優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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35.身長を伸ばしたい

 橋には、もう誰もいなかった。

 朝の風が吹いている。川面は何事もなかったように光り、夜の戦いも、砂漠も、王の軍勢も、黄金の王も、すべて夢だったように遠ざかっていた。

 

 ウェイバー・ベルベットは、橋の欄干にもたれたまま、しばらく動けなかった。

 ライダーはいない。

 見届けろ、と言った。泣くな、とも言った。

 いや、泣いてもよい、とも言った。

 勝手な王だった。

 

「……何を見届けろっていうんだよ」

 声は、風に消えた。

 橋の上には、もう誰もいない。

 ライダーはいない。王の軍勢もない。

 黄金の王も、あの眩い宝具も、朝の光の中では遠い夢のようだった。

 

 時計塔へ帰るのか。

 帰って、何を言えばいいのか。僕は聖杯戦争に参加しました。征服王イスカンダルを召喚しました。英雄王と戦いました。そして、負けました。

 

 それで終わりだ。

 何かを成し遂げたわけではない。

 聖杯を手に入れたわけでもない。

 ライダーに認められたのかどうかも、今となってはよく分からない。

 ただ、見届けろと言われた。

 だから、ここにいる。

 

 その時だった。

 目の前に、光が灯った。

 ウェイバーは飛び上がった。

 

「うわっ!?」

 光は人の形をしていない。

 杯でもない。

 ただ、澄んだ器の気配だけがそこにあった。

 

〈最終勝利者を確認しました〉

「は?」

 ウェイバーは固まった。

 

〈ウェイバー・ベルベット。あなたは最終勝利者として確定しています。願望を入力してください〉

「ちょ、ちょっと待て! 僕は負けたんだぞ! ライダーは消えた! 勝ってない!」

〈サーヴァントの消滅を確認しています〉

「だったら!」

〈マスター登録は残存しています〉

「それだけで勝ちなのかよ!」

〈他候補者の願望処理、辞退、保留、または対象外化を確認。未処理の願望権はあなたにのみ残存しています〉

「知らないよ! 僕は何も知らない!」

〈願望を入力してください〉

 

 ウェイバーは頭を抱えた。

 王の軍勢を見た。

 英雄王の裁定を見た。

 聖杯は本物らしい。

 きっと、世界を変えることだってできるのだろう。

 なのに。

 

「願いって……」

 最初に思い浮かんだものは、あまりにも情けなかった。

 時計塔で認められたい。家の名を見返したい。

 才能がないと言った連中に、思い知らせたい。

 それらの奥に、もっと小さくて、もっとくだらなくて、ずっと昔から引っかかっていたものがある。

 

 けれど、今ここで聖杯に叶えさせるものなのかと言われると、違う気がした。

 

 ライダーは、きっとそんなものを願うなと言う。

 いや、言わないかもしれない。

 あの王なら大笑いして、欲しいなら奪えと言うだけかもしれない。

 

「……別に、ない」

 ウェイバーは、目を逸らして言った。

 

〈願望者は本心を隠しています〉

「は?」

〈表明された回答と、持続的願望に不一致を確認しました〉

「何だお前、占い師か何かか!?」

〈願望照会機構です〉

「真面目に返すな!」

〈願望候補を照会します。承認欲求。能力証明。家格への反証。時計塔における評価上昇。身体的劣等感の補正〉

 

「やめろ! やめろやめろやめろ!」

 ウェイバーは顔を赤くした。

 

 今のはまずい。

 かなりまずい。

 最後の一つが、特にまずい。

 

〈身体的劣等感の補正について、持続性の高い願望反応を確認〉

「言うな!」

〈願望内容を確認します。身長の成長を希望しますか〉

「希望しない!」

 

〈回答と願望反応に不一致を確認〉

「だから嘘発見器みたいに言うな!」

〈願望処理には明示的承認が必要です。希望しますか〉

 

 ウェイバーは口を閉じた。

 希望しない。そう言えばいい。

 言えば、この話は終わる。終わるはずだった。

 だが、喉の奥から出てきた声は、あまりにも小さかった。

 

「……できるのかよ」

〈可能です〉

「本当に?」

〈肯定〉

「急に二メートルになるとか、そういうのじゃないだろうな」

〈急性変化は非推奨です。生命活動、人格、記憶、魔術回路、自己同一性を保持したうえで、生理的成長可能性の最大化、骨格成長促進、健康保持、将来的体格改善として処理できます〉

「妙にちゃんとしてる……」

 

〈具体条件を指定してください〉

 ウェイバーは、両手で顔を覆った。

 

 終わりだ。

 これは終わりだ。

 聖杯戦争に参加し、征服王イスカンダルを召喚し、最後に聖杯へ願うことが、これなのか。

 どこかで、ライダーの笑い声が聞こえた気がした。

 

「笑うなよ……」

 

〈具体条件を指定してください〉

「せめて、もう十センチくらい……いや、できれば、もう少し堂々と見えるくらいに」

〈条件を確認します。対象、ウェイバー・ベルベット。保持条件、生命活動、人格、記憶、魔術回路、自己同一性。変更対象、身長および体格印象。処理方法、急性変化ではなく、生理的成長可能性の最大化、骨格成長促進、健康保持、将来的体格改善〉

「待て。今のは、まだ」

 

〈最終確認です。願望処理を実行しますか〉

 ウェイバーは沈黙した。

 

 朝の風が吹いた。

 

 ライダーはいない。

 誰も笑っていない。

 誰も見ていない。

 

 それでも、見届けろと言われた自分が、こんな願いをするのかと思うと、情けなくて、少し泣きたくなった。

「……やれよ」

〈願望を受理しました〉

「ああ、もう! やれよ!」

 

 光が、静かに彼を包む。

 痛みはない。骨が軋むこともない。急に身体が伸びることもない。

 ただ、体の奥のどこかで、何かが少しだけ正しい方向へ押されたような感覚があった。

 

〈願望処理、完了〉

「完了って……」

〈即時の身長変化は発生しません。今後の成長過程において、指定条件に従い補正が発生します〉

 

 ウェイバーは呆然とした。

「つまり……これから伸びるのか?」

〈肯定〉

「本当に?」

〈肯定〉

 

 ウェイバーは、しばらく言葉を失った。

 やがて、顔を両手で覆う。

「僕は……聖杯で……身長を……」

 

 泣きそうなのか、笑いそうなのか、自分でも分からなかった。

 ただ、あの王なら腹を抱えて笑うだろうとは思った。

 そんなことで聖杯を使うのかと笑い、欲しいものを欲しいと言ったことは笑わない。

 

 声は聞こえない。

 ライダーはもういない。

 

 それでも、ウェイバーは空を見上げた。

 

「笑うなよ、ライダー」

 返事はない。

 ただ、朝風が吹いた。

 

 聖杯の声が、最後に響く。

〈全願望処理および待機確認を終了します。第四次聖杯戦争を終了します〉

 

 光が消えた。

 橋には、ウェイバーだけが残された。

 彼はしばらく立ち尽くし、それから小さく呟いた。

 

「……見届けたぞ」

 それが何を意味するのかは、まだ分からない。

 彼は歩き出した。少しだけ背筋を伸ばして。

 

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