アインツベルンの城へ戻った時、切嗣はしばらく扉の前で立ち止まった。
部屋の中には、アイリスフィールがいる。
小聖杯としてではなく、アイリスフィールとして残されたはずの女が。
セイバーは、少し離れたところで足を止めた。
「私は、ここで待ちます」
切嗣は振り返らなかった。
「……ああ」
「切嗣」
呼び止められて、彼はようやく少しだけ顔を向けた。
セイバーは、いつものように厳しい顔をしていた。その目には先ほどまでとは違うものがあった。
「彼女に、言うべきことを言ってください」
切嗣は返事をしなかった。
ただ、扉へ手をかけた。
部屋の中は白かった。
白い壁、白い寝台、白いカーテン。
その白さの中で、アイリスフィールは眠っていた。
切嗣は、寝台のそばへ歩いた。
足音を立てないように、ではない。足音を立てるだけの力が、自分に残っていないように感じた。
アイリの胸は、ゆっくりと上下している。
呼吸をしている。
それだけのことを確認するのに、切嗣はひどく長い時間を使った。
「……アイリ」
小さく呼ぶ。
返事はない。
切嗣は椅子に座り、彼女の手を取った。冷たい。だが、死者の冷たさではない。
そのことに、胸の奥が痛んだ。
聖杯は言った。
生命活動、人格、記憶、自由意思、保持。
小聖杯機能および英霊魂保持機能、大聖杯側の代替保持領域へ移管。
その言葉を、彼は信じきれていなかった。
願いが叶うところを見た。
桜が桜のまま残されたところを見た。
それでも、自分の目でアイリを見るまでは、信じられなかった。
「切嗣……?」
かすれた声がした。
切嗣は顔を上げる。
アイリスフィールが、薄く目を開けていた。
焦点はすぐには合わないが、その目は彼を探していた。
「ここにいる」
切嗣は言った。
アイリは、少しだけ笑った。
「帰ってきたのね」
「ああ」
「聖杯は?」
切嗣は答えに迷った。
壊れてはいなかった。だが、汚れていた。泥を分けた。器は目を覚ました。
凛の願いを叶えた。
自分も願った。
そのどれから話せばいいのか分からなかった。
「使わなかった」
まず、そう言った。
「世界を救うためには」
アイリは静かに瞬きをした。
「そう」
驚きはなかった。
彼女は最初から知っていたのかもしれない。
切嗣が本当に欲しかったものと、聖杯へ投げ込もうとしていたものが、同じ形をしていなかったことを。
「でも」
切嗣は、彼女の手を握る力を少しだけ強めた。
「君を、願った」
アイリの目が揺れた。
「私を?」
「君と、イリヤを」
切嗣は言葉を選んだ。
逃げないように。
作戦報告のようにしないように。
「君を、小聖杯としての機能と、アインツベルンの所有、命令、設計目的から切り離した。人として、もう一度動ける状態へ戻した」
アイリは黙って聞いている。
「イリヤも、次代の器として開かれる機能と、強制命令系から切り離した。ただし、聖杯が決めたのはそこまでだ」
「そこまで?」
「ああ。君が僕を許すかどうかも、イリヤが僕を父と呼ぶかどうかも、聖杯には決めさせていない。二人が自分で選べる状態に戻しただけだ」
切嗣の声は低かった。
「それでも、君は君のままだ。イリヤも、イリヤのままだ」
アイリはしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐いた。
「そう」
その一言の中に、ひどく多くのものがあった。
安堵。悲しみ。少しの怒り。
そして、まだ生きていることへの戸惑い。
「イリヤは?」
「迎えに行く」
切嗣は即答した。
アイリは、しばらく黙っていた。
「……あの子は、もう器ではないのね」
「ああ」
「次の聖杯としての機能も」
「切り離した」
アイリの目が、わずかに揺れた。
安堵だけではなかった。
そこには、別の怖れがあった。
「なら、アインツベルンは……あの子を、どう見るのかしら」
切嗣は答えられなかった。
「連れ戻そうとするかもしれない」
「ええ」
アイリは静かに言った。
「でも、そうではないかもしれない。聖杯の器でなくなったイリヤを、あの城がイリヤとして見てくれるのか、私には分からない」
