優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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42.結界の外へ

 黒板の上に掛けられた時計を見たのは、これで三度目だった。長い針は、先ほどよりも少しだけ進んでいる。何度見ても、時間が早く進むわけではない。

 

「凛ちゃん」

 小さな声に呼ばれ、凛は隣を見た。

 コトネが教科書を開いたまま、こちらを見ている。

「何?」

「今日、何かあるの?」

「どうして?」

「さっきから、時計ばかり見てるから」

 

 凛は黒板へ視線を戻した。

 教師が書いた問題は、もう解き終わっている。答えも確かめた。間違いはない。

 それでも授業は、凛一人のために進むものではなかった。

 

「あとで話すわ」

「うん」

 コトネは素直に頷いた。

 以前なら、気になっても声をかけるまでに、もう少し時間がかかったかもしれない。

 今は、授業中に小声で尋ねるくらいには、自分から動くようになっていた。

 

「では、この問題を遠坂さん」

 教師に当てられ、凛は立ち上がった。

 答えを言う。教師が頷き、凛は席へ戻った。

 

 コトネが口元を押さえて、小さく笑っている。

「何よ」

「ちゃんと聞いてたんだね」

「当然でしょう」

 そう答えたものの、凛はもう一度だけ時計を見た。

 桜が結界の外へ出るのは、凛が学校から帰った後だった。

     

     *

 

「今日、桜ちゃんが外に出るの?」

 休み時間になると、コトネはすぐに尋ねてきた。

「ええ。まだ庭だけだけど」

「ずっと、おうちから出られなかったんだよね」

「出られなかったというより、出してはいけなかったの。外に悪いものが残っていないか、ちゃんと調べないといけなかったから」

 

 コトネは少し考えた。

 魔術のことは話せない。桜が何をされたのかも、どのように治療されたのかも、学校では言えなかった。

 それでも、長い間療養していて、外へ出られなかった妹がいることは、コトネも知っている。

 

「桜ちゃん、学校にも来るの?」

「そのための手続きを、お母様がしているわ」

「同じ教室?」

「学年が違うもの。教室は別よ」

「そっか」

 コトネは少し残念そうに言った。

 

「何よ」

「桜ちゃんが来たら、私もお話ししていい?」

「どうして私に聞くのよ」

「だって、凛ちゃんの妹だから」

「桜が嫌がらなければ、好きにすればいいじゃない」

「じゃあ、桜ちゃんに聞いてみる」

「それがいいわ」

 凛はそれでよいのだと思った。

 桜のことを、桜のいないところで全部決める必要はない。

 

 放課後、凛はいつもより早く荷物をまとめた。

 だが、今日は教室の花へ水をやる当番だった。

 じょうろを取りに行こうとすると、コトネが先に立ち上がった。

 

「凛ちゃん、今日は先に帰っていいよ」

「でも、私も当番でしょう」

「こっちは私がやるから」

「コトネ一人に任せるわけにはいかないわ」

 

 近くにいたもう一人の当番の子が、こちらを見た。

「私もいるよ。遠坂さん、用事があるんでしょう?」

 

 凛は二人を見た。自分の仕事を他人へ押しつけるのは好きではない。

 コトネは頼まれたから仕方なく引き受ける顔をしていなかった。

 

「今度、私が早く帰りたい時は、凛ちゃんが代わって」

「分かったわ」

 凛はランドセルを背負った。

「今日はお願いする。次は私が代わるから」

「うん。桜ちゃんによろしくね」

「ええ」

 

 凛は教室を出た。

 廊下を走ることはしなかった。走れば教師に注意される。

 ただ、いつもより少しだけ速く歩いた。

 

     *

 

 一年が過ぎても、間桐臓硯は何もしてこなかった。

 桜へ向けた外部命令はない。監視の目も、追跡の糸も、新たな接続も確認されていない。

 養子契約の履行停止に対する異議もなく、遠坂家から送った協議の求めにも返答はなかった。

 

 あまりにも、何もなかった。

 攻撃してくれば、目的を推測できる。

 交渉を求めてくれば、条件を測ることもできる。

 何もしない者が何を考えているのかだけは、観測しても分からなかった。

 

 時臣は書斎の窓辺に立ち、間桐邸のある方角を見ていた。

 以前は遠距離観測の術式を使っていた。ただし、屋敷の内部までは見ていない。魔術的な観測を深く差し込めば、臓硯に察知される可能性がある。

 

 確認しているのは、屋敷の外観だけだった。

 窓が開いたか。人の出入りがあるか。使い魔らしきものが飛び立っていないか。

 それだけである。

 

 ある日、葵が尋ねた。

「あなた。その術式では、間桐のお屋敷の中まで見えるのですか」

「いや。内部への干渉は避けている。外から状況を確認しているだけだ」

「でしたら、双眼鏡でもよいのではありませんか」

 

