凛が桜のもとへ帰ってもいいかと聞いたあと、時臣はしばらく聖杯を見ていた。
切嗣も、セイバーも、もう願いを差し出せない。
自分も同じだった。根源へ至る願いは、今の自分には定義できない。
だが、それで終わりではない。
「聖杯」
時臣は静かに言った。
凛の視線が、再び聖杯へ向く。
聖杯の光が、わずかに揺れた。
〈願望の再定義を受け付けます〉
「願望ではありません」
時臣は答えた。
「助言を求めます」
切嗣が目を細めた。
セイバーも時臣を見る。
ギルガメッシュは、少しだけ口元を上げた。
「ほう」
聖杯の声は変わらない。
〈助言要求を確認します。内容を指定してください〉
時臣は、一度だけ凛を見た。
そして言った。
「私の娘二人を、魔術協会、聖堂教会、あるいはそれに類する外部勢力から守るために、私は何をすべきだと考えますか」
凛が息を呑んだ。
聖杯はすぐには答えなかった。
やがて、淡々とした声が返る。
〈未来保証は不能です。過去の指定時点に対する改変、または条件を指定した分岐世界の生成は可能です。しかし、未来は対象本人および外部主体の選択、未発生の事象、観測不能な要因によって継続的に分岐します〉
時臣は黙って聞いた。
〈特定の未来を恒久的に保証する場合、対象および周辺主体への継続的な干渉、行動制限、または自由意思の制限が必要です。現在の助言要求には含まれていません〉
〈現在確認可能な脅威、制度、契約、血統、魔術的資質に基づく防衛条件の提示は可能です〉
「それで構いません」
〈保護対象を指定してください〉
「遠坂凛」
時臣は言った。
そして、少しだけ間を置いた。
「遠坂桜」
凛が父を見上げた。
時臣は訂正しなかった。
「私の娘二人です」
ギルガメッシュが、満足げに笑った。
聖杯は続ける。
〈保護の定義を指定してください。生命活動の維持。人格の保持。記憶の保持。魔術回路の保全。意思決定権の保持。強制的な研究対象化の回避。封印指定の回避。聖堂教会による異端認定の回避。家門存続の維持。優先順位を指定してください〉
時臣は目を伏せた。
魔術師なら、どう答えただろうか。
魔術回路、血統、家門、後継。
それらは今も重要だった。捨てたわけではない。
だが、もう最上位には置けなかった。
「人格の保持、意思決定権の保持、生命活動の維持を最上位に」
時臣は言った。
「魔術回路の保全と家門存続は、その下です」
凛は何も言わなかった。
だが、袖を握る手に力がこもった。
聖杯が応答する。
〈条件を受理。助言を提示します〉
光の中に、文字のようなものが浮かび上がった。
〈第一。間桐家との養子契約について、契約履行違反を正式に記録してください。対象、遠坂桜への外部命令、監視術式、追跡術式、蟲による侵食、間桐臓硯との再接続経路は、契約目的である後継育成および資質保全に反します。桜の一時保全を、正式な保護措置へ移行する必要があります〉
時臣は頷いた。
〈第二。証拠を保全してください。桜に残された術式痕、雁夜の身体に施された処置、間桐邸での契約確認妨害、遠隔再接続の試行。これらを第三者が確認可能な形で記録してください〉
切嗣が小さく笑った。
「魔術師の家の恥を、外に出せと言っているぞ」
時臣は答えた。
「隠した結果が、今です」
切嗣はそれ以上言わなかった。
〈第三。聖堂教会、または中立監督機関に、最小限の情報を提出してください。目的は告発ではなく、間桐側の再請求権と外部干渉権限の封鎖です。情報公開範囲を制限し、凛および桜の魔術的資質の全貌は秘匿してください〉
セイバーが眉をひそめる。
「全てを明らかにしないのですか」
時臣は静かに答えた。
「明らかにすれば守れるとは限りません。協会も教会も、保護者ではありません」
聖杯が続ける。
〈第四。封印指定を避けるため、両名の能力評価を分散、誤認、遅延させる防護を整備してください。過剰な才能の集中は、保護ではなく収奪の対象となります〉
凛はその意味を完全には分からない。
だが、自分と桜が狙われる可能性があるということは分かった。
〈第五。遠坂家単独での秘匿は、短期的には有効ですが、長期的には危険です。複数の証人、複数の利害関係者、相互牽制可能な外部協力者を設けてください。一勢力のみが保護権限を独占する状態を避けることを推奨します〉
ギルガメッシュが笑った。
「聞いたか、時臣。貴様一人で抱えるなと言われておるぞ」
「聞いております」
「よい顔だ。実に不本意そうだな」
時臣は否定しなかった。
聖杯は最後に告げる。
〈第六。保護対象本人の意思決定権を、将来的に文書化してください。凛および桜を、資質、器、後継、血統としてのみ扱う記録は、将来的な収奪理由となり得ます。本人としての同意、拒否、継承権、教育方針、保護者権限の範囲を明文化することを推奨します〉
時臣は、長く沈黙した。
魔術師の家にとって、それは異質な助言だった。
だが、今の時臣には理解できた。
桜を「資質」として扱ったから、間桐に差し出せた。
凛を「後継」として扱うだけなら、いつか同じことを繰り返す。
〈助言提示、完了〉
聖杯の光が静まった。
時臣は深く息を吸った。
「承知しました」
ギルガメッシュが言う。
「礼は言わぬのか」
時臣は聖杯を見た。
「聖杯に、ですか」
「我にだ」
時臣は少しだけ沈黙した。
そして、頭を下げた。
「ありがとうございます、王よ」
ギルガメッシュは満足げに笑った。
凛は父を見ていた。
その横顔は、いつもの遠坂時臣だった。
けれど、少し違っていた。
遠坂の当主であり、魔術師であり、そして父だった。
切嗣は低く呟いた。
「助言か」
時臣が彼を見る。
「君は、聖杯に願わず、相談したわけだ」
「ええ」
「その方が、よほど実用的だな」
時臣は苦く笑った。
「私も、今ようやくそう思った」
セイバーは、聖杯を見ていた。
願いを叶える器。願いを投げ込むだけでは何も叶えない器。
彼女は、自分がまだ何を問えばいいのかも分からないことを、改めて知った。
凛が時臣の袖を引いた。
「お父様」
「何だ」
「今度こそ、桜のところへ帰ってもいいですか」
時臣はすぐには首を振らなかった。
「もう少しだけ待とう、彼らが何を願うかを知りたい」
ギルガメッシュは、澄んだ聖杯を一瞥した。
「ほう。娘のもとへ駆け戻るだけでは済まさぬか」
時臣は答えない。
凛は父の袖を握ったまま、聖杯の方を見た。
「よいぞ、時臣。ようやく貴様も、人の願いを見る顔になった」
「……王よ」
「家の悲願でも、己の執念でもない。他人が何を願い、何を願えぬかを見る。魔術師としては遅い。だが、人としては、まあ悪くない」
ギルガメッシュは凛へ視線を移した。
「小娘。よく見ておけ。願いとは、叶ったものだけでなく、叶えられぬものにも形が出る」
聖杯は何も言わなかった。
ただ、次の願いを待つように、静かに光っていた。