優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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3.聖杯に願うもの、そして、大聖杯

「時臣」

「はい、王よ」

「貴様は、杯に何を願う」

問いは唐突だった。だが、時臣は動揺しなかった。少なくとも、そう見えるように答えた。

 

「根源への到達です。それこそが遠坂の悲願であり、私がこの戦いに臨んだ理由です」

「ほう」

ギルガメッシュは、空の杯を指先で弄んだ。

「では、その杯はどのように貴様を根源へ運ぶ」

 

 時臣の返答が、わずかに遅れた。

「大聖杯は、七騎の英霊の魂を用いて孔を穿つための儀式です。御三家が築いた術式は、そのために――」

「それは杯の使い方だ」

 王は、退屈そうに言葉を遮った。

 

「我が聞いているのは、貴様の願いだ。孔を穿つ。英霊を集める。術式を起こす。よい。では、貴様はその先にどう入る。何をもって門を定め、何を捨て、何を代価とする。杯に、そこまで任せるつもりか」

時臣は答えなかった。

「時臣。器は器だ。酒を入れれば酒を注ぐ。毒を入れれば毒を注ぐ。泥を入れれば泥を注ぐ。器そのものが、貴様に都合のよい中身を選んでくれるわけではない」

「……王よ。それは、どういう意味でしょうか」

 

 ギルガメッシュは笑った。

「さてな。だが一つだけ教えてやろう」

黄金の瞳が、時臣を見下ろす。

「貴様らの杯には、酒など入っておらぬ」

 

 

 時臣は、すぐに王の言葉を信じたわけではなかった。

 信じるには、あまりにも重すぎる。否定するには、王があまりにも楽しげだった。

 

 だから時臣は、まず調べることにした。それは魔術師として、もっとも正しい反応だった。

 遠坂邸の地下書庫は、普段よりも深い沈黙に満ちていた。言峰綺礼の死体を処理し、教会への連絡を一時保留し、工房の損傷を最低限修復した後、時臣は傷の痛みを押さえながら、古い記録を開いていた。

 

 第三次聖杯戦争。

 遠坂家の記録において、それは決して多くを語られていない。失敗した戦争。御三家の思惑が噛み合わず、儀式は不完全に終わった。大聖杯は損なわれず、次回へ持ち越された。

 

 記録上は、そういう扱いだった。

 だが、ギルガメッシュの言葉が耳に残っていた。

 ――貴様らの杯には、酒など入っておらぬ。

 

 時臣は、遠坂家に残る第三次の記録を順に並べた。

 戦時中の霊脈変動。召喚されたサーヴァントの記録。御三家の参加状況。大聖杯の起動率。失敗時の魔力逆流。教会側への報告控え。

 

 そして、アインツベルンとのやり取り。

 

 最初の違和感は、小さかった。

 アインツベルンの記録だけが、妙に整っている。失敗した戦争の記録にしては、整いすぎているのだ。

 何が起きたかではなく、何が起きなかったことにされたか。その空白だけが、妙に滑らかに処理されている。

 

 時臣は眉を寄せた。

「……不自然だな」

 背後で、ギルガメッシュが笑った。

 

 王は当然のように地下書庫へついてきていた。椅子など用意していないはずなのに、いつの間にかそこに黄金の椅子があった。時臣はもう、そのことに一々反応しなかった。

 

「何がだ、時臣」

「第三次におけるアインツベルンの記録です。敗戦の記録にしては、欠落の仕方が整いすぎています」

「負けた者は、自らの敗因を飾るものだ」

「それだけならばよいのですが」

 時臣は別の紙束を開いた。

「こちらは教会側に提出された記録の写しです。召喚クラスの記述が遠坂家の控えと一致していません」

「ほう」

「いや……一致していないというより、曖昧にされている」

 

 時臣は指で行を追った。

 七騎。

 剣、槍、弓、騎、術、殺、狂。

 

 そのはずだった。

 だが、第三次の記録には、ある箇所だけ不自然な処理がある。クラス名が記されていない。代わりに、代替、例外、予備枠、という言葉が周辺に散っている。

 

