王の蔵に、夜はない。
そこには空も地もなく、ただ黄金があった。
剣。槍。盾。鎖。杯。壺。石板。鏡。天秤。名も失われた道具。人類がまだ神を近くに見ていた時代の祭具。まだ物質と魂とが、明確に分けられていなかった頃の器。
その一方で、人が見れば道具とすら認識できないものもあった。
その隣には、時代すら判別できぬものが並んでいた。
光を閉じ込めた透明な板。内と外との区別を持たぬ黒い環。何も載せられていないのに、空間の片側だけを沈ませる箱。表面を走る光の列が、見る者の認識に合わせて意味を変える薄片。
神代の遺物なのか。
あるいは、人類が遥かな未来にようやく作り出すものなのか。
王にとっては、どちらでもよかった。
過去も未来も、人が生み出す財であるならば、等しく王の蔵に収まる。
その幾つかは、物質だけを扱うものではなかった。
形ある器と、そこへ与えられた意味。
現実に存在する杯と、願望器としての聖杯。
実体と概念とを、同じ対象の異なる層として同時に測るための道具だった。
それらが、星のように浮かんでいる。
ギルガメッシュは、その中央に立っていた。
エアは、遠くで沈黙している。
「貴様の出番ではない」
王は、振り返らずに言った。
「世界を裂くのは容易い。だが、今回は裂いてはならぬ。器を割らず、中身だけを分ける。雑な仕事を我にさせるな」
誰に言ったのか。
剣にか。聖杯にか。あるいは、自分自身にか。
ギルガメッシュは手を上げた。
まず、一枚の鏡が浮かび上がる。
「見るものが要る」
鏡面には何も映らない。
だが、そこには炉の構造、魂の流れ、願望処理の層が浮かぶはずだった。
「杯を杯として見るな。炉、器、願いを受ける口、泥が噛みついた傷。まずはそれを分けて映す」
その隣に、天秤が浮かんだ。
「こやつは、書き写された差を量る」
魂。呪い。魔力。願い。
元は同じ炉の中で絡み合い、互いの境界すら失っていたものが、わずかに異なる重さを持ち始める。
「魂の重さと、呪いの重さを同じ皿に載せるな。英霊の魂は炉へ。泥は受け皿へ。願いはまだ置くな。願いなど、最も汚れやすい」
天秤の隣に、石板が現れる。
古い王の法が刻まれている。
人が人を分け、土地を分け、罪と罰を分けた最初のもの。
「定めるものが要る」
ギルガメッシュは、指で石板を叩いた。
「ここまでが杯。ここからが泥。ここまでは炉。ここからは願望器。これは魂。これは呪い。これは願いに反応する悪意。名を分けねば、泥はすべてを己の名にする」
次に現れたものを、時臣ならば礼装とは呼ばなかっただろう。
薄い透明な板だった。
厚みはほとんどない。
だが、その表と裏とでは、同じものが異なる姿を取っている。
一方には杯が映る。
もう一方には、願望器という役割が映る。
物質としての器と、それに与えられた意味とが、別々の層として存在していた。
「定めただけでは足りぬ」
ギルガメッシュは石板から指を離した。
「名を分けても、現実がそれに従わねば、ただの言葉遊びよ」
透明な板の内側を、細い光が走る。
「これは、概念と実体を同じ座標へ置く」
杯という物。
願望器という意味。
炉という機能。
泥に汚染されたという状態。
本来ならば異なる方法でしか扱えぬものを、一つの対象の異なる層として重ねていた。
「石板が境界を命じ、こやつが現実へ書き写す」
王は透明な板を一瞥した。
「人間どもがこれを作る頃には、魔術と科学を分けて語る者も減っていよう。もっとも、その頃まで人理が続いておればの話だがな」
黄金の楔が、無数に浮かぶ。
「境界を打つ」
楔は細く、鋭く、しかし武器ではなかった。
場を固定するもの。王がここを領域と定めるための杭。
「泥は流れる。呼ばれれば答える。見られれば見返す。願われれば食らう。ならば、まず行儀を教えねばならぬ」
ギルガメッシュは笑った。
「まったく、無作法な客よ」
次に、銀の器が現れた。杯ではない。深く、蓋があり、内側が見えない器だった。
「受けるものが要る」
王は器を見た。
