桜が最初に目を覚ましてから、三日が過ぎていた。
起きていられる時間は、まだ短い。
目を開けても、凛や葵の声を確かめると、すぐに疲れて眠ってしまう。夜には何度か身体を強張らせた。夢の中で何を見ているのか、時臣には分からなかった。
それでも、外部からの命令は戻っていない。
監視の目も、追跡の糸も、臓硯へ伸びる経路も閉じられたままだった。
結界の外では、葵と凛が交代で桜を見守っている。
その間、時臣は工房と書斎を何度も往復した。
三日前には白紙だった書類に、今は文字が並んでいる。
間桐家との養子契約については、履行の暫定停止を通知した。
桜への外部命令、監視、追跡、再接続の痕跡。間桐邸における確認妨害。遠坂家の許可を得ない接触の禁止。第三者立ち会いによる協議の要求。
臓硯からの返答はない。
返答が来るとは、時臣も思っていなかった。
だが、返答を期待することと、記録を残すことは別だった。
そして、処理すべき問題は桜のことだけではない。
聖堂教会へは、監督役の不在を報告した。
言峰璃正は死亡した。言峰綺礼も、すでにいない。
後任監督者の派遣を求め、それまでは大聖杯に対する新たな願望処理を認めない旨を記した。詳細な経緯については、後任者本人へ対面で開示する。
魔術協会へ送る報告は、さらに短くした。
冬木の霊脈上で行われた儀式に重大な異常が確認されたこと。
聖杯戦争の戦闘段階が事実上終了したこと。
大聖杯を暫定的に封鎖し、再起動を停止していること。
調査を行う場合には、霊脈管理者である遠坂家への事前通告を求めること。
桜の名は書かなかった。
凛の願いも。
アイリスフィールに起きたことも。
イリヤスフィールから取り除かれたものも。
報告すべきことと、差し出してよいことは同じではない。
以前の時臣なら、その区別を秘匿の問題としてだけ考えただろう。
今は違う。
書けば、記録になる。記録になれば、誰かが手を伸ばす理由になる。
知らせないことが保護になる相手もいる。
知らせなければ、当事者から意思を奪うことになる相手もいる。
最後に残ったのは、一通の書状だった。
宛名は、衛宮切嗣。
時臣は書状の末尾へ、最後の一文を加えた。
――大聖杯の恒久停止、封印、または解体について、貴殿を直接の利害関係者として協議を求める。
書いてから、時臣はわずかに眉を寄せた。
衛宮切嗣を信用したわけではない。
好ましい男でもない。その手段を認めるつもりもない。
聖杯戦争が続いていれば、殺し合う相手だった。
だが、信用できる者だけを当事者と呼ぶのではない。
アイリスフィールの身体。
イリヤスフィールの将来。
現在も限定的に現界を続けているセイバー。
そして、冬木の地下に残された大聖杯。
どれも、遠坂家だけで処分を決めてよいものではなかった。
当事者であるという事実は、遠坂時臣の好悪では消えない。
それを認めず、自分だけで最善を決めるなら、桜を間桐へ送った時と何も変わらない。
時臣は書状を封じようとして、手を止めた。
内容は決まった。
問題は、届け方だった。
聖杯戦争の最中なら、方法はあった。
衛宮切嗣が監視のために通る経路を推測し、その途中へ書状を置く。相手が罠を疑うことまで見越し、開封しても危険がない形に整える。
だが、戦争は終わった。
時臣は書状を持ち、離れへ続く廊下へ出た。
葵は結界の外に座り、眠る桜を見ていた。
凛はその隣で、宝石の濁りを確かめている。
「葵」
呼ばれて、葵が顔を上げた。
「はい」
「相談したいことがある」
葵は、わずかに目を見開いた。
「私に、ですか」
「ああ」
時臣は、書状を差し出した。
「衛宮切嗣へ、これを届けたい」
葵は宛名を見た。
「以前は、どうやって連絡を取ったのですか」
「連絡先を知っていたわけではない。彼が通ると予測した場所へ書状を置いた」
「今は、そこを通らないのですね」
「おそらく」
時臣は認めた。
「魔術を使えば、むしろ警戒される。戦いが終わった今、どこへ送れば本人へ届くのかも分からない」
そこで時臣は、一度言葉を切った。
「君なら、どうする」
葵は、すぐには答えなかった。
書状を見て、少し考える。
「衛宮さん本人を探すより、衛宮さんが連絡を返せる場所を知らせる方がよいと思います」
「返せる場所」
