澄んだ器は、ただ待っている。
願いを。問いを。あるいは、定義されないまま胸の底に沈んだものを。
切嗣は、その光を見ていた。
セイバーも黙っていた。
ギルガメッシュは退屈そうに見えた。
だが、急がせようとはしない。
「どうした、殺し屋」
黄金の王が言った。
「杯はまだ待っておるぞ。貴様の粗末な願いも、言い直せば聞くだけは聞いてくれるらしい」
切嗣は、すぐには答えなかった。
世界を救う。戦争をなくす。誰も犠牲にしない。
その言葉は、もう使えなかった。
使えば、また同じ問いが返ってくる。
戦争とは何か。
犠牲とは何か。
誰を、どこまで、どう救うのか。
切嗣は答えられない。
ならば。
「聖杯」
切嗣は言った。
聖杯の光がわずかに揺れた。
〈願望の再定義を受け付けます〉
「違う」
切嗣は低く言った。
「助言を求める」
ギルガメッシュが、目を細めた。
そして、笑った。
「ほう」
切嗣は構わず続ける。
「僕は、これから何をすべきだ」
セイバーが切嗣を見た。
彼女は、その男が誰かにそんなことを問うのを初めて聞いた。
聖杯は、すぐには答えなかった。
〈助言要求を確認します。目的を指定してください〉
切嗣は目を閉じた。
世界を救うため。
その言葉が喉まで出かかった。
だが、飲み込んだ。
「僕が」
一度、声が止まる。
「これ以上、救済の名で人を殺さないために」
ギルガメッシュが声を上げて笑った。
「殺し屋。貴様も存外、可愛いところがあるな」
切嗣は反応しなかった。
セイバーは、何かを言いかけて、やめた。
聖杯の声が響く。
〈目的を受理。現行行動原理を分析します〉
切嗣は目を開けた。
〈多数救済のための少数犠牲。危険因子の事前排除。救済対象の選別。自己の幸福および近親者の幸福を低優先化。個人による世界規模救済責任の保持〉
切嗣の顔は変わらない。
だが、セイバーには分かった。
それは彼の傷を、ひとつずつ読み上げている。
〈この行動原理を維持する限り、救済の名による殺害は再発する可能性が高いです〉
切嗣は小さく息を吐いた。
「だろうな」
〈助言を提示します〉
聖杯は続けた。
〈第一。聖杯による世界救済を放棄してください。現時点の願望者は、世界規模救済の実行形式を定義できません〉
切嗣は何も言わない。
〈第二。衛宮切嗣個人が、世界全体の救済責任を保持するという前提を破棄してください。個人単独による全人類救済責任の保持は、判断機能の偏りと犠牲選別を誘発します〉
ギルガメッシュが鼻で笑った。
「杯にまで身の程を知れと言われておるぞ」
切嗣は視線だけを向けた。
「続けろ」
〈第三。行動対象を、直接責任を負える範囲へ限定してください。手の届かない全体ではなく、関係を持つ個人、保護可能な範囲、契約した相手、家族を優先してください〉
セイバーの表情がわずかに動いた。
家族。
その言葉に、切嗣は目を伏せた。
〈第四。アイリスフィール・フォン・アインツベルン、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン、アルトリア・ペンドラゴンとの関係を、作戦要素ではなく、責任ある関係として再定義してください〉
セイバーは息を呑んだ。
切嗣は、彼女を見ない。
〈第五。殺害を第一選択とする行動原理を停止してください。代替手段、交渉、撤退、封印、証拠保全、保護、分離を検討後、最終手段としてのみ選択してください〉
ギルガメッシュが笑う。
「先ほどの時臣の真似でもするか、殺し屋」
切嗣は答えない。
〈第六。自己の生存と幸福を恒常的に低く扱い、死亡を責任の終了条件として受け入れる行動を推奨しません。生存し、関係者に対する責任を継続してください〉
切嗣の表情が、初めて少しだけ崩れた。
「……生きろ、ということか」
