優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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28.定義されない願い

 願望処理、完了。

 その声のあと、聖杯は沈黙した。

 

 凛は泣いていた。時臣の手に肩を支えられながら、それでも崩れ落ちはしなかった。

 鏡の向こうで、桜はまた目を閉じている。その呼吸は先ほどよりも深かった。眠っている、と初めて言えるような静けさがあった。

 

「桜は、桜のままだ」

 時臣が言った。それは凛へ向けた言葉であり、同時に自分へ言い聞かせる言葉でもあった。

 凛は何度も頷いた。

 その場にいた誰も、すぐには言葉を発しなかった。

 

 世界は救われていない。

 ブリテンの滅びは覆されていない。

 根源への道も開いていない。

 

 ただ、一人の少女が、一人の少女として残された。それだけではあった。

 だが、その場にいた者たちは、その「それだけ」が、どれほど重いものかを見てしまっていた。

 

 やがて、聖杯の光がわずかに揺れた。

〈残存願望を確認します〉

 凛が顔を上げる。

 セイバーが無意識に姿勢を正した。

 切嗣は表情を変えない。

 時臣は凛の肩から手を離さなかった。

 

 聖杯の声は、淡々としていた。

〈遠坂時臣。願望、根源への到達〉

 時臣は静かに目を伏せた。

〈確認します。対象、遠坂時臣。大聖杯による孔の開通を指定。孔を通過する主体、通過方法、到達後の保持条件、未定義。肉体、魂、魔術回路、人格、家系、後継者への影響、未定義〉

 

 凛は父を見上げた。

 根源。

 その言葉の意味を、凛はまだ本当には知らない。

 けれど、それが父にとって大きなものだということだけは分かった。

 

 聖杯は続ける。

〈対象を根源へ接続する場合、対象の人格、肉体、魂の保持は保証されません。保持しますか。破棄しますか〉

 

 時臣は答えなかった。

 魔術師ならば、ここでどう答えるべきだったのか。

 根源へ至るために自己を賭ける。遠坂の悲願のために、己を捧げる。

 その言葉なら知っている。その姿勢も、疑ったことはなかった。

 

 だが、今は言えなかった。

 凛が隣にいる。

 桜が離れの工房で眠っている。

 葵が遠坂の家で待っている。

 自分が消えることを、ただ魔術師としての覚悟とは呼べなくなっていた。

 

 聖杯は急かさなかった。

 答えを求めることも、沈黙を拒絶と見なすこともなく、ただ時臣の言葉を待っている。

 やがて、時臣は静かに息を吐いた。

「……今の私には、その願いを定義できません」

〈確認しました。願望定義を保留します〉

 聖杯の光は変わらない。

〈保持条件および実行方法の定義後、再申請が可能です〉

 

 ギルガメッシュが笑った。

「ようやく、願いと執念の違いを見たか」

 時臣は反論しなかった。

 

 次に、聖杯の光が切嗣へ向く。

〈衛宮切嗣。願望、戦争の消滅、または恒久的救済〉

 切嗣は動かなかった。

〈確認します。戦争の定義を指定してください。国家間武力衝突。内戦。反乱。私刑。殺人。暴力。強制。憎悪。恐怖。資源競争。思想対立。どこまでを対象としますか〉

 

 沈黙。

 切嗣は、何も言わない。

 聖杯は待った。催促はしない。ただ、待つ。

 

 やがて切嗣は低く言った。

「すべての暴力を消せば、どうなる」

〈自由意志の制限が必要です。実行しますか〉

 

 切嗣は目を細めた。

「戦争だけを消せば」

〈戦争を回避するための圧政、暗殺、恐怖統治、予防殺戮、危険因子の排除を許容しますか〉

 

 切嗣の表情がわずかに歪んだ。

 聖杯は続ける。

〈願望者の過去の行動履歴から、実行形式候補を抽出します。多数救済のための少数犠牲。紛争主体の事前排除。危険因子の予防的殺害。救済対象の選別。この方式を採用しますか〉

「採用しない」

 切嗣の返答は即座だった。

 

〈代替実行形式を指定してください〉

 切嗣は答えなかった。

 舞弥の傷、アイリの顔、イリヤの声。

 これまで切り捨ててきたもの。

 それらが、何も言わずに彼の背後へ立っているようだった。

 

 その方法が正しいと信じていたわけではない。ほかに方法がないと信じることで、選び続けてきた。

 だが今、その方法は採用しないと自分で答えた。

 ならば、代わりに何を選ぶのか。

 誰も殺さず、誰も支配せず、誰の自由も奪わず、それでも戦争を終わらせる方法を。

 

 切嗣は持っていなかった。

 聖杯は待った。

 問いを繰り返すことも、沈黙を回答として処理することもなく、澄んだ光を保ったまま、ただ切嗣の言葉を待ち続けている。

 

 ギルガメッシュも急かさなかった。

 普段ならば「早く答えよ」とでも言いそうな王が、今は腕を組み、わずかに笑みを浮かべたまま、黙って切嗣を見ている。

 沈黙が長く続いた。

 

 切嗣は目を閉じた。

 一度、口を開きかける。

 だが、言葉は出なかった。

 世界を救いたい。その願いだけなら、何度でも言える。

 けれど、どのように救うのかと問われれば、これまでの自分が選んできた方法しか思い浮かばない。その方法を否定した今、彼の手には何も残っていなかった。

 

 やがて、切嗣は小さく息を吐いた。

「……今の僕には、代わりの方法を示せない」

 それは笑いではなかった。

 敗北を認める声でもない。

 ただ、自分には答えがないと、初めて言葉にした声だった。

 