「はい。アインツベルンのお城と、冬木で使っていた可能性のある宿泊先へ、短い伝言を残します。内容までは書かず、遠坂家が連絡を求めていることと、返事を受け取る電話番号だけを」
「同じ書状を、いくつも送るのではないのか」
「大切な書状なら、本人が受け取る場所を指定してから送った方が安全でしょう」
時臣は、しばらく葵を見ていた。
相手を追うのではない。
返事をするかどうかも、受け取る場所も、相手に選ばせる。
「なるほど」
時臣は書状へ目を落とした。
「私には、その考えがなかった」
葵は、ほんの少しだけ笑った。
桜を取り戻してから、初めて見せた笑みだった。
「あなたにも、分からないことがあるのですね」
「当然ある」
時臣は答えた。
「これまで、そうは見えませんでした」
責める声音ではなかった。だが、冗談だけでもなかった。
時臣は返す言葉を探したが、すぐには見つからなかった。
「私は、君なら知っていると思った」
「はい」
葵は頷いた。
それから、眠る桜へ一度目を向けた。
「ようやく、私に相談してくださいましたね」
時臣は黙った。
「私にも、あなたの知らないことがあると、ようやく思ってくださった」
喜んでいる。葵がそう言わなくても、時臣には分かった。
同時に、それだけのことを喜ばせてしまうほど、自分は今まで何も尋ねてこなかったのだとも分かった。
「……遅かったな」
「ええ」
葵は否定しなかった。
「随分と」
その返事は厳しかったが、表情は少しだけ柔らかかった。
「手順を教えてくれ。手配は私が行う」
「分かりました」
葵は手順を説明した。
時臣は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
凛は結界のそばに座ったまま、二人を見ていた。
父が母に何を尋ねたのか、その意味までは分からなかった。
ただ、父にも知らないことがあり、それを母が知っていることだけは分かった。
そして父は、知らないことを知っているふりをしなかった。
凛は、赤い宝石へ目を戻した。
宝石はまだ濁っていない。
時臣は一度歩きかけ、足を止めた。
「葵」
「はい」
「助かった」
葵の目が、わずかに細くなる。
「どういたしまして、あなた」
外部からの干渉は、この朝も確認されなかった。
葵から手順を聞き終えると、時臣は書状を脇へ置き、桜の周囲に組んだ術式を改めて確かめた。
三日分の記録と、現在の反応を照合する。
魔力の流れは安定している。
臓硯へ伸びる経路も閉じたままだ。
少なくとも、外から新たな命令が届く兆候はない。
結界をすべて解くことはできない。
だが、魔力を遮断したまま、指先が通るだけの細い経路を作ることならできる。
時臣がそう判断した時、桜のまぶたがかすかに震えた。
ゆっくりと目が開く。
「今日は、少しだけ触れられる」
時臣が言うと、桜の目が彼へ向いた。
「結界をすべて解くことはできない。だが、指先が通るだけの経路なら作れる」
葵が、不安そうに時臣を見る。
「魔力や術式を通すものではない。触れるためだけの、限定された経路だ」
時臣は宝石を一つ動かした。
結界の光が揺れ、指先一本分の細い隙間が開く。
時臣は手を入れなかった。
「嫌なら、触れなくていい」
桜は、しばらくその隙間を見ていた。
次に、時臣を見る。
そして、小さな手が内側から動いた。
細い指が、結界の隙間へ向かって伸びる。
時臣はそれを見てから、初めて自分の手を差し出した。
桜の指先が、彼の指に触れた。
「桜」
時臣は、触れた指を動かさずに言った。
「私は、君の父だ」
桜の目が揺れる。
「そう名乗ったことで、許されたとは思わない。君を間桐へ送ったのは私だ。君が苦しんでいる間、それを見なかったのも私だ」
家門も、資質も、継承も、契約も、言葉を整えればいくらでも自分を正当化できたが、今はどれも口にしなかった。
「もう目を逸らさない。君を誰かの器とは呼ばせない。資質だけを見て、君自身を見ないこともしない」
時臣は、桜の目を見た。
「君は桜だ。そして私は、これから父としてここにいる」
桜の指が、ほんの少しだけ強くなる。
「……お父、さま」
それが昔の記憶から出た言葉なのか、今の時臣へ向けられた言葉なのか、時臣には分からなかった。だから、意味を決めつけなかった。
「ああ」
ただ、それだけを返した。