〈肯定。ただし、生存は免罪ではありません。責任継続の条件です〉
沈黙が落ちた。
ギルガメッシュは、愉快そうに切嗣を見ていた。
「よかったな。死んで逃げるなとさ」
切嗣は低く言った。
「本当に、容赦がないな」
「杯がか。我がか」
「両方だ」
ギルガメッシュは満足そうに笑った。
セイバーは、切嗣を見ていた。
彼はまだ救われてはいない。
答えを得たわけでもない。
だが、少なくとも今、その男は聖杯に世界を投げ込まなかった。
自分がどう生きるべきかを問うた。
それは、セイバーが初めて見る衛宮切嗣だった。
聖杯は静かに告げる。
〈助言提示、完了。願望の再定義を待機します〉
切嗣は、しばらく聖杯を見ていた。
そして、言った。
「世界については、今は願わない」
ギルガメッシュが笑う。
「賢明だ」
セイバーは目を伏せた。
時臣は娘を守るための助言を求めた。
切嗣は、救済の名で殺さないための助言を求めた。
ならば、自分は何を問うのか。
聖杯は、答えを持たぬ者を責めもせず、許しもせず、ただ待っている。
だが、切嗣の胸には、先ほど示された第四の助言が残っていた。
アイリスフィール。
イリヤスフィール。
作戦要素ではなく、責任ある関係として再定義せよ。
*
「聖杯」
切嗣は言った。
澄んだ光が揺れる。
〈助言要求を受け付けます〉
「違う」
切嗣は小さく首を振った。
「さっきの助言について確認したい。君は、アイリスフィールの名を挙げた。だが、アイリはもう小聖杯として機能している。いや、機能させられているはずだ」
セイバーが切嗣を見る。
彼がアイリの名を、作戦ではなく人の名として口にしたことに気づいたからだった。
「それを、ただ関係を再定義しろで済ませていいのか」
聖杯は即座に応答した。
〈先ほどの提示は助言です。願望ではありません。願望処理は待機中です〉
ギルガメッシュが笑った。
「よかったな、殺し屋。杯は貴様の都合まで勝手には処理してくれぬらしい」
切嗣は、黄金の王を見なかった。
「なら、願う」
その言葉に、セイバーがわずかに息を呑む。
切嗣は続けた。
「アイリスフィール・フォン・アインツベルンを、小聖杯としての機能と、アインツベルンの所有、命令、設計目的から切り離してくれ」
聖杯の光が揺れる。
〈対象を確認。アイリスフィール・フォン・アインツベルン〉
「そして、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンもだ」
切嗣の声は低かった。
「イリヤを、アインツベルンの所有物、次代の器、あるいは同じ目的のための材料から切り離してくれ」
聖杯は沈黙しない。
ただ、必要な確認を返す。
〈保持条件を指定してください〉
切嗣は目を閉じた。
何を残すのか。
今度は、分かる。
「生命。人格。記憶。自由意思。互いを母娘として認識する記憶」
一度、言葉が止まる。
「それから、僕との関係もだ。作戦上の関係ではなく、家族として」
ギルガメッシュが、声を上げて笑った。
「殺し屋。貴様、本当に可愛いところがあるな」
切嗣は低く言った。
「黙ってろ」
「嫌だと言ったら?」
「今は、頼む」
ギルガメッシュの笑いが、少しだけ変わった。
「ほう」
セイバーは、何も言えなかった。
聖杯が応答する。
〈確認します。人格、記憶、自己同一性および家族に関する記憶は保持可能です。ただし、処置後の家族関係そのものを保証する場合、対象の自由意思への干渉が必要となります〉
切嗣は、わずかに目を伏せた。
「関係を決めてくれという意味じゃない」
アイリが自分を許すかどうか。
イリヤが自分を父と呼ぶかどうか。
それまで聖杯に決めさせることはできない。
「二人が自分の意思で選べる状態に戻してくれ。その先は、僕が責任を負う」
〈条件を受理します〉
聖杯は続けた。
