願望処理、完了。
その声のあと、聖杯は沈黙した。
凛は泣いていた。時臣の手に肩を支えられながら、それでも崩れ落ちはしなかった。
鏡の向こうで、桜はまた目を閉じている。その呼吸は先ほどよりも深かった。眠っている、と初めて言えるような静けさがあった。
「桜は、桜のままだ」
時臣が言った。それは凛へ向けた言葉であり、同時に自分へ言い聞かせる言葉でもあった。
凛は何度も頷いた。
その場にいた誰も、すぐには言葉を発しなかった。
世界は救われていない。
ブリテンの滅びは覆されていない。
根源への道も開いていない。
ただ、一人の少女が、一人の少女として残された。それだけではあった。
だが、その場にいた者たちは、その「それだけ」が、どれほど重いものかを見てしまっていた。
やがて、聖杯の光がわずかに揺れた。
〈残存願望を確認します〉
凛が顔を上げる。
セイバーが無意識に姿勢を正した。
切嗣は表情を変えない。
時臣は凛の肩から手を離さなかった。
聖杯の声は、淡々としていた。
〈遠坂時臣。願望、根源への到達〉
時臣は静かに目を伏せた。
〈確認します。対象、遠坂時臣。大聖杯による孔の開通を指定。孔を通過する主体、通過方法、到達後の保持条件、未定義。肉体、魂、魔術回路、人格、家系、後継者への影響、未定義〉
凛は父を見上げた。
根源。
その言葉の意味を、凛はまだ本当には知らない。
けれど、それが父にとって大きなものだということだけは分かった。
聖杯は続ける。
〈対象を根源へ接続する場合、対象の人格、肉体、魂の保持は保証されません。保持しますか。破棄しますか〉
時臣は答えなかった。
魔術師ならば、ここでどう答えるべきだったのか。
根源へ至るために自己を賭ける。遠坂の悲願のために、己を捧げる。
その言葉なら知っている。その姿勢も、疑ったことはなかった。
だが、今は言えなかった。
凛が隣にいる。
桜が離れの工房で眠っている。
葵が遠坂の家で待っている。
自分が消えることを、ただ魔術師としての覚悟とは呼べなくなっていた。
聖杯は急かさなかった。
答えを求めることも、沈黙を拒絶と見なすこともなく、ただ時臣の言葉を待っている。
やがて、時臣は静かに息を吐いた。
「……今の私には、その願いを定義できません」
〈確認しました。願望定義を保留します〉
聖杯の光は変わらない。
〈保持条件および実行方法の定義後、再申請が可能です〉
ギルガメッシュが笑った。
「ようやく、願いと執念の違いを見たか」
時臣は反論しなかった。
次に、聖杯の光が切嗣へ向く。
〈衛宮切嗣。願望、戦争の消滅、または恒久的救済〉
切嗣は動かなかった。
〈確認します。戦争の定義を指定してください。国家間武力衝突。内戦。反乱。私刑。殺人。暴力。強制。憎悪。恐怖。資源競争。思想対立。どこまでを対象としますか〉
沈黙。
切嗣は、何も言わない。
聖杯は待った。催促はしない。ただ、待つ。
やがて切嗣は低く言った。
「すべての暴力を消せば、どうなる」
〈自由意志の制限が必要です。実行しますか〉
切嗣は目を細めた。
「戦争だけを消せば」
〈戦争を回避するための圧政、暗殺、恐怖統治、予防殺戮、危険因子の排除を許容しますか〉
切嗣の表情がわずかに歪んだ。
聖杯は続ける。
〈願望者の過去の行動履歴から、実行形式候補を抽出します。多数救済のための少数犠牲。紛争主体の事前排除。危険因子の予防的殺害。救済対象の選別。この方式を採用しますか〉
「採用しない」
切嗣の返答は即座だった。
〈代替実行形式を指定してください〉
切嗣は答えなかった。
舞弥の傷、アイリの顔、イリヤの声。
これまで切り捨ててきたもの。
それらが、何も言わずに彼の背後へ立っているようだった。
その方法が正しいと信じていたわけではない。ほかに方法がないと信じることで、選び続けてきた。
だが今、その方法は採用しないと自分で答えた。
ならば、代わりに何を選ぶのか。
誰も殺さず、誰も支配せず、誰の自由も奪わず、それでも戦争を終わらせる方法を。
切嗣は持っていなかった。
聖杯は待った。
問いを繰り返すことも、沈黙を回答として処理することもなく、澄んだ光を保ったまま、ただ切嗣の言葉を待ち続けている。
ギルガメッシュも急かさなかった。
普段ならば「早く答えよ」とでも言いそうな王が、今は腕を組み、わずかに笑みを浮かべたまま、黙って切嗣を見ている。
沈黙が長く続いた。
切嗣は目を閉じた。
一度、口を開きかける。
だが、言葉は出なかった。
世界を救いたい。その願いだけなら、何度でも言える。
けれど、どのように救うのかと問われれば、これまでの自分が選んできた方法しか思い浮かばない。その方法を否定した今、彼の手には何も残っていなかった。
やがて、切嗣は小さく息を吐いた。
「……今の僕には、代わりの方法を示せない」
それは笑いではなかった。
敗北を認める声でもない。
ただ、自分には答えがないと、初めて言葉にした声だった。
〈確認しました。願望定義を保留します〉
聖杯の声は変わらない。
