優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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44.空ではないもの

 アデライン・フェンウィックは、魔術師らしい長衣を着ていなかった。

 濃い灰色の上着と、同じ色の長いスカート。足元は革靴で、灰褐色の髪を顎の辺りで切りそろえている。

 細い銀縁の眼鏡の奥から、落ち着いた目が遠坂家の四人を順番に見た。

 年齢は三十を少し越えた程度に見える。手には細長い革の鞄を持っていた。

 

 候補は、彼女一人ではなかった。

 虚数属性に関する記録を持つ家へ照会し、返答のあった魔術師とは事前に条件を詰めた。桜本人に授業を止める権利を認めなかった者。研究のための採取や加工を譲らなかった者。葵の立ち会いを嫌い、遠坂当主だけとの契約を求めた者。

 

 その条件をすべて受け入れ、なお自分が桜を教えたい理由を隠さなかったのが、アデライン・フェンウィックだった。

 

「アデライン・フェンウィックです」

 日本語にはわずかな訛りがあったが、言葉は明瞭だった。

「遠坂時臣だ。妻の葵。長女の凛。そして、次女の桜だ」

 

 アデラインの視線が桜へ向く。

 襟元の黄金の留め具に一度止まり、すぐに顔へ戻った。

 何であるかを尋ねなかった。

 

「初めまして、桜さん」

「初めまして」

 桜は葵の隣で頭を下げた。

「まず、あなたに何ができるかを確かめるつもりはありません。私と話をして、私から教わってもよいかを、あなたに決めてもらいます」

 

 桜が時臣を見る。

 時臣は頷かなかった。

 決めるのは桜だからだ。

「はい」

 桜は答えた。

「お話を聞きます」

 

「ありがとうございます」

 アデラインは軽く頭を下げた。

 

 時臣は彼女を居間へ案内した。アデラインは椅子へ座る前に、革の鞄を机の横へ置く。

 留め具を外すと、中には小さな魔術触媒のほかに、定規、方位磁針、温度計、懐中時計、折り畳まれた三脚まで入っていた。

 

 凛が覗き込む。

「普通の道具も使うのですか」

「普通ではない道具だけを使う理由がありますか」

 アデラインが尋ね返す。

 

 凛は少し考えた。

「魔術師だから?」

「魔術でなければ測れないものには魔術を使います。温度計で測れるものに、毎回術式を組む必要はありません」

 

 凛が父を見る。

 時臣の書斎に置かれた双眼鏡を思い出したようだった。

 時臣は何も言わなかった。

 

「先に確認しておきたい」

 時臣は契約書を机へ置いた。

「書面の内容に変更はないか」

「ありません」

 アデラインは書面を開かずに答えた。

「桜さん本人が求めれば理由を問わず中止。接触はその都度許可を得る。採取、加工、刻印への干渉は禁止。異常の申告があれば、誰からのものであっても一度中断する」

 

「再開の判断は」

「あなたか葵さんが行う。承知しています」

 

 アデラインは桜へ向き直った。

「私があなたを教えたい理由については、聞きましたか」

「私の魔術を、研究したいから」

「正確です」

 アデラインは否定しなかった。

 

「私の家には、虚数の資質を持っていた魔術師の記録があります。ですが、長い間、その記録を使える者がいませんでした。あなたが学ぶことで、その記録が正しかったかを確かめられる。新しいことも知ることができるでしょう」

「私ができなかったら?」

「できなかったことを記録します」

 

 桜が目を瞬かせる。

「怒らないのですか」

「できない理由を知らずに怒っても、研究は進みません」

 アデラインは言った。

 

「ただし、練習をしなかった場合は、練習をしなかったと記録します」

「それは怒るのと違うの?」

 凛が聞いた。

「怒ることもあるかもしれません」

 アデラインは平然と答えた。

 

「ですが、私が怒っていることと、桜さんが危険な訓練を受けなければならないことは別です」

 凛は少しだけ納得した顔をした。

 葵が尋ねる。

「桜を、研究の対象としてしか見ないということですか」

 