〈補足。対象、アイリスフィール・フォン・アインツベルンは、現在、自律的な生命活動を停止しています。小聖杯機能の分離のみでは、生命活動は復元されません〉
切嗣の表情が固くなる。
〈英霊魂の収容に伴う肉体変化を逆転し、小聖杯機能が顕在化する以前の、人として活動可能だった状態へ復元しますか〉
「頼む」
〈注意。復元対象は、小聖杯機能の顕在化によって生じた変化に限定されます。元来の設計寿命、既存の損耗、記憶的外傷は自動的に修復されません〉
「構わない」
切嗣は静かに言った。
「もう一度、本人として生きられるなら、それでいい」
聖杯は淡々と告げる。
〈願望を受理します〉
ギルガメッシュが目を細めた。
「二度目だな。小さい願いほど、形がよい」
切嗣は答えない。
聖杯の光が、今度は遠くへ伸びた。
冬木市郊外に置かれたアインツベルンの城。その最奥にある白い部屋に、アイリスフィールは横たわっていた。
だが、それを眠りと呼ぶことはできなかった。
胸は動かず、脈もない。人として生命を維持するためにあった器官の多くは、すでに本来の役目を終えている。魔術回路は英霊の魂を受け入れる器へ組み替えられ、肉体そのものが、願望器を開くための小聖杯へと変えられていた。
そこに残っているのは、眠る女の身体ではない。
アイリスフィールという人格と記憶を内側へ抱えたまま、人として自然に戻る道を失うところまで変質した器だった。
聖杯の光が、その構造を映し出す。
アイリスフィールという個人を成立させていた部分。
小聖杯となるため、最初から組み込まれていた部分。
すでに失われた生命維持機能。
英霊の魂を受け入れるために拡張された魔術回路。
器へ変わる過程で折り畳まれ、役目を奪われた肉体。
そして、その奥に残る、アイリスフィール自身。
光は、すぐには何も変えなかった。
まず、小聖杯に蓄えられていたものを大聖杯側へ移す。英霊の魂も、それを保持するための機能も、アイリスフィールの身体から一つずつ切り離し、浄化された炉へ引き取っていく。
器としての役目だけが、彼女から離れていった。
それでも、身体はまだ人には戻らない。
小聖杯への変化は、上から機能を付け加えただけのものではなかった。人として生きるための構造を崩し、その場所へ器を作る、後戻りを前提としない変換だった。
聖杯の光は、その変化を逆に辿り始める。
器として広げられていた魔術回路が、本来の流れへ折り畳まれる。役目を失っていた器官が再び形を取り、途絶えていた血の道が繋がり、止まっていた身体の内側に、生命を維持するための働きが一つずつ戻されていく。
失われたものを、似た何かで埋めるのではない。
残された人格と記憶、アイリスフィール自身の情報を基準として、英霊の魂を収容する以前の、人として活動可能だった身体状態を再び組み上げている。
それは治療ではなかった。
傷ついた身体を癒やしているのでもない。
一度、器へ変わったものを、もう一度人の身体へ戻していた。
ギルガメッシュの楔が、光の中へ落ちる。
「そこまでだ」
王の声が響いた。
「器の役目は大聖杯へ返せ。人の名を持つものまで、杯の形に閉じ込めるな」
黄金の楔が、小聖杯としての構造と、アイリスフィールという存在との境界を固定する。
聖杯の声が続いた。
〈小聖杯機能および英霊魂保持機能、大聖杯側の代替保持領域へ移管完了。アインツベルン命令系、遮断。遠隔制御経路、破棄〉
白い身体の胸が、わずかに持ち上がった。
最初の呼吸は浅く、途切れそうなものだった。
だが、二度目が続いた。
止まっていた心臓が、弱く脈を打つ。冷え切っていた身体へ血が巡り、頬にごく薄い色が戻っていった。
眠っていたのではない。
器になっていた女が、再び呼吸を始めたのだ。
そして光は、さらに遠く離れた場所にいる小さな少女へ伸びた。
