聖杯は、まだ光っていた。
切嗣の願いによって、アイリスフィールとイリヤスフィールは、アインツベルンの器としての運命から切り離された。
それでも、杯は閉じない。
ただ、待っている。
願いを持つ者がまだいることを、知っているかのように。
ギルガメッシュは、聖杯の前に立つ騎士王を見た。
「どうした、セイバー」
その声は愉快そうだった。
「小娘は妹を願った。殺し屋は妻子を願った。遠坂時臣ですら、己の娘を守るために杯へ助言を求めたぞ」
セイバーは答えない。
ギルガメッシュは笑う。
「そなた、本当に何も願うことはないのか」
セイバーの手が、剣の柄に触れた。
怒りではない。癖のようなものだった。
「先ほどの様子を見ていたであろう。これは紛れもなく本物だ。泥は分離され、封じられた。器は起きた。願いは叶う。ただし、願う者がその形を定められるならばな」
セイバーは聖杯を見た。
澄んだ光。泥の気配はない。悪意の囁きもない。
だが、それは優しくはなかった。
凛の願いは受け取られた。
切嗣の願いも受け取られた。
どちらも、救いたい相手と、残したいものを具体的に見ていた。
セイバーは、長く沈黙した。
「聖杯」
光がわずかに揺れる。
〈願望の再定義を受け付けます〉
「いいえ」
セイバーは静かに言った。
「願いではありません」
ギルガメッシュの目が細くなる。
「ほう」
「確認を求めます」
聖杯はすぐには答えなかった。
それから、淡々とした声が返る。
〈記録照会、または助言要求として処理可能です。内容を指定してください〉
セイバーは、息を吸った。
その問いを口にすることは、思っていたよりも難しかった。
「私がブリテンを守ろうとしたことで、残せたものはあったのですか」
切嗣が、わずかにセイバーを見る。
ギルガメッシュは笑わなかった。
聖杯が応じる。
〈評価基準を指定してください。生命の保持。秩序の維持。国土の防衛。王権の継続。民の幸福。歴史的影響。後世への意味。いずれを基準としますか〉
セイバーは目を閉じた。
まただ。
聖杯は慰めない。断罪もしない。
ただ、言葉の形を問う。
「私は」
セイバーは言葉を探した。
ブリテンを救いたかった。
民を守りたかった。
王として正しくありたかった。
だが、そのどれもが、今はひとつの願いにはならない。
「私が守ったものが、確かに存在したかを知りたい」
聖杯の光が静かに揺れた。
〈照会を受理します〉
白い光の中に、かつてのブリテンの光景が浮かび上がった。
戦場では騎士たちが剣を振るい、その背後では炎に追われた民が城壁の内側へ逃げ込んでいく。雪に閉ざされた道を兵が進み、円卓の騎士たちは王の命のもとで、それぞれの戦いへ赴いていた。
勝利によって守られた土地があった。
敗北によって失われた命もあった。
王の軍が間に合ったことで救われた者もいれば、手を伸ばしても届かなかった者もいた。
そこにあったのは、成功だけでも、失敗だけでもなかった。
聖杯の声が響く。
〈肯定。アルトリア・ペンドラゴンの治世によって保持された生命は存在します。維持された秩序は存在します。成立した同盟は存在します。遅延された崩壊は存在します。王の名によって戦場から遠ざけられた民は存在します。王の存在によって希望を保持した者は存在します〉
セイバーは、動かなかった。
光景は続く。
同時に、別のものも映る。
王のために死んだ騎士。
王の理想についていけなかった者。
王があまりに王であったがゆえに、置き去りにされた心。
最後の丘。折れた旗。血の匂い。
〈同時に、その治世の中で生じた損失、および解消されなかった問題も存在します。王個人への負荷集中。後継問題。円卓内部の破綻。理想と人心の乖離。それらを含む複数の要因を経た国家崩壊〉
セイバーは目を逸らさない。
〈総合評価は、評価基準に依存します。当該治世を絶対的成功、または絶対的失敗として断定することはできません〉
ギルガメッシュが、そこでようやく笑った。
「聞いたか、セイバー。杯はそなたを赦しも裁きもせぬらしい」
セイバーは聖杯から目を離さなかった。
「赦しが欲しかったわけではありません」
「では、何が欲しかった」
ギルガメッシュの問いは鋭かった。
セイバーは、少しだけ黙った。
これまでなら、ブリテンを救いたいと答えていた。
だが、ブリテンの何を残し、何を変えるのかを、今の彼女はまだ言葉にできない。
「私は、ブリテンを救えなかったという結果ばかりを見ていました」
声は静かだった。
「だから、その滅びを覆しさえすればよいと思っていた」
聖杯は沈黙している。
セイバーは続けた。
「けれど、今示されたものを、なかったこととして扱うことはできません。ブリテンの滅びだけを見て、それ以前に守られたものを無視することはできない」
ギルガメッシュは、愉快そうに目を細めた。
「ようやくそこへ来たか」
「ですが」
セイバーの声が少しだけ震えた。
「だからといって、私は自分が正しかったとも言えません」
「言う必要があるのか」
ギルガメッシュが問う。
セイバーは彼を見た。
「王とは、己の正しさを信じて立つものではないのですか」
「違うな」
ギルガメッシュは即座に言った。
「王とは、己が立った結果を引き受けるものだ」
セイバーの目が揺れる。
「貴様は、正しかったと言ってほしいのか。間違っていたと言ってほしいのか。どちらでもよい。そんなものは後の者が勝手に語る」
黄金の王は、まっすぐに彼女を見た。
「だが、貴様が王として成したものを、敗北の一語で塗り潰すな。滅びだけを見て、それ以前のすべてを無価値とするな。その両方を持て。それが王だ」
セイバーは、何も言えなかった。
聖杯が告げる。
〈記録照会、完了。願望処理は未実行です。願望の再定義を待機します〉
セイバーは聖杯を見る。
澄んだ器は、まだ待っている。
願えば、叶うかもしれない。
形を定めれば、何かを変えられるかもしれない。
だが、今の自分には、何を変え、何を残すべきかをまだ定められないと分かった。
セイバーは、もう一度聖杯を見た。
「ブリテンの救済について、今の私にはまだ願えません」
〈救済対象、保持条件および改変範囲の再定義を待機します〉
「ですが、今ここで形を定められる願いが一つあります」
ギルガメッシュが眉を上げた。
「ほう。故国の願いは定められずとも、ほかに願うものはあると?」
「はい」
セイバーは答えた。
「ブリテンをどう救うべきか、その答えはまだ持っていません。何を変え、何を残すのかも、今の私には定められない」
聖杯は、ただ待っている。
「ですが、今、私の手が届く者のためならば、私にも形を定められる願いがあります」
切嗣が、わずかに顔を上げた。
セイバーは彼を見た。世界ではなく、妻と娘を選んだ男を。
救ったことで責任が終わるのではなく、これから背負うのだと受け入れた男を。
その傍らに、自分が立つ意味を考えた。
ギルガメッシュが、愉快そうに目を細める。
「ならば申してみよ、騎士王。形を持たぬ大願ではなく、今の貴様が定められる願いとやらを」
セイバーは聖杯へ向き直った。
故国の滅びを覆すためではない。
今、自分の手が届くものを守るために。
「聖杯」
澄んだ光が、彼女の声を待っていた。