翌朝、時臣は家族全員を居間へ集めた。
葵と凛が並んで座り、その向かいに桜がいる。
桜の襟元には、昨日と同じ黄金の留め具がつけられていた。結界の内側へ戻った今は必要のないものだったが、時臣は外さなかった。
今日訪れる教師にも、最初から見せておくつもりだった。
机の上には、五つの宝石が並んでいる。赤、青、黄、緑、そして透明な石。
その少し離れた場所に、蓋のついた黒い箱が置かれていた。
「今日は、桜の新しい教師について話す前に、二人の資質について説明する」
時臣が言うと、凛が五つの宝石を見た。
「私は知っています。五大元素でしょう」
「ああ。言葉は教えた」
時臣は赤い宝石を指先で動かした。
「だが、それが何を意味するのか。桜の資質と何が違うのかまでは、まだ十分に説明していない」
凛は少し不満そうだった。
「私は分かっています」
「では、葵にも分かるように説明できるか」
凛が母を見る。
葵は何も言わず、娘の答えを待っていた。
「火と、水と、土と、風と、空です」
「名前はそうだ」
「私は、全部使えます」
「正確ではない」
時臣は宝石を一つ取り上げた。
凛の眉が寄る。
「使えるでしょう?」
「適性があることと、使いこなせることは別だ」
時臣は五つの宝石を一列に整えた。
「魔術には、それぞれ扱いやすい現象がある。火と相性のよい者もいれば、水と相性のよい者もいる。多くの魔術師は、そのうち一つか二つに強く偏る」
葵が宝石へ目を落とす。
「凛は、その五つすべてと相性がよいのですね」
「ああ」
「それなら、凛が言ったことも間違いではないのではありませんか」
「入口には立てる」
時臣は答えた。
「五つの扉があるとすれば、凛はすべてを開けられる可能性を持っている。だが、扉の先を歩く技術は、別に学ばなければならない」
凛は宝石を見た。
「全部の扉を開けられるなら、全部歩けばよいのでしょう」
「時間は有限だ」
「魔力も、集中力も有限だ。すべてを同じ深さまで学べるとは限らない。何を学び、何を学ばないかも選ばなければならない」
「でも、できることが多い方がよいでしょう?」
「多くの場合はな」
時臣は否定しなかった。
「だが、できることが多い者は、できるという理由だけで手を伸ばしやすい」
凛は昨日の授業を思い出したらしい。少しだけ目を逸らす。
「できることと、行うべきことは同じではない」
「分かっています」
「昨日も聞いたな」
「昨日、教わりましたから」
葵が小さく笑った。
時臣は次に、机の端へ置いた黒い箱へ手を伸ばした。
「桜の資質は、この五つのいずれにも当てはまらない」
桜が五つの宝石と箱を見比べる。
「私は、どの扉も開かないのですか」
「違う」
時臣はすぐに否定した。
「君の前には、別の扉がある」
「六つ目?」
凛が尋ねる。
「六つ目と数えてよいものではない。五つと同じ場所に並んでいるわけではないからだ」
凛には分かりにくかったらしい。
桜も、箱を見たまま黙っている。
時臣は言葉を選んだ。時計塔の魔術師へ説明するなら、虚数空間と現実空間の関係を示せばよい。
しかし、今説明する相手は研究者ではない。
娘二人と、妻だった。
「この部屋に、隣の部屋へ続く扉があるとする」
三人が時臣を見る。
「扉を開ければ、隣の部屋へ行ける。そこは今いる場所とは違うが、この家の中にあり、廊下からも入ることができる」
「普通の扉ですね」
葵が、室内の扉へ目を向けた。
「ああ。だが、桜の資質が触れるものは、隣の部屋とは違う」
時臣は黒い箱へ手を置く。
「この家の間取りには描かれていない。廊下からも見つからない。そこへ通じる扉があることさえ、普通の者には分からない。それでも、こちらとのつながりだけは存在している」
葵が少し考える。
「ない場所なのですか」
「ない、とは言い切れない」
「あるのですか」
「ここにはない」
時臣は答えた。
「それが最も近い」
桜が小さく口を開く。
「ここにはないものが、分かるのですか」
「その可能性がある」
「見えるの?」
凛が桜へ尋ねた。
桜は困ったように凛を見る。
「分かりません」
「まだ、桜自身にも分からなくて当然だ」
「私も理論として説明することはできる。だが、桜が実際に何を感じるのかは分からない」
凛が時臣を見る。
「お父様にも?」
「ああ」
昨日と同じ問いだった。
時臣は、昨日と同じように答えた。
「私には、同じものを見ることはできない」
桜は少し不安そうに箱を見た。
