時臣は、観測術式から手を離した。
宝石の光が消える。地下室に残ったのは、霊脈の低い唸りと、遠くから響くような静けさだけだった。
「炉としては、動きます」
時臣は言った。
声は落ち着いていた。少なくとも、そう聞こえるように整えられていた。
「英霊の魂を受け入れる器としても、おそらく機能する。孔を穿つための基礎術式も、完全には失われていない」
「ならば、よいではないか」
ギルガメッシュは笑っていた。
「貴様ら魔術師が欲したものは残っている。杯は動く。ならば使えばよい」
「使えません」
時臣の返答は早かった。
早すぎた。言ってから、時臣自身がその早さに気づいたように、わずかに口を閉じた。
ギルガメッシュの笑みが深まる。
「ほう」
時臣は観測術式の残光を見つめたまま続けた。
「願望器としての応答が信用できない。遠坂が想定した理によって願いが処理される保証がありません。この状態で願いを投げ込むことは、魔術師としてあまりに粗雑です」
「魔術師として、か」
王の声が、楽しげに沈んだ。
「今の顔は、そうではなかったぞ」
時臣は動きを止めた。
「何のことでしょうか」
「惚けるな。今の貴様は、魔術師というより人間の顔をしていた」
時臣は、すぐには返さなかった。
ギルガメッシュは愉快そうに続ける。
「根源へ至る炉が残っている。それでも貴様は、使えぬと即答した。なぜだ。術式が不確かだからか。遠坂の悲願を汚すからか。それとも」
黄金の目が細くなる。
「その杯に、娘の名を投げ込む気になれなかったか」
時臣の指が、ほんのわずかに動いた。それだけだった。
だがギルガメッシュには十分だった。
「はは」
王は笑った。
「よいぞ、時臣。貴様、弟子を焼いた時よりよほど面白い顔をするではないか」
「王よ」
時臣の声は静かだった。
「私は遠坂の当主です。個人の情で、聖杯の扱いを決めるつもりはありません」
「そうであろうな」
ギルガメッシュは即座に言った。
「貴様はそう言う。そう言えるように生きてきた。だが、今の一瞬、貴様は当主ではなかった」
時臣は沈黙した。
「父の顔をしていたぞ、時臣」
その言葉は、刃のようではなかった。
もっと悪い。鏡だった。
時臣は目を伏せる。
「……凛を、このような不確かなものへ近づけることはできません」
「凛だけか」
時臣の沈黙が、今度は少し長くなった。
ギルガメッシュは、待った。
この王にしては珍しく、急かさなかった。沈黙の中で時臣が何を押し殺し、何を選ぶかを見ていた。
やがて時臣は言った。
「桜も、です」
その名を口にした瞬間、時臣の表情がわずかに変わった。後悔ではない。罪悪感でも、まだない。だが、遠坂の当主として整理したはずの決定に、初めて別の光が当たったような顔だった。
ギルガメッシュは満足げに笑った。
「ようやくそこへ届いたか」
「王は、何を」
「時臣。貴様は杯を疑った。ならば次は、貴様が杯へ捧げてきたものを疑え」
時臣は顔を上げた。
「……桜のことを仰っているのですか」
「他に何がある」
ギルガメッシュは退屈そうに言った。
「価値あるものを他家へ渡した。よかろう。魔術師の理屈としては整っているのだろう。だが、貴様はその器の中に何が入っているかを見たか」
時臣は答えられなかった。
ギルガメッシュは、先ほどの大聖杯を指すように、何もない空間へ視線を向けた。
「杯も同じだ。器がある。由緒がある。術式がある。だが中身を見ぬまま、貴様らは願いを入れようとした」
それから、時臣を見る。
「娘も同じではないのか」
時臣の顔から、わずかに血の気が引いた。
ギルガメッシュは楽しげだった。
だがその楽しげな声には、奇妙な重さがあった。
