凛が、時臣の袖を引いた。
「お父様」
「何だ」
「もう、桜のところへ帰ってもいいですか」
時臣は、聖杯を見た。
澄んだ器は、まだ光っている。
だが、今の凛に必要なのは、もうこの場に留まることではなかった。
「ああ。帰ろう」
時臣はそう言い、凛の肩に手を置いた。
その時だった。
〈ギルガメッシュ〉
聖杯の声が響いた。
ギルガメッシュが、ゆっくりと振り返る。
〈願望はありませんか〉
一瞬、場の空気が止まった。
セイバーがギルガメッシュを見る。
切嗣も目を細めた。
時臣は、凛の肩に手を置いたまま動かない。
ギルガメッシュは、少しだけ黙った。そして、笑った。
「我に問うか、杯」
〈願望者を確認しています〉
「我に願いなどあるものか」
黄金の王は、当然のように言った。
「欲しいものは、すべて我のものだ」
聖杯は淡々と応じる。
〈ギルガメッシュ。願望なしとして処理します〉
「待て」
ギルガメッシュが手を上げた。
聖杯の光が、わずかに揺れる。
「願いはない。だが、下賜がある」
時臣が顔を上げた。
「時臣」
ギルガメッシュは、彼を見た。
「先ほど、殺し屋の契約を支えるために宝石を差し出したな」
「はい」
「あれで遠坂の蔵が傾くわけではあるまい」
時臣は一瞬だけ目を瞬いた。
「無論です。遠坂の家産は、あの程度で揺らぐものではありません」
「宝石魔術は金を食う。だが、それも貴様は承知のうえで家を回してきた。己と後継者一人を養うだけならば、今後も困りはせぬのであろう」
「その通りです」
「では、娘二人を守るならばどうだ」
「一人には遠坂を継がせる。もう一人には、その娘の資質に合う術を調べ、教師を探し、工房と礼装を用意する。間桐の虫を取り除き、二度と手を出させぬための備えも要る」
ギルガメッシュは指を一つずつ折るように言葉を重ねた。
「証人を用意するにも、記録を残すにも、協会と教会の周りを動かすにも、金が要る。家族を逃がす場所を作るにも、結界を張るにも、信用できる者を雇うにもな」
時臣は、黙って聞いていた。
どれも必要だった。
桜を間桐から連れ戻しただけでは終わらない。
凛の予備として扱うつもりもなかった。
凛には遠坂の魔術を。
桜には桜の資質に適した魔術を。
二人をそれぞれ一人の魔術師として育て、その双方を外から守る。
今までの遠坂家は、そのためには作られていなかった。
「魔術師どもは高潔な顔をするが、研究費と触媒を前にすれば、大抵は口が軽くなる」
切嗣が小さく苦笑した。
「よく分かっているじゃないか」
「当然だ」
ギルガメッシュは鼻で笑った。
「人が文明を作って以来、金で動かぬ組織など存在せぬ。動かぬと言い張る者ほど、動かす場所が違うだけだ」
切嗣は否定しなかった。
教会も、協会も、魔術師の家も同じだった。
金そのものを欲しがらない者もいる。
だが、研究材料、触媒、地位、紹介、情報、貸し借り。何を価値とするかが違うだけで、何にも動かされない者などほとんどいない。
「時臣」
王がもう一度呼んだ。
「娘一人を家へ収めるだけならば、今の蔵で足りる。だが、娘二人をそれぞれの形で立たせ、魔術師どもの中から守り抜くには足りぬ」
時臣は、しばらく沈黙した。
そして認めた。
「……はい」
遠坂家は貧しくない。
だが、これから始める戦いに対しては、十分ではなかった。
ギルガメッシュの背後に、黄金の波紋が開いた。
「ならば、王が戦費を下賜してやろう」
剣ではない。
宝石や金塊、封印具、術式痕を保存する鏡、追跡を一度だけ逸らす指輪、結界を補強する楔。それらとともに、古びた黄金の鍵が一つ現れた。
鍵には扉がなかった。
だが、それ自体が保管庫へ通じる宝具なのだと、時臣には分かった。
〈当該行為は願望処理ではありません。所有者が提示した保管宝具の設置、資産移転および使用権限登録として処理可能です〉
ギルガメッシュが愉快そうに笑う。
「律儀な器だ」
〈設置には、移転先の土地管理者および受領者の同意が必要です。遠坂時臣、遠坂邸への保管宝具設置および財産の受領を承認しますか〉
時臣は、王の背後に並ぶ財を見た。
ただ高価なだけの品ではない。
娘たちを守るために、これから必要になるものばかりだった。
「王よ。本当に、これらを遠坂へ下賜なさるのですか」
「二度も言わせるな。貴様が娘どもを守るために使え」
時臣は深く頭を下げた。
「ありがたく、お受けいたします」
〈同意を確認しました。所有権、遠坂時臣へ移転。管理権限、遠坂時臣。継承権限、遠坂凛および遠坂桜。両名の未成年期間中は、単独開封を制限します〉
ギルガメッシュが片眉を上げた。
「妻にも金と薬くらいは使わせてやれ。時臣が倒れた時、娘どもを抱えて途方に暮れられてもつまらぬ」
〈遠坂葵に、生活資金および医療品に限定した緊急開封権限を設定しますか〉
「それでよい」
時臣は、一瞬だけ王を見た。
だが、何も言わなかった。
