優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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41.触れていい日

 桜が最初に目を覚ましてから、三日が過ぎていた。

 起きていられる時間は、まだ短い。

 目を開けても、凛や葵の声を確かめると、すぐに疲れて眠ってしまう。夜には何度か身体を強張らせた。夢の中で何を見ているのか、時臣には分からなかった。

 

 それでも、外部からの命令は戻っていない。

 監視の目も、追跡の糸も、臓硯へ伸びる経路も閉じられたままだった。

 結界の外では、葵と凛が交代で桜を見守っている。

 

 その間、時臣は工房と書斎を何度も往復した。

 三日前には白紙だった書類に、今は文字が並んでいる。

 

 間桐家との養子契約については、履行の暫定停止を通知した。

 桜への外部命令、監視、追跡、再接続の痕跡。間桐邸における確認妨害。遠坂家の許可を得ない接触の禁止。第三者立ち会いによる協議の要求。

 

 臓硯からの返答はない。

 返答が来るとは、時臣も思っていなかった。

 だが、返答を期待することと、記録を残すことは別だった。

 

 そして、処理すべき問題は桜のことだけではない。

 聖堂教会へは、監督役の不在を報告した。

 言峰璃正は死亡した。言峰綺礼も、すでにいない。

 後任監督者の派遣を求め、それまでは大聖杯に対する新たな願望処理を認めない旨を記した。詳細な経緯については、後任者本人へ対面で開示する。

 

 魔術協会へ送る報告は、さらに短くした。

 冬木の霊脈上で行われた儀式に重大な異常が確認されたこと。

 聖杯戦争の戦闘段階が事実上終了したこと。

 大聖杯を暫定的に封鎖し、再起動を停止していること。

 調査を行う場合には、霊脈管理者である遠坂家への事前通告を求めること。

 

 桜の名は書かなかった。

 凛の願いも。

 アイリスフィールに起きたことも。

 イリヤスフィールから取り除かれたものも。

 

 報告すべきことと、差し出してよいことは同じではない。

 以前の時臣なら、その区別を秘匿の問題としてだけ考えただろう。

 

 今は違う。

 書けば、記録になる。記録になれば、誰かが手を伸ばす理由になる。

 知らせないことが保護になる相手もいる。

 知らせなければ、当事者から意思を奪うことになる相手もいる。

 

 最後に残ったのは、一通の書状だった。

 宛名は、衛宮切嗣。

 

 時臣は書状の末尾へ、最後の一文を加えた。

 ――大聖杯の恒久停止、封印、または解体について、貴殿を直接の利害関係者として協議を求める。

 書いてから、時臣はわずかに眉を寄せた。

 

 衛宮切嗣を信用したわけではない。

 好ましい男でもない。その手段を認めるつもりもない。

 聖杯戦争が続いていれば、殺し合う相手だった。

 

 だが、信用できる者だけを当事者と呼ぶのではない。

 アイリスフィールの身体。

 イリヤスフィールの将来。

 現在も限定的に現界を続けているセイバー。

 

 そして、冬木の地下に残された大聖杯。

 

 どれも、遠坂家だけで処分を決めてよいものではなかった。

 

 当事者であるという事実は、遠坂時臣の好悪では消えない。

 それを認めず、自分だけで最善を決めるなら、桜を間桐へ送った時と何も変わらない。

 

 時臣は書状を封じようとして、手を止めた。

 内容は決まった。

 

 問題は、届け方だった。

 聖杯戦争の最中なら、方法はあった。

 衛宮切嗣が監視のために通る経路を推測し、その途中へ書状を置く。相手が罠を疑うことまで見越し、開封しても危険がない形に整える。

 

 だが、戦争は終わった。

 

 時臣は書状を持ち、離れへ続く廊下へ出た。

 葵は結界の外に座り、眠る桜を見ていた。

 凛はその隣で、宝石の濁りを確かめている。

 

「葵」

 呼ばれて、葵が顔を上げた。

「はい」

「相談したいことがある」

 

 葵は、わずかに目を見開いた。

「私に、ですか」

「ああ」

 時臣は、書状を差し出した。

「衛宮切嗣へ、これを届けたい」

 

 葵は宛名を見た。

「以前は、どうやって連絡を取ったのですか」

「連絡先を知っていたわけではない。彼が通ると予測した場所へ書状を置いた」

「今は、そこを通らないのですね」

「おそらく」

 時臣は認めた。

 

「魔術を使えば、むしろ警戒される。戦いが終わった今、どこへ送れば本人へ届くのかも分からない」

 そこで時臣は、一度言葉を切った。

「君なら、どうする」

 

