「時臣」
「はい、王よ」
「貴様は、杯に何を願う」
問いは唐突だった。だが、時臣は動揺しなかった。少なくとも、そう見えるように答えた。
「根源への到達です。それこそが遠坂の悲願であり、私がこの戦いに臨んだ理由です」
「ほう」
ギルガメッシュは、空の杯を指先で弄んだ。
「では、その杯はどのように貴様を根源へ運ぶ」
時臣の返答が、わずかに遅れた。
「大聖杯は、七騎の英霊の魂を用いて孔を穿つための儀式です。御三家が築いた術式は、そのために――」
「それは杯の使い方だ」
王は、退屈そうに言葉を遮った。
「我が聞いているのは、貴様の願いだ。孔を穿つ。英霊を集める。術式を起こす。よい。では、貴様はその先にどう入る。何をもって門を定め、何を捨て、何を代価とする。杯に、そこまで任せるつもりか」
時臣は答えなかった。
「時臣。器は器だ。酒を入れれば酒を注ぐ。毒を入れれば毒を注ぐ。泥を入れれば泥を注ぐ。器そのものが、貴様に都合のよい中身を選んでくれるわけではない」
「……王よ。それは、どういう意味でしょうか」
ギルガメッシュは笑った。
「さてな。だが一つだけ教えてやろう」
黄金の瞳が、時臣を見下ろす。
「貴様らの杯には、酒など入っておらぬ」
時臣は、すぐに王の言葉を信じたわけではなかった。
信じるには、あまりにも重すぎる。否定するには、王があまりにも楽しげだった。
だから時臣は、まず調べることにした。それは魔術師として、もっとも正しい反応だった。
遠坂邸の地下書庫は、普段よりも深い沈黙に満ちていた。言峰綺礼の死体を処理し、教会への連絡を一時保留し、工房の損傷を最低限修復した後、時臣は傷の痛みを押さえながら、古い記録を開いていた。
第三次聖杯戦争。
遠坂家の記録において、それは決して多くを語られていない。失敗した戦争。御三家の思惑が噛み合わず、儀式は不完全に終わった。大聖杯は損なわれず、次回へ持ち越された。
記録上は、そういう扱いだった。
だが、ギルガメッシュの言葉が耳に残っていた。
――貴様らの杯には、酒など入っておらぬ。
時臣は、遠坂家に残る第三次の記録を順に並べた。
戦時中の霊脈変動。召喚されたサーヴァントの記録。御三家の参加状況。大聖杯の起動率。失敗時の魔力逆流。教会側への報告控え。
そして、アインツベルンとのやり取り。
最初の違和感は、小さかった。
アインツベルンの記録だけが、妙に整っている。失敗した戦争の記録にしては、整いすぎているのだ。
何が起きたかではなく、何が起きなかったことにされたか。その空白だけが、妙に滑らかに処理されている。
時臣は眉を寄せた。
「……不自然だな」
背後で、ギルガメッシュが笑った。
王は当然のように地下書庫へついてきていた。椅子など用意していないはずなのに、いつの間にかそこに黄金の椅子があった。時臣はもう、そのことに一々反応しなかった。
「何がだ、時臣」
「第三次におけるアインツベルンの記録です。敗戦の記録にしては、欠落の仕方が整いすぎています」
「負けた者は、自らの敗因を飾るものだ」
「それだけならばよいのですが」
時臣は別の紙束を開いた。
「こちらは教会側に提出された記録の写しです。召喚クラスの記述が遠坂家の控えと一致していません」
「ほう」
「いや……一致していないというより、曖昧にされている」
時臣は指で行を追った。
七騎。
剣、槍、弓、騎、術、殺、狂。
そのはずだった。
だが、第三次の記録には、ある箇所だけ不自然な処理がある。クラス名が記されていない。代わりに、代替、例外、予備枠、という言葉が周辺に散っている。
時臣は目を細めた。