 時臣は観測術式を維持したまま、葵を見た。

 次に、窓の外を見る。

「……それもそうだな」

 

 翌日から、時臣は双眼鏡を使い始めた。

 魔力を消費しない。術式を起動した痕跡も残らない。準備も必要なく、手に取ればすぐに見られる。葵にも同じ像を確認させることができた。

 

 観測だけが目的なら、確かに魔術である必要はなかった。

 最初は葵が用意したものを使っていたが、数日後には時臣自身が、より倍率と集光力に優れたものを購入した。

 

 その双眼鏡を下ろし、時臣は間桐邸の方角から目を離した。

 今日も、目立った変化はない。不気味なほどに、何もない。

 

「時臣さん」

 葵が書斎へ入ってきた。

 手に持っているのは、桜の学校に関する書類だった。

「学校との面談は、明後日に決まりました」

「そうか」

「最初の一週間は、午前中だけ通う形でお願いしています」

 

 時臣は書類へ目を落とした。

「最初から一日すべての授業へ出すのではないのか」

「桜が疲れた時は、途中で帰れるようにしておきます。保健室も使わせていただけるそうです」

「だが、一度途中で帰れば、周囲から余計な注意を引くのではないか」

「無理をして倒れる方が、もっと注意を引きます」

 葵は穏やかに言った。

 時臣は反論せず、もう一度書類を見た。

 

「……結界を一度に解除せず、段階的に範囲を広げるのと同じか」

「学校では、そのようには言いませんけれど」

「考え方としては同じだ」

「ええ。それで構いません」

 

 葵は時臣の前へ、もう一枚の紙を置いた。

「担任の先生には、長く療養していたことだけをお伝えします。それ以上のことは、桜が話したいと思うまでは話しません」

「間桐家にいたこともか」

「学校側が知る必要のある範囲だけでよいと思います」

 

 時臣はしばらく考え、頷いた。

「分かった。その形で進めよう」

「通学の安全については、お願いします」

「ああ。通学路の確認は終えている。学校の周囲にも、異常な魔力反応はない」

「結界を張るのですか」

「必要な場所にだけだ。学校そのものを遠坂の管理下へ置くつもりはない」

「安心しました」

 葵は本当に安心したようだった。

 

「護身具も、制服の下か、服の留め具に見える形で使えるものにしてください。あまり目立つものでは困ります」

「王の宝具へ、こちらから意匠を指定したわけではない」

「では、幸運でしたね」

「……そうだな」

 

 王から桜へ貸し与えられた宝具は、小さな黄金の留め具だった。

 王の趣味としては、驚くほど控えめな外見である。

 時臣が決め、葵が従うのではなかった。

 葵は学校と生活を整える。

 時臣は魔術と安全を整える。

 

 互いに、相手の知らない領域を持っていた。

 どちらか一人だけでは、桜を結界の外へ戻すことはできない。

 それを認めることは、以前の時臣が考えていたよりも、ずっと簡単だった。

 

    *

 

「ただいま戻りました」

 玄関から凛の声がした。

 しばらくして、書斎の戸から顔を出す。

「お父様。お母様」

「お帰りなさい、凛」

「桜は?」

「部屋で支度をしています」

 葵が答えると、凛はすぐに廊下へ出ようとした。

 

「凛」

 時臣が呼び止める。

「何でしょうか」

「着替えてからにしなさい。それから、今日の課題がある」

 

 凛はわずかに眉を寄せた。

「今日もですか」

「桜が外へ出ることと、君の授業は別の問題だ」

「分かっています」

 返事には、少しだけ不満が混じっていた。

 

 それでも凛は、ランドセルを置きに自分の部屋へ向かった。

 葵が小さく笑う。

「今日は休みにしてあげてもよかったのではありませんか」

「特別な日だからといって、すべてを特別にする必要はない」

「そういうところは、変わりませんね」

「変える理由がない」

「ええ」

 葵は否定しなかった。

 以前とは違い、その言葉には諦めではなく、少しの親しさがあった。

     

 凛の前には、三つの宝石が並べられていた。

「同じ量を込めなさい」

「分かりました」

 

 凛が一つ目の宝石へ指を置く。

 赤い石の内側に、魔力が満ちていく。

 時臣が指定した量を越えても、凛の手は止まらなかった。

 

「そこまでだ」

 凛は手を離した。

「まだ入りました」

「入るかどうかを見ていたのではない」

「でも、多く入れた方が強いでしょう?」

「今回の課題は、三つへ同じ量を込めることだ」

 