「おかしいのですか」
「いや」
時臣は答えた。
「珍しくはある。だが、珍しいことと、おかしいことは同じではない」
「凛よりも珍しいのですか」
葵が尋ねた。
「資質の希少性だけでいえば、そうだ」
凛の視線が桜へ向いた。
桜も凛を見る。
時臣は続けた。
「だが、珍しいことが優れていることを意味するわけではない。扱い方を知る者が少なく、失敗した時の記録も少ないということでもある」
「では、危ないのですか」
「適切に扱わなければな」
葵の問いに、時臣は曖昧な答えを返さなかった。
「凛の資質にも、桜の資質にも危険はある。危険の形が違うだけだ」
時臣は五つの宝石と黒い箱を見た。
「凛は、ここにあるものを広く扱える。桜は、ここにはないものを感じ取れる可能性がある。大まかには、そう考えてほしい」
葵が箱へ目を落とす。
「空に見えても、何もないとは限らないのですね」
「ああ」
時臣は頷いた。
「空に見えることと、存在しないことは同じではない」
凛が箱の蓋へ手を伸ばそうとした。
「触るな」
時臣が声だけで止める。
凛の手が空中で止まった。
「何もないと聞いて、すぐに確かめようとしたな」
凛は手を引いた。
「本当に何もないか、見ようと思っただけです」
「今の話で教えたかったことの一つだ」
時臣は言った。
「何かあるかもしれないと思った時、触れることを最初の確認方法にしてはいけない」
凛の指先が、わずかに強く握られた。知らない魔導書へ手を伸ばした時のことを思い出した。表紙へ触れた瞬間、こちらから中を確かめたはずなのに、反対に自分の意識を引き込まれた。あの時は、自分で手を離すことさえできなくなりかけた。
「……触れた方が、先に捕まることもあります」
凛は自分の言葉で確かめるように答えた。
「そうだ」
時臣は頷いた。
その出来事を責めるような声ではなかった。
「触れなければ分からないこともある。だが、それはほかの方法で安全を確かめた後だ」
「では、先にどうすればよいのですか」
「距離を取る。観察する。知っている者を呼ぶ」
「お父様を?」
「私か、葵を」
凛が母を見る。
「お母様もですか」
「魔術の処理はできなくても、君たちをその場から離すことはできる」
時臣は言った。
「異常を見つけた者が、必ず自分で正体まで確かめなければならないわけではない。異常を見つけた者が、必ず自分で解決しなければならないわけではない」
葵は何も言わなかった。
だが、時臣が自分をその役割の中へ入れたことは理解したようだった。
「どうして、私も桜のことを知る必要があるのですか」
凛が尋ねた。
「先生が来るのは、桜のためでしょう」
「ああ」
「それなら、桜だけが知っていればよいのではありませんか」
時臣は凛を見た。
「君たちが姉妹だからだ」
凛は少し得意そうな顔をした。
「やはり、そうでしょう」
「だが、姉妹であるというだけでは不足だ」
凛の表情が変わった。
「どういうことですか」
「血がつながっていれば、必ず互いを理解できるわけではない。相手を大切に思っていれば、必ず正しい行動を選べるわけでもない」
「私は桜を大切に思っています」
「そのことを疑ってはいない」
「では、信用していないのですか」
時臣はすぐには答えず、凛と桜を順に見た。
「君の意思は信用している」
時臣は一度言葉を切った。
「意思だけでは、知らない危険から相手を守れないと言っている」
凛は黙った。
「桜を守りたいと思っていても、何が桜にとって危険なのかを知らなければ、止めるべき時に止められない。反対に、桜も君の資質を知らなければ、君が無理をしていることに気づけないかもしれない」
桜が凛を見た。
凛は机の上の宝石を見ている。
「姉妹なら、何も言わなくても分かると考えるつもりはない」
時臣は続けた。
「言わなければ分からないことがある。教えなければ守れないこともある」
葵が尋ねる。
「二人には、具体的に何をさせるつもりですか」
「戦わせるつもりはない」
時臣は先に答えた。
凛がわずかに口を開いたが、何も言わなかった。
「互いに異常を知らせる。相手を一人にしない。大人を呼ぶ。それで十分だ」
「私でもよいのですね」
「ああ」
時臣は葵を見る。
「むしろ、日常の中で最初に異常へ気づくのは、私より君である可能性が高い」
「分かりました」
葵は頷いた。
「では、決まりを確認しましょう」
時臣は娘二人へ向き直った。
「相手の魔術を、許可なく試さない」