イリヤスフィール。
その身体には、生まれた時から次代の器となるための設計が組み込まれている。血統も、魔術回路も、肉体の構造も、アインツベルンが一つの目的のために作り上げたものだった。
それらをすべて異物として取り除けば、イリヤスフィールという少女そのものが失われる。
聖杯の光は、設計されたものと、そうでないものを分けようとはしなかった。
今ここにいるイリヤスフィールを、一つの存在として捉える。
生命、人格、記憶、自由意思。
彼女自身の肉体と、それを支える魔術回路。
誰かの娘として、誰かを母と呼び、自分の意思で喜び、怒り、選ぼうとする心。
それらすべてを、イリヤスフィールとして保持する。
そのうえで、彼女を次代の器として開く機能、アインツベルンの命令へ従わせる経路、遠隔から制御し、回収し、設計目的へ戻すための見えない糸だけを選び出した。
光は、それらを乱暴に切り取らない。
まず働きを止め、イリヤ自身の生命と魔術回路から慎重に分けていく。
命令系が沈黙する。遠隔制御の道が閉じる。
アインツベルンへ引き戻すための接続がほどける。
次代の器として彼女を開く機能が、意味を失っていく。
設計によって与えられた力まで奪うのではない。
その力の使い道を、設計者の手から本人へ返しているのだ。
最後に残ったのは、目的を失った器ではなかった。
誰かの目的のために作られながら、今はもう、その目的だけでは定義されない少女だった。
イリヤスフィールだけが、そこに残った。
ギルガメッシュの楔が、光の中へ落ちた。
「力は残せ。だが、その使い道まで造り手のものとするな」
聖杯の声が続く。
〈次代小聖杯機能、無効化。アインツベルン命令系、遮断。遠隔制御経路、回収経路および次代器接続、破棄〉
セイバーは、切嗣を見ていた。
彼は泣いていない。許された顔でもない。
ただ、初めて、自分が切り捨ててきたものを切り捨てないために願っている。
聖杯の光が静まる。
〈対象、アイリスフィール・フォン・アインツベルン。人格、記憶、自由意思、自己同一性を保持。小聖杯機能が顕在化する以前の、人として活動可能だった肉体状態および自律生命活動を復元。小聖杯機能、分離および移管完了〉
〈対象、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。生命活動、人格、記憶、自由意思および自己同一性を保持。次代小聖杯機能、無効化。アインツベルン命令系、遠隔制御経路、回収経路および次代器接続、破棄〉
少し間を置いて、聖杯は告げた。
〈願望処理、完了〉
切嗣は、長く息を吐いた。それは安堵ではなかった。救いでもなかった。これから背負うものの重さを、初めて正面から受け取ったような息だった。
「……アイリは」
声がかすれた。
「生きているのか」
〈肯定。ただし、休養、治療、長期的保護が必要です〉
「イリヤは」
〈肯定。ただし、アインツベルンとの物理的隔離および保護者権限の再定義が必要です〉
ギルガメッシュが言った。
「聞いたか。助けたから終わりではないそうだ」
切嗣は頷いた。
「分かっている」
「本当に分かっている顔だな。つまらぬ」
だが、ギルガメッシュは楽しそうだった。
セイバーは、静かに言った。
「切嗣」
切嗣は彼女を見る。
「あなたは、今度は願ったのですね」
「ああ」
「世界ではなく」
「ああ」
切嗣は目を伏せた。
「家族を、だ」
セイバーは何も言わなかった。
ただ、その言葉を聞いた。
聖杯は、再び静かに待機している。
まだ願いを持つ者はいる。
だが、その場の空気は先ほどとは違っていた。
世界を救う願いは、形を持たなかった。
妻と娘を救う願いは、ようやく形を持った。
その事実は、切嗣にとって救いではなく、罰に近かった。
それでも彼は、その罰を受け取った。