 時臣は最初の宝石を取り上げた。

「最大まで満たすだけならば、自分の限界を知っていればできる。必要な量で正確に止める方が難しい」

「少しくらい多くても、使う時に調整すればいいと思います」

「余分に使った魔力は戻らない。必要のない力を込め、それを後から調整することを工夫とは呼ばない」

 

 凛は納得していない顔をしている。

 だが、時臣が最初の宝石から魔力を抜くと、もう一度指を置いた。

 今度は指定した位置で止める。

 二つ目、そして三つ目。三つの宝石には、ほぼ同じ量の魔力が込められていた。

 

「これでいいですか」

「ああ」

 

 時臣は宝石を確認した。

 凛の資質は、すでに同じ年齢だった頃の時臣を大きく上回っている。

 扱える魔力量だけではない。一度示した術式を理解する速度も、自分なりの応用へ結びつける早さも、遠坂家の記録から予想される範囲を越え始めていた。

 

 いずれ、自分一人では十分な教育を与えられない時が来る。

 そのことを、時臣はもう疑っていなかった。

 

 だが、それは今、教えるべきことがなくなったという意味ではない。

 何ができるか、どこで止めるか。失敗した時に、何が起きるか。

 誰の意思を確かめなければならないか。

 結果に対して、誰が責任を負うのか。

 凛へ教えるべきことは、まだいくらでも残っていた。

 

「お父様」

「何だ」

「桜の魔術も、お父様が教えるのですか」

「基礎は私が教える」

「その後は?」

「虚数については、私より適切な者を探した」

 

 凛が目を丸くした。

「お父様より詳しい人ですか」

「その領域については、そうだ」

「お父様にも、教えられないことがあるのですね」

「ある」

 時臣は答えた。

 言葉を飾る必要はなかった。

 

 凛は三つの宝石を見た。

「私も、いつか別の人から教わるのですか」

「必要になればな」

「そうしたら、お父様は教えてくださらなくなるのですか」

「そうは言っていない」

 

 時臣は一つ目の宝石を凛へ返した。

「君にはまだ、指定した量で止めることも教えなければならない」

「今はできました」

「一度できたことと、身についたことは違う」

「では、もう一度やります」

「今日はそこまでだ」

「まだできます」

「できることと、今行うべきことは同じではない」

 

 凛は口を閉じた。

 それから、少し不満そうに宝石を片づけた。

「桜のところへ行ってもいいですか」

「ああ」

 許可を得ると、凛はすぐに立ち上がった。

 今度は、走らなかった。

 だが、書斎を出ていく足は速かった。

 

 桜は外出用の服を着て、離れの扉の前に立っていた。

 

 最初の頃、結界は寝台の周囲だけを囲っていた。

 次に部屋全体へ広げた。

 桜の状態が安定すると、離れの廊下まで範囲を延ばした。

 この一年、桜は少しずつ、結界の内側で動ける場所を増やしてきた。

 

 今日、初めて外周の線を越える。

 

 葵が桜の襟元へ、黄金の留め具をつけていた。

 小さな宝具は、見た目だけなら飾りのないブローチに近い。

 だが、その内側には王命が残されている。

 桜の肉体、精神、魔術回路への外部干渉。本人が認めていない命令。臓硯の術式との再接続。一定以上の攻撃。

 

 それらを検知すれば、宝具は王が不在でも命令を執行する。

 干渉を遮断し、桜を遠坂邸の保護領域へ退避させる。

 

 時臣は留め具へ手を触れ、動作を確認した。

「あなた」

 葵が呼んだ。

「何だ」

「それを確認するのは、今日だけで五度目です」

「四度だ」

「桜が起きる前にも、確認していました」

 

 時臣は少し考えた。

「……では、五度だな」

「六度目は、短くしてください。桜が待っています」

「ああ」

 

 葵は時臣の警戒を笑わなかった。

 ただ、終わりを決めた。

 凛が庭側の扉の向こうで待っている。

 

「桜」

 時臣は娘へ向き直った。

「はい」

「これから、結界の外周を開く」

 

 桜は閉じたままの結界へ目を向けた。

「庭へ出てもいいのですか」

「ああ。ただし、異常を感じた場合は、すぐに戻りなさい」

「異常というのは、痛くなった時ですか」

「痛みがなくてもだ。誰かに呼ばれたように感じた時。自分のものではない声が聞こえた時。身体が自分の意思と違う動きをした時も戻る」

 

 桜は少し考えた。

「誰かに呼ばれても、そちらへ行かずに、ここへ戻ればいいのですね」

「そうだ。自分で確かめようとしてはいけない」

「身体が勝手に動いた時も、自分で止めようとしないで戻ります」

「ああ」

 

 時臣は一度言葉を切った。

「怖くなっただけでもよい」

 桜は時臣を見た。

「何も起きていなくても、ですか」

「何も起きていなくてもだ」

 

