優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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4.魔術師の顔、父の顔

 時臣は、観測術式から手を離した。

 宝石の光が消える。地下室に残ったのは、霊脈の低い唸りと、遠くから響くような静けさだけだった。

 

「炉としては、動きます」

 時臣は言った。

 声は落ち着いていた。少なくとも、そう聞こえるように整えられていた。

「英霊の魂を受け入れる器としても、おそらく機能する。孔を穿つための基礎術式も、完全には失われていない」

「ならば、よいではないか」

 

 ギルガメッシュは笑っていた。

「貴様ら魔術師が欲したものは残っている。杯は動く。ならば使えばよい」

「使えません」

 時臣の返答は早かった。

 早すぎた。言ってから、時臣自身がその早さに気づいたように、わずかに口を閉じた。

 

 ギルガメッシュの笑みが深まる。

「ほう」

 時臣は観測術式の残光を見つめたまま続けた。

「願望器としての応答が信用できない。遠坂が想定した理によって願いが処理される保証がありません。この状態で願いを投げ込むことは、魔術師としてあまりに粗雑です」

「魔術師として、か」

 

 王の声が、楽しげに沈んだ。

「今の顔は、そうではなかったぞ」

 時臣は動きを止めた。

「何のことでしょうか」

「惚けるな。今の貴様は、魔術師というより人間の顔をしていた」

 時臣は、すぐには返さなかった。

 

 ギルガメッシュは愉快そうに続ける。

「根源へ至る炉が残っている。それでも貴様は、使えぬと即答した。なぜだ。術式が不確かだからか。遠坂の悲願を汚すからか。それとも」

 黄金の目が細くなる。

「その杯に、娘の名を投げ込む気になれなかったか」

 時臣の指が、ほんのわずかに動いた。それだけだった。

 だがギルガメッシュには十分だった。

 

「はは」

 王は笑った。

「よいぞ、時臣。貴様、弟子を焼いた時よりよほど面白い顔をするではないか」

「王よ」

 時臣の声は静かだった。

「私は遠坂の当主です。個人の情で、聖杯の扱いを決めるつもりはありません」

「そうであろうな」

 ギルガメッシュは即座に言った。

 

「貴様はそう言う。そう言えるように生きてきた。だが、今の一瞬、貴様は当主ではなかった」

 時臣は沈黙した。

「父の顔をしていたぞ、時臣」

 その言葉は、刃のようではなかった。

 もっと悪い。鏡だった。

 時臣は目を伏せる。

 

「……凛を、このような不確かなものへ近づけることはできません」

「凛だけか」

 時臣の沈黙が、今度は少し長くなった。

 ギルガメッシュは、待った。

 この王にしては珍しく、急かさなかった。沈黙の中で時臣が何を押し殺し、何を選ぶかを見ていた。

 

 やがて時臣は言った。

「桜も、です」

 その名を口にした瞬間、時臣の表情がわずかに変わった。後悔ではない。罪悪感でも、まだない。だが、遠坂の当主として整理したはずの決定に、初めて別の光が当たったような顔だった。

 

 ギルガメッシュは満足げに笑った。

「ようやくそこへ届いたか」

「王は、何を」

「時臣。貴様は杯を疑った。ならば次は、貴様が杯へ捧げてきたものを疑え」

 

 時臣は顔を上げた。

「……桜のことを仰っているのですか」

「他に何がある」

 

 ギルガメッシュは退屈そうに言った。

「価値あるものを他家へ渡した。よかろう。魔術師の理屈としては整っているのだろう。だが、貴様はその器の中に何が入っているかを見たか」

 時臣は答えられなかった。

 ギルガメッシュは、先ほどの大聖杯を指すように、何もない空間へ視線を向けた。

「杯も同じだ。器がある。由緒がある。術式がある。だが中身を見ぬまま、貴様らは願いを入れようとした」

 それから、時臣を見る。

「娘も同じではないのか」

 

 時臣の顔から、わずかに血の気が引いた。

 ギルガメッシュは楽しげだった。

 だがその楽しげな声には、奇妙な重さがあった。

「さて、時臣。貴様は杯をこのままでは使えぬと言った。では問おう」

 王は笑う。

「貴様が差し出した娘は、このままでよいのか」

 

