セイバーとの会話のあと、切嗣はアイリスフィールの部屋へ戻った。
彼女は眠っていた。だが、深い眠りではなかった。イリヤの名を出すと、閉じていた目がまた開いた。
「私も、聞くわ」
そう言われて、切嗣は止められなかった。
地図と書類は、切嗣が自分で取りに行った。
セイバーは、無言でその半分を受け取った。
「持てる」
「知っています」
それだけ言って、セイバーは先に歩いた。
切嗣は一瞬だけ彼女の背を見たが、何も言わなかった。
命じたわけではない。頼んだわけでもない。
それでも、彼女はそこにいた。
それらを卓の上に広げる間、アイリスフィールは枕を背にして身を起こし、黙って二人を見ていた。
休ませるべきだ。
それは分かっている。
だが、イリヤのことを、アイリスフィール抜きで決めることはもうできなかった。
その沈黙を破ったのは、扉の向こうの小さな物音だった。
切嗣が振り返るより早く、セイバーが一歩前へ出た。手は剣にかけていない。だが、いつでも動ける位置だった。
「誰です」
「私です」
扉の向こうから返ってきた声は、久宇舞弥のものだった。
切嗣の表情が、わずかに硬くなる。
「舞弥」
扉が開く。
舞弥は、壁に手を添えて立っていた。顔色は悪い。傷は塞がっているが、血を失った身体はまだ完全には戻っていない。立っているだけでも無理をしていることは、誰の目にも明らかだった。
「寝ていろと言ったはずだ」
「聞きました」
舞弥は淡々と答えた。
「従うとは言っていません」
セイバーが眉を寄せた。
「あなたも、そういう人なのですか」
「おそらく、切嗣よりは従順です」
「比較対象が悪いわね」
アイリスフィールが、疲れた顔のまま少しだけ笑った。
舞弥は部屋へ入り、卓の上に広げられた地図へ視線を落とした。アインツベルン城周辺の簡略図。冬木からドイツへの経路。現地での接触候補。移動に使える空港、港、陸路。いくつもの線が、赤と青の筆記具で引かれている。
「イリヤスフィール様の件ですね」
「ああ」
切嗣は短く答えた。
「迎えに行く」
「奪還ですか」
「違います」
セイバーが言った。
その返答が、切嗣より早かったことに、舞弥はわずかに目を動かした。
セイバーは続ける。
「奪還という言葉では、また同じです。イリヤスフィールを物のように扱うことになる」
切嗣は否定しなかった。
「話をする。拒まれた場合の準備もする。だが、最初から殺し合いにするつもりはない」
舞弥は、今度こそ切嗣を見た。
その目には、驚きというほど大きな感情は浮かんでいない。だが、確かに何かを測り直していた。
「切嗣が、そう言うのですか」
「聖杯に言われた」
切嗣は煙草に火を点けなかった。ただ、指先で転がしているだけだった。
「戦う前に、やれることをやれと」
「聖杯に、ですか」
「そうだ」
「それは、信用できるのですか」
「信用はしない」
切嗣は即答した。
「だが、正しいことはある」
舞弥は、しばらく黙った。
それから、地図の一点を指した。
「では、交渉材料が必要です」
「金なら用意する」
「足りません」
「情報も出す」
「それでも足りない可能性があります」
舞弥の声は、いつも通り冷静だった。
「アインツベルンがイリヤスフィール様を手放さない場合、こちらには相手を一時的にでも動かすための材料が必要です」
「手放す可能性もある」
切嗣が言った。
「器でなくなったイリヤに、もう価値はないと判断するかもしれない」
「はい」
舞弥は頷いた。
「ですが、その場合でも、確認、回収、処分、あるいは口封じのいずれかは行われる可能性があります。放置される場合と、取り戻される場合。両方を想定すべきです」
舞弥が、そこで言葉を切った。
切嗣は、火のついていない煙草を指先で転がしていた。その動きが止まる。
舞弥が何を言おうとしているのか、分かった。
分かってしまう程度には、彼女をそういう場所に置いてきた。
「君の案は」
「私を使ってください」
部屋の空気が止まった。
