間桐邸の奥で、臓硯は目を開いた。
桜へ伸ばしていた糸がない。切れたのではない。焼かれたのでもない。
そこに道があったという事実ごと、閉じられている。
「ほう」
臓硯は笑った。
「これはまた、丁寧なことを」
外部命令は届かない。監視の目も戻らない。追跡の印も応えない。
蟲の侵食も止まっている。
桜の中に残したものは、まだ完全には消えていない。
だが、それはもう臓硯の手足ではなかった。
ただの傷だ。ただの痕だ。
桜という娘に残った、忌まわしい過去でしかない。
「……なるほどのう」
臓硯は、喉の奥で笑った。
「桜を桜のまま、か」
その言葉は、ひどく気に食わなかった。
あれは器だった。間桐の器。
己の悲願を先へ送るための器。
遠坂から渡された、得難い資質。
だが、聖杯はそれを桜と定めた。
英雄王はそれを見届けた。
遠坂時臣はそれを受け入れた。
凛という小娘は、それを願った。
「惜しかったな」
ぽつりと、声が落ちた。
自分で言ってから、臓硯は少しだけ笑った。
「惜しかった。実に、惜しかった」
桜のことではない。いや、桜のことでもある。
あれほどの器は、もう二度と手に入らぬかもしれない。
あれほど都合よく、あれほど深く、あれほど長く馴染ませられるものなど。
臓硯は、ゆっくりと指を動かした。
まだ手札はある。聖杯は残っている。
魔術協会も、聖堂教会も、御三家の名も、人の欲も残っている。
遠坂時臣が父親面をしておれるのも、いつまでか分からぬ。
手はある。あるはずだ。
「終わりではない」
臓硯は言った。
「終わりではないぞ」
だが、その声は以前よりも少し軽かった。
抜け落ちたものがある。
桜へ伸びていた糸。未来へ伸びていたはずの道。
そして、まだ自分が何かを成せると疑わなかった、古い確信。
臓硯は、暗い天井を見上げた。
英雄王の声が、耳の奥に残っている。
高潔な願いも、長く器に入れれば腐る。
「……歳を取ったものよ」
臓硯は、そう呟いた。
丸くなったわけではない。悔い改めたわけでもない。
ただ、ほんの一瞬だけ、自分がどこから来て、どこまで腐ったのかを思い出した。
次の瞬間には、もう笑っていた。
「さて」
蟲が、床の下でざわめく。
その中に、ひとつ、細い感覚が途切れるものがあった。
雁夜だった。橋の下に残していた、出来損ないの回路。
間桐を捨て、女に執着し、桜を救うなどと叫びながら、最後まで何一つ自分では成し遂げられなかった男。
その命が、今、落ちた。
「もたなんだか」
臓硯は、ただそれだけを言った。
惜しい、とは思わなかった。
使い道はあった。まだ動かせる余地もあった。だが、雁夜はしょせん雁夜だった。
桜を取り戻すための駒としては、最初から脆すぎた。
それでも、同じ夜に桜への糸を閉じられ、雁夜も失った。
間桐の手は、確かに短くなっている。
「……歳を取ったものよ」
そう呟いた時だった。
廊下の向こうで、小さな足音がした。
「お爺さま」
襖の向こうから、幼い声がした。
慎二だった。
臓硯は目を細める。
「何じゃ、慎二。まだ起きておったのか」
「だって、うるさかったから」
慎二は、少しだけ顔を出した。
眠そうな顔をしている。だが、その目には子供らしい好奇心があった。
「さっきの女の子、どこに行ったの」
臓硯は、しばらく慎二を見ていた。
慎二は何も知らない。
魔術のことも、蟲蔵のことも、間桐が失ったものも、これから失うものも。
ただ、家の中に知らない女の子の気配があったことだけを、ぼんやりと覚えている。
「女の子など、おらぬ」
「でも」
「夢でも見たのじゃろう」
臓硯は、穏やかに言った。
その声音は、孫をなだめる老人のものだった。
「遠坂の子が、間桐に来るはずがなかろう」
慎二は、首を傾げた。
「そうなの?」
「そうじゃ」
臓硯は笑った。
「お前は間桐の子じゃ。余計なことを考えず、寝ておれ」
慎二はまだ納得していない顔をしていたが、やがて小さく頷いた。
「うん」
足音が遠ざかっていく。
臓硯は、その音を聞きながら笑っていた。
魔術を継げぬ子。
蟲蔵に入れる意味もない子。
聖杯に至る器にもならぬ子。
ならば、せめて家に置いておくがよい。
間桐の名を覚え、間桐の屋敷で育ち、間桐の子として大人になる。
それだけなら、あの子にもできる。
今の臓硯にとって、それは大した価値ではなかったが、価値がないわけでもなかった。
桜は来なかった。少なくとも、間桐の家の中では、そういうことにできる。
契約はあった。器はあった。蟲蔵にも入れた。
後に残る者が知らぬなら、それは家の記憶にはならない。
慎二は、いずれそう覚えるだろう。
遠坂桜など、間桐には来なかったのだと。
慎二の足音が消えた後、臓硯はもう一度だけ目を閉じた。
桜は失った。雁夜も失った。
遠坂時臣は、まだ契約の言葉でこちらを縛ろうとしている。
英雄王は、その場を閉じた。
聖杯は残っている。
大聖杯は、まだ冬木の地下にある。
願いも、器も、魂も、まだ完全には終わっていない。
「終わりではない」
臓硯は言った。
声は強くなかった。
だが、消えてもいなかった。
「まだ、死んではおらぬ」
床下で、蟲がざわめいた。