「アインツベルンが、通常の七騎とは異なる枠を使用した可能性がある」
ギルガメッシュは答えなかった。
ただ、愉快そうに見ている。
時臣はさらに記録をめくった。
第三次当時、遠坂側は敗退が早かった。大聖杯の深部に触れた記録は、断片的なものに留まっている。だが、霊脈の観測記録だけは残っていた。
その数値が、おかしい。戦争終盤、大聖杯の起動率は一定値に達していた。
しかし、それに対して回収されたサーヴァントの魂の数が合わない。足りない。足りないはずなのに、起動率だけが進んでいる。
時臣は無言で、別の表を重ねた。
魔力流入量。魂の質量換算。大聖杯内部の蓄積値。霊脈の反応。
数字は、きれいには合わない。
だが、ずれている方向が一定だった。
「……何かが混ざっている」
時臣は、初めて低く言った。
ギルガメッシュの口元が上がる。
「続けよ」
「本来、大聖杯は英霊の魂を一時的に収め、孔を穿つための炉として機能します。ですが第三次の終盤、魂の回収量に対して、願望器側の反応が過剰です」
「過剰とは」
「まるで、回収された魂そのものではなく、別の何かが願望器の機能に食い込んでいるように見えます」
言ってから、時臣は自分の言葉に沈黙した。
食い込んでいる。その表現は、正しくないかもしれない。
だが、近かった。
水に絵の具を垂らすのとは違う。器の外側に泥がついたのとも違う。術式の一部に、別の意味が入り込んでいる。
大聖杯は壊れていない。
だから、誰も気づかなかった。むしろ壊れていないからこそ、恐ろしい。
正常な形を保ったまま、中身だけが別の解釈を始めている。
時臣は、古い羊皮紙を一枚取り出した。
アインツベルンから遠坂へ送られた、形式上の報告。
そこには、失敗の原因として「想定外のクラス運用による不安定化」とだけ記されている。
それ以上はない。
「想定外のクラス運用……」
時臣は、その言葉を繰り返した。
「王よ」
「何だ」
「アインツベルンは、何を呼んだのでしょうか」
ギルガメッシュは答えなかった。
代わりに、指先で空をなぞった。黄金の波紋がわずかに開く。ギルガメッシュは古びた粘土板のようなものを取り出した。
だが、時臣には読めなかった。文字であることは分かる。記録であることも分かる。だが、そこに刻まれた意味は、現代の魔術師が読むものではなかった。それは時臣の手元へ落ちることなく、空中に浮かんだまま止まった。
「読めぬか」
「残念ながら」
「ならば聞け。人は時に、己の罪を誰かに背負わせる。悪を成すのではない。悪であれと定めるのだ」
「……まさか」
ギルガメッシュが笑う。
「まだ言葉にするな、時臣。言葉にした瞬間、貴様はそれを認めねばならぬ」
時臣は答えなかった。
彼は別の記録を開いた。
第三次後の大聖杯の検査記録。
遠坂家が霊脈の管理者として行った確認。
表面上、異常なし。だが、時臣は今、その「異常なし」という言葉が信用できなくなっていた。
何を異常と定義したのか。
大聖杯が壊れていないことを確認しただけではないのか。願望器の中身までは、誰が確認したのか。そもそも、願望器の中身とは何だ。
時臣は立ち上がった。
「霊脈側から、大聖杯の応答を確認します」
「中まで覗けるのか」
「いいえ。遠坂家に許されているのは、あくまで霊脈管理者としての観測です。ですが、炉としての応答と願望器側の反応に差があれば、痕跡は出ます」
「今からか」
「今でなければ、意味がありません」
「傷はどうした」
「動けます」
「弟子を焼いた夜に、己の家の悲願まで疑いに行くか」
ギルガメッシュは愉快そうに笑った。
「実によい。今宵の貴様は働き者だな」
時臣はその皮肉を受け流した。
