橋には、もう誰もいなかった。
朝の風が吹いている。川面は何事もなかったように光り、夜の戦いも、砂漠も、王の軍勢も、黄金の王も、すべて夢だったように遠ざかっていた。
ウェイバー・ベルベットは、橋の欄干にもたれたまま、しばらく動けなかった。
ライダーはいない。
見届けろ、と言った。泣くな、とも言った。
いや、泣いてもよい、とも言った。
勝手な王だった。
「……何を見届けろっていうんだよ」
声は、風に消えた。
橋の上には、もう誰もいない。
ライダーはいない。王の軍勢もない。
黄金の王も、あの眩い宝具も、朝の光の中では遠い夢のようだった。
時計塔へ帰るのか。
帰って、何を言えばいいのか。僕は聖杯戦争に参加しました。征服王イスカンダルを召喚しました。英雄王と戦いました。そして、負けました。
それで終わりだ。
何かを成し遂げたわけではない。
聖杯を手に入れたわけでもない。
ライダーに認められたのかどうかも、今となってはよく分からない。
ただ、見届けろと言われた。
だから、ここにいる。
その時だった。
目の前に、光が灯った。
ウェイバーは飛び上がった。
「うわっ!?」
光は人の形をしていない。
杯でもない。
ただ、澄んだ器の気配だけがそこにあった。
〈最終勝利者を確認しました〉
「は?」
ウェイバーは固まった。
〈ウェイバー・ベルベット。あなたは最終勝利者として確定しています。願望を入力してください〉
「ちょ、ちょっと待て! 僕は負けたんだぞ! ライダーは消えた! 勝ってない!」
〈サーヴァントの消滅を確認しています〉
「だったら!」
〈マスター登録は残存しています〉
「それだけで勝ちなのかよ!」
〈他候補者の願望処理、辞退、保留、または対象外化を確認。未処理の願望権はあなたにのみ残存しています〉
「知らないよ! 僕は何も知らない!」
〈願望を入力してください〉
ウェイバーは頭を抱えた。
王の軍勢を見た。
英雄王の裁定を見た。
聖杯は本物らしい。
きっと、世界を変えることだってできるのだろう。
なのに。
「願いって……」
最初に思い浮かんだものは、あまりにも情けなかった。
時計塔で認められたい。家の名を見返したい。
才能がないと言った連中に、思い知らせたい。
それらの奥に、もっと小さくて、もっとくだらなくて、ずっと昔から引っかかっていたものがある。
けれど、今ここで聖杯に叶えさせるものなのかと言われると、違う気がした。
ライダーは、きっとそんなものを願うなと言う。
いや、言わないかもしれない。
あの王なら大笑いして、欲しいなら奪えと言うだけかもしれない。
「……別に、ない」
ウェイバーは、目を逸らして言った。
〈願望者は本心を隠しています〉
「は?」
〈表明された回答と、持続的願望に不一致を確認しました〉
「何だお前、占い師か何かか!?」
〈願望照会機構です〉
「真面目に返すな!」
〈願望候補を照会します。承認欲求。能力証明。家格への反証。時計塔における評価上昇。身体的劣等感の補正〉
「やめろ! やめろやめろやめろ!」
ウェイバーは顔を赤くした。
今のはまずい。
かなりまずい。
最後の一つが、特にまずい。
〈身体的劣等感の補正について、持続性の高い願望反応を確認〉
「言うな!」
〈願望内容を確認します。身長の成長を希望しますか〉
「希望しない!」
〈回答と願望反応に不一致を確認〉
「だから嘘発見器みたいに言うな!」
〈願望処理には明示的承認が必要です。希望しますか〉
ウェイバーは口を閉じた。
希望しない。そう言えばいい。
言えば、この話は終わる。終わるはずだった。
だが、喉の奥から出てきた声は、あまりにも小さかった。
「……できるのかよ」
〈可能です〉
「本当に?」
〈肯定〉
「急に二メートルになるとか、そういうのじゃないだろうな」
〈急性変化は非推奨です。生命活動、人格、記憶、魔術回路、自己同一性を保持したうえで、生理的成長可能性の最大化、骨格成長促進、健康保持、将来的体格改善として処理できます〉
「妙にちゃんとしてる……」
〈具体条件を指定してください〉
ウェイバーは、両手で顔を覆った。
終わりだ。
これは終わりだ。
聖杯戦争に参加し、征服王イスカンダルを召喚し、最後に聖杯へ願うことが、これなのか。
どこかで、ライダーの笑い声が聞こえた気がした。
「笑うなよ……」
〈具体条件を指定してください〉
「せめて、もう十センチくらい……いや、できれば、もう少し堂々と見えるくらいに」
〈条件を確認します。対象、ウェイバー・ベルベット。保持条件、生命活動、人格、記憶、魔術回路、自己同一性。変更対象、身長および体格印象。処理方法、急性変化ではなく、生理的成長可能性の最大化、骨格成長促進、健康保持、将来的体格改善〉
「待て。今のは、まだ」
〈最終確認です。願望処理を実行しますか〉
ウェイバーは沈黙した。
朝の風が吹いた。
ライダーはいない。
誰も笑っていない。
誰も見ていない。
それでも、見届けろと言われた自分が、こんな願いをするのかと思うと、情けなくて、少し泣きたくなった。
「……やれよ」
〈願望を受理しました〉
「ああ、もう! やれよ!」
光が、静かに彼を包む。
痛みはない。骨が軋むこともない。急に身体が伸びることもない。
ただ、体の奥のどこかで、何かが少しだけ正しい方向へ押されたような感覚があった。
〈願望処理、完了〉
「完了って……」
〈即時の身長変化は発生しません。今後の成長過程において、指定条件に従い補正が発生します〉
ウェイバーは呆然とした。
「つまり……これから伸びるのか?」
〈肯定〉
「本当に?」
〈肯定〉
ウェイバーは、しばらく言葉を失った。
やがて、顔を両手で覆う。
「僕は……聖杯で……身長を……」
泣きそうなのか、笑いそうなのか、自分でも分からなかった。
ただ、あの王なら腹を抱えて笑うだろうとは思った。
そんなことで聖杯を使うのかと笑い、欲しいものを欲しいと言ったことは笑わない。
声は聞こえない。
ライダーはもういない。
それでも、ウェイバーは空を見上げた。
「笑うなよ、ライダー」
返事はない。
ただ、朝風が吹いた。
聖杯の声が、最後に響く。
〈全願望処理および待機確認を終了します。第四次聖杯戦争を終了します〉
光が消えた。
橋には、ウェイバーだけが残された。
彼はしばらく立ち尽くし、それから小さく呟いた。
「……見届けたぞ」
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
彼は歩き出した。少しだけ背筋を伸ばして。