 時臣は目を細めた。

「アインツベルンが、通常の七騎とは異なる枠を使用した可能性がある」

 ギルガメッシュは答えなかった。

 ただ、愉快そうに見ている。

 

 時臣はさらに記録をめくった。

 第三次当時、遠坂側は敗退が早かった。大聖杯の深部に触れた記録は、断片的なものに留まっている。だが、霊脈の観測記録だけは残っていた。

 その数値が、おかしい。戦争終盤、大聖杯の起動率は一定値に達していた。

 

 しかし、それに対して回収されたサーヴァントの魂の数が合わない。足りない。足りないはずなのに、起動率だけが進んでいる。

 

 時臣は無言で、別の表を重ねた。

 魔力流入量。魂の質量換算。大聖杯内部の蓄積値。霊脈の反応。

 数字は、きれいには合わない。

 だが、ずれている方向が一定だった。

 

「……何かが混ざっている」

 時臣は、初めて低く言った。

 ギルガメッシュの口元が上がる。

「続けよ」

「本来、大聖杯は英霊の魂を一時的に収め、孔を穿つための炉として機能します。ですが第三次の終盤、魂の回収量に対して、願望器側の反応が過剰です」

「過剰とは」

「まるで、回収された魂そのものではなく、別の何かが願望器の機能に食い込んでいるように見えます」

 

 言ってから、時臣は自分の言葉に沈黙した。

 食い込んでいる。その表現は、正しくないかもしれない。

 だが、近かった。

 水に絵の具を垂らすのとは違う。器の外側に泥がついたのとも違う。術式の一部に、別の意味が入り込んでいる。

 

 大聖杯は壊れていない。

 だから、誰も気づかなかった。むしろ壊れていないからこそ、恐ろしい。

 正常な形を保ったまま、中身だけが別の解釈を始めている。

 

 時臣は、古い羊皮紙を一枚取り出した。

 アインツベルンから遠坂へ送られた、形式上の報告。

 そこには、失敗の原因として「想定外のクラス運用による不安定化」とだけ記されている。

 それ以上はない。

 

「想定外のクラス運用……」

 時臣は、その言葉を繰り返した。

「王よ」

「何だ」

「アインツベルンは、何を呼んだのでしょうか」

 

 ギルガメッシュは答えなかった。

 代わりに、指先で空をなぞった。黄金の波紋がわずかに開く。ギルガメッシュは古びた粘土板のようなものを取り出した。

 だが、時臣には読めなかった。文字であることは分かる。記録であることも分かる。だが、そこに刻まれた意味は、現代の魔術師が読むものではなかった。それは時臣の手元へ落ちることなく、空中に浮かんだまま止まった。

「読めぬか」

「残念ながら」

「ならば聞け。人は時に、己の罪を誰かに背負わせる。悪を成すのではない。悪であれと定めるのだ」

 

「……まさか」

 ギルガメッシュが笑う。

「まだ言葉にするな、時臣。言葉にした瞬間、貴様はそれを認めねばならぬ」

 時臣は答えなかった。

 

 彼は別の記録を開いた。

 第三次後の大聖杯の検査記録。

 遠坂家が霊脈の管理者として行った確認。

 表面上、異常なし。だが、時臣は今、その「異常なし」という言葉が信用できなくなっていた。

 

 何を異常と定義したのか。

 大聖杯が壊れていないことを確認しただけではないのか。願望器の中身までは、誰が確認したのか。そもそも、願望器の中身とは何だ。

 

 時臣は立ち上がった。

「霊脈側から、大聖杯の応答を確認します」

「中まで覗けるのか」

「いいえ。遠坂家に許されているのは、あくまで霊脈管理者としての観測です。ですが、炉としての応答と願望器側の反応に差があれば、痕跡は出ます」

「今からか」

「今でなければ、意味がありません」

「傷はどうした」

「動けます」

「弟子を焼いた夜に、己の家の悲願まで疑いに行くか」

 

 ギルガメッシュは愉快そうに笑った。

「実によい。今宵の貴様は働き者だな」

 時臣はその皮肉を受け流した。

「王よ。同行なさいますか」

「当然であろう」

 