「王よ。同行なさいますか」
「当然であろう」
ギルガメッシュは立ち上がった。
「貴様がどのような顔で己の杯を見るか、それを見逃す王がどこにいる」
時臣は何も言わなかった。
地下書庫の扉が閉じる。
遠坂邸の奥から、大聖杯へ繋がる確認用の術式が起動した。直接そこへ至る道ではない。遠坂家が霊脈管理者として保持している、観測用の細い経路。普段なら、大聖杯の状態を確認するためだけに使うものだ。
時臣はその術式の前に立ち、宝石を三つ並べた。
赤。青。無色。
それぞれが魔力を流し、霊脈の反応を映し出す。
最初は、いつも通りだった。
冬木の地下を流れる霊脈。
大聖杯の基底術式。
御三家の制御領域。
サーヴァントの魂を受け入れる器。
時臣は静かに息を吐いた。
問題はない。
そう思いたかった。
だが、ギルガメッシュの言葉を聞いた後では、見え方が違う。
時臣は観測術式の焦点を変えた。大聖杯そのものを開くわけではない。内部を覗くわけでもない。ただ、霊脈から流れ込む魔力と、器から返る応答の差を見る。
炉としての反応。英霊の魂を受け入れる器としての反応。
そして、願望を処理するはずの応答。
その三つを、記録上の値と照らし合わせる。
通常なら、そこまで深く見る必要はない。聖杯戦争中に大聖杯へ干渉しすぎることは危険でもある。
しかし今、見なければならない。
宝石が一つ砕けた。
映像が変わる。
それは色ではなかった。
形でもなかった。
観測値が濁った。いや、濁ったように見えた。色があるわけではない。形があるわけでもない。
だが、遠坂家の記録にある応答と、今返ってきた応答が重ならない。まるで、同じ式の上に、別の意味を薄く塗り重ねられているようだった。
ただ沈んでいるだけではない。願いを受け取るべき術式の裏側に、薄く、広く、絡みついている。
時臣の喉が鳴った。
「これは……」
ギルガメッシュは何も言わない。
時臣はさらに宝石を砕いた。
解析を深める。大聖杯の機能は生きている。英霊の魂を収める炉としては成立している。孔を穿つための基礎術式も残っている。
しかし、願望を受け取る層が歪んでいる。
願望を解釈する機能。願いを形へ変える経路。それが、何か別のものと接続している。
時臣は一歩後ろへ下がった。
脇腹の傷が痛んだ。だが、それどころではなかった。
「願望器としての応答が、記録と合いません」
「壊れているのか」
「いいえ。壊れているなら、まだ分かりやすい。これは……動いています。ですが、こちらの想定した意味で動いていない」
「やっと見えたか」
ギルガメッシュが言った。
時臣は振り向かなかった。
「第三次で呼ばれたものが、聖杯の中に残ったのですか」
「残った、だけならまだ可愛いものだ」
「では」
「貴様らの杯は、願いを受ける器であった。そこへ、人の願いで悪と定められたものを入れた」
ギルガメッシュの声は、ひどく楽しげだった。
「器は律儀に働いたのだろうよ。願いを受けるものと、願いによって悪たれと定められたもの。相性が良すぎたのだ」
時臣は目を閉じた。
理解したくなかった。だが理解できた。
「名を知りたいか、時臣」
「王は、ご存じなのですか」
「人の願いによって悪であれと定められたものだ。人の罪を背負わされ、悪として呼ばれ、悪として扱われるもの。貴様らは、それを願いを受ける器へ放り込んだ」
願望器に、それを入れた。
ならば、願望器はどう働くか。
願いは届く。
だが、どのように解釈されるか分からない。
いや、分からないのではない。
遠坂が想定した理によって処理されないことだけは、はっきりしている。
根源を願えば、何が返ってくるのか。