 桜はもう一度、結界の外を見た。

「分かりました。怖くなったら、我慢しないで戻ります」

 

 時臣は床に埋め込まれた宝石へ、順番に魔力を流した。

 一つずつ、結界の光が消えていく。

 最後の線が薄くなり、扉の向こうとこちらの空気がつながった。

 

 風が入ってきた。桜の黒い髪が、わずかに揺れる。

 葵は先に庭へ出た。

 凛は少し離れた場所に立ち、桜を見ている。

 

 誰も手を引かなかった。

 桜は扉の前で立ち止まった。結界の外には庭があり、木々が立ち、その向こうには空が広がっていた。

 

 この一年、窓から何度も見ていたものだった。

 それでも、窓の内側から見ることと、自分の足でそこへ出ることは同じではなかった。

 桜が片足を前へ出した。靴の裏が、庭の土へ触れた。

 

 何も起こらない。

 王の宝具は光らなかった。警告もない。蟲も、使い魔も現れない。

 風が吹き、木の葉が揺れただけだった。

 桜はもう片方の足を外へ出した。

 乾いた土が、小さく鳴った。

 

「桜」

 凛が呼んだ。

 桜はその場で、しばらく立っていた。

「どう?」

「……風が、あります」

「外なんだから、風くらいあるわよ」

「窓から入るのと、違います」

 

 凛は少し考えた。

「そうね」

 それから、桜の前へ手を差し出した。

「次は、あの木まで行きましょう」

 

 桜は凛の手を見た。

 次に、時臣と葵を見る。

 

 葵は頷いた。

 時臣も、黙って頷く。

 桜は凛の手を取った。

 

 二人はゆっくりと庭を歩き始めた。

 時臣は結界の境界に立ったまま、その背中を見ていた。

 間桐邸の方角を確認するための双眼鏡は、書斎の窓辺に置いてある。

 取りに戻ろうとは思わなかった。

 

 桜が歩いたのは、庭の中央にある木までだった。

 それ以上、進む必要はなかった。

 凛と一緒に幹へ触れ、落ちていた葉を一枚拾い、もう一度風に髪を揺らされた。

 帰りも、自分の足で戻ってきた。

 

「学校へも、行けますか」

 桜が尋ねた。

「すぐに一日中というわけにはいかないけれど、少しずつなら」

 葵が答えた。

 

「お姉ちゃんと一緒に?」

「行きは一緒に行ってあげる」

 凛が言う。

「帰りは?」

「最初のうちは、帰りも一緒にするわ」

「その後は?」

「私にも友達がいるんだから、毎日ずっと一緒というわけにはいかないでしょう」

 

 桜の顔が少し曇る。

「でも、休み時間には会いに行ってあげる」

「毎日?」

「最初のうちはね」

 凛は少し偉そうに言った。

 

 葵が時臣を見る。

「明後日の面談には、私が行きます」

「私も行く」

 時臣が答えた。

 

 凛が驚いたように父を見た。

「お父様も学校へ行くのですか」

「ああ」

「お仕事は?」

「これも遠坂家の仕事だ」

 葵が少し笑った。

「学校では、父親の仕事と言ってくださいね」

 

 時臣はすぐには答えなかった。

「……分かった」

 

 桜が、襟元の黄金の留め具へ触れた。

「明日は、魔術の先生が来るのですか」

「ああ」

 時臣は頷いた。

 

「お父様は、教えてくれないのですか」

「基礎は私が教える」

 

 桜の目を見て、時臣は続けた。

「だが、君の資質を正しく扱うには、私の知識だけでは足りない」

「お父様にも、分からないのですか」

「分からないことはある」

 

 桜は少し不安そうに見えた。

「私が教えるべきことまで、他人へ任せるつもりはない」

 時臣は言った。

「そのうえで、私より適した者から学ぶべきことがある。明日来るのは、そのための教師だ」

 

 桜は考えてから、小さく頷いた。

「はい」

 

 この日も、間桐臓硯は何もしなかった。

 王の宝具も、一度も働かなかった。

 桜は結界の外へ出て、庭の木まで歩き、自分の足で戻ってきた。

 葵は学校へ提出する書類を整えた。

 凛は、明日コトネへ何を話すかを考えていた。

 時臣は書斎へ戻り、窓辺に置いた双眼鏡を一度だけ手に取った。

 

 間桐邸の方角を見る。

 窓は暗い。人影もない。何も動いていなかった。

 それでも、警戒を解くつもりはなかった。

 

 時臣は双眼鏡を置いた。

 警戒することと、桜の時間を止めることは、同じではない。

 廊下の向こうから、凛と桜の声が聞こえた。

 明日、桜には新しい教師が来る。

 時臣には教えられないものを、教えられる者だった。

 

 

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