遠坂邸に戻った時、朝はもう始まっていた。
冬木の空は薄く白み、庭の木々には夜露が残っている。屋敷の中はまだ静かだった。だが、その静けさは眠りのものではない。誰かが息を潜めて待っている家の静けさだった。
時臣と凛の姿を見ると、彼女は一歩だけ前に出た。すぐには駆け寄らない。
「時臣さん」
声は静かだった。
だが、指先は胸の前で強く握られている。
「桜は……あの子に、会えるのですか」
時臣は答える前に、一度だけ目を伏せた。
昨夜の工房。
間桐の蟲。
聖杯の問い。
桜の黒い髪。
そのすべてを、今ここで葵へ投げ渡すことはできない。
だが、隠すことも、もうしない。
「今は眠っている」
時臣は言った。
「処置は終わった。すぐに触れられる状態ではないが、危険な山は越えた」
葵の顔がわずかに歪んだ。
安堵では足りない。
喜びにもまだ届かない。
けれど、崩れ落ちることだけはしなかった。
「……では、桜は」
「ああ」
時臣は頷いた。
「遠坂の家に戻った。まだ、すべてが終わったわけではないが」
時臣が続けると、葵は両手を胸の前で握った。
凛はもう我慢できなかった。
「お母様、桜、目を開けたんです。私のこと、呼んだんです」
「凛」
時臣が静かに制した。
凛は口をつぐんだ。
分かっている。
まだ、すべてが終わったわけではない。
葵は凛の前へ膝をつき、その頬に触れた。
「よく、待てたわね」
凛は、その一言で顔を歪めた。
「待ててないです。ずっと、行きたかったです」
「それでも、待ったのでしょう」
葵は凛を抱きしめた。
凛は母の肩に顔を押しつけた。泣き声は小さい。今度は無理に止めようとはしていなかった。
時臣は、その二人を見ていた。
以前の自分なら、何を言っただろうか。
礼節を保て。取り乱すな。遠坂の後継として。
今は、その言葉を選ばなかった。
「桜のところへ行こう」
時臣は言った。
離れの工房には、薄い香が漂っていた。
昨夜よりも空気は穏やかだった。結界の線はまだ床に淡く残っている。宝石は幾つか割れ、幾つかは新しい光を宿していた。王から下賜された小さな楔も、すでに結界の要へ組み込まれている。
中央の低い台に、桜が眠っていた。
顔色はまだ白いが、呼吸が違う。
昨夜までは、眠らされているようだった。
今は、眠っている。
その違いに、葵はすぐ気づいた。
「桜……」
葵が一歩進みかける。
凛がその袖を掴んだ。
「お母様。まだ、駄目です」
葵は足を止めた。
凛の方が泣きそうな顔をしているが、その手は母を止めていた。
「そうね」
葵は小さく頷いた。
「ありがとう、凛」
凛は首を振った。
「私も、行きたいです」
「ええ」
「でも、まだ駄目です」
「ええ」
葵は凛の手を握り返した。
時臣は結界の前で膝をつき、桜の状態を確認した。魔力の流れは乱れていない。外部からの命令もない。監視の目も、追跡の糸も、臓硯へ戻ろうとする経路もない。
残ったものは多い。
傷。侵食痕。記憶。恐怖。
だが、それらは桜から切り離された異物ではない。これから桜自身の時間の中で、少しずつ扱わなければならないものだった。
「お父様」
凛が聞いた。
「桜に、声をかけてもいいですか」
「大きな声でなければ」
凛は結界の外に膝をついた。
「桜」
小さな声だった。
「私、ここにいるよ」
桜のまぶたが、かすかに震えた。
葵が息を止める。
時臣も、動かなかった。
ゆっくりと、桜の目が開いた。
焦点はまだ合っていない。だが、間桐から連れ帰った時のような空っぽの目ではなかった。
「……お姉、さま」
凛は両手で口を押さえた。
声を上げないために。
「うん。いる。私、ここにいる」
桜の目が、少しだけ動く。
「……お母、様」
葵の肩が震えた。
「ここにいるわ、桜」
葵は結界の外で膝をついた。
「触れられないけれど、ここにいるわ」
桜はそれを聞いたのか、聞けなかったのか分からない。だが、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
最後に、桜の視線が時臣を探すように揺れた。
時臣は、少しだけ迷った。
何と呼ばれるべきか。
何と名乗るべきか。
遠坂の当主。桜を間桐へ出した父。桜を連れ戻した者。
どれも正しい。どれも足りない。
「桜」
時臣は言った。
「ここは遠坂の家だ」
桜の目が、わずかに動いた。
「しばらく、ここで休みなさい」
帰ってきた、と言うには早い。