時臣は、その先を考えることをやめた。
「……アインツベルン」
時臣の声は低かった。
「彼らは、これを知っていたのか」
「知っていた者もいただろう。知らぬまま手を伸ばした者もいただろう。どちらでもよい」
「よくはありません」
時臣は、初めて明確な怒りを声に滲ませた。
ギルガメッシュは笑った。
「そうだ。その顔だ、時臣」
時臣は答えなかった。
彼は術式をさらに確認した。
大聖杯が修復不能なほど壊れているわけではない。むしろ、そのことがなおさら恐ろしい。
壊れていれば、止めればいい。破棄すればいい。失敗した儀式として葬ればいい。
しかしこれは、動く。
動いてしまう。
願いを叶える形をしている。
だからこそ、危険だった。
「王よ」
時臣は、ようやく振り向いた。
「あなたは、最初からこれを」
「見れば分かる」
「なぜ、すぐに言わなかったのです」
ギルガメッシュは、心底愉快そうに笑った。
「言えば、貴様は信じたか」
時臣は沈黙した。
信じなかっただろう。
少なくとも、今ほどには。
王の戯れ、侮辱、試し、あるいは聖杯戦争を乱すための言葉として処理した可能性が高い。
だからギルガメッシュは、時臣に見せたのだ。
自分の手で。自分の記録で。自分の家が守ってきた術式で。
逃げ道を塞ぐために。
「性格の悪い方だ」
時臣は思わず言いかけ、口を閉じた。
まだ早い。
そう思ったのかもしれない。
ギルガメッシュは、それも見逃さなかった。
「何か言いかけたな、時臣」
「いえ」
「つまらぬ。言え」
「後ほど」
ギルガメッシュは笑った。
「よい。後ほど聞こう」
時臣は再び大聖杯の反応へ向き直った。
記録と観測値は、同じ方向を指していた。
第三次以降、大聖杯の応答は変わっている。
炉としては動く。
英霊の魂を受け入れる器としても、おそらく機能する。
だが、願望を処理する部分だけは信用できない。
それが何を意味するのか、時臣はまだ断定できなかった。
ただ一つ、このまま使ってはならないということだけは分かった。
時臣は、深く息を吸った。
言峰綺礼を殺した直後よりも、今の方がはるかに手が冷えていた。
ギルガメッシュが問う。
「さて、時臣」
王の声は、先ほど書庫で聞いた時よりも軽かった。
「貴様は、何を願う」
時臣は答えなかった。答えられなかった。
遠坂の悲願。根源への到達。
その言葉は、まだ胸の中にある。
だが、その言葉をこの黒い器へ投げ入れることが、何を意味するのか。
今の時臣には、もう分からなかった。
ギルガメッシュは満足そうに目を細めた。
「よい顔だ」
時臣は、かすかに拳を握った。
「王よ」
「何だ」
「これは、止めねばなりません」
「ほう。杯を欲していた男が、杯を止めると言うか」
「少なくとも、このままでは使えません」
「このままでは、か」
ギルガメッシュは笑った。
「まだ捨てぬのだな」
時臣は、すぐには答えなかった。
そして、静かに言った。
「捨てられるものならば、どれほど楽か」
その答えに、ギルガメッシュは声を上げて笑った。
今宵、遠坂時臣はよく働く。
弟子を焼き、己の杯を疑い、そしてなお、家の悲願を捨てきれずにいる。
実に、人間らしい。実に、魔術師らしい。
黄金の王は、上機嫌に告げた。
「ならば考えよ、時臣。泥を注ぐ杯を割るか。泥を抜くか。泥ごと飲むか」
時臣は、黒く揺らぐ大聖杯の反応を見つめたまま、何も答えなかった。
※第三次聖杯戦争、大聖杯汚染、御三家の記録まわりは、原作で明示されていない部分も多いため、本作では遠坂家の記録と霊脈管理者としての観測から辿れる範囲、という形で独自解釈しています。