〈確認しました。願望定義を保留します〉

 聖杯の声は変わらない。

〈実行形式の定義後、再申請が可能です〉

 

 切嗣は、ほんの少しだけ口元を歪めた。

「気が長いんだな」

〈待機時間に制限はありません〉

 その返答に、ギルガメッシュが喉の奥で笑った。

「よかったな、殺し屋。杯は貴様が答えを出すまで、世界を救えと急かしたりはせぬらしい」

 切嗣は答えなかった。

 

 聖杯の光が、最後にセイバーへ向く。

〈アルトリア・ペンドラゴン。願望、故国ブリテンの救済〉

 

 セイバーは、まっすぐ聖杯を見た。

 その表情は硬いが、先ほどまでとは違っていた。

 答えを持っている顔ではない。

 答えを持っていないことを知った顔だった。

 

〈救済対象を指定してください。ブリテンの民。国土。王権。円卓。文化。国家としての存続。何をブリテンとして保持しますか〉

 セイバーは唇を結んだ。

「すべてだ。民を救い、国を滅びから――」

〈条件が競合します〉

 聖杯の声は変わらない。

 

〈民の生存を優先する場合、王権および国家体制の消滅を許容しますか。国家の存続を優先する場合、そのために生じる犠牲を許容しますか。ブリテンとは異なる国家へ移行した場合、それを救済と認めますか〉

 

 セイバーは答えられなかった。

 彼女が望んだのは、自分が王でなかったことではない。

 

 王として守ろうとし、最後には守りきれなかった故国を、滅びから救うことだった。

 だが、国とは何なのか。

 土地が残れば、そこに暮らす民が失われてもよいのか。

 民が生き延びれば、王国の名も、円卓も、自分たちが築いたものも消えてよいのか。

 国を存続させるために、さらに多くの命を差し出すことは救済なのか。

 

 セイバーは、それらを救済の条件として切り分け、何を残すべきかを定めたことはなかった。

 聖杯が奇跡を起こせば、ブリテンは救われる。

 そう信じていた。

 だが、救われたブリテンがどのような姿をしているのかを、彼女は言葉にできなかった。

 

〈救済時点を指定してください。反乱の発生以前。カムランの戦い。王の死後。国家の滅亡に至る過程全体。どの時点から改変しますか〉

 セイバーは目を閉じた。

〈現在世界の過去を改変しますか。異なる分岐世界を生成しますか。死者を蘇生しますか。敗北のみを取り消しますか。国家が存続する期限を指定してください〉

 

 長い沈黙のあと、セイバーは言った。

「……私は、ブリテンを救いたかった」

〈救済の定義を指定してください〉

 セイバーは、目を開いた。

 逃げることなく聖杯を見返したが、それでも答えは出なかった。

 

「今の私には、それを言葉にできない」

〈救済対象、保持条件、改変範囲および終了条件が未定義です。現在の条件では受理できません〉

 

 セイバーは何も言わなかった。

 願いを否定されたのではない。

 自分がまだ、願いの形すら定めていなかったことを知らされたのだ。

 セイバーは頷いた。

「分かっています」

 

 ギルガメッシュが、少しだけ愉快そうに笑った。

「ほう。杯に拒まれてなお、噛みつかぬか」

「拒まれたのではありません」

 セイバーは静かに言った。

「私が、まだ答えられなかっただけです」

 ギルガメッシュの笑みが、わずかに深くなる。

「言うではないか、セイバー」

 

 聖杯の光が、全員の前で静かに揺れた。

〈三件の願望は、いずれも高次領域への干渉、または広域改変を含みます。各願望について、対象、保持条件、許容される損失、および実行後の責任主体が定義されていません。現在の条件では受理できません〉

 そして、少し間を置いて続ける。

〈第四件、間桐桜の保全および救済は処理済みです〉

 

 凛は、涙を拭いながら聖杯を見た。

〈再定義後、再申請は可能です。願望の再定義を待機します〉

 

 聖杯はそれきり沈黙した。

 切嗣も、セイバーも、時臣も、何も言わない。

 あまりに公平だった。そして、あまりに冷たかった。

 悪意はない。嘲笑もない。

 ただ、足りないものを足りないと言っただけだった。

 

 ギルガメッシュが笑う。

「だそうだ。よかったな、大人ども」

 その言葉に、切嗣が目だけを向ける。

 ギルガメッシュは愉快そうに続けた。

「杯は貴様らより気が長い」

 

 凛は、父の袖を掴んだ。

「お父様」

「何だ」

「桜のところへ、帰ってもいいですか」

 

 時臣は、聖杯を見た。

 そして、切嗣とセイバーを見た。

 まだ何も終わってはいない。

 今ここで凛に必要なのは、世界でも根源でもない。

 だが、二人を守り続けるために、今ここで聖杯へ問うべきことが一つ残っていた。

 

「もう少し待ってくれ」

 時臣は言った。

 凛は頷いた。

「遠坂」

 時臣が振り返る。

 切嗣は、少しだけ苦く笑った。

「君の娘は、君より先に聖杯を使ったな」

 

 時臣は一瞬だけ沈黙した。

「ええ」

 そして、静かに答えた。

「私より、願いの形を知っていた」

 

 ギルガメッシュが満足げに笑う。

 セイバーは、凛の小さな背中を見ていた。

 妹のもとへ帰ろうとする少女。

 それは王ではない。

 魔術師でもない。

 救世主でもない。

 ただ、守りたい相手を間違えなかった者の背中だった。

 

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