アイリスフィールの顔から笑みが消える。
セイバーの目が細くなった。
切嗣は、ほとんど表情を変えなかった。だが、指先の煙草が止まった。
「どういう意味だ」
「私はアインツベルンにとって大きな価値を持つ存在ではありません。ですが、衛宮切嗣の協力者であり、情報を持っている。捕らえられれば、少なくとも尋問対象にはなります」
「舞弥」
「私を囮にしてください。私が捕らえられている間に、切嗣とセイバーが本命の経路から――」
「駄目だ」
「駄目よ」
「認めません」
三つの声が、ほとんど同時に重なった。
舞弥は、初めて少しだけ目を瞬いた。
切嗣、アイリスフィール、セイバー。
三人が、同じ答えを返していた。
切嗣は低く言った。
「その案は採用しない」
「理由は」
「君を捕らえさせる前提だからだ」
「私は、そのために使われることに異存はありません」
「僕にある」
舞弥は黙った。
切嗣は続ける。
「今までなら、使ったかもしれない」
アイリスフィールが、切嗣を見る。
セイバーも、何も言わなかった。
「必要なら、君を囮にした。君も、それを当然だと思っていた。僕もそう思っていた」
「そのはずです」
舞弥は、迷わず頷いた。
「ですが、今は違うのですか」
「違う」
切嗣の声は、硬かった。
「そうしないために、今ここで作戦を立てている」
アイリスフィールが、静かに言った。
「舞弥。あなたが自分を差し出せば早い、という案はもう使わないで」
「アイリスフィール様」
「私は、誰かが私たちのために当然のように傷つくことを、もう当たり前にしたくないの」
舞弥は、アイリスフィールを見た。
その白い顔は、疲れていた。聖杯の器として、妻として、母として、何度も壊れかけた人の顔だった。
それでも、今のアイリスフィールは、はっきりと舞弥を見ていた。
「あなたも、切嗣の責任の中にいるのよ」
舞弥は、返事をしなかった。
セイバーが言った。
「戦場で命を懸けることと、最初から自分を捨てる作戦を立てることは違います」
「騎士としての意見ですか」
「いいえ」
セイバーは、少しだけ切嗣を見た。
「おそらく、今はそれだけではありません」
切嗣は目を逸らした。
舞弥は、その二人を見比べた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「切嗣」
「何だ」
「セイバーと、仲良くなったんですね」
「なっていない」
「なっていません」
二つの声が、また重なった。
アイリスフィールが、今度ははっきりと笑った。
「仲がいいわね」
「違う」
「違います」
三度目の否定まで重なったところで、舞弥は小さく息を漏らした。
笑った、というほどではないが、それは確かに笑みに近いものだった。
「了解しました。私を囮にする案は、第一案から外します」
「第一案から、ではない」
切嗣が言った。
「最終案にも入れるな」
「では、私の役割は」
「連絡経路を作ってほしい」
切嗣は地図の上に指を置いた。
「アインツベルンの中で、こちらの話を聞く可能性がある者を探す。買える者、迷っている者、命令に疑問を持っている者。誰でもいい」
「買収ですか」
「交渉だ」
セイバーが切嗣を見た。
切嗣は、少しだけ目を逸らした。
「……買収も含む」
「そこは正直なのですね」
「今さら嘘をついても仕方がない」
舞弥は地図を見た。
「アインツベルンの城に直接接触するのは危険です。ですが、資材や人員の出入りは完全には止められません。外部業者、輸送路、現地の使用人、医療関係者。そこから探れます」
「できるか」
「できます」
舞弥は即答した。
「ただし、時間が必要です」
「時間は作る」
「敵に察知された場合は」
「逃げろ」
舞弥は、また少しだけ沈黙した。
「戦わずに、ですか」
「ああ」
「情報を持ち帰れない場合でも?」
「命を持ち帰れ」
舞弥は、今度こそ切嗣をまっすぐ見た。
切嗣は、いつもの切嗣だった。 疲れている。冷えている。判断は早い。必要なら人を殺す目をしている。
