優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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37.切嗣とアイリ

 アインツベルンの城へ戻った時、切嗣はしばらく扉の前で立ち止まった。

 部屋の中には、アイリスフィールがいる。

 小聖杯としてではなく、アイリスフィールとして残されたはずの女が。

 

 セイバーは、少し離れたところで足を止めた。

「私は、ここで待ちます」

 切嗣は振り返らなかった。

「……ああ」

「切嗣」

 

 呼び止められて、彼はようやく少しだけ顔を向けた。

 セイバーは、いつものように厳しい顔をしていた。その目には先ほどまでとは違うものがあった。

「彼女に、言うべきことを言ってください」

 切嗣は返事をしなかった。

 ただ、扉へ手をかけた。

 

 部屋の中は白かった。

 白い壁、白い寝台、白いカーテン。

 その白さの中で、アイリスフィールは眠っていた。

 

 切嗣は、寝台のそばへ歩いた。

 足音を立てないように、ではない。足音を立てるだけの力が、自分に残っていないように感じた。

 アイリの胸は、ゆっくりと上下している。

 呼吸をしている。

 それだけのことを確認するのに、切嗣はひどく長い時間を使った。

 

「……アイリ」

 小さく呼ぶ。

 返事はない。

 切嗣は椅子に座り、彼女の手を取った。冷たい。だが、死者の冷たさではない。

 そのことに、胸の奥が痛んだ。

 

 聖杯は言った。

 生命活動、人格、記憶、自由意思、保持。

 小聖杯機能および英霊魂保持機能、大聖杯側の代替保持領域へ移管。

 

 その言葉を、彼は信じきれていなかった。

 願いが叶うところを見た。

 桜が桜のまま残されたところを見た。

 

 それでも、自分の目でアイリを見るまでは、信じられなかった。

「切嗣……?」

 かすれた声がした。

 

 切嗣は顔を上げる。

 アイリスフィールが、薄く目を開けていた。

 焦点はすぐには合わないが、その目は彼を探していた。

 

「ここにいる」

 切嗣は言った。

 アイリは、少しだけ笑った。

「帰ってきたのね」

「ああ」

「聖杯は?」

 

 切嗣は答えに迷った。

 壊れてはいなかった。だが、汚れていた。泥を分けた。器は目を覚ました。

 凛の願いを叶えた。

 自分も願った。

 そのどれから話せばいいのか分からなかった。

 

「使わなかった」

 まず、そう言った。

「世界を救うためには」

 

 アイリは静かに瞬きをした。

「そう」

 驚きはなかった。

 彼女は最初から知っていたのかもしれない。

 

 切嗣が本当に欲しかったものと、聖杯へ投げ込もうとしていたものが、同じ形をしていなかったことを。

 

「でも」

 切嗣は、彼女の手を握る力を少しだけ強めた。

「君を、願った」

 

 アイリの目が揺れた。

「私を?」

「君と、イリヤを」

 

 切嗣は言葉を選んだ。

 逃げないように。

 作戦報告のようにしないように。

 

「君を、小聖杯としての機能と、アインツベルンの所有、命令、設計目的から切り離した。人として、もう一度動ける状態へ戻した」

 アイリは黙って聞いている。

「イリヤも、次代の器として開かれる機能と、強制命令系から切り離した。ただし、聖杯が決めたのはそこまでだ」

「そこまで?」

「ああ。君が僕を許すかどうかも、イリヤが僕を父と呼ぶかどうかも、聖杯には決めさせていない。二人が自分で選べる状態に戻しただけだ」

 切嗣の声は低かった。

「それでも、君は君のままだ。イリヤも、イリヤのままだ」

 

 アイリはしばらく何も言わなかった。

 やがて、ゆっくりと息を吐いた。

 

「そう」

 その一言の中に、ひどく多くのものがあった。

 安堵。悲しみ。少しの怒り。

 そして、まだ生きていることへの戸惑い。

 

「イリヤは?」

「迎えに行く」

 切嗣は即答した。

 

 アイリは、しばらく黙っていた。

「……あの子は、もう器ではないのね」

「ああ」

「次の聖杯としての機能も」

「切り離した」

 アイリの目が、わずかに揺れた。

 

 安堵だけではなかった。

 そこには、別の怖れがあった。

 

「なら、アインツベルンは……あの子を、どう見るのかしら」

 

 切嗣は答えられなかった。

「連れ戻そうとするかもしれない」

「ええ」

 アイリは静かに言った。

 

「でも、そうではないかもしれない。聖杯の器でなくなったイリヤを、あの城がイリヤとして見てくれるのか、私には分からない」

 切嗣の手が、わずかに強く握られる。

 

