優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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36.遠坂邸の朝

 遠坂邸に戻った時、朝はもう始まっていた。

 冬木の空は薄く白み、庭の木々には夜露が残っている。屋敷の中はまだ静かだった。だが、その静けさは眠りのものではない。誰かが息を潜めて待っている家の静けさだった。

 

 時臣と凛の姿を見ると、彼女は一歩だけ前に出た。すぐには駆け寄らない。

「時臣さん」

 声は静かだった。

 だが、指先は胸の前で強く握られている。

 

「桜は……あの子に、会えるのですか」

 時臣は答える前に、一度だけ目を伏せた。

 昨夜の工房。

 間桐の蟲。

 聖杯の問い。

 桜の黒い髪。

 

 そのすべてを、今ここで葵へ投げ渡すことはできない。

 だが、隠すことも、もうしない。

 

「今は眠っている」

 時臣は言った。

「処置は終わった。すぐに触れられる状態ではないが、危険な山は越えた」

 

 葵の顔がわずかに歪んだ。

 安堵では足りない。

 喜びにもまだ届かない。

 けれど、崩れ落ちることだけはしなかった。

 

「……では、桜は」

「ああ」

 時臣は頷いた。

「遠坂の家に戻った。まだ、すべてが終わったわけではないが」

 

 時臣が続けると、葵は両手を胸の前で握った。

 凛はもう我慢できなかった。

 

「お母様、桜、目を開けたんです。私のこと、呼んだんです」

「凛」

 時臣が静かに制した。

 凛は口をつぐんだ。

 分かっている。

 まだ、すべてが終わったわけではない。

 

 葵は凛の前へ膝をつき、その頬に触れた。

「よく、待てたわね」

 凛は、その一言で顔を歪めた。

「待ててないです。ずっと、行きたかったです」

「それでも、待ったのでしょう」

 

 葵は凛を抱きしめた。

 凛は母の肩に顔を押しつけた。泣き声は小さい。今度は無理に止めようとはしていなかった。

 

 時臣は、その二人を見ていた。

 以前の自分なら、何を言っただろうか。

 礼節を保て。取り乱すな。遠坂の後継として。

 今は、その言葉を選ばなかった。

 

「桜のところへ行こう」

 時臣は言った。

     

 離れの工房には、薄い香が漂っていた。

 昨夜よりも空気は穏やかだった。結界の線はまだ床に淡く残っている。宝石は幾つか割れ、幾つかは新しい光を宿していた。王から下賜された小さな楔も、すでに結界の要へ組み込まれている。

 

 中央の低い台に、桜が眠っていた。

 顔色はまだ白いが、呼吸が違う。

 昨夜までは、眠らされているようだった。

 今は、眠っている。

 その違いに、葵はすぐ気づいた。

 

「桜……」

 葵が一歩進みかける。

 凛がその袖を掴んだ。

「お母様。まだ、駄目です」

 

 葵は足を止めた。

 凛の方が泣きそうな顔をしているが、その手は母を止めていた。

「そうね」

 葵は小さく頷いた。

「ありがとう、凛」

 

 凛は首を振った。

「私も、行きたいです」

「ええ」

「でも、まだ駄目です」

「ええ」

 葵は凛の手を握り返した。

 

 時臣は結界の前で膝をつき、桜の状態を確認した。魔力の流れは乱れていない。外部からの命令もない。監視の目も、追跡の糸も、臓硯へ戻ろうとする経路もない。

 残ったものは多い。

 傷。侵食痕。記憶。恐怖。

 だが、それらは桜から切り離された異物ではない。これから桜自身の時間の中で、少しずつ扱わなければならないものだった。

 

「お父様」

 凛が聞いた。

「桜に、声をかけてもいいですか」

「大きな声でなければ」

 凛は結界の外に膝をついた。

 

「桜」

 小さな声だった。

「私、ここにいるよ」

 桜のまぶたが、かすかに震えた。

 

 葵が息を止める。

 時臣も、動かなかった。

 ゆっくりと、桜の目が開いた。

 焦点はまだ合っていない。だが、間桐から連れ帰った時のような空っぽの目ではなかった。

 

「……お姉、さま」

 凛は両手で口を押さえた。

 声を上げないために。

「うん。いる。私、ここにいる」

 

 桜の目が、少しだけ動く。

「……お母、様」

 葵の肩が震えた。

「ここにいるわ、桜」

 葵は結界の外で膝をついた。

「触れられないけれど、ここにいるわ」

 桜はそれを聞いたのか、聞けなかったのか分からない。だが、ほんの少しだけ口元が緩んだ。

 

 最後に、桜の視線が時臣を探すように揺れた。

 時臣は、少しだけ迷った。

 何と呼ばれるべきか。

 何と名乗るべきか。

 遠坂の当主。桜を間桐へ出した父。桜を連れ戻した者。

 どれも正しい。どれも足りない。

 

「桜」

 時臣は言った。

「ここは遠坂の家だ」

 桜の目が、わずかに動いた。

「しばらく、ここで休みなさい」

 

