光がわずかに揺れた。
〈願望入力を受け付けます〉
ギルガメッシュが、愉快そうに目を細めた。
「申してみよ、セイバー。形を持たぬ大願とは別に、何を願う」
「イリヤスフィール・フォン・アインツベルンを救出し、彼女の意思と、その後の保護体制を私自身が確認するまで、現在の現界を継続したい」
切嗣が、セイバーを見る。
凛も時臣も黙っていた。
〈願望対象を確認します。アルトリア・ペンドラゴンの恒久的受肉ではなく、現在のサーヴァントとしての現界継続を申請していますか〉
「はい」
〈恒久的な安全保証は不能です。未来には、未発生の事象および外部主体の選択が含まれます。現時点で確認可能な脅威の低減、および保護体制の成立を終了条件として指定してください〉
「未来のすべてを保証してほしいわけではありません。彼女が自ら生き方を選べるところまで、今ある脅威を退けたいのです」
〈補足。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの次代器接続、強制命令系、遠隔制御経路および回収経路は、先の願望処理によって破棄済みです。ただし、現在地における物理的拘束、追跡、再捕獲および外部からの加害可能性は残存しています〉
セイバーは頷いた。
器として彼女を縛っていた魔術は消えた。
だが、彼女はいまだ、ドイツにあるアインツベルンの本拠にいる。
命令する術式が失われても、命令しようとする者まで消えたわけではない。回収のための経路が閉ざされても、人を送り、力ずくで連れ戻すことはできる。
聖杯によって解かれたのは、彼女の内側に埋め込まれていた運命だった。その運命から離れた少女が、実際にどこで、誰と、どのように生きるのかは、まだ何も決まっていない。
「第一に、イリヤスフィールがアインツベルン城から離れ、物理的な支配下から脱すること」
〈確認しました〉
「第二に、救出後すぐに再捕獲されないよう、追跡と追撃を退け、安全な場所まで移動できること」
〈確認しました〉
「第三に、アイリスフィールが母として彼女のそばにいられること。切嗣と私、あるいは切嗣とアイリスフィールが信頼できる第三者が、それを支えられること」
〈保護方針の決定権を、衛宮切嗣単独に委ねますか〉
「いいえ」
切嗣が、わずかに目を伏せた。
「切嗣がイリヤスフィールを愛していることは疑いません。ですが、愛していることと、常に正しい選択ができることは同じではありません」
切嗣は反論しなかった。
「彼一人に、再びすべてを決めさせるべきではない。アイリスフィールの判断を含めます。そして、何よりもイリヤスフィール本人の意思を含めます」
〈本人意思の確認条件を指定してください〉
「自分がどこにいるのかを理解し、恐怖や命令によらず、拒否または希望を表明できる状態にあること」
セイバーは一度、言葉を切った。
「保護するという名目で本人の意思を奪うなら、器と呼ぶ代わりに保護対象と呼んだだけです。彼女を誰かの目的へ従わせることに変わりはありません」
切嗣が、ゆっくりと顔を上げた。
〈本人がアルトリア・ペンドラゴンによる護衛を拒否した場合、その意思を優先しますか〉
「はい。ただし、その言葉が恐怖や強制によるものではないことを確認します」
〈確認しました。追加条件を指定してください〉
「私自身が、彼女に会うことです」
セイバーの声は静かだった。
「切嗣とアイリスフィールを信じます。ですが、信じることと、すべてを任せきることは違う」
彼女は、切嗣の戦いを見てきた。
目的のために自分を道具として扱い、アイリスフィールを聖杯の器として戦場へ置き、自分自身さえ切り捨てるものとして数えていた男を。
今、その男は世界ではなく妻と娘を選んだ。
だからといって、その一度の選択だけですべてが変わったと信じることはできない。
「私はあなたのサーヴァントとして、あなたとアイリスフィールの戦いを見ました。あなたが何を守ろうとし、何を切り捨ててきたのかも見ています。であれば、私にも最後まで見届ける責務があります」
セイバーは切嗣を見た。
「あなたを許したわけではありません」
「ああ」
切嗣は小さく答えた。
「ですが、あなた一人に背負わせることもしません」
切嗣はしばらく黙っていた。
「それも、君が決めたことか」
「はい」
「なら、止める権利は僕にはない」
セイバーは聖杯へ向き直った。
「これは受肉の願いではありません。故国への迷いを理由に、現世へ留まり続けるための願いでもありません」
澄んだ光の中に、彼女の姿が映っていた。
「イリヤスフィールが再び誰かの目的のための器として扱われず、一人の子として生きられる状態にあると、私自身が確認するまでの限定的な現界継続です」
〈願望範囲を確認しました。対象はアルトリア・ペンドラゴンの現界維持条件、および現界維持に必要な魔力供給経路の限定確保です〉
