優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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31.セイバーの問い

 聖杯は、まだ光っていた。

 切嗣の願いによって、アイリスフィールとイリヤスフィールは、アインツベルンの器としての運命から切り離された。

 

 それでも、杯は閉じない。

 ただ、待っている。

 願いを持つ者がまだいることを、知っているかのように。

 

 ギルガメッシュは、聖杯の前に立つ騎士王を見た。

「どうした、セイバー」

 その声は愉快そうだった。

「小娘は妹を願った。殺し屋は妻子を願った。遠坂時臣ですら、己の娘を守るために杯へ助言を求めたぞ」

 セイバーは答えない。

 

 ギルガメッシュは笑う。

「そなた、本当に何も願うことはないのか」

 

 セイバーの手が、剣の柄に触れた。

 怒りではない。癖のようなものだった。

 

「先ほどの様子を見ていたであろう。これは紛れもなく本物だ。泥は分離され、封じられた。器は起きた。願いは叶う。ただし、願う者がその形を定められるならばな」

 

 セイバーは聖杯を見た。

 澄んだ光。泥の気配はない。悪意の囁きもない。

 だが、それは優しくはなかった。

 凛の願いは受け取られた。

 切嗣の願いも受け取られた。

 

 どちらも、救いたい相手と、残したいものを具体的に見ていた。

 セイバーは、長く沈黙した。

「聖杯」

 

 光がわずかに揺れる。

〈願望の再定義を受け付けます〉

「いいえ」

 セイバーは静かに言った。

「願いではありません」

 

 ギルガメッシュの目が細くなる。

「ほう」

「確認を求めます」

 

 聖杯はすぐには答えなかった。

 それから、淡々とした声が返る。

〈記録照会、または助言要求として処理可能です。内容を指定してください〉

 

 セイバーは、息を吸った。

 その問いを口にすることは、思っていたよりも難しかった。

「私がブリテンを守ろうとしたことで、残せたものはあったのですか」

 

 切嗣が、わずかにセイバーを見る。

 ギルガメッシュは笑わなかった。

 

 聖杯が応じる。

〈評価基準を指定してください。生命の保持。秩序の維持。国土の防衛。王権の継続。民の幸福。歴史的影響。後世への意味。いずれを基準としますか〉

 

 セイバーは目を閉じた。

 まただ。

 聖杯は慰めない。断罪もしない。

 ただ、言葉の形を問う。

 

「私は」

 セイバーは言葉を探した。

 ブリテンを救いたかった。

 民を守りたかった。

 王として正しくありたかった。

 だが、そのどれもが、今はひとつの願いにはならない。

 

「私が守ったものが、確かに存在したかを知りたい」

 

 聖杯の光が静かに揺れた。

〈照会を受理します〉

 

 白い光の中に、かつてのブリテンの光景が浮かび上がった。

 戦場では騎士たちが剣を振るい、その背後では炎に追われた民が城壁の内側へ逃げ込んでいく。雪に閉ざされた道を兵が進み、円卓の騎士たちは王の命のもとで、それぞれの戦いへ赴いていた。

 勝利によって守られた土地があった。

 敗北によって失われた命もあった。

 

 王の軍が間に合ったことで救われた者もいれば、手を伸ばしても届かなかった者もいた。

 そこにあったのは、成功だけでも、失敗だけでもなかった。

 

 聖杯の声が響く。

〈肯定。アルトリア・ペンドラゴンの治世によって保持された生命は存在します。維持された秩序は存在します。成立した同盟は存在します。遅延された崩壊は存在します。王の名によって戦場から遠ざけられた民は存在します。王の存在によって希望を保持した者は存在します〉

 

 セイバーは、動かなかった。

 光景は続く。

 同時に、別のものも映る。

 王のために死んだ騎士。

 王の理想についていけなかった者。

 王があまりに王であったがゆえに、置き去りにされた心。

 最後の丘。折れた旗。血の匂い。

 