 帰ってきた、と言うには早い。

 一時保全、と言うにはあまりに冷たい。

 だから、時臣はそのどちらも言わなかった。

 

「誰にも、お前を連れて行かせない」

 

 桜は目を閉じた。

 そのまま、深く息をした。

 眠りに戻っていく。

 

 凛は結界の外に座ったまま、何度も涙を拭った。

 葵は、眠る桜を見ていた。

 

 白い頬。

 細い指。

 まだ熱の戻りきらない呼吸。

 そして、黒い髪。

 

「時臣さん」

 葵は、眠る桜から目を逸らさないまま言った。

「あの子の髪は……戻ったのですね」

 

 時臣はすぐには答えなかった。

 結界の向こうで眠る娘の髪は、葵の知る黒に戻っている。

 凛の隣に並んでいた頃の色。

 葵が櫛を通し、桜が少し照れたように笑っていた頃の色だった。

 

「あの子は一度、違う色になっていたのでしょう」

「ああ」

「それも、魔術だったのですか」

「間桐の処置によるものだ。魔術と言っていい」

 

 葵の指が、凛の手をわずかに握った。

「では、戻したのも魔術なのですか」

 

 時臣は目を閉じた。

 魔術師でない妻へ、どこまで語るべきか。

 遠坂の秘奥に関わることを、どこまで見せるべきか。

 昨日までの自分なら、そこで線を引いただろう。

 

 だが、王は言った。

 目を逸らすな、と。

 それは桜だけを見るという意味ではない。

 葵に見せないままにすることも、同じ逃避なのだと、今なら分かる。

 

「違う」

 時臣は答えた。

「少なくとも、私が術式として行使した魔術ではない。遠坂の魔術でもない」

「では、何なのですか」

「聖杯による処理だ」

 

 葵は、すぐには頷かなかった。

「聖杯とは、何なのですか」

 静かな問いだった。

 責める声ではない。ただ、本当に知らないものを聞く声だった。

 

「あなたが参加していた聖杯戦争というものが、何を巡る戦いだったのか。私は、きちんと聞いたことがありません」

 凛も、黙って父を見ていた。

 時臣は小さく息を吐いた。

 

「……そうだな。私は、君に説明していなかった」

 その事実を、今さらのように認める。

「聖杯戦争とは、冬木の霊地を用いて行われる儀式だ。七人の魔術師が、七騎の英霊を召喚し、互いに争う。最後に残った者が、願望器である聖杯へ至る」

「願望器」

「願いを叶える器、とされている」

 

 葵は、眠る桜を見た。

「それが、桜を戻したのですか」

「そう理解している」

 時臣は、断言しなかった。

 

「ただし、昨夜の聖杯は、私が知っていた聖杯とは違った。ただ願いを叶える器ではない。願いの内容を問い、条件を確認し、何を守るべきかを定めさせた」

「問い返してきたのですか」

「ああ」

 時臣は頷いた。

 

「桜をただ元に戻せ、と願えば済むものではなかった。どの状態を桜自身のものと見なし、何を外から加えられた変質とするのか。何を残し、何を取り除くのか。それを問われた」

 葵は少し眉を寄せた。

「……難しいのですね」

「難しい。私にも、すべては分かっていない」

 時臣は認めた。

 

 凛が小さく目を見開いた。

 父が、分からないと言ったことに驚いたのだろう。

 時臣は結界の線、割れた宝石、眠る桜、そしてその黒い髪へと視線を移した。

 魔術師が秘匿のために語るのではない。

 夫が妻へ、父が娘へ、分かる限りを説明するために語るのだ。

 

「魔術とは、世界へ働きかける技術だ」

 時臣は言った。

「髪の色を変える。肉体を変質させる。そうした干渉は、難度の差こそあれ、魔術の領分にある」

 

 葵は黙って聞いている。

 凛もまた、父の言葉を逃すまいとしていた。

「だが、戻すという行為は、ただ逆向きに術をかけることではない」

 

 時臣は、静かに桜を見た。

「何を歪みとし、何を本人の一部とするのか。何を取り除き、何を残すのか。それを誤れば、戻すという名で、別の破壊を加えることになる」

 葵の指が、凛の手を強く握った。

「だから、桜の髪が戻ったことを、私はただ魔術で治したとは言えない。あれは、聖杯による願望処理だ。私にも、すべてを説明できるものではない」

 

 葵は、ゆっくり頷いた。

「分かります」

 時臣が彼女を見る。

「壊すより、直す方が難しい。汚すより、元に戻す方が難しい。魔術のことは分かりません。でも、それくらいは分かります」

「……そうだな」

 時臣は静かに言った。

「その通りだ」

 

 葵は、眠る桜を見ている。

「では、桜は元に戻ったのですか」

 時臣はすぐに頷かなかった。

 その沈黙に、葵は答えを悟ったようだった。

 

