黒板の上に掛けられた時計を見たのは、これで三度目だった。長い針は、先ほどよりも少しだけ進んでいる。何度見ても、時間が早く進むわけではない。
「凛ちゃん」
小さな声に呼ばれ、凛は隣を見た。
コトネが教科書を開いたまま、こちらを見ている。
「何?」
「今日、何かあるの?」
「どうして?」
「さっきから、時計ばかり見てるから」
凛は黒板へ視線を戻した。
教師が書いた問題は、もう解き終わっている。答えも確かめた。間違いはない。
それでも授業は、凛一人のために進むものではなかった。
「あとで話すわ」
「うん」
コトネは素直に頷いた。
以前なら、気になっても声をかけるまでに、もう少し時間がかかったかもしれない。
今は、授業中に小声で尋ねるくらいには、自分から動くようになっていた。
「では、この問題を遠坂さん」
教師に当てられ、凛は立ち上がった。
答えを言う。教師が頷き、凛は席へ戻った。
コトネが口元を押さえて、小さく笑っている。
「何よ」
「ちゃんと聞いてたんだね」
「当然でしょう」
そう答えたものの、凛はもう一度だけ時計を見た。
桜が結界の外へ出るのは、凛が学校から帰った後だった。
*
「今日、桜ちゃんが外に出るの?」
休み時間になると、コトネはすぐに尋ねてきた。
「ええ。まだ庭だけだけど」
「ずっと、おうちから出られなかったんだよね」
「出られなかったというより、出してはいけなかったの。外に悪いものが残っていないか、ちゃんと調べないといけなかったから」
コトネは少し考えた。
魔術のことは話せない。桜が何をされたのかも、どのように治療されたのかも、学校では言えなかった。
それでも、長い間療養していて、外へ出られなかった妹がいることは、コトネも知っている。
「桜ちゃん、学校にも来るの?」
「そのための手続きを、お母様がしているわ」
「同じ教室?」
「学年が違うもの。教室は別よ」
「そっか」
コトネは少し残念そうに言った。
「何よ」
「桜ちゃんが来たら、私もお話ししていい?」
「どうして私に聞くのよ」
「だって、凛ちゃんの妹だから」
「桜が嫌がらなければ、好きにすればいいじゃない」
「じゃあ、桜ちゃんに聞いてみる」
「それがいいわ」
凛はそれでよいのだと思った。
桜のことを、桜のいないところで全部決める必要はない。
放課後、凛はいつもより早く荷物をまとめた。
だが、今日は教室の花へ水をやる当番だった。
じょうろを取りに行こうとすると、コトネが先に立ち上がった。
「凛ちゃん、今日は先に帰っていいよ」
「でも、私も当番でしょう」
「こっちは私がやるから」
「コトネ一人に任せるわけにはいかないわ」
近くにいたもう一人の当番の子が、こちらを見た。
「私もいるよ。遠坂さん、用事があるんでしょう?」
凛は二人を見た。自分の仕事を他人へ押しつけるのは好きではない。
コトネは頼まれたから仕方なく引き受ける顔をしていなかった。
「今度、私が早く帰りたい時は、凛ちゃんが代わって」
「分かったわ」
凛はランドセルを背負った。
「今日はお願いする。次は私が代わるから」
「うん。桜ちゃんによろしくね」
「ええ」
凛は教室を出た。
廊下を走ることはしなかった。走れば教師に注意される。
ただ、いつもより少しだけ速く歩いた。
*
一年が過ぎても、間桐臓硯は何もしてこなかった。
桜へ向けた外部命令はない。監視の目も、追跡の糸も、新たな接続も確認されていない。
養子契約の履行停止に対する異議もなく、遠坂家から送った協議の求めにも返答はなかった。
あまりにも、何もなかった。
攻撃してくれば、目的を推測できる。
交渉を求めてくれば、条件を測ることもできる。
何もしない者が何を考えているのかだけは、観測しても分からなかった。
時臣は書斎の窓辺に立ち、間桐邸のある方角を見ていた。
以前は遠距離観測の術式を使っていた。ただし、屋敷の内部までは見ていない。魔術的な観測を深く差し込めば、臓硯に察知される可能性がある。
確認しているのは、屋敷の外観だけだった。
窓が開いたか。人の出入りがあるか。使い魔らしきものが飛び立っていないか。
それだけである。
ある日、葵が尋ねた。
「あなた。その術式では、間桐のお屋敷の中まで見えるのですか」
「いや。内部への干渉は避けている。外から状況を確認しているだけだ」
