優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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27.願望器

 誰も、すぐには言葉を発しなかった。

 凛も。

 時臣も。

 切嗣も。

 セイバーも。

 ただ、その光を見ていた。

 

 泥はなく、悪意の囁きもないが、それは優しいものではなかった。

 清らかであることと、人に都合がよいことは違う。

 

 やがて、声がした。

〈願いを持つ者が多いようですね〉

 凛が息を呑む。

 セイバーが剣に手をかけかけた。

 切嗣は動かない。目だけを細める。

 時臣は、その声の性質を測ろうとした。霊体ではない。人格でもない。だが、言葉として成立している。

 

 ギルガメッシュが笑った。

「驚くな。器に口を与えただけだ。願いを聞くものが問い返せぬでは不便であろう」

「これは、聖杯が喋っているのですか」

 セイバーが問う。

「半分はな」

「半分?」

「杯そのものに人格などない。だが、願いを処理する機構は応答を返す。ならば、その応答を人の言葉へ落とす道具があればよい」

 

 ギルガメッシュは、浮かぶ石板を指で叩いた。

「我がそうしてやった」

 

 聖杯の声は、淡々と続けた。

〈願望者を確認します。遠坂時臣。衛宮切嗣。アルトリア・ペンドラゴン。遠坂凛〉

 セイバーの表情が変わった。

 真名を呼ばれたからではない。

 自分もまた、願望者として数えられたからだった。

 

〈複数の願望が検出されます。根源への到達。戦争の消滅、または恒久的救済。ブリテンの救済。間桐桜の保全および救済〉

 空気が重くなった。

 

 凛は、桜の名を聞いて拳を握る。

〈前者三件は、実行定義が不完全です。処理対象、実行範囲、保持条件、犠牲許容値、改変後の責任主体が未定義です〉

 

 切嗣は何も言わなかった。

 セイバーも反論しない。

 時臣は目を伏せた。

 聖杯は、最後に凛へ向いたわけではない。

 それでも、声は凛に届いた。

 

〈第四件は、対象が限定されています。実行条件の確認が可能です〉

 凛は顔を上げた。

「桜を、助けられるのですか」

〈質問が粗い〉

 聖杯が言った。

 

 凛の眉が跳ねた。

 ギルガメッシュが楽しげに笑う。

「杯にまで言われたぞ、小娘」

「うるさいです」

 凛は即座に返した。

 

 時臣が思わず凛を見る。

 セイバーも一瞬、目を丸くした。

 ギルガメッシュは大笑した。

「よい。実によい。願望器に腹を立てるとはな」

 

 聖杯は、感情を動かさず続ける。

〈間桐桜の救済について確認します。対象、間桐桜。保持条件、生命活動、人格、記憶、魔術回路、自己同一性。除去または遮断対象、外部命令、監視術式、追跡術式、蟲による侵食、間桐臓硯との再接続経路〉

 凛は、すべてを理解できたわけではなかった。

 けれど、一つだけ分かった。

 聖杯は、桜を別の何かに作り替えることで救おうとしているのではない。人格も、記憶も、桜自身の魔術回路も残したまま、桜ではないものだけを取り除くための条件を並べている。

 桜を、桜のまま助けようとしている。

 

 凛は震える声で言った。

「桜を、桜のままにしてください」

〈条件を確認します〉

 聖杯の声は、少しも揺れない。

〈間桐桜の生命活動を保持。人格および記憶を保持。魔術回路を保持。自己同一性を保持。外部命令を遮断。監視術式を遮断。追跡術式を遮断。蟲による侵食を停止。間桐臓硯との再接続経路を破棄。対象を、対象自身として保全〉

 

 凛は、一つ一つの言葉を聞いた。

 そして、頷いた。

「はい」

〈実行に伴い、対象内部の侵食痕、損傷、記憶的外傷は消去されません。外観形質の復元は可能です。深部に刻まれた魔術的損傷は残存します。ただし、髪色および表層形質については、遠坂桜としての状態へ復帰可能です。処置は救済ではなく、保全と遮断を主とします。長期回復には、外部からの治療、学習、休息、関係修復が必要です〉

 

 凛の目が揺れた。

 全部が元通りになるわけではない。

 それでも。

「いいです」

 凛は言った。

「桜が桜のままなら、いいです」

 

 聖杯が応じる。

〈願望を受理します〉

 

 ギルガメッシュが、楽しげに目を細めた。

「よく言った、小娘」

 

 聖杯の光が、静かに広がった。激しいものではなかった。焼く光でも、塗り替える光でもない。細い糸のような光が、空間の奥へ伸びる。

 

 遠坂邸の離れ、幾重もの結界に守られた工房で眠る桜の姿が、聖杯へ繋がれた鏡面に映し出された。白い顔で横たわり、静かな呼吸を繰り返すその身体の奥には、黒い糸にも似た無数の術式が食い込んでいる。