 ギルガメッシュは立ち上がった。

「貴様がどのような顔で己の杯を見るか、それを見逃す王がどこにいる」

 時臣は何も言わなかった。

 

 地下書庫の扉が閉じる。

 遠坂邸の奥から、大聖杯へ繋がる確認用の術式が起動した。直接そこへ至る道ではない。遠坂家が霊脈管理者として保持している、観測用の細い経路。普段なら、大聖杯の状態を確認するためだけに使うものだ。

 

 時臣はその術式の前に立ち、宝石を三つ並べた。

 赤。青。無色。

 それぞれが魔力を流し、霊脈の反応を映し出す。

 最初は、いつも通りだった。

 冬木の地下を流れる霊脈。

 大聖杯の基底術式。

 御三家の制御領域。

 サーヴァントの魂を受け入れる器。

 

 時臣は静かに息を吐いた。

 問題はない。

 そう思いたかった。

 だが、ギルガメッシュの言葉を聞いた後では、見え方が違う。

 

 時臣は観測術式の焦点を変えた。大聖杯そのものを開くわけではない。内部を覗くわけでもない。ただ、霊脈から流れ込む魔力と、器から返る応答の差を見る。

炉としての反応。英霊の魂を受け入れる器としての反応。

 そして、願望を処理するはずの応答。

 

その三つを、記録上の値と照らし合わせる。

 

 通常なら、そこまで深く見る必要はない。聖杯戦争中に大聖杯へ干渉しすぎることは危険でもある。

 しかし今、見なければならない。

 宝石が一つ砕けた。

 映像が変わる。

 

 それは色ではなかった。

 形でもなかった。

 観測値が濁った。いや、濁ったように見えた。色があるわけではない。形があるわけでもない。

 

 だが、遠坂家の記録にある応答と、今返ってきた応答が重ならない。まるで、同じ式の上に、別の意味を薄く塗り重ねられているようだった。

 ただ沈んでいるだけではない。願いを受け取るべき術式の裏側に、薄く、広く、絡みついている。

 

 時臣の喉が鳴った。

「これは……」

 ギルガメッシュは何も言わない。

 

 時臣はさらに宝石を砕いた。

 解析を深める。大聖杯の機能は生きている。英霊の魂を収める炉としては成立している。孔を穿つための基礎術式も残っている。

 

 しかし、願望を受け取る層が歪んでいる。

 願望を解釈する機能。願いを形へ変える経路。それが、何か別のものと接続している。

 

 時臣は一歩後ろへ下がった。

 脇腹の傷が痛んだ。だが、それどころではなかった。

「願望器としての応答が、記録と合いません」

「壊れているのか」

「いいえ。壊れているなら、まだ分かりやすい。これは……動いています。ですが、こちらの想定した意味で動いていない」

「やっと見えたか」

 ギルガメッシュが言った。

 

 時臣は振り向かなかった。

「第三次で呼ばれたものが、聖杯の中に残ったのですか」

「残った、だけならまだ可愛いものだ」

「では」

「貴様らの杯は、願いを受ける器であった。そこへ、人の願いで悪と定められたものを入れた」

 ギルガメッシュの声は、ひどく楽しげだった。

「器は律儀に働いたのだろうよ。願いを受けるものと、願いによって悪たれと定められたもの。相性が良すぎたのだ」

 

 時臣は目を閉じた。

 理解したくなかった。だが理解できた。

「名を知りたいか、時臣」

「王は、ご存じなのですか」

「人の願いによって悪であれと定められたものだ。人の罪を背負わされ、悪として呼ばれ、悪として扱われるもの。貴様らは、それを願いを受ける器へ放り込んだ」

 

 願望器に、それを入れた。

 ならば、願望器はどう働くか。

 願いは届く。

 

 だが、どのように解釈されるか分からない。

 いや、分からないのではない。

 遠坂が想定した理によって処理されないことだけは、はっきりしている。

 根源を願えば、何が返ってくるのか。

 時臣は、その先を考えることをやめた。

 