「でしたら、双眼鏡でもよいのではありませんか」
時臣は観測術式を維持したまま、葵を見た。
次に、窓の外を見る。
「……それもそうだな」
翌日から、時臣は双眼鏡を使い始めた。
魔力を消費しない。術式を起動した痕跡も残らない。準備も必要なく、手に取ればすぐに見られる。葵にも同じ像を確認させることができた。
観測だけが目的なら、確かに魔術である必要はなかった。
最初は葵が用意したものを使っていたが、数日後には時臣自身が、より倍率と集光力に優れたものを購入した。
その双眼鏡を下ろし、時臣は間桐邸の方角から目を離した。
今日も、目立った変化はない。不気味なほどに、何もない。
「時臣さん」
葵が書斎へ入ってきた。
手に持っているのは、桜の学校に関する書類だった。
「学校との面談は、明後日に決まりました」
「そうか」
「最初の一週間は、午前中だけ通う形でお願いしています」
時臣は書類へ目を落とした。
「最初から一日すべての授業へ出すのではないのか」
「桜が疲れた時は、途中で帰れるようにしておきます。保健室も使わせていただけるそうです」
「だが、一度途中で帰れば、周囲から余計な注意を引くのではないか」
「無理をして倒れる方が、もっと注意を引きます」
葵は穏やかに言った。
時臣は反論せず、もう一度書類を見た。
「……結界を一度に解除せず、段階的に範囲を広げるのと同じか」
「学校では、そのようには言いませんけれど」
「考え方としては同じだ」
「ええ。それで構いません」
葵は時臣の前へ、もう一枚の紙を置いた。
「担任の先生には、長く療養していたことだけをお伝えします。それ以上のことは、桜が話したいと思うまでは話しません」
「間桐家にいたこともか」
「学校側が知る必要のある範囲だけでよいと思います」
時臣はしばらく考え、頷いた。
「分かった。その形で進めよう」
「通学の安全については、お願いします」
「ああ。通学路の確認は終えている。学校の周囲にも、異常な魔力反応はない」
「結界を張るのですか」
「必要な場所にだけだ。学校そのものを遠坂の管理下へ置くつもりはない」
「安心しました」
葵は本当に安心したようだった。
「護身具も、制服の下か、服の留め具に見える形で使えるものにしてください。あまり目立つものでは困ります」
「王の宝具へ、こちらから意匠を指定したわけではない」
「では、幸運でしたね」
「……そうだな」
王から桜へ貸し与えられた宝具は、小さな黄金の留め具だった。
王の趣味としては、驚くほど控えめな外見である。
時臣が決め、葵が従うのではなかった。
葵は学校と生活を整える。
時臣は魔術と安全を整える。
互いに、相手の知らない領域を持っていた。
どちらか一人だけでは、桜を結界の外へ戻すことはできない。
それを認めることは、以前の時臣が考えていたよりも、ずっと簡単だった。
*
「ただいま戻りました」
玄関から凛の声がした。
しばらくして、書斎の戸から顔を出す。
「お父様。お母様」
「お帰りなさい、凛」
「桜は?」
「部屋で支度をしています」
葵が答えると、凛はすぐに廊下へ出ようとした。
「凛」
時臣が呼び止める。
「何でしょうか」
「着替えてからにしなさい。それから、今日の課題がある」
凛はわずかに眉を寄せた。
「今日もですか」
「桜が外へ出ることと、君の授業は別の問題だ」
「分かっています」
返事には、少しだけ不満が混じっていた。
それでも凛は、ランドセルを置きに自分の部屋へ向かった。
葵が小さく笑う。
「今日は休みにしてあげてもよかったのではありませんか」
「特別な日だからといって、すべてを特別にする必要はない」
「そういうところは、変わりませんね」
「変える理由がない」
「ええ」
葵は否定しなかった。
以前とは違い、その言葉には諦めではなく、少しの親しさがあった。
凛の前には、三つの宝石が並べられていた。
「同じ量を込めなさい」
「分かりました」
凛が一つ目の宝石へ指を置く。
赤い石の内側に、魔力が満ちていく。
時臣が指定した量を越えても、凛の手は止まらなかった。
「そこまでだ」
凛は手を離した。
「まだ入りました」
「入るかどうかを見ていたのではない」
「でも、多く入れた方が強いでしょう?」
「今回の課題は、三つへ同じ量を込めることだ」