「髪の色が戻っても、それだけではないのですね」

「ああ」

 時臣は言った。

「桜の肉体は、桜として保たれた。間桐に奪われかけたものも、多くは取り戻された。だが、すべてが何もなかったことになったわけではない」

 

 傷。

 記憶。

 恐怖。

 侵食の痕。

 それらは、桜から切り離して捨てれば済むものではない。

 

「これから、桜自身の時間の中で扱わなければならないものが残っている」

 葵は目を伏せた。

「それを、私は知らずにいてはいけないのですね」

「葵」

「魔術師の妻だから、知らない方がいいことがある。見ない方がいいことがある。そう思っていました」

 葵の声は震えていた。

 けれど、逃げてはいなかった。

 

「でも、私は母です。凛と桜の母です。魔術のすべては分からなくても、あの子たちに何が起きているのかを、分からないままにしてはいけないのですね」

 時臣は深く息をした。

「私も、君を遠ざけることが家を守ることだと考えていた」

「はい」

「だが、それは違った」

 

 時臣は、葵を見た。

「これからは話そう。私に分かる範囲で。分からないことは、分からないと言う。そのうえで、分かるよう努める」

 葵は少しだけ驚いたように時臣を見た。

 それから、静かに頷いた。

「お願いします」

 

 凛は、二人の間で黙っていた。

 父が分からないと言ったこと。

 母が知ろうとしていること。

 そのどちらも、凛にはまだうまく飲み込めない。

 それでも、何かが変わり始めていることだけは分かった。

 

 葵は凛の手を握り直した。

「凛」

「はい」

「あなたが学ぶことを、私は全部は分かってあげられないかもしれない」

「お母様」

「でも、分からないから見ない、とはもう言わないわ」

 凛の目が、また潤んだ。

「はい」

 小さくとも、確かに、凛は頷いた。

 凛は結界の外に座ったまま、何度も涙を拭った。

 

「お父様」

「何だ」

「ここにいてもいいですか」

「少しだけなら」

「少しだけ、たくさんでもいいですか」

 

 時臣は一瞬、答えに詰まった。

 葵が静かに笑った。

 時臣は咳払いをする。

「……今日は、少しだけ多めに許可しよう」

 凛は小さく頷いた。

 その返事は、遠坂の後継としてではなかった。

 ただの姉としてだった。

 

     *

 

 その後、時臣は一人で書斎に入った。

 机の上には、白紙の書類がいくつも置かれている。

 間桐家との養子契約。

 契約履行違反の記録。

 桜の術式痕の保全。

 雁夜の証言と身体状態。

 間桐邸での妨害行為。

 聖堂教会へ提出する最小限の報告。

 魔術協会へ見せるべきものと、見せてはならないもの。

 

 やるべきことは山ほどあった。

 遠坂邸の奥には、すでに新しい蔵がある。

 誰も知らなかった空間。

 外からは見えず、内から腐らず、時臣と娘たちにだけ開く場所。

 王の下賜した宝石、金塊、封具、記録具。

 あれは富ではない。

 娘たちを守るための戦費だった。

 

 時臣はペンを取った。

 最初の一枚に、契約履行違反の見出しを書く。

 次に、保護対象の名を書く。

 

 遠坂凛。

 そこで一度、筆が止まった。

 

 そして、続けた。

 遠坂桜。

 その字を見て、時臣はしばらく動かなかった。

 

 まだ手続きは終わっていない。

 間桐は黙っていない。協会も教会も、単純な味方ではない。

 聖杯もまた、完全に消えたわけではない。

 何も終わってはいない。

 

 それでも、彼はその名を書いた。

 資質としてではない。

 契約上の対象としてでもない。

 娘の名として。

 

 扉の外から、小さな足音が聞こえた。

「お父様」

 凛だった。

「桜は?」

「眠っている」

「お母様も?」

「桜のそばにいる」

 

 凛は少し安心したように息を吐いた。

 それから、机の上の紙を見る。

「それは、桜のことですか」

「ああ」

「私にも、いつか読めますか」

 

 時臣は凛を見た。

 以前なら、まだ早いと言ったかもしれない。

 今も、まだ早い。

 だが、それだけでは足りなかった。

 

「読めるようになりなさい」

 凛は目を丸くした。

「教えてくれるのですか」

「教える。だが、簡単ではない」

「分かっています」

「本当に分かっているのか」

「全部は分かっていません。でも、分からないなら勉強します」

 

 時臣は少しだけ目を伏せた。

 そして頷く。

「ならば、学びなさい」

 凛の顔に、ほんの少しだけ力が戻った。

「はい」

 

 時臣は、机の上の書類を整えた。

 朝の光が、窓から差し込んでくる。

 その光は、工房の冷えた空気にも、書斎の紙にも、廊下の向こうで眠る桜にも、同じように落ちていた。

 

 遠坂家の朝は、いつも通りではなかったが、それでも朝だった。

 時臣はもう一度、紙に書かれた二つの名を見た。

 

 遠坂凛。

 遠坂桜。

 

 そして、静かにペンを置いた。

 

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