〈同時に、その治世の中で生じた損失、および解消されなかった問題も存在します。王個人への負荷集中。後継問題。円卓内部の破綻。理想と人心の乖離。それらを含む複数の要因を経た国家崩壊〉

 

 セイバーは目を逸らさない。

〈総合評価は、評価基準に依存します。当該治世を絶対的成功、または絶対的失敗として断定することはできません〉

 

 ギルガメッシュが、そこでようやく笑った。

「聞いたか、セイバー。杯はそなたを赦しも裁きもせぬらしい」

 セイバーは聖杯から目を離さなかった。

「赦しが欲しかったわけではありません」

「では、何が欲しかった」

 ギルガメッシュの問いは鋭かった。

 

 セイバーは、少しだけ黙った。

 これまでなら、ブリテンを救いたいと答えていた。

 だが、ブリテンの何を残し、何を変えるのかを、今の彼女はまだ言葉にできない。

 

「私は、ブリテンを救えなかったという結果ばかりを見ていました」

 声は静かだった。

「だから、その滅びを覆しさえすればよいと思っていた」

 聖杯は沈黙している。

 

 セイバーは続けた。

「けれど、今示されたものを、なかったこととして扱うことはできません。ブリテンの滅びだけを見て、それ以前に守られたものを無視することはできない」

 ギルガメッシュは、愉快そうに目を細めた。

「ようやくそこへ来たか」

 

「ですが」 

 セイバーの声が少しだけ震えた。

「だからといって、私は自分が正しかったとも言えません」

「言う必要があるのか」

 ギルガメッシュが問う。

 

 セイバーは彼を見た。

「王とは、己の正しさを信じて立つものではないのですか」

「違うな」

 ギルガメッシュは即座に言った。

「王とは、己が立った結果を引き受けるものだ」

 

 セイバーの目が揺れる。

「貴様は、正しかったと言ってほしいのか。間違っていたと言ってほしいのか。どちらでもよい。そんなものは後の者が勝手に語る」

 黄金の王は、まっすぐに彼女を見た。

「だが、貴様が王として成したものを、敗北の一語で塗り潰すな。滅びだけを見て、それ以前のすべてを無価値とするな。その両方を持て。それが王だ」

 セイバーは、何も言えなかった。

 

 聖杯が告げる。

〈記録照会、完了。願望処理は未実行です。願望の再定義を待機します〉

 

 セイバーは聖杯を見る。

 澄んだ器は、まだ待っている。

 願えば、叶うかもしれない。

 形を定めれば、何かを変えられるかもしれない。

 だが、今の自分には、何を変え、何を残すべきかをまだ定められないと分かった。

 

 セイバーは、もう一度聖杯を見た。

「ブリテンの救済について、今の私にはまだ願えません」

〈救済対象、保持条件および改変範囲の再定義を待機します〉

 

「ですが、今ここで形を定められる願いが一つあります」

 

 ギルガメッシュが眉を上げた。

「ほう。故国の願いは定められずとも、ほかに願うものはあると?」

「はい」

 セイバーは答えた。

「ブリテンをどう救うべきか、その答えはまだ持っていません。何を変え、何を残すのかも、今の私には定められない」

 

 聖杯は、ただ待っている。

「ですが、今、私の手が届く者のためならば、私にも形を定められる願いがあります」

 

 切嗣が、わずかに顔を上げた。

 セイバーは彼を見た。世界ではなく、妻と娘を選んだ男を。

 救ったことで責任が終わるのではなく、これから背負うのだと受け入れた男を。

 その傍らに、自分が立つ意味を考えた。

 

 ギルガメッシュが、愉快そうに目を細める。

「ならば申してみよ、騎士王。形を持たぬ大願ではなく、今の貴様が定められる願いとやらを」

 セイバーは聖杯へ向き直った。

 故国の滅びを覆すためではない。

 今、自分の手が届くものを守るために。

 

「聖杯」

 澄んだ光が、彼女の声を待っていた。

 

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