時臣は最初の宝石を取り上げた。
「最大まで満たすだけならば、自分の限界を知っていればできる。必要な量で正確に止める方が難しい」
「少しくらい多くても、使う時に調整すればいいと思います」
「余分に使った魔力は戻らない。必要のない力を込め、それを後から調整することを工夫とは呼ばない」
凛は納得していない顔をしている。
だが、時臣が最初の宝石から魔力を抜くと、もう一度指を置いた。
今度は指定した位置で止める。
二つ目、そして三つ目。三つの宝石には、ほぼ同じ量の魔力が込められていた。
「これでいいですか」
「ああ」
時臣は宝石を確認した。
凛の資質は、すでに同じ年齢だった頃の時臣を大きく上回っている。
扱える魔力量だけではない。一度示した術式を理解する速度も、自分なりの応用へ結びつける早さも、遠坂家の記録から予想される範囲を越え始めていた。
いずれ、自分一人では十分な教育を与えられない時が来る。
そのことを、時臣はもう疑っていなかった。
だが、それは今、教えるべきことがなくなったという意味ではない。
何ができるか、どこで止めるか。失敗した時に、何が起きるか。
誰の意思を確かめなければならないか。
結果に対して、誰が責任を負うのか。
凛へ教えるべきことは、まだいくらでも残っていた。
「お父様」
「何だ」
「桜の魔術も、お父様が教えるのですか」
「基礎は私が教える」
「その後は?」
「虚数については、私より適切な者を探した」
凛が目を丸くした。
「お父様より詳しい人ですか」
「その領域については、そうだ」
「お父様にも、教えられないことがあるのですね」
「ある」
時臣は答えた。
言葉を飾る必要はなかった。
凛は三つの宝石を見た。
「私も、いつか別の人から教わるのですか」
「必要になればな」
「そうしたら、お父様は教えてくださらなくなるのですか」
「そうは言っていない」
時臣は一つ目の宝石を凛へ返した。
「君にはまだ、指定した量で止めることも教えなければならない」
「今はできました」
「一度できたことと、身についたことは違う」
「では、もう一度やります」
「今日はそこまでだ」
「まだできます」
「できることと、今行うべきことは同じではない」
凛は口を閉じた。
それから、少し不満そうに宝石を片づけた。
「桜のところへ行ってもいいですか」
「ああ」
許可を得ると、凛はすぐに立ち上がった。
今度は、走らなかった。
だが、書斎を出ていく足は速かった。
桜は外出用の服を着て、離れの扉の前に立っていた。
最初の頃、結界は寝台の周囲だけを囲っていた。
次に部屋全体へ広げた。
桜の状態が安定すると、離れの廊下まで範囲を延ばした。
この一年、桜は少しずつ、結界の内側で動ける場所を増やしてきた。
今日、初めて外周の線を越える。
葵が桜の襟元へ、黄金の留め具をつけていた。
小さな宝具は、見た目だけなら飾りのないブローチに近い。
だが、その内側には王命が残されている。
桜の肉体、精神、魔術回路への外部干渉。本人が認めていない命令。臓硯の術式との再接続。一定以上の攻撃。
それらを検知すれば、宝具は王が不在でも命令を執行する。
干渉を遮断し、桜を遠坂邸の保護領域へ退避させる。
時臣は留め具へ手を触れ、動作を確認した。
「あなた」
葵が呼んだ。
「何だ」
「それを確認するのは、今日だけで五度目です」
「四度だ」
「桜が起きる前にも、確認していました」
時臣は少し考えた。
「……では、五度だな」
「六度目は、短くしてください。桜が待っています」
「ああ」
葵は時臣の警戒を笑わなかった。
ただ、終わりを決めた。
凛が庭側の扉の向こうで待っている。
「桜」
時臣は娘へ向き直った。
「はい」
「これから、結界の外周を開く」
桜は閉じたままの結界へ目を向けた。
「庭へ出てもいいのですか」
「ああ。ただし、異常を感じた場合は、すぐに戻りなさい」
「異常というのは、痛くなった時ですか」
「痛みがなくてもだ。誰かに呼ばれたように感じた時。自分のものではない声が聞こえた時。身体が自分の意思と違う動きをした時も戻る」
桜は少し考えた。
「誰かに呼ばれても、そちらへ行かずに、ここへ戻ればいいのですね」
「そうだ。自分で確かめようとしてはいけない」
