく、ただ黄金があった。

 剣。槍。盾。鎖。杯。壺。石板。鏡。天秤。名も失われた道具。人類がまだ神を近くに見ていた時代の祭具。まだ物質と魂とが、明確に分けられていなかった頃の器。

 

 その一方で、人が見れば道具とすら認識できないものもあった。

 その隣には、時代すら判別できぬものが並んでいた。

 光を閉じ込めた透明な板。内と外との区別を持たぬ黒い環。何も載せられていないのに、空間の片側だけを沈ませる箱。表面を走る光の列が、見る者の認識に合わせて意味を変える薄片。

 

 神代の遺物なのか。

 あるいは、人類が遥かな未来にようやく作り出すものなのか。

 王にとっては、どちらでもよかった。

 

 過去も未来も、人が生み出す財であるならば、等しく王の蔵に収まる。

 その幾つかは、物質だけを扱うものではなかった。

 形ある器と、そこへ与えられた意味。

 現実に存在する杯と、願望器としての聖杯。

 実体と概念とを、同じ対象の異なる層として同時に測るための道具だった。

 

 それらが、星のように浮かんでいる。

 ギルガメッシュは、その中央に立っていた。

 エアは、遠くで沈黙している。

「貴様の出番ではない」

 王は、振り返らずに言った。

 

「世界を裂くのは容易い。だが、今回は裂いてはならぬ。器を割らず、中身だけを分ける。雑な仕事を我にさせるな」

 誰に言ったのか。

 剣にか。聖杯にか。あるいは、自分自身にか。

 ギルガメッシュは手を上げた。

 まず、一枚の鏡が浮かび上がる。

 

「見るものが要る」

 鏡面には何も映らない。

 だが、そこには炉の構造、魂の流れ、願望処理の層が浮かぶはずだった。

「杯を杯として見るな。炉、器、願いを受ける口、泥が噛みついた傷。まずはそれを分けて映す」

 

 その隣に、天秤が浮かんだ。

「こやつは、書き写された差を量る」

 魂。呪い。魔力。願い。

 元は同じ炉の中で絡み合い、互いの境界すら失っていたものが、わずかに異なる重さを持ち始める。

「魂の重さと、呪いの重さを同じ皿に載せるな。英霊の魂は炉へ。泥は受け皿へ。願いはまだ置くな。願いなど、最も汚れやすい」

 

 天秤の隣に、石板が現れる。

 古い王の法が刻まれている。

 人が人を分け、土地を分け、罪と罰を分けた最初のもの。

「定めるものが要る」

 ギルガメッシュは、指で石板を叩いた。

「ここまでが杯。ここからが泥。ここまでは炉。ここからは願望器。これは魂。これは呪い。これは願いに反応する悪意。名を分けねば、泥はすべてを己の名にする」

 

 次に現れたものを、時臣ならば礼装とは呼ばなかっただろう。

 薄い透明な板だった。

 厚みはほとんどない。

 だが、その表と裏とでは、同じものが異なる姿を取っている。

 

 一方には杯が映る。

 もう一方には、願望器という役割が映る。

 物質としての器と、それに与えられた意味とが、別々の層として存在していた。

「定めただけでは足りぬ」

 

 ギルガメッシュは石板から指を離した。

「名を分けても、現実がそれに従わねば、ただの言葉遊びよ」

 透明な板の内側を、細い光が走る。

「これは、概念と実体を同じ座標へ置く」

 

 杯という物。

 願望器という意味。

 炉という機能。

 泥に汚染されたという状態。

 本来ならば異なる方法でしか扱えぬものを、一つの対象の異なる層として重ねていた。

 

「石板が境界を命じ、こやつが現実へ書き写す」

 王は透明な板を一瞥した。

「人間どもがこれを作る頃には、魔術と科学を分けて語る者も減っていよう。もっとも、その頃まで人理が続いておればの話だがな」

 

 黄金の楔が、無数に浮かぶ。

「境界を打つ」

 楔は細く、鋭く、しかし武器ではなかった。

 

 場を固定するもの。王がここを領域と定めるための杭。

「泥は流れる。呼ばれれば答える。見られれば見返す。願われれば食らう。ならば、まず行儀を教えねばならぬ」

 ギルガメッシュは笑った。

「まったく、無作法な客よ」

 

 次に、銀の器が現れた。杯ではない。深く、蓋があり、内側が見えない器だった。

「受けるものが要る」

 王は器を見た。

「杯から剥がした泥を、地へ落とすわけにはいかぬ。空へ逃がすわけにもいかぬ。人へ触れさせるなど論外だ。貴様はここへ入れ。蓋は我が閉じる」

 器が沈黙する。

 