一時保全、と言うにはあまりに冷たい。
だから、時臣はそのどちらも言わなかった。
「誰にも、お前を連れて行かせない」
桜は目を閉じた。
そのまま、深く息をした。
眠りに戻っていく。
凛は結界の外に座ったまま、何度も涙を拭った。
葵は、眠る桜を見ていた。
白い頬。
細い指。
まだ熱の戻りきらない呼吸。
そして、黒い髪。
「時臣さん」
葵は、眠る桜から目を逸らさないまま言った。
「あの子の髪は……戻ったのですね」
時臣はすぐには答えなかった。
結界の向こうで眠る娘の髪は、葵の知る黒に戻っている。
凛の隣に並んでいた頃の色。
葵が櫛を通し、桜が少し照れたように笑っていた頃の色だった。
「あの子は一度、違う色になっていたのでしょう」
「ああ」
「それも、魔術だったのですか」
「間桐の処置によるものだ。魔術と言っていい」
葵の指が、凛の手をわずかに握った。
「では、戻したのも魔術なのですか」
時臣は目を閉じた。
魔術師でない妻へ、どこまで語るべきか。
遠坂の秘奥に関わることを、どこまで見せるべきか。
昨日までの自分なら、そこで線を引いただろう。
だが、王は言った。
目を逸らすな、と。
それは桜だけを見るという意味ではない。
葵に見せないままにすることも、同じ逃避なのだと、今なら分かる。
「違う」
時臣は答えた。
「少なくとも、私が術式として行使した魔術ではない。遠坂の魔術でもない」
「では、何なのですか」
「聖杯による処理だ」
葵は、すぐには頷かなかった。
「聖杯とは、何なのですか」
静かな問いだった。
責める声ではない。ただ、本当に知らないものを聞く声だった。
「あなたが参加していた聖杯戦争というものが、何を巡る戦いだったのか。私は、きちんと聞いたことがありません」
凛も、黙って父を見ていた。
時臣は小さく息を吐いた。
「……そうだな。私は、君に説明していなかった」
その事実を、今さらのように認める。
「聖杯戦争とは、冬木の霊地を用いて行われる儀式だ。七人の魔術師が、七騎の英霊を召喚し、互いに争う。最後に残った者が、願望器である聖杯へ至る」
「願望器」
「願いを叶える器、とされている」
葵は、眠る桜を見た。
「それが、桜を戻したのですか」
「そう理解している」
時臣は、断言しなかった。
「ただし、昨夜の聖杯は、私が知っていた聖杯とは違った。ただ願いを叶える器ではない。願いの内容を問い、条件を確認し、何を守るべきかを定めさせた」
「問い返してきたのですか」
「ああ」
時臣は頷いた。
「桜をただ元に戻せ、と願えば済むものではなかった。どの状態を桜自身のものと見なし、何を外から加えられた変質とするのか。何を残し、何を取り除くのか。それを問われた」
葵は少し眉を寄せた。
「……難しいのですね」
「難しい。私にも、すべては分かっていない」
時臣は認めた。
凛が小さく目を見開いた。
父が、分からないと言ったことに驚いたのだろう。
時臣は結界の線、割れた宝石、眠る桜、そしてその黒い髪へと視線を移した。
魔術師が秘匿のために語るのではない。
夫が妻へ、父が娘へ、分かる限りを説明するために語るのだ。
「魔術とは、世界へ働きかける技術だ」
時臣は言った。
「髪の色を変える。肉体を変質させる。そうした干渉は、難度の差こそあれ、魔術の領分にある」
葵は黙って聞いている。
凛もまた、父の言葉を逃すまいとしていた。
「だが、戻すという行為は、ただ逆向きに術をかけることではない」
時臣は、静かに桜を見た。
「何を歪みとし、何を本人の一部とするのか。何を取り除き、何を残すのか。それを誤れば、戻すという名で、別の破壊を加えることになる」
葵の指が、凛の手を強く握った。
「だから、桜の髪が戻ったことを、私はただ魔術で治したとは言えない。あれは、聖杯による願望処理だ。私にも、すべてを説明できるものではない」
葵は、ゆっくり頷いた。
「分かります」
時臣が彼女を見る。
「壊すより、直す方が難しい。汚すより、元に戻す方が難しい。魔術のことは分かりません。でも、それくらいは分かります」
「……そうだな」
時臣は静かに言った。
「その通りだ」
葵は、眠る桜を見ている。
「では、桜は元に戻ったのですか」
時臣はすぐに頷かなかった。
その沈黙に、葵は答えを悟ったようだった。
「髪の色が戻っても、それだけではないのですね」
「ああ」
時臣は言った。