「身体が勝手に動いた時も、自分で止めようとしないで戻ります」
「ああ」
時臣は一度言葉を切った。
「怖くなっただけでもよい」
桜は時臣を見た。
「何も起きていなくても、ですか」
「何も起きていなくてもだ」
桜はもう一度、結界の外を見た。
「分かりました。怖くなったら、我慢しないで戻ります」
時臣は床に埋め込まれた宝石へ、順番に魔力を流した。
一つずつ、結界の光が消えていく。
最後の線が薄くなり、扉の向こうとこちらの空気がつながった。
風が入ってきた。桜の黒い髪が、わずかに揺れる。
葵は先に庭へ出た。
凛は少し離れた場所に立ち、桜を見ている。
誰も手を引かなかった。
桜は扉の前で立ち止まった。結界の外には庭があり、木々が立ち、その向こうには空が広がっていた。
この一年、窓から何度も見ていたものだった。
それでも、窓の内側から見ることと、自分の足でそこへ出ることは同じではなかった。
桜が片足を前へ出した。靴の裏が、庭の土へ触れた。
何も起こらない。
王の宝具は光らなかった。警告もない。蟲も、使い魔も現れない。
風が吹き、木の葉が揺れただけだった。
桜はもう片方の足を外へ出した。
乾いた土が、小さく鳴った。
「桜」
凛が呼んだ。
桜はその場で、しばらく立っていた。
「どう?」
「……風が、あります」
「外なんだから、風くらいあるわよ」
「窓から入るのと、違います」
凛は少し考えた。
「そうね」
それから、桜の前へ手を差し出した。
「次は、あの木まで行きましょう」
桜は凛の手を見た。
次に、時臣と葵を見る。
葵は頷いた。
時臣も、黙って頷く。
桜は凛の手を取った。
二人はゆっくりと庭を歩き始めた。
時臣は結界の境界に立ったまま、その背中を見ていた。
間桐邸の方角を確認するための双眼鏡は、書斎の窓辺に置いてある。
取りに戻ろうとは思わなかった。
桜が歩いたのは、庭の中央にある木までだった。
それ以上、進む必要はなかった。
凛と一緒に幹へ触れ、落ちていた葉を一枚拾い、もう一度風に髪を揺らされた。
帰りも、自分の足で戻ってきた。
「学校へも、行けますか」
桜が尋ねた。
「すぐに一日中というわけにはいかないけれど、少しずつなら」
葵が答えた。
「お姉ちゃんと一緒に?」
「行きは一緒に行ってあげる」
凛が言う。
「帰りは?」
「最初のうちは、帰りも一緒にするわ」
「その後は?」
「私にも友達がいるんだから、毎日ずっと一緒というわけにはいかないでしょう」
桜の顔が少し曇る。
「でも、休み時間には会いに行ってあげる」
「毎日?」
「最初のうちはね」
凛は少し偉そうに言った。
葵が時臣を見る。
「明後日の面談には、私が行きます」
「私も行く」
時臣が答えた。
凛が驚いたように父を見た。
「お父様も学校へ行くのですか」
「ああ」
「お仕事は?」
「これも遠坂家の仕事だ」
葵が少し笑った。
「学校では、父親の仕事と言ってくださいね」
時臣はすぐには答えなかった。
「……分かった」
桜が、襟元の黄金の留め具へ触れた。
「明日は、魔術の先生が来るのですか」
「ああ」
時臣は頷いた。
「お父様は、教えてくれないのですか」
「基礎は私が教える」
桜の目を見て、時臣は続けた。
「だが、君の資質を正しく扱うには、私の知識だけでは足りない」
「お父様にも、分からないのですか」
「分からないことはある」
桜は少し不安そうに見えた。
「私が教えるべきことまで、他人へ任せるつもりはない」
時臣は言った。
「そのうえで、私より適した者から学ぶべきことがある。明日来るのは、そのための教師だ」
桜は考えてから、小さく頷いた。
「はい」
この日も、間桐臓硯は何もしなかった。
王の宝具も、一度も働かなかった。
桜は結界の外へ出て、庭の木まで歩き、自分の足で戻ってきた。
葵は学校へ提出する書類を整えた。
凛は、明日コトネへ何を話すかを考えていた。
時臣は書斎へ戻り、窓辺に置いた双眼鏡を一度だけ手に取った。
間桐邸の方角を見る。
窓は暗い。人影もない。何も動いていなかった。
それでも、警戒を解くつもりはなかった。
時臣は双眼鏡を置いた。
警戒することと、桜の時間を止めることは、同じではない。
廊下の向こうから、凛と桜の声が聞こえた。
明日、桜には新しい教師が来る。
時臣には教えられないものを、教えられる者だった。