「迎えに行く」

 彼はもう一度言った。

 

「連れ戻すためじゃない。あの子が、自分でどこへ行くかを選べるようにするために」

「戦うの?」

 切嗣は、そこで少しだけ黙った。

 

 以前なら、当然のように答えたかもしれない。

 必要なら殺す。障害は排除する。それが最短なら、そうする。

 だが、聖杯の声がまだ耳に残っていた。

 

〈殺害を第一選択とする行動原理を停止してください〉

 

「戦う前に、やれることをやる」

 切嗣は言った。

「逃げ道を作る。協力者を雇う。証拠を残す。交渉する。封じる。必要な腕を買う。必要なら、最後に戦う」

 

 アイリは、少し不思議そうに彼を見た。

「切嗣が、そんなことを言うのね」

「聖杯に言われた」

「聖杯に?」

「救済の名で人を殺さないためには、そうしろと」

 

 アイリは、ほんの少しだけ笑った。

「ずいぶん厳しい聖杯ね」

「ああ」

 切嗣は目を伏せた。

 

「容赦がなかった」

 アイリは彼の手を握り返した。

 力は弱い。それでも、確かに握り返した。

 

「切嗣」

「何だ」

「私は、嬉しいわ」

 

 切嗣は顔を上げた。

「世界を救えなかったことが?」

「いいえ」

 

 アイリは首を横に振った。

「あなたが、私とイリヤを願ってくれたことが」

 

 切嗣の顔が歪んだ。

 言葉が出ない。

 

「僕は」

 ようやく出た声は、ひどく掠れていた。

 

「君を、最初から道具にしていた」

「知っているわ」

「イリヤも、置いてきた」

「それも知っている」

「僕は、君に謝る資格もない」

「それは違うわ」

 

 アイリは静かに言った。

「謝る資格がないんじゃない。謝って終わりにする資格がないの」

 

 切嗣は息を止めた。

 アイリは、弱った身体のまま、それでもはっきりと彼を見ていた。

 

「謝るなら、これから何度でも謝って。イリヤにも。私にも。セイバーにも。舞弥にも。あなたが傷つけた人たちに、全部は無理でも、できるだけ」

「……ああ」

「それで、生きて」

 

 切嗣の手が震えた。

「聖杯にも言われた」

「そう」

「生存は免罪ではない。責任継続の条件だと」

 

 アイリは目を細めた。

「本当に厳しい聖杯ね」

「アーチャーも笑っていた」

「でしょうね」

 

 アイリは少しだけ笑った。

 その笑みは疲れていたが、確かに彼女のものだった。

 

 切嗣は、懐に手を入れる。

 黒い札が指先に触れた。黄金の王から渡された、奇妙なカード。

 宿、輸送、医療、支払い、物資。必要な場所で必要な手続きを通す、信用そのもののような宝具。

 

「これをもらった」

 切嗣はカードを見せた。

 アイリは瞬きをする。

「何、それ」

「アーチャーが、行き掛けの駄賃だと」

「まあ」

 アイリは本当に少しだけ楽しそうに笑った。

 

「王様って、変なものをくれるのね」

「僕にはこっちの方が使いやすいと言っていた」

「分かっているのね」

「王は臣下のことがよく分かっているものだそうだ」

「あなた、臣下になったの?」

「なっていない」

 切嗣は即座に答えた。

 

 アイリはまた笑った。

 その笑い声は小さく、すぐに咳へ変わった。

 切嗣は慌てて身体を支えようとする。

 

「大丈夫」

「休んだ方がいい」

「ええ。でも、もう少しだけ」

 

 アイリは切嗣を見た。

「セイバーは?」

「外にいる。イリヤを守るために残った」

「彼女にも、ちゃんと話して」

「分かっている」

「本当に?」

「……努力する」

 

 アイリは微笑んだ。

「それ、あなたにしてはいい返事ね」

 切嗣は何も言えなかった。

 

 窓の外は白み始めている。

 冬木の朝が、城の白い部屋へ差し込んでいた。

 聖杯戦争は終わった。

 世界は救われていない。

 

 だが、アイリスフィールは生きている。

 イリヤスフィールを迎えに行く道が、まだ残っている。

 切嗣はアイリの手を握ったまま、低く言った。

 

「アイリ」

「なあに」

「君を連れて帰りたい」

 

 アイリは、目を細めた。

「やっと、そう言ってくれたのね」

 

 切嗣は答えなかった。

 答えられなかった。

 ただ、彼女の手を握っていた。

 

 それは救いではない。

 免罪でもない。

 これから背負うものが、初めて彼の手の中にあった。

 

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