 

 時臣は、しばらく黙っていた。

 大聖杯。

 第三次。

 アインツベルン。

 そして、間桐。

 どれも調べなければならない。どれも後回しにはできない。

 

 脇腹の傷が、遅れて熱を持ちはじめていた。肩も重い。綺礼との戦いでは、致命傷こそ避けたが、無傷ではなかった。

 だが、休むという選択肢はなかった。

 

「王よ」

「何だ」

「少し、調べることが増えました。失礼ながら、今夜はこれで――」

「待て」

 ギルガメッシュは、退屈そうに言った。

 

 黄金の波紋が、王の背後に開く。

 剣ではなかった。槍でもない。小さな硝子の小瓶だった。中には、淡い琥珀色の液体が揺れている。

 時臣はそれを見て、わずかに眉を寄せた。

 

「それは」

「霊薬だ。死者を起こすほどのものではない。だが、血を止め、痛みを鈍らせ、乱れた魔力の流れを数刻ほど整えるには足りる」

 時臣は一瞬、沈黙した。

「……王よ。そこまでしていただくわけには」

「勘違いするな」

 

 ギルガメッシュは笑った。

「貴様が倒れれば、今宵の見世物が中途半端に終わる。それは不快だ」

 小瓶が、時臣の手元へ落ちた。時臣は反射的に受け取った。

 封を開ける前から、強い薬香がした。現代の調合ではない。魔術師としての時臣にも、由来を推し量れないほど古い。

 

「頑張る臣下には褒美をやる。王の務めよ」

 ギルガメッシュは、ひどく上機嫌だった。

 時臣は小瓶を見つめ、それから王へ一礼した。

「……ありがたく、頂戴いたします」

「よい。飲め」

「ここで、ですか」

「毒を疑うか」

「王の財に毒がないとは申しません」

 言ってから、時臣は自分の言葉に気づいた。

 

 だがギルガメッシュは怒らなかった。

 むしろ、声を上げて笑った。

「ははははは! よいぞ、時臣。ようやく少しは物を言うようになったではないか」

「失礼を」

「許す。今のは褒美の礼として受け取っておこう」

 

 時臣は小瓶の中身を飲み干した。

 苦い。薬草の苦味ではない。舌の奥に金属のような冷たさが残り、胸の奥で熱に変わる。脇腹の痛みが薄れた。肩の重さも消えないまでも、動かせる程度には戻る。

 それは奇跡ではなかった。傷がなかったことになるわけではない。だが、今夜を動くには十分だった。

 

「なるほど」

 時臣は低く言った。

「これほどのものまで、王の蔵にはあるのですね」

「当然だ。貴様らは我の財を武器庫とでも思っているようだがな。癒やすもの、繋ぐもの、毒を抜くもの、失った血を補うもの、人の身をしばし留めるもの。宝とは、壊すものだけではない」

 

 時臣は、その言葉を聞いて目を伏せた。

 大聖杯のことが頭をよぎった。

 泥を混ぜること。

 泥を抜くこと。

 壊すこと。

 直すこと。

 

 ギルガメッシュは、それを見逃さない。

「また何か考えたな」

「いえ」

「嘘をつくなら、もう少し上手くやれ」

 時臣は小瓶を返そうとした。

 

 だが、王は手を振った。

「捨て置け。空瓶まで惜しむほど、我は貧しくない」

「承知しました」

「さあ、働け、時臣。杯を疑った次は、娘を差し出した家を疑う番だ」

 

 時臣の手が、小瓶を握る。

 その名を、まだ口にはしなかった。だが、思い浮かべてはいた。

 

 桜。

 遠坂の名から外した娘。間桐の名に渡した娘。才能がありすぎる二人の娘を、遠坂の名で守れるのは一人だけ。その判断は、今でも魔術師として間違っていない。

 そう思っていた。思っている。だが、器の中身を見ずに願いを投げ込むことが危険なら。家の名だけを見て、娘を渡すことは。時臣は、そこで思考を止めた。まだ結論を出す時ではない。まず調べる。

 それが魔術師として、もっとも正しい反応だった。

 ギルガメッシュは、満足げに笑っていた。

 

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