「はい」
桜が答える。
凛も少し遅れて頷いた。
「自分だけに見えるもの、聞こえるもの、感じるものがあった場合は、隠さず伝える」
「お父様に?」
「私か葵へだ」
「お姉ちゃんには?」
桜が尋ねる。
「伝えてよい。だが、二人だけで確かめに行ってはいけない」
桜は頷いた。
「どちらかが戻ると言った場合、理由を確かめる前に一緒に戻る」
凛が眉を寄せる。
「本当に何もなかった場合でもですか」
「戻ってから確認すればよい」
「でも、桜が勘違いしただけかもしれません」
「君が勘違いする場合もある」
「私は」
凛が言いかける。
時臣は待った。
凛は昨日の宝石を思い出したらしい。
「……あるかもしれません」
「勘違いしたことより、勘違いではなかった場合に戻らなかったことの方が重大だ」
「分かりました」
「相手が嫌だと言った訓練を、励ますつもりで続けさせない」
凛が桜を見る。
桜は小さく肩を縮めた。
「私、そんなことしません」
「今はな」
時臣は言った。
「君は、努力すればできると考える。自分ができたことを、桜にもできると思う可能性がある」
「桜だって、できるかもしれません」
「できる可能性と、行わせてよいことは同じではない」
凛はまた黙った。
「桜も同じだ」
時臣が呼ぶと、桜が顔を上げる。
「凛ができると言っても、危険だと思ったなら止めてよい」
「私が、お姉ちゃんを?」
「ああ」
「お姉ちゃんの方が、魔術を知っています」
「知っている者が、常に正しい判断をするとは限らない」
桜は凛を見た。
凛は少し複雑そうな顔をしていたが、否定しなかった。
「二人でなら、何でもできるという話ではない」
時臣は姉妹を見比べた。
「一人では見えないものがあると、互いに覚えておくための話だ」
それから、時臣は凛へ視線を向けた。
「凛。桜の資質について、今の説明を自分の言葉で言いなさい」
「私がですか」
「理解したかを確認する」
凛は黒い箱を見る。
少し考えてから、桜の方を向いた。
「桜は、私たちには何もないように見えるところにも、何かがあると分かるかもしれない」
桜が凛を見返す。
「でも、分かったからといって、一人で触ってはいけない。私にも分からないかもしれないから、お父様かお母様を呼ぶ」
「概ね正しい」
時臣は頷いた。
「桜。凛について説明できるか」
桜は五つの宝石を見た。
「お姉ちゃんは、いろいろな魔術を使えるようになります」
凛の背筋が少し伸びる。
「でも」
桜は続けた。
「できそうだからって、何でもやってはいけません」
凛が妹を見る。
葵が口元へ手を当てた。笑うのをこらえている。
時臣は少し間を置いた。
「こちらも、概ね正しい」
「お父様」
「間違ってはいない」
「もっと、ほかに言うことがあるでしょう」
「入口が多いことと、すべてへ無制限に入ってよいことは違う。桜は理解している」
凛は納得していない顔をした。
だが、桜へ怒ることはなかった。
ただし、納得したことと、諦めたことは別だった。
凛は机に並んだ五つの宝石を見つめていた。すべての道を同じだけ歩く時間がないのなら、別々に歩かなければよい。五つの資質を、一つの目的へ使う方法を考えればよい。
やがて、以前時臣から聞いた王の宝具を思い出したらしい。凛が顔を上げた。
「お父様」
凛は不満そうに言った。
「五つを一度に使う術式はないのですか」
「今の話を聞いていたのか」
「聞いていました。全部を別々に極める時間がないなら、一つの目的にまとめればよいのでしょう」
「王様が間桐邸で使った宝具は、何をしていたのですか」
「なぜ、それを知りたい」
「周囲を見て、危険を判断して、必要な宝具を動かしていたのでしょう。なら、一つの術式の中に、いくつもの働きを組み合わせていたはずです」
「詳細は分からない。王が我々に説明する必要もない」
「見た範囲でよいです」
「凛」
「触りません。先に観察して、知っている人から話を聞いています」
「お姉ちゃんは、もう次のことを考えているんですね」
「当然でしょう」
「やっぱり、すごいです」
桜は小さく笑っていた。
姉の無鉄砲さを笑ったのではない。五つの入口があると教えられれば、そのすべてへ入る方法をすぐに考え始める。そんな姉を、やはりすごいと思っている顔だった。
時臣は凛を見た。未知の術式へ関心を持ち、その構造を知ろうとすること自体は、戒めるべきものではない。しかも凛は、先ほど教えたばかりの手順に従い、現物へ手を伸ばす前に、目撃した者から情報を得ようとしている。