〈条件を確認しました。保管宝具を遠坂邸の結界へ接続し、設置します〉
光が走った。
聖杯が新たな空間を作ったのではない。
もとより王の財として存在していた保管庫が、黄金の鍵を介して遠坂邸へ接続されたのだ。
聖杯の声が響いた。
〈処理完了。当該処理は願望処理ではありません。外部資産移転として記録します〉
ギルガメッシュは満足げに笑った。
「よい」
時臣は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、王よ」
「礼はよい」
ギルガメッシュは言った。
「使い方を誤るな。金は守りにもなれば、腐敗にもなる。宝石は術にもなれば、餌にもなる。貴様がまた目を逸らせば、今度は虫ではなく人が群がるぞ」
時臣は顔を上げた。
「承知しております」
「本当かどうかは、これから見せろ」
ギルガメッシュは次に凛を見た。
「小娘」
「はい」
「これは褒美ではない」
凛は少しだけ首を傾げた。
「褒美では、ないのですか」
「そうだ。貴様が妹を救った褒美ではない。これから妹を守るための戦の糧だ」
凛は、唇を引き結ぶ。
そして、まっすぐ頷いた。
「分かりました」
「分かった顔だな」
「全部は分かりません。でも、分からないまま使ってはいけないものだということは分かります」
ギルガメッシュは声を上げて笑った。
「よい。実によい」
セイバーは、その様子を複雑な表情で見ていた。
「王が、子どもに財を与えるのですか」
「違うな、セイバー」
ギルガメッシュは答えた。
「王が、己の目にかなった願いの後始末をしているのだ」
切嗣が低く言う。
「それを世間では、面倒見がいいと言うんじゃないのか」
ギルガメッシュは鼻で笑った。
「殺し屋。貴様も少しは口が回るようになったではないか」
時臣は、もう一度頭を下げた。
今度は魔術師としてではない。
臣下としてでもない。
娘を守るための資源を受け取る父として。
「必ず、使います」
「当然だ」
ギルガメッシュは、聖杯を一瞥した。
「では、杯。我の願いはなしだ」
〈確認しました。ギルガメッシュ、願望なし〉
「王は願わぬ」
黄金の王は、笑った。
「与えるものだ」
*
ギルガメッシュは、今度は切嗣を見た。
「殺し屋」
切嗣は眉を動かす。
「何だ」
「貴様にも要るであろう」
「何が」
「金だ」
あまりにも当然のように言われて、切嗣は一瞬だけ黙った。
ギルガメッシュの背後に、黄金の波紋が一つ開いた。
そこから落ちてきたのは、宝石でも金塊でもなかった。
黒い札だった。
光を吸うような薄い板の表面に、切嗣の知らない文字と、王の印が刻まれている。
切嗣はそれを受け取った。
触れた瞬間、札の用途と、王が許した範囲が頭へ流れ込んでくる。
王の蔵のうち、ごく小さな一画へ通じる支払証。
引き出せるのは、金貨、宝石、換金可能な貴金属、薬品、食料、衣類、燃料、移動と治療に必要な消耗品だけだった。
武器も宝具も出ない。
引き出せる量にも限りがある。
それでも、妻と娘を連れて国を越え、新しい生活を始めるには十分すぎる額だった。
「……これは」
「行き掛けの駄賃だ。持っておけ」
「駄賃にしては、ずいぶん物騒なものに見える」
「貴様にはこちらの方が使いやすいだろう」
ギルガメッシュは笑った。
「金塊を抱えて逃げ回る殺し屋など、滑稽にも程がある」
切嗣は苦笑した。
「物分かりのいい王だ」
「当然だ。王は臣下のことをよく分かっているものだ」
「僕は臣下ではないはずだが」
「ならば、今宵だけそう扱ってやる」
ギルガメッシュは、澄んだ聖杯を一瞥した。
「我は裁定者よ。少なくとも此度の戦いでは、そうあろうとした」
切嗣は黒い札を見下ろした。
「これで何をしろと」
「妻を運べ。娘を迎えに行け。必要な腕を買え。不要な敵を避けろ。妻を医者に診せ、城を出て、家を持て」
ギルガメッシュの声は軽い。
だが、内容は軽くない。
「そして、金がないからできぬなどという、つまらぬ言い訳をするな」
切嗣は目を伏せた。
「……本当に容赦がないな」
「褒め言葉として受け取っておく」
聖杯の声が響いた。
〈当該行為は願望処理ではありません。外部資産移転として記録します〉
ギルガメッシュは笑った。
「まったく律儀な器だ」
切嗣は黒い札を懐にしまう。
「借りになるのか」
「王の下賜だ。借りではない」
「なら、礼は?」
「受け取っておけ。貴様がまともに礼を言うと、かえって気味が悪い」
切嗣は、少しだけ笑った。
「そうか」
セイバーはその様子を見て、複雑そうに言った。
「アーチャー。あなたは、本当に気まぐれですね」
「違うな、セイバー」
ギルガメッシュは答える。
「王が与えるべき時に与えただけだ」
そして切嗣へ視線を戻す。
「行け、殺し屋。今度は、失わずに運んでみせろ」
切嗣は何も返さなかった。
ただ、黒い札の入った懐を一度だけ押さえた。