ギルガメッシュが笑った。
「つまらぬ願いだな、セイバー」
セイバーは彼を見た。
「そうかもしれません」
「国の救済という大願を保留し、他人の娘一人を見届けるために杯を使うか」
「そうです」
「しかも、自らの手間を省くためではない。わざわざ責務を増やし、その責務を果たす時間を願うと」
黄金の王は、愉快そうに目を細めた。
「貴様も、ずいぶんと奇妙な杯の使い方を覚えたものだ」
「願いを叶えて終わりにしないためです」
「それが貴様の杯か」
セイバーは、もう目を伏せなかった。
「今の私には、それが願いです」
ギルガメッシュはしばらく彼女を見たあと、喉の奥で笑った。
「よい。形も持たぬ救済よりは、よほどましな願いよ」
〈補足。本願望は、アルトリア・ペンドラゴンと世界との既存契約を変更、終了、または履行するものではありません。既存契約を維持したまま、カムランへの帰還を一時的に保留し、現在の現界を継続します〉
セイバーは一度、目を閉じた。
ブリテンの救済を願う契約は、まだ残っている。
その答えを出したわけではない。
「構いません」
〈現界継続には魔力供給が必要です。現在の保有魔力のみでは、終了条件達成までの活動を保証できません〉
「衛宮切嗣との現在の契約経路を維持します」
〈契約相手の同意が必要です。衛宮切嗣、契約経路の維持および魔力供給に同意しますか〉
切嗣はセイバーを見た。
「同意する。ただし、僕一人の魔力では長くは保たない」
「承知しています」
セイバーは否定しなかった。
切嗣の魔術回路が、騎士王を長期間現界させるために適したものではないことは、彼女自身が最もよく知っていた。
そこで、時臣が口を開いた。
「遠坂の宝石を使おう」
切嗣が視線を向ける。
時臣は懐から小さな革袋を取り出した。中で、硬いものが触れ合う音がした。
「量には限りがあるが、短期間の供給源にはなる。私が供給用の礼装へ組み直し、君とセイバーの契約経路へ接続する」
「僕を経由させるのか」
「現時点で彼女のマスターは君だ。新しい契約を一から構築するより、既存の経路を利用する方が早い」
切嗣は革袋を見た。
遠坂の宝石。長い年月をかけて魔力を蓄積した、遠坂家にとって資産であり、魔術そのものでもあるもの。
それを、時臣は敵であった男と、そのサーヴァントのために差し出そうとしている。
「なぜ、そこまでする」
「アインツベルンがイリヤスフィールを再び支配下へ置こうとすれば、大聖杯も冬木も、いずれまた争いの理由になる」
時臣は聖杯を見た。
「それは冬木の管理者として看過できない。そして、私の娘たちの安全にも関わる」
「善意ではないということか」
「善意だけで、遠坂の宝石を差し出すほど私は気前がよくない」
時臣は淡々と答えた。
「必要な場所へ、必要な資源を置く。それだけのことだ」
切嗣はしばらく黙ったあと、頷いた。
「加工は君に任せる。運用と防護は僕がやる」
「それでよい」
ギルガメッシュが、喉の奥で笑った。
「魔術師が殺し屋の契約を支え、殺し屋が魔術師の宝石を守るか。つくづく、昨日までの貴様らには見せてやりたい光景だな」
時臣は振り返らなかった。
「適材適所です、王よ」
「はは。言うようになったではないか、時臣」
聖杯の声が重なる。
〈外部供給候補を確認しました。遠坂時臣による供給礼装の構築。衛宮切嗣とアルトリア・ペンドラゴンの現行契約経路を介した魔力供給。礼装完成まで、現在の保有魔力を用いた暫定的な現界維持を実行します〉
「お願いします」
〈限定現界維持処理を開始します。指定された終了条件の確認まで、願望処理を継続します〉
白い光がセイバーを包んだ。
温かくはない。優しくもない。
だが、濁ってはいなかった。
戦いの終了とともに途切れるはずだった現世との繋がりが、細く、しかし確かに固定されていく。
本来ならば、彼女は聖杯戦争の終わりとともに、カムランの丘へ引き戻されるはずだった。
死の直前に置かれた身体も、世界と結んだ契約も消えてはいない。故国の滅びを救うという願いも、答えを得ないまま残っている。
それでも今、その帰還には猶予が与えられた。
過去をやり直すためではない。
故国の滅びだけを、都合よく塗り替えるためでもない。
これから一人の少女に会い、その少女自身が何を望むのかを確かめるために。
セイバーは剣の柄へ手を置いた。
「イリヤスフィールを迎えに行きます」
切嗣が頷いた。
「ああ」
ギルガメッシュは退屈そうに見えて、その実、愉快そうに笑っていた。
「行け、騎士王。故国の願いを保留したのなら、せめて今、手の届く一人は取り落とすなよ」
セイバーは王を見返した。
「言われるまでもありません」
その返答には、怒りも従属もなかった。
王であることを捨てたのではない。
今はただ、その剣を一人の少女のために振るうと決めたのだ。