「杯から剥がした泥を、地へ落とすわけにはいかぬ。空へ逃がすわけにもいかぬ。人へ触れさせるなど論外だ。貴様はここへ入れ。蓋は我が閉じる」
器が沈黙する。
光でできた格子が現れた。
触れたものを、物質、霊子、情報、因果へと分解するためのものだった。
「これは分けすぎる」
王は即座に退けた。
「杯も泥も魂も、区別なく構造へ還す。解体には使えても、救う仕事には向かぬ」
続いて現れたのは、細い
「濾すものが要る」
ギルガメッシュは、その一つを手に取った。
「願いと呪いは絡む。魂と泥は接する。炉の魔力と悪意の熱は混じる。切ればよいというものではない。乱暴に裂けば、杯も魂も傷む」
櫛を捨てる。
「これは細かすぎる。願いまで削る」
布を見る。
「これは甘い。泥が染みる」
網を見る。
「これは魂を逃がす」
篩を見る。
「これは使える。だが、王命の楔と合わせねばならぬ」
ギルガメッシュは、少しだけ楽しげだった。
戦ではない。
だが、これはこれで王の仕事だった。
次に、古い鍵が浮かんだ。
見た目だけなら、粗末な青銅の鍵だった。
だが、その鍵が開くのは扉ではない。接続や機能、因果――炉から願望器へ魔力が流れるという関係そのものを開き、また閉じるための鍵だった。
「形が古いからといって、中身まで古いと思うな」
「開けるものが要る」
鍵は扉の鍵ではない。
炉と器の接続を開き、閉じ、また開くためのもの。
「閉じたままでは分けられぬ。開けすぎれば溢れる。大聖杯の炉を殺さず、願望器の口だけを開く。馬鹿どもが作った仕組みだが、壊すには惜しい」
王は鼻で笑う。
「まったく、願いを受ける器を作りながら、願いの形を誰も考えておらぬとはな」
香炉が現れる。
「静めるものが要る」
白い煙が、まだ火もないのに漂った。
「魂は騒ぐ。泥は囁く。願いは焦る。杯を洗う間に誰かが願いを投げ込めば、泥はたちまち手を伸ばす。ゆえに静める。眠らせる。答えさせぬ。問わせぬ」
それから、環が現れた。
金の環。器の縁を締めるもの。
「戻すものが要る」
ギルガメッシュの声が、少し低くなる。
「泥を分けたあと、杯は空になるわけではない。傷が残る。癖が残る。器が歪む。そこへ願いを入れれば、また傾く。縁を締め、底を閉じ、口を整える」
彼は環を虚空へ放る。
「完全ではない。だが、願望器としての形には戻せる」
最後に、棺が現れた。
小さなものだった。だが、その気配だけが重い。
「封じるものが要る」
ギルガメッシュは棺を見た。
「泥を殺すわけではない。殺せるなら、そもそもここまで面倒ではない。あれは悪意そのものではない。悪意であれと望まれたものよ。なればこそ、燃やそうが斬ろうが、またその名を拾う」
王は、黄金の目を細めた。
「だから封じる。名を閉じる。口を塞ぐ。誰にも答えさせぬ。誰の願いにも触れさせぬ」
しばらく、蔵は静かだった。
ギルガメッシュは誰もいない虚空へ言った。
「どうだ、友よ」
返事はない。
それでも王は続けた。
「くだらぬ器だ。粗末な願いどもだ。根源。救済。やり直し。どいつもこいつも、己の言葉の底すら見ておらぬ」
王は笑った。
「だが、小娘の願いだけは悪くない」
黄金の棚が、静かに揺れる。
「桜を助けたい、か」
その声に嘲りはなかった。
「小さい。浅い。粗い。だが、届くものを見ている。願いとは、まずそれでよい」
ギルガメッシュは手を下ろした。
鏡、天秤、透明な板、石板、楔、銀の器、篩、鍵、香炉、環、棺。
人類が最初に世界へ名を与えた時代の道具と、世界を情報と実体に分けて扱う未来の装置とが、同じ空間に並んでいる。
武器ではない。軍勢でもない。
文明の始まりと終わりが、王の命令を待っていた。
「よい」
ギルガメッシュは言った。
「杯を洗ってやる」
誰に言ったのかは、分からない。
聖杯にか。
泥にか。
時臣にか。
凛にか。
それとも、どこにもいない友にか。
「ただし、願う者の言葉が整ってからだ」
王は、黄金の蔵の中で笑った。
「王の財を動かすに足る願いかどうか、見せてもらおうではないか」