だが、今の命令は、以前の切嗣のものではなかった。
「了解しました」
舞弥は静かに答えた。
「ただし、切嗣」
「何だ」
「私が現場判断で危険を取る必要があると判断した場合は」
「戻れ」
「切嗣」
「戻れ」
切嗣は繰り返した。
「君の判断を否定しているわけじゃない。だが、もう一人で完結させるな」
舞弥は、ほんの少しだけ眉を動かした。
「一人で完結……ですか」
「君は、自分を使えば済むと判断しすぎる」
「それは、切嗣も同じでは」
「そうだ」
切嗣は認めた。
「だから、僕も一人では判断しない」
そう言って、切嗣はアイリスフィールを見た。
次に、セイバーを見た。
舞弥は、その視線の動きを見ていた。
「アイリスフィール様と、セイバーにも確認するということですか」
「必要なら」
「切嗣が?」
「ああ」
舞弥は、また少しだけ笑った。
「やはり、仲良くなっていますね」
「なっていない」
「それは先ほど聞きました」
セイバーが小さく咳払いをした。
「久宇舞弥。あなたは傷が癒えていません。作戦に加わるなら、まず回復を優先してください」
「それは命令ですか」
「忠告です」
「騎士としての?」
「今は、同じ目的のために動く者としての忠告です」
舞弥は一拍置いてから、頷いた。
「分かりました。回復を優先します。ただし、情報整理は寝ながらでもできます」
「それは止めない」
切嗣が言った。
アイリスフィールが呆れたように切嗣を見る。
「そこは止めないの?」
「舞弥から仕事を全部取り上げると、たぶん回復が遅れる」
「ひどい信頼ね」
「正確な評価です」
舞弥は否定しなかった。
セイバーは、少しだけ困ったような顔をした。
「あなたたちは、妙なところで息が合いますね」
「合っていない」
「合っていません」
切嗣と舞弥の声が、今度は重なった。
アイリスフィールは、また笑った。
その笑いは、まだ弱いものの、部屋の空気は少しだけ変わった。
誰かが犠牲になることを前提にした作戦ではない。
誰かを切り捨てることで早く終わらせる作戦でもない。
時間がかかる。危険も増える。
失敗する可能性もある。
それでも、彼らはその面倒な道を選び始めていた。
切嗣は地図へ視線を戻した。
「舞弥。君は連絡経路と現地情報の洗い出し。アイリはアインツベルン側に送る文面を考えてほしい」
「私が?」
「ああ。僕が書けば、脅迫文になる」
「自覚はあるのね」
「ある。だが、今すぐ書けという意味じゃない。下書きは僕が作る。君には、イリヤに届く言葉かどうかを見てほしい」
アイリスフィールは、少しだけ目を伏せた。
「分かったわ。イリヤに届く可能性がある言葉を考える」
「セイバー」
「はい」
「君には、もし交渉が破綻した場合の護衛と撤退経路を見てほしい。正面突破ではない。誰を守り、どこで退くかを先に決める」
セイバーは、静かに頷いた。
「承知しました」
「それと」
切嗣は、少しだけ言葉を止めた。
全員が彼を見る。
「誰かを犠牲にする案が出たら、その場で止めてくれ」
部屋が静かになった。
舞弥は、ゆっくりと息を吐いた。
アイリスフィールは、切嗣を見ていた。
セイバーは、しばらく黙った後、静かに言った。
「それは、あなた自身も含みますね」
「ああ」
切嗣は答えた。
「僕自身も含む」
それは、勝利の宣言ではなかった。
救済の言葉でもない、作戦上の条件だった。
衛宮切嗣にとっては、それが最も重い約束だった。
舞弥は、深く頭を下げた。
「了解しました」
切嗣は地図の上に新しい線を引いた。
赤ではない。青い線だった。
殺すための線ではなく、戻るための線。
それを引きながら、切嗣は言った。
「イリヤを迎えに行く。誰かを捨ててではなく」
アイリスフィールが頷いた。
セイバーも頷いた。
舞弥は、もう一度だけ小さく笑った。
「本当に、変わりましたね」
切嗣は答えなかった。
否定もしなかった。
地図の上にもう一本、帰るための線を引いた。