 外部から流れ込む命令、肉体の内側に築かれた蟲の巣、遠くから様子を窺う監視の目、逃がさぬための追跡の印、そして、それらすべてを通じてなお桜へ手を伸ばそうとする、古い男の執念。

 

 聖杯の光は、それらを切断することも、焼き払うことも、桜の身体から無理に引き剥がすこともしなかった。

 まず、その働きを止める。黒い糸は一本ずつ力を失い、外からの命令も、内側で蠢いていた蟲の気配も、次第に沈黙していった。

 

 次に、桜の生命と、桜のものではない異物との境界を定め、それまで絡み合っていたものを慎重に分けていく。

 外部命令への経路がほどけ、監視術式はその目を閉ざし、追跡の印は意味を失い、いずれ再び桜へ接続するために残されていた道も、根元から静かに折り畳まれていった。

 

 それを拒むように、桜の体内で蟲が一斉に暴れようとした。

 だが、その瞬間、ギルガメッシュの放った黄金の楔が鏡面へ突き立った。

「暴れるな。今は杯の処理中だ」

 蟲の動きが止まる。

 

 桜の魔術回路に絡みついていたものだけが眠り、桜自身の流れは損なわれることなく残されていた。

 時臣は、その処理を見ていた。

 魔術師として理解できる部分もある。理解の及ばない部分の方が、はるかに多い。

 

 それでも、何が行われているのかは分かった。

 聖杯は、桜の身体へ食い込んだものを一律に異物として切り捨てているのではない。生命活動、人格、記憶、そして桜自身の魔術回路を一つの連続した系として保持し、その上に後から重ねられた命令と監視、侵食の機能だけを選び分けて止めている。

 

 蟲を取り除くために桜の回路を傷つけることも、苦痛を断つために記憶や感情を削ることもない。

 失われたものを別の何かで置き換える処理でもなかった。

 桜の内側に残っている桜自身を基準として、そこへ入り込んだものだけを分離している。

 これは、ただ命を救うための処置ではない。

 桜がこれからも桜として生きていくための処置だった。

 

 聖杯の光が、最後に桜の身体を薄く包み込む。

 そのとき、横たわる桜の頭のまわりに流れていた紫色の髪が、根元からゆっくりと色を変え始めた。

 紫の色彩が光の中へ溶けるように薄れ、その下から、本来の艶やかな黒が戻ってくる。変化は髪の根元から毛先へ静かに広がり、やがて一本残らず、遠坂の家にいた頃と同じ黒髪へと変わっていた。

 

 凛は息を呑んだ。

「桜の、髪が……」

 

 時臣も答えなかった。

 必要な処置ではない。外部干渉を断ち、桜の生命と人格を守るだけなら、髪の色まで戻す理由はない。

 

 これはおそらく、聖杯が桜自身の形を読み取り、損なわれる前の表層形質まで復元した結果なのだろう。

 あるいは、王の気まぐれだったのかもしれない。

 凛は、息を止めたまま鏡を見ていた。葵はいない。桜もここにはいない。それでも妹の手を握るように、自分の両手を強く握りしめている。

 やがて、桜の目蓋がわずかに動いた。

 

 鏡の中で、黒髪に戻った桜がゆっくりと目を開ける。焦点の合わない瞳がしばらく天井を見つめ、それから、かすかに唇を動かした。

「……お姉、さま」

 凛の顔が崩れた。

「桜!」

 鏡の向こうへ声が届いたのかどうかは分からない。それでも桜はもう一度、ほんの少しだけ唇を動かした。

「……お父、様」

 

 時臣は目を閉じた。

 それから、静かに開く。

「ここにいる」

 声が届かないと分かっていても、そう答えた。

 

 鏡の中で、桜の呼吸が少しだけ深くなる。

 聖杯の声がした。

〈対象、間桐桜。外部命令遮断完了。監視術式遮断完了。追跡術式遮断完了。再接続経路破棄。蟲による侵食進行停止。生命活動、人格、記憶、魔術回路、自己同一性、保持。外観形質の復元、髪色および表層形質の復帰完了〉

 

 凛は泣いていた。

 それでも、最後まで聞いた。

 

〈願望処理、完了〉

 光が静まる。

 

 聖杯は、再び澄んだ器として沈黙した。

 凛はその場に崩れ落ちそうになった。

 時臣が肩を支える。

 

「お父様」

「ああ」

「桜、助かったんですよね」

 

 時臣は、すぐには答えなかった。

 完全に治ったわけではない。失われた時間も、傷も、恐怖も消えたわけではない。

 だが。

「助かった」

 時臣は言った。

「桜は、桜のままだ」

 

 凛は、声を殺して泣いた。

 ギルガメッシュは、その様子を見ていた。

 

 切嗣は黙っている。

 セイバーもまた、何も言えなかった。

 世界は救われていない。

 ブリテンもやり直されていない。

 根源への道も開いていない。

 

 ただ、一人の少女が、一人の少女として保全された。

 それだけのことだった。だが、その場にいた誰もが、それを小さな願いだとはもう思わなかった。

 

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