優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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40.臓硯の執念と老い

 間桐邸の奥で、臓硯は目を開いた。

 桜へ伸ばしていた糸がない。切れたのではない。焼かれたのでもない。

 そこに道があったという事実ごと、閉じられている。

 

「ほう」

 臓硯は笑った。

「これはまた、丁寧なことを」

 

 外部命令は届かない。監視の目も戻らない。追跡の印も応えない。

 蟲の侵食も止まっている。

 桜の中に残したものは、まだ完全には消えていない。

 

 だが、それはもう臓硯の手足ではなかった。

 ただの傷だ。ただの痕だ。

 桜という娘に残った、忌まわしい過去でしかない。

 

「……なるほどのう」

 臓硯は、喉の奥で笑った。

「桜を桜のまま、か」

 

 その言葉は、ひどく気に食わなかった。

 あれは器だった。間桐の器。

 己の悲願を先へ送るための器。

 遠坂から渡された、得難い資質。

 

 だが、聖杯はそれを桜と定めた。

 英雄王はそれを見届けた。

 遠坂時臣はそれを受け入れた。

 凛という小娘は、それを願った。

 

「惜しかったな」

 ぽつりと、声が落ちた。

 自分で言ってから、臓硯は少しだけ笑った。

「惜しかった。実に、惜しかった」

 

 桜のことではない。いや、桜のことでもある。

 あれほどの器は、もう二度と手に入らぬかもしれない。

 あれほど都合よく、あれほど深く、あれほど長く馴染ませられるものなど。

 

 臓硯は、ゆっくりと指を動かした。

 まだ手札はある。聖杯は残っている。

 魔術協会も、聖堂教会も、御三家の名も、人の欲も残っている。

 遠坂時臣が父親面をしておれるのも、いつまでか分からぬ。

 手はある。あるはずだ。

 

「終わりではない」

 臓硯は言った。

「終わりではないぞ」

 

 だが、その声は以前よりも少し軽かった。

 抜け落ちたものがある。

 桜へ伸びていた糸。未来へ伸びていたはずの道。

 そして、まだ自分が何かを成せると疑わなかった、古い確信。

 

 臓硯は、暗い天井を見上げた。

 英雄王の声が、耳の奥に残っている。

 高潔な願いも、長く器に入れれば腐る。

 

「……歳を取ったものよ」

 臓硯は、そう呟いた。

 

 丸くなったわけではない。悔い改めたわけでもない。

 ただ、ほんの一瞬だけ、自分がどこから来て、どこまで腐ったのかを思い出した。

 

 次の瞬間には、もう笑っていた。

「さて」

 蟲が、床の下でざわめく。

 

 その中に、ひとつ、細い感覚が途切れるものがあった。

 雁夜だった。橋の下に残していた、出来損ないの回路。

 間桐を捨て、女に執着し、桜を救うなどと叫びながら、最後まで何一つ自分では成し遂げられなかった男。

 

 その命が、今、落ちた。

 

「もたなんだか」

 臓硯は、ただそれだけを言った。

 惜しい、とは思わなかった。

 使い道はあった。まだ動かせる余地もあった。だが、雁夜はしょせん雁夜だった。

 

 桜を取り戻すための駒としては、最初から脆すぎた。

 それでも、同じ夜に桜への糸を閉じられ、雁夜も失った。

 間桐の手は、確かに短くなっている。

 

「……歳を取ったものよ」

 そう呟いた時だった。

 廊下の向こうで、小さな足音がした。

 

「お爺さま」

 襖の向こうから、幼い声がした。

 慎二だった。

 

 臓硯は目を細める。

「何じゃ、慎二。まだ起きておったのか」

「だって、うるさかったから」

 慎二は、少しだけ顔を出した。

 眠そうな顔をしている。だが、その目には子供らしい好奇心があった。

 

「さっきの女の子、どこに行ったの」

 

 臓硯は、しばらく慎二を見ていた。

 慎二は何も知らない。

 魔術のことも、蟲蔵のことも、間桐が失ったものも、これから失うものも。

 ただ、家の中に知らない女の子の気配があったことだけを、ぼんやりと覚えている。

 

「女の子など、おらぬ」

「でも」

「夢でも見たのじゃろう」

 臓硯は、穏やかに言った。

 

 その声音は、孫をなだめる老人のものだった。

「遠坂の子が、間桐に来るはずがなかろう」

 慎二は、首を傾げた。

「そうなの?」

「そうじゃ」

 臓硯は笑った。

 

「お前は間桐の子じゃ。余計なことを考えず、寝ておれ」

 慎二はまだ納得していない顔をしていたが、やがて小さく頷いた。

「うん」

 

 足音が遠ざかっていく。

 臓硯は、その音を聞きながら笑っていた。

 魔術を継げぬ子。

 蟲蔵に入れる意味もない子。

 聖杯に至る器にもならぬ子。

 ならば、せめて家に置いておくがよい。

 

 間桐の名を覚え、間桐の屋敷で育ち、間桐の子として大人になる。

 それだけなら、あの子にもできる。

 今の臓硯にとって、それは大した価値ではなかったが、価値がないわけでもなかった。

 

 桜は来なかった。少なくとも、間桐の家の中では、そういうことにできる。

 契約はあった。器はあった。蟲蔵にも入れた。

 

 後に残る者が知らぬなら、それは家の記憶にはならない。

 慎二は、いずれそう覚えるだろう。

 遠坂桜など、間桐には来なかったのだと。

 

 慎二の足音が消えた後、臓硯はもう一度だけ目を閉じた。

 桜は失った。雁夜も失った。

 遠坂時臣は、まだ契約の言葉でこちらを縛ろうとしている。

 英雄王は、その場を閉じた。

 

 聖杯は残っている。

 大聖杯は、まだ冬木の地下にある。

 願いも、器も、魂も、まだ完全には終わっていない。

 

「終わりではない」

 臓硯は言った。

 声は強くなかった。

 だが、消えてもいなかった。

 

「まだ、死んではおらぬ」

 床下で、蟲がざわめいた。

 

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