切嗣の手が、わずかに強く握られる。
「迎えに行く」
彼はもう一度言った。
「連れ戻すためじゃない。あの子が、自分でどこへ行くかを選べるようにするために」
「戦うの?」
切嗣は、そこで少しだけ黙った。
以前なら、当然のように答えたかもしれない。
必要なら殺す。障害は排除する。それが最短なら、そうする。
だが、聖杯の声がまだ耳に残っていた。
〈殺害を第一選択とする行動原理を停止してください〉
「戦う前に、やれることをやる」
切嗣は言った。
「逃げ道を作る。協力者を雇う。証拠を残す。交渉する。封じる。必要な腕を買う。必要なら、最後に戦う」
アイリは、少し不思議そうに彼を見た。
「切嗣が、そんなことを言うのね」
「聖杯に言われた」
「聖杯に?」
「救済の名で人を殺さないためには、そうしろと」
アイリは、ほんの少しだけ笑った。
「ずいぶん厳しい聖杯ね」
「ああ」
切嗣は目を伏せた。
「容赦がなかった」
アイリは彼の手を握り返した。
力は弱い。それでも、確かに握り返した。
「切嗣」
「何だ」
「私は、嬉しいわ」
切嗣は顔を上げた。
「世界を救えなかったことが?」
「いいえ」
アイリは首を横に振った。
「あなたが、私とイリヤを願ってくれたことが」
切嗣の顔が歪んだ。
言葉が出ない。
「僕は」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
「君を、最初から道具にしていた」
「知っているわ」
「イリヤも、置いてきた」
「それも知っている」
「僕は、君に謝る資格もない」
「それは違うわ」
アイリは静かに言った。
「謝る資格がないんじゃない。謝って終わりにする資格がないの」
切嗣は息を止めた。
アイリは、弱った身体のまま、それでもはっきりと彼を見ていた。
「謝るなら、これから何度でも謝って。イリヤにも。私にも。セイバーにも。舞弥にも。あなたが傷つけた人たちに、全部は無理でも、できるだけ」
「……ああ」
「それで、生きて」
切嗣の手が震えた。
「聖杯にも言われた」
「そう」
「生存は免罪ではない。責任継続の条件だと」
アイリは目を細めた。
「本当に厳しい聖杯ね」
「アーチャーも笑っていた」
「でしょうね」
アイリは少しだけ笑った。
その笑みは疲れていたが、確かに彼女のものだった。
切嗣は、懐に手を入れる。
黒い札が指先に触れた。黄金の王から渡された、奇妙なカード。
宿、輸送、医療、支払い、物資。必要な場所で必要な手続きを通す、信用そのもののような宝具。
「これをもらった」
切嗣はカードを見せた。
アイリは瞬きをする。
「何、それ」
「アーチャーが、行き掛けの駄賃だと」
「まあ」
アイリは本当に少しだけ楽しそうに笑った。
「王様って、変なものをくれるのね」
「僕にはこっちの方が使いやすいと言っていた」
「分かっているのね」
「王は臣下のことがよく分かっているものだそうだ」
「あなた、臣下になったの?」
「なっていない」
切嗣は即座に答えた。
アイリはまた笑った。
その笑い声は小さく、すぐに咳へ変わった。
切嗣は慌てて身体を支えようとする。
「大丈夫」
「休んだ方がいい」
「ええ。でも、もう少しだけ」
アイリは切嗣を見た。
「セイバーは?」
「外にいる。イリヤを守るために残った」
「彼女にも、ちゃんと話して」
「分かっている」
「本当に?」
「……努力する」
アイリは微笑んだ。
「それ、あなたにしてはいい返事ね」
切嗣は何も言えなかった。
窓の外は白み始めている。
冬木の朝が、城の白い部屋へ差し込んでいた。
聖杯戦争は終わった。
世界は救われていない。
だが、アイリスフィールは生きている。
イリヤスフィールを迎えに行く道が、まだ残っている。
切嗣はアイリの手を握ったまま、低く言った。
「アイリ」
「なあに」
「君を連れて帰りたい」
アイリは、目を細めた。
「やっと、そう言ってくれたのね」
切嗣は答えなかった。
答えられなかった。
ただ、彼女の手を握っていた。
それは救いではない。
免罪でもない。
これから背負うものが、初めて彼の手の中にあった。