〈実行形式の定義後、再申請が可能です〉
切嗣は、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「気が長いんだな」
〈待機時間に制限はありません〉
その返答に、ギルガメッシュが喉の奥で笑った。
「よかったな、殺し屋。杯は貴様が答えを出すまで、世界を救えと急かしたりはせぬらしい」
切嗣は答えなかった。
聖杯の光が、最後にセイバーへ向く。
〈アルトリア・ペンドラゴン。願望、故国ブリテンの救済〉
セイバーは、まっすぐ聖杯を見た。
その表情は硬いが、先ほどまでとは違っていた。
答えを持っている顔ではない。
答えを持っていないことを知った顔だった。
〈救済対象を指定してください。ブリテンの民。国土。王権。円卓。文化。国家としての存続。何をブリテンとして保持しますか〉
セイバーは唇を結んだ。
「すべてだ。民を救い、国を滅びから――」
〈条件が競合します〉
聖杯の声は変わらない。
〈民の生存を優先する場合、王権および国家体制の消滅を許容しますか。国家の存続を優先する場合、そのために生じる犠牲を許容しますか。ブリテンとは異なる国家へ移行した場合、それを救済と認めますか〉
セイバーは答えられなかった。
彼女が望んだのは、自分が王でなかったことではない。
王として守ろうとし、最後には守りきれなかった故国を、滅びから救うことだった。
だが、国とは何なのか。
土地が残れば、そこに暮らす民が失われてもよいのか。
民が生き延びれば、王国の名も、円卓も、自分たちが築いたものも消えてよいのか。
国を存続させるために、さらに多くの命を差し出すことは救済なのか。
セイバーは、それらを救済の条件として切り分け、何を残すべきかを定めたことはなかった。
聖杯が奇跡を起こせば、ブリテンは救われる。
そう信じていた。
だが、救われたブリテンがどのような姿をしているのかを、彼女は言葉にできなかった。
〈救済時点を指定してください。反乱の発生以前。カムランの戦い。王の死後。国家の滅亡に至る過程全体。どの時点から改変しますか〉
セイバーは目を閉じた。
〈現在世界の過去を改変しますか。異なる分岐世界を生成しますか。死者を蘇生しますか。敗北のみを取り消しますか。国家が存続する期限を指定してください〉
長い沈黙のあと、セイバーは言った。
「……私は、ブリテンを救いたかった」
〈救済の定義を指定してください〉
セイバーは、目を開いた。
逃げることなく聖杯を見返したが、それでも答えは出なかった。
「今の私には、それを言葉にできない」
〈救済対象、保持条件、改変範囲および終了条件が未定義です。現在の条件では受理できません〉
セイバーは何も言わなかった。
願いを否定されたのではない。
自分がまだ、願いの形すら定めていなかったことを知らされたのだ。
セイバーは頷いた。
「分かっています」
ギルガメッシュが、少しだけ愉快そうに笑った。
「ほう。杯に拒まれてなお、噛みつかぬか」
「拒まれたのではありません」
セイバーは静かに言った。
「私が、まだ答えられなかっただけです」
ギルガメッシュの笑みが、わずかに深くなる。
「言うではないか、セイバー」
聖杯の光が、全員の前で静かに揺れた。
〈三件の願望は、いずれも高次領域への干渉、または広域改変を含みます。各願望について、対象、保持条件、許容される損失、および実行後の責任主体が定義されていません。現在の条件では受理できません〉
そして、少し間を置いて続ける。
〈第四件、間桐桜の保全および救済は処理済みです〉
凛は、涙を拭いながら聖杯を見た。
〈再定義後、再申請は可能です。願望の再定義を待機します〉
聖杯はそれきり沈黙した。
切嗣も、セイバーも、時臣も、何も言わない。
あまりに公平だった。そして、あまりに冷たかった。
悪意はない。嘲笑もない。
ただ、足りないものを足りないと言っただけだった。
ギルガメッシュが笑う。
「だそうだ。よかったな、大人ども」
その言葉に、切嗣が目だけを向ける。
ギルガメッシュは愉快そうに続けた。
「杯は貴様らより気が長い」
凛は、父の袖を掴んだ。
「お父様」
「何だ」
「桜のところへ、帰ってもいいですか」
時臣は、聖杯を見た。
そして、切嗣とセイバーを見た。
まだ何も終わってはいない。
今ここで凛に必要なのは、世界でも根源でもない。
だが、二人を守り続けるために、今ここで聖杯へ問うべきことが一つ残っていた。
「もう少し待ってくれ」
時臣は言った。
凛は頷いた。
「遠坂」
時臣が振り返る。
切嗣は、少しだけ苦く笑った。
「君の娘は、君より先に聖杯を使ったな」
時臣は一瞬だけ沈黙した。
「ええ」
そして、静かに答えた。
「私より、願いの形を知っていた」
ギルガメッシュが満足げに笑う。
セイバーは、凛の小さな背中を見ていた。
妹のもとへ帰ろうとする少女。
それは王ではない。
魔術師でもない。
救世主でもない。
ただ、守りたい相手を間違えなかった者の背中だった。