「……アインツベルン」

 時臣の声は低かった。

「彼らは、これを知っていたのか」

「知っていた者もいただろう。知らぬまま手を伸ばした者もいただろう。どちらでもよい」

「よくはありません」

 

 時臣は、初めて明確な怒りを声に滲ませた。

 ギルガメッシュは笑った。

「そうだ。その顔だ、時臣」

 時臣は答えなかった。

 

 彼は術式をさらに確認した。

 大聖杯が修復不能なほど壊れているわけではない。むしろ、そのことがなおさら恐ろしい。

 壊れていれば、止めればいい。破棄すればいい。失敗した儀式として葬ればいい。

 

 しかしこれは、動く。

 動いてしまう。

 願いを叶える形をしている。

 だからこそ、危険だった。

 

「王よ」

 時臣は、ようやく振り向いた。

「あなたは、最初からこれを」

「見れば分かる」

「なぜ、すぐに言わなかったのです」

 

 ギルガメッシュは、心底愉快そうに笑った。

「言えば、貴様は信じたか」

 時臣は沈黙した。

 信じなかっただろう。

 少なくとも、今ほどには。

 

 王の戯れ、侮辱、試し、あるいは聖杯戦争を乱すための言葉として処理した可能性が高い。

 だからギルガメッシュは、時臣に見せたのだ。

 自分の手で。自分の記録で。自分の家が守ってきた術式で。

 逃げ道を塞ぐために。

 

「性格の悪い方だ」

 時臣は思わず言いかけ、口を閉じた。

 まだ早い。

 そう思ったのかもしれない。

 

 ギルガメッシュは、それも見逃さなかった。

「何か言いかけたな、時臣」

「いえ」

「つまらぬ。言え」

「後ほど」

 

 ギルガメッシュは笑った。

「よい。後ほど聞こう」

 時臣は再び大聖杯の反応へ向き直った。

 記録と観測値は、同じ方向を指していた。

 第三次以降、大聖杯の応答は変わっている。

 炉としては動く。

 英霊の魂を受け入れる器としても、おそらく機能する。

 だが、願望を処理する部分だけは信用できない。

 それが何を意味するのか、時臣はまだ断定できなかった。

 ただ一つ、このまま使ってはならないということだけは分かった。

 

 時臣は、深く息を吸った。

 言峰綺礼を殺した直後よりも、今の方がはるかに手が冷えていた。

 ギルガメッシュが問う。

「さて、時臣」

 

 王の声は、先ほど書庫で聞いた時よりも軽かった。

「貴様は、何を願う」

 時臣は答えなかった。答えられなかった。

 遠坂の悲願。根源への到達。

 その言葉は、まだ胸の中にある。

 

 だが、その言葉をこの黒い器へ投げ入れることが、何を意味するのか。

 今の時臣には、もう分からなかった。

 ギルガメッシュは満足そうに目を細めた。

 

「よい顔だ」

 時臣は、かすかに拳を握った。

「王よ」

「何だ」

「これは、止めねばなりません」

「ほう。杯を欲していた男が、杯を止めると言うか」

「少なくとも、このままでは使えません」

「このままでは、か」

 

 ギルガメッシュは笑った。

「まだ捨てぬのだな」

 時臣は、すぐには答えなかった。

 そして、静かに言った。

「捨てられるものならば、どれほど楽か」

 その答えに、ギルガメッシュは声を上げて笑った。

 

 今宵、遠坂時臣はよく働く。

 弟子を焼き、己の杯を疑い、そしてなお、家の悲願を捨てきれずにいる。

 実に、人間らしい。実に、魔術師らしい。

 

 黄金の王は、上機嫌に告げた。

「ならば考えよ、時臣。泥を注ぐ杯を割るか。泥を抜くか。泥ごと飲むか」

 時臣は、黒く揺らぐ大聖杯の反応を見つめたまま、何も答えなかった。

 




※第三次聖杯戦争、大聖杯汚染、御三家の記録まわりは、原作で明示されていない部分も多いため、本作では遠坂家の記録と霊脈管理者としての観測から辿れる範囲、という形で独自解釈しています。
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