 光でできた格子が現れた。

 触れたものを、物質、霊子、情報、因果へと分解するためのものだった。

「これは分けすぎる」

 王は即座に退けた。

「杯も泥も魂も、区別なく構造へ還す。解体には使えても、救う仕事には向かぬ」

 

 続いて現れたのは、細い(くし)だった。それを皮切りに、布、網、(ふるい)が次々と虚空へ浮かび上がる。どれも戦場で振るうためのものではない。

「濾すものが要る」

 ギルガメッシュは、その一つを手に取った。

「願いと呪いは絡む。魂と泥は接する。炉の魔力と悪意の熱は混じる。切ればよいというものではない。乱暴に裂けば、杯も魂も傷む」

 

 櫛を捨てる。

「これは細かすぎる。願いまで削る」

 布を見る。

「これは甘い。泥が染みる」

 網を見る。

「これは魂を逃がす」

 篩を見る。

「これは使える。だが、王命の楔と合わせねばならぬ」

 

 ギルガメッシュは、少しだけ楽しげだった。

 戦ではない。

 だが、これはこれで王の仕事だった。

 

 次に、古い鍵が浮かんだ。

 見た目だけなら、粗末な青銅の鍵だった。

 だが、その鍵が開くのは扉ではない。接続や機能、因果――炉から願望器へ魔力が流れるという関係そのものを開き、また閉じるための鍵だった。

「形が古いからといって、中身まで古いと思うな」

 

「開けるものが要る」

 鍵は扉の鍵ではない。

 炉と器の接続を開き、閉じ、また開くためのもの。

「閉じたままでは分けられぬ。開けすぎれば溢れる。大聖杯の炉を殺さず、願望器の口だけを開く。馬鹿どもが作った仕組みだが、壊すには惜しい」

 

 王は鼻で笑う。

「まったく、願いを受ける器を作りながら、願いの形を誰も考えておらぬとはな」

 

 香炉が現れる。

「静めるものが要る」

 白い煙が、まだ火もないのに漂った。

「魂は騒ぐ。泥は囁く。願いは焦る。杯を洗う間に誰かが願いを投げ込めば、泥はたちまち手を伸ばす。ゆえに静める。眠らせる。答えさせぬ。問わせぬ」

 

 それから、環が現れた。

 金の環。器の縁を締めるもの。

「戻すものが要る」

 ギルガメッシュの声が、少し低くなる。

「泥を分けたあと、杯は空になるわけではない。傷が残る。癖が残る。器が歪む。そこへ願いを入れれば、また傾く。縁を締め、底を閉じ、口を整える」

 

 彼は環を虚空へ放る。

「完全ではない。だが、願望器としての形には戻せる」

 

 最後に、棺が現れた。

 小さなものだった。だが、その気配だけが重い。

「封じるものが要る」

 ギルガメッシュは棺を見た。

「泥を殺すわけではない。殺せるなら、そもそもここまで面倒ではない。あれは悪意そのものではない。悪意であれと望まれたものよ。なればこそ、燃やそうが斬ろうが、またその名を拾う」

 

 王は、黄金の目を細めた。

「だから封じる。名を閉じる。口を塞ぐ。誰にも答えさせぬ。誰の願いにも触れさせぬ」

 しばらく、蔵は静かだった。

 

 ギルガメッシュは誰もいない虚空へ言った。

「どうだ、友よ」

 返事はない。

 それでも王は続けた。

「くだらぬ器だ。粗末な願いどもだ。根源。救済。やり直し。どいつもこいつも、己の言葉の底すら見ておらぬ」

 

 王は笑った。

「だが、小娘の願いだけは悪くない」

 黄金の棚が、静かに揺れる。

「桜を助けたい、か」

 その声に嘲りはなかった。

「小さい。浅い。粗い。だが、届くものを見ている。願いとは、まずそれでよい」

 

 ギルガメッシュは手を下ろした。

 鏡、天秤、透明な板、石板、楔、銀の器、篩、鍵、香炉、環、棺。

 人類が最初に世界へ名を与えた時代の道具と、世界を情報と実体に分けて扱う未来の装置とが、同じ空間に並んでいる。

 

 武器ではない。軍勢でもない。

 文明の始まりと終わりが、王の命令を待っていた。

 

「よい」

 ギルガメッシュは言った。

「杯を洗ってやる」

 

 誰に言ったのかは、分からない。

 聖杯にか。

 泥にか。

 時臣にか。

 凛にか。

 それとも、どこにもいない友にか。

 

「ただし、願う者の言葉が整ってからだ」

 王は、黄金の蔵の中で笑った。

 

「王の財を動かすに足る願いかどうか、見せてもらおうではないか」

 

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