聖杯は、静かに光を弱めていた。
願いを処理し、助言を返し、問いに答えた器は、この場にいる者たちへの照会を終えようとしていた。
〈現在地における願望処理、助言要求および記録照会を終了します〉
聖杯の光が、ゆっくりと沈んでいく。
〈未完了の参加者確認は継続します〉
一瞬、誰も言葉を発しなかった。
時臣が、わずかに聖杯を見る。
切嗣も眉を動かした。
だが、聖杯はそれ以上の説明をしなかった。
泥は棺に封じられたまま、沈黙している。
器は壊れていない。
そして、その役割のすべてを終えたわけでもないようだった。
切嗣は、黒い札を懐に収めた。
セイバーは剣から手を離している。
時臣は凛の肩に手を置いている。
凛は、桜のいる遠坂邸の方角を見ていた。
ギルガメッシュは、それらを順に見た。
黄金の王は、満足げに笑う。
「此度は、なかなかに愉快であった」
誰も、すぐには答えなかった。
ギルガメッシュはまず時臣を見る。
「時臣」
その名を呼ばれ、時臣は姿勢を正した。
「はい、王よ」
「目を逸らすな。貴様は一度、見なかったことで娘を失いかけた。次に同じことをすれば、我は笑うだけでは済まさぬぞ」
時臣は深く頭を下げる。
「承知しております」
「ならばよい」
次に、ギルガメッシュは切嗣を見る。
「切嗣」
切嗣の眉がわずかに動いた。
名で呼ばれるとは思っていなかったのだろう。
「何だ」
「今度は、失わずに運んでみせろ」
切嗣はしばらく黙った。
それから、低く答える。
「……努力する」
「つまらぬ返事だ。だが、今の貴様にはそれでよい」
ギルガメッシュは笑う。
次に、セイバーを見る。
「セイバー」
セイバーはまっすぐ彼を見る。
「形も持たぬ大願を保留し、手の届く一人を選んだ顔は、先ほどよりは見られる」
「褒めているのですか」
「我が褒めているのだ。ありがたく思え」
「それは、どうも」
セイバーの返しに、ギルガメッシュは愉快そうに目を細めた。
「己が王であったことまで、他人の答えに明け渡すな。貴様の王道は、貴様が背負え」
セイバーは答えなかった。
ただ、静かに頷いた。
最後に、ギルガメッシュは凛を見る。
「凛」
凛は顔を上げた。
黄金の王に名を呼ばれて、驚いてはいるが、怯えはしない。
「はい」
「妹のもとへ帰れ。そして見ておけ。願いは叶って終わりではない。叶った後からが、人の仕事だ」
凛は唇を引き結び、頷いた。
「分かりました」
「本当に分かったかは、これから見てやる」
「見られているのは少し嫌です」
時臣がぎょっとしたように凛を見る。
切嗣が、ほんの少しだけ苦笑する。
ギルガメッシュは大笑した。
「ならば、見られても恥じぬ働きをせよ」
「はい」
彼は聖杯を一瞥した。
「此度の裁定、我は満足した」
ギルガメッシュの背後に、黄金の波紋が開く。
役目は終わった。
あとは現界を解き、座へ戻るだけだった。
〈確認します〉
聖杯の声が、その背を止めた。
〈現時点でギルガメッシュが現界を終了した場合、残存サーヴァントが存在するため、自主退去による敗退として記録されます〉
黄金の波紋が止まった。
ギルガメッシュが、ゆっくりと振り返る。
「……杯よ」
〈はい〉
「今、我を敗者として記録すると申したか」
〈現時点での退去を選択した場合です。退去そのものを制限するものではありません〉
聖杯の声音には、嘲りも悪意もなかった。
帰ってもよい。
ただし、それは敗退である。
規則をそのまま告げているだけだった。
だからこそ、王には腹立たしかった。
「おのれ、杯め。最後の最後に無粋な注釈を付けおって」
〈記録上の分類を説明しています〉
「我は勝利を捨てたのであって、敗れたのではない」
〈現行の聖杯戦争規則には、両者を区別する項目がありません〉
切嗣が、わずかに口元を歪めた。
セイバーは何も言わなかった。
ここで笑えば、矛先が自分へ向くことを理解していた。
ギルガメッシュは聖杯を睨んだ。
だが、その目には殺意よりも呆れが勝っていた。
「よかろう。ならば貴様の退去処理など使わぬ」
別の黄金の波紋が開いた。
そこから現れたのは、武器ではなかった。
古びた門。神代の文字が刻まれた、王の帰還を示す門だった。
「戦場から追い返される者が敗者だ。我は我が道を通り、王の座へ帰る」
〈独立した帰還経路を確認しました〉
聖杯の光が一度、明滅する。
〈当該行為は、聖杯戦争機構による退去処理には該当しません。敗退記録は付与されません〉
「当然であろう」
〈ただし、遠坂時臣との契約終了処理は必要です〉
王は一瞬だけ聖杯を見た。
「……どこまでも律儀な器よな」
〈必要な処理です〉
ギルガメッシュは鼻を鳴らし、時臣へ向き直った。
「時臣。此度の契約は、これまでだ」
時臣は一瞬だけ目を伏せた。
そして、遠坂の当主としてではなく、一人の臣下として深く頭を下げた。
「承知いたしました。王よ」
〈両者の同意を確認。契約を終了します〉
令呪の残滓が、時臣の手から静かに消えていく。
ギルガメッシュは門の前に立ち、最後に一度だけ振り返った。
「ではな。時臣、切嗣、セイバー、そして凛」
黄金の王は笑った。
「次に我が見る時まで、せいぜい退屈させぬことだ」
そう言い残し、門の向こうへ歩いていく。
王が通り過ぎると、古い門は黄金の粒子となって崩れ、跡形もなく消えた。
〈ギルガメッシュの帰還を確認。敗退記録なし〉
聖杯の声だけが、念を押すように響いた。
遠くから、ギルガメッシュの笑い声が聞こえたような気がした。
残されたのは、待機へ戻った聖杯と、それぞれの願いの後始末を始める者たちだった。
凛が、もう一度時臣の袖を引く。
「お父様」
「ああ」
時臣は頷いた。
「帰ろう。桜のところへ」
凛は、今度こそ大きく頷いた。