「私が確認できた範囲は、後で説明しよう」
「本当ですか」
「ああ。ただし、王の宝具をそのまま再現できるとは考えるな」
「同じものを作る必要はありません。働きが分かればいいのです」
「その話も含めて後だ」
凛は不満を口にせず、満足そうに頷いた。
時臣は机の上の宝石を片づけ、次の書類を取り出した。
「では、次に教師について説明する。今日来るのは、アデライン・ハーグリーヴスという魔術師だ。時計塔で、現実空間とその外側の境界に関する研究をしている」
「虚数の魔術師なのですか」
凛が尋ねる。
「本人の資質は違う」
「では、どうやって桜へ教えるのですか」
「彼女の一族に、過去、虚数の資質を持った者がいた。その者が残した記録と術式を継承している」
「その方に教わればよいのでは?」
「百年ほど前に亡くなっている」
「……それは無理ですね」
「ああ」
時臣は書類を葵へ渡した。
葵はすでに一度目を通しているが、改めて娘たちの前で開いた。
「ハーグリーヴス氏の一族には、その後、同じ資質を持つ者が現れなかった。記録は残っているが、実際に適用して確かめることができていない」
桜が書類を見た。
「その人は、私を教えたいのですか」
「教えることによって、自分の研究を進めたいと考えている」
時臣は隠さなかった。
「私を、調べるのですか」
「そうだ」
桜の手が、膝の上で少し強く握られる。
凛が妹の方へ身体を寄せた。
時臣は桜へ視線を移した。
「嫌なら、断ってよい」
「研究したいという目的を持つこと自体は、悪いことではない。だが、その目的のために君の身体や意思を自由にしてよいわけではない」
桜は黙っている。
「契約では、君が拒否した場合、その日の授業は終了する。理由を説明する必要はない」
「何もされていなくても?」
「ああ」
「先生が怒りませんか」
「怒ることは契約違反ではない」
時臣は答えた。
「だが、怒ったことを理由に授業を続けることはできない。君へ不利益を与えることも認めない」
葵が続ける。
「身体へ触れる時は、先に桜へ聞くことになっています。髪や血を研究に使う場合も、桜に説明して、私たち全員が認めなければ渡しません」
「血も取るのですか」
「必要だと言われても、必ず取るとは限らない」
時臣が言った。
「必要性を説明させる。代わりの方法がないかも確認する。そのうえで、君が嫌なら行わない」
凛が尋ねる。
「先生が契約を破ったら、私が止めてもよいのですか」
「教師を裁定する権限を、君に与えるつもりはない」
「でも、桜を守るのでしょう」
「異常を感じたなら、桜をその場から連れ出してよい。私か葵を呼びなさい」
「先生を攻撃してはいけないのですか」
「攻撃されていない限りはな」
「攻撃されたら?」
「護身具が先に働く」
凛は桜の襟元を見た。
「それでも足りない場合だけだ。自分から戦うことを最初の選択肢にしてはいけない」
「分かりました」
凛は完全には納得していないようだったが、頷いた。
「ハーグリーヴス氏に利益があることは、こちらにとっても利点だ」
時臣は契約書の一項を指で示した。
「桜を安全に育て、技術を身につけさせなければ、彼女も研究を続けられない。だが、利益が一致しているだけでは不足する。だから、権限と禁止事項を契約で明確にした」
葵が書類を閉じる。
「そして、契約が守られているかを、私たち全員で確かめます」
桜が母を見る。
「お母様も、授業を見るのですか」
「最初は必ず。慣れた後も、いつでも入れるようにします」
「お父様は?」
「可能な限り確認する」
「お姉ちゃんも?」
凛が答えるより先に、時臣が言った。
「凛の授業と学校が優先だ。常に同席する必要はない」
「でも、今日は見てもよいのでしょう」
「ああ。今日は全員で確認する」
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
桜の肩が小さく動く。
時臣はすぐには立ち上がらなかった。
「桜」
「はい」
「会うこと自体が嫌なら、今日は断ることができる」
凛が妹を見た。何か言おうとして、口を閉じる。
桜が自分で答えるべきだと理解したらしい。
葵も待っている。
桜は襟元の留め具へ一度触れた。
「会ってみます」
「分かった」
時臣は立ち上がった。
扉の向こうには、時臣にも見えないものを教えられるという魔術師が待っていた。