「桜の肉体は、桜として保たれた。間桐に奪われかけたものも、多くは取り戻された。だが、すべてが何もなかったことになったわけではない」
傷。
記憶。
恐怖。
侵食の痕。
それらは、桜から切り離して捨てれば済むものではない。
「これから、桜自身の時間の中で扱わなければならないものが残っている」
葵は目を伏せた。
「それを、私は知らずにいてはいけないのですね」
「葵」
「魔術師の妻だから、知らない方がいいことがある。見ない方がいいことがある。そう思っていました」
葵の声は震えていた。
けれど、逃げてはいなかった。
「でも、私は母です。凛と桜の母です。魔術のすべては分からなくても、あの子たちに何が起きているのかを、分からないままにしてはいけないのですね」
時臣は深く息をした。
「私も、君を遠ざけることが家を守ることだと考えていた」
「はい」
「だが、それは違った」
時臣は、葵を見た。
「これからは話そう。私に分かる範囲で。分からないことは、分からないと言う。そのうえで、分かるよう努める」
葵は少しだけ驚いたように時臣を見た。
それから、静かに頷いた。
「お願いします」
凛は、二人の間で黙っていた。
父が分からないと言ったこと。
母が知ろうとしていること。
そのどちらも、凛にはまだうまく飲み込めない。
それでも、何かが変わり始めていることだけは分かった。
葵は凛の手を握り直した。
「凛」
「はい」
「あなたが学ぶことを、私は全部は分かってあげられないかもしれない」
「お母様」
「でも、分からないから見ない、とはもう言わないわ」
凛の目が、また潤んだ。
「はい」
小さくとも、確かに、凛は頷いた。
凛は結界の外に座ったまま、何度も涙を拭った。
「お父様」
「何だ」
「ここにいてもいいですか」
「少しだけなら」
「少しだけ、たくさんでもいいですか」
時臣は一瞬、答えに詰まった。
葵が静かに笑った。
時臣は咳払いをする。
「……今日は、少しだけ多めに許可しよう」
凛は小さく頷いた。
その返事は、遠坂の後継としてではなかった。
ただの姉としてだった。
*
その後、時臣は一人で書斎に入った。
机の上には、白紙の書類がいくつも置かれている。
間桐家との養子契約。
契約履行違反の記録。
桜の術式痕の保全。
雁夜の証言と身体状態。
間桐邸での妨害行為。
聖堂教会へ提出する最小限の報告。
魔術協会へ見せるべきものと、見せてはならないもの。
やるべきことは山ほどあった。
遠坂邸の奥には、すでに新しい蔵がある。
誰も知らなかった空間。
外からは見えず、内から腐らず、時臣と娘たちにだけ開く場所。
王の下賜した宝石、金塊、封具、記録具。
あれは富ではない。
娘たちを守るための戦費だった。
時臣はペンを取った。
最初の一枚に、契約履行違反の見出しを書く。
次に、保護対象の名を書く。
遠坂凛。
そこで一度、筆が止まった。
そして、続けた。
遠坂桜。
その字を見て、時臣はしばらく動かなかった。
まだ手続きは終わっていない。
間桐は黙っていない。協会も教会も、単純な味方ではない。
聖杯もまた、完全に消えたわけではない。
何も終わってはいない。
それでも、彼はその名を書いた。
資質としてではない。
契約上の対象としてでもない。
娘の名として。
扉の外から、小さな足音が聞こえた。
「お父様」
凛だった。
「桜は?」
「眠っている」
「お母様も?」
「桜のそばにいる」
凛は少し安心したように息を吐いた。
それから、机の上の紙を見る。
「それは、桜のことですか」
「ああ」
「私にも、いつか読めますか」
時臣は凛を見た。
以前なら、まだ早いと言ったかもしれない。
今も、まだ早い。
だが、それだけでは足りなかった。
「読めるようになりなさい」
凛は目を丸くした。
「教えてくれるのですか」
「教える。だが、簡単ではない」
「分かっています」
「本当に分かっているのか」
「全部は分かっていません。でも、分からないなら勉強します」
時臣は少しだけ目を伏せた。
そして頷く。
「ならば、学びなさい」
凛の顔に、ほんの少しだけ力が戻った。
「はい」
時臣は、机の上の書類を整えた。
朝の光が、窓から差し込んでくる。
その光は、工房の冷えた空気にも、書斎の紙にも、廊下の向こうで眠る桜にも、同じように落ちていた。
遠坂家の朝は、いつも通りではなかったが、それでも朝だった。
時臣はもう一度、紙に書かれた二つの名を見た。
遠坂凛。
遠坂桜。
そして、静かにペンを置いた。