 葵は、すぐには答えなかった。

 書状を見て、少し考える。

「衛宮さん本人を探すより、衛宮さんが連絡を返せる場所を知らせる方がよいと思います」

「返せる場所」

「はい。アインツベルンのお城と、冬木で使っていた可能性のある宿泊先へ、短い伝言を残します。内容までは書かず、遠坂家が連絡を求めていることと、返事を受け取る電話番号だけを」

「同じ書状を、いくつも送るのではないのか」

「大切な書状なら、本人が受け取る場所を指定してから送った方が安全でしょう」

 

 時臣は、しばらく葵を見ていた。

 相手を追うのではない。

 返事をするかどうかも、受け取る場所も、相手に選ばせる。

「なるほど」

 

 時臣は書状へ目を落とした。

「私には、その考えがなかった」

 葵は、ほんの少しだけ笑った。

 桜を取り戻してから、初めて見せた笑みだった。

 

「あなたにも、分からないことがあるのですね」

「当然ある」

 時臣は答えた。

「これまで、そうは見えませんでした」

 責める声音ではなかった。だが、冗談だけでもなかった。

 時臣は返す言葉を探したが、すぐには見つからなかった。

 

「私は、君なら知っていると思った」

「はい」

 葵は頷いた。

 それから、眠る桜へ一度目を向けた。

 

「ようやく、私に相談してくださいましたね」

 

 時臣は黙った。

「私にも、あなたの知らないことがあると、ようやく思ってくださった」

 

 喜んでいる。葵がそう言わなくても、時臣には分かった。

 同時に、それだけのことを喜ばせてしまうほど、自分は今まで何も尋ねてこなかったのだとも分かった。

 

「……遅かったな」

「ええ」

 葵は否定しなかった。

「随分と」

 その返事は厳しかったが、表情は少しだけ柔らかかった。

 

「手順を教えてくれ。手配は私が行う」

「分かりました」

 

 葵は手順を説明した。

 時臣は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。

 

 凛は結界のそばに座ったまま、二人を見ていた。

 父が母に何を尋ねたのか、その意味までは分からなかった。

 ただ、父にも知らないことがあり、それを母が知っていることだけは分かった。

 そして父は、知らないことを知っているふりをしなかった。

 

 凛は、赤い宝石へ目を戻した。

 宝石はまだ濁っていない。

 

 時臣は一度歩きかけ、足を止めた。

「葵」

「はい」

「助かった」

 葵の目が、わずかに細くなる。

「どういたしまして、あなた」

 

 外部からの干渉は、この朝も確認されなかった。

 葵から手順を聞き終えると、時臣は書状を脇へ置き、桜の周囲に組んだ術式を改めて確かめた。

 

 三日分の記録と、現在の反応を照合する。

 

 魔力の流れは安定している。

 臓硯へ伸びる経路も閉じたままだ。

 

 少なくとも、外から新たな命令が届く兆候はない。

 結界をすべて解くことはできない。

 

 だが、魔力を遮断したまま、指先が通るだけの細い経路を作ることならできる。

 時臣がそう判断した時、桜のまぶたがかすかに震えた。

 ゆっくりと目が開く。

 

「今日は、少しだけ触れられる」

 

 時臣が言うと、桜の目が彼へ向いた。

「結界をすべて解くことはできない。だが、指先が通るだけの経路なら作れる」

 葵が、不安そうに時臣を見る。

「魔力や術式を通すものではない。触れるためだけの、限定された経路だ」

 

 時臣は宝石を一つ動かした。

 結界の光が揺れ、指先一本分の細い隙間が開く。

 

 時臣は手を入れなかった。

「嫌なら、触れなくていい」

 

 桜は、しばらくその隙間を見ていた。

 次に、時臣を見る。

 そして、小さな手が内側から動いた。

 細い指が、結界の隙間へ向かって伸びる。

 

 時臣はそれを見てから、初めて自分の手を差し出した。

 桜の指先が、彼の指に触れた。

 

「桜」

 時臣は、触れた指を動かさずに言った。

「私は、君の父だ」

 

 桜の目が揺れる。

「そう名乗ったことで、許されたとは思わない。君を間桐へ送ったのは私だ。君が苦しんでいる間、それを見なかったのも私だ」

 

 家門も、資質も、継承も、契約も、言葉を整えればいくらでも自分を正当化できたが、今はどれも口にしなかった。

「もう目を逸らさない。君を誰かの器とは呼ばせない。資質だけを見て、君自身を見ないこともしない」

 

 時臣は、桜の目を見た。

「君は桜だ。そして私は、これから父としてここにいる」

 桜の指が、ほんの少しだけ強くなる。

「……お父、さま」

 

 それが昔の記憶から出た言葉なのか、今の時臣へ向けられた言葉なのか、時臣には分からなかった。だから、意味を決めつけなかった。

 

「ああ」

 ただ、それだけを返した。

 

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