「さて、時臣。貴様は杯をこのままでは使えぬと言った。では問おう」
王は笑う。
「貴様が差し出した娘は、このままでよいのか」
時臣は、しばらく黙っていた。
大聖杯。
第三次。
アインツベルン。
そして、間桐。
どれも調べなければならない。どれも後回しにはできない。
脇腹の傷が、遅れて熱を持ちはじめていた。肩も重い。綺礼との戦いでは、致命傷こそ避けたが、無傷ではなかった。
だが、休むという選択肢はなかった。
「王よ」
「何だ」
「少し、調べることが増えました。失礼ながら、今夜はこれで――」
「待て」
ギルガメッシュは、退屈そうに言った。
黄金の波紋が、王の背後に開く。
剣ではなかった。槍でもない。小さな硝子の小瓶だった。中には、淡い琥珀色の液体が揺れている。
時臣はそれを見て、わずかに眉を寄せた。
「それは」
「霊薬だ。死者を起こすほどのものではない。だが、血を止め、痛みを鈍らせ、乱れた魔力の流れを数刻ほど整えるには足りる」
時臣は一瞬、沈黙した。
「……王よ。そこまでしていただくわけには」
「勘違いするな」
ギルガメッシュは笑った。
「貴様が倒れれば、今宵の見世物が中途半端に終わる。それは不快だ」
小瓶が、時臣の手元へ落ちた。時臣は反射的に受け取った。
封を開ける前から、強い薬香がした。現代の調合ではない。魔術師としての時臣にも、由来を推し量れないほど古い。
「頑張る臣下には褒美をやる。王の務めよ」
ギルガメッシュは、ひどく上機嫌だった。
時臣は小瓶を見つめ、それから王へ一礼した。
「……ありがたく、頂戴いたします」
「よい。飲め」
「ここで、ですか」
「毒を疑うか」
「王の財に毒がないとは申しません」
言ってから、時臣は自分の言葉に気づいた。
だがギルガメッシュは怒らなかった。
むしろ、声を上げて笑った。
「ははははは! よいぞ、時臣。ようやく少しは物を言うようになったではないか」
「失礼を」
「許す。今のは褒美の礼として受け取っておこう」
時臣は小瓶の中身を飲み干した。
苦い。薬草の苦味ではない。舌の奥に金属のような冷たさが残り、胸の奥で熱に変わる。脇腹の痛みが薄れた。肩の重さも消えないまでも、動かせる程度には戻る。
それは奇跡ではなかった。傷がなかったことになるわけではない。だが、今夜を動くには十分だった。
「なるほど」
時臣は低く言った。
「これほどのものまで、王の蔵にはあるのですね」
「当然だ。貴様らは我の財を武器庫とでも思っているようだがな。癒やすもの、繋ぐもの、毒を抜くもの、失った血を補うもの、人の身をしばし留めるもの。宝とは、壊すものだけではない」
時臣は、その言葉を聞いて目を伏せた。
大聖杯のことが頭をよぎった。
泥を混ぜること。
泥を抜くこと。
壊すこと。
直すこと。
ギルガメッシュは、それを見逃さない。
「また何か考えたな」
「いえ」
「嘘をつくなら、もう少し上手くやれ」
時臣は小瓶を返そうとした。
だが、王は手を振った。
「捨て置け。空瓶まで惜しむほど、我は貧しくない」
「承知しました」
「さあ、働け、時臣。杯を疑った次は、娘を差し出した家を疑う番だ」
時臣の手が、小瓶を握る。
その名を、まだ口にはしなかった。だが、思い浮かべてはいた。
桜。
遠坂の名から外した娘。間桐の名に渡した娘。才能がありすぎる二人の娘を、遠坂の名で守れるのは一人だけ。その判断は、今でも魔術師として間違っていない。
そう思っていた。思っている。だが、器の中身を見ずに願いを投げ込むことが危険なら。家の名だけを見て、娘を渡すことは。時臣は、そこで思考を止めた。まだ結論を出す時ではない。まず調べる。
それが魔術師として、もっとも正しい反応だった。
ギルガメッシュは、満足げに笑っていた。