 アデラインはすぐには答えなかった。

「今の私は、桜さんをほとんど知りません」

 桜の方を見る。

「知らない人を、最初から大切な弟子だと言えば、それは嘘になります」

 

 葵の表情は変わらない。

「ですが、教える以上は、学ぶ者として扱います。私の研究を続けるためにも、桜さんが安全に学び、自分で判断できるようになる必要があります」

「利益があるから、大切に扱うのですね」

「少なくとも、最初は」

 アデラインは認めた。

「それでは不足でしょうか」

 

 葵は時臣を見なかった。

 自分で答えた。

「いいえ。それを隠されるよりは」

 アデラインがわずかに頷く。

「私も同じ考えです」

 

 時臣は二人の会話を聞いていた。

 契約を結んだことは、確認を終えてよい理由にはならない。

 

「では、最初の確認をしてもよいでしょうか」

 アデラインが桜へ尋ねた。

 桜は時臣と葵を見る。

「桜が決めてよいのよ」

 葵が言った。

「はい」

 桜はアデラインを見た。

「お願いします」

 

     *

 

 アデラインは鞄から、三つの木箱を取り出した。大きさも形も同じだった。机の上へ、一定の間隔を空けて並べる。

「この三つのうち、一つには銀片が入っています。一つは空です」

 アデラインは、どの箱かは示さなかった。

「残る一つにも銀片があります。ただし、今この部屋にあるものとしては扱えない位置へ移しています」

「虚数空間に?」

 凛が尋ねる。

「その入口に近い場所です。完全に移せば、私には戻せません」

 

 アデラインは小さな計器を取り出した。針のついた円形の器具だった。

「私はこれで、術式が維持されていることだけを確認します。銀片そのものを感じているわけではありません」

 

 桜に目を閉じてもらい、アデラインは三つの箱の位置を入れ替えた。

 計器の針は手帳で隠し、桜からは見えないように一つずつ確認する。

「目を開けてください。今から、三つの箱の前に順番に立ってもらいます。触れる必要はありません」

 

「開けないのですか」

「開けません」

「中を見ないで、分かるのですか」

「それを確かめます」

 

 桜は椅子から立ち上がった。

 時臣も立とうとしたが、葵がわずかに手を上げた。

 

 危険がない限り、桜自身に歩かせる。

 昨日と同じだった。時臣は座ったまま、宝具の反応だけを確認する。

 

 桜は最初の箱の前へ立った。

 しばらく見ている。

「何か感じますか」

 アデラインが尋ねた。

「重い感じがします」

「箱の重さが違うように見えますか」

「見た目は同じです。でも、中にあるものが、ここにある感じがします」

「分かりました。次へ」

 

 二つ目の箱。

 桜は少し首を傾げる。

「これは、何もありません」

「どのように違いますか」

「奥がありません」

 

 アデラインの手が、帳面の上で止まった。

「奥?」

「箱の中で終わっています」

 桜は、自分でも言葉が分からないようだった。

「変ですか」

「いいえ。続けてください」

 

 三つ目の箱の前へ移る。

 桜は立ち止まった。

 すぐには何も言わない。

 箱へ近づくわけでも、手を伸ばすわけでもなかった。

 ただ、黒い蓋を見ている。

 

「桜?」

 凛が呼んだ。

 桜は振り返らなかった。

「空ではありません」

 小さな声だった。

 

 アデラインが尋ねる。

「何がありますか」

「分かりません」

「銀片は見えますか」

「見えません」

「では、どうして空ではないと?」

 

 桜は言葉を探している。

「箱の中には、ありません」

「はい」

「でも、箱のところから、どこかへ続いています」

 桜は自分の胸の前で指を動かした。

 扉を探すような動きだった。

 

「さっきの箱は、中で終わっていました。これは、箱の中で終わっていません」

 

 部屋が静かになった。

 時臣には、三つの箱の違いは分からなかった。

 一つ目は通常の銀片が入っていると知っている。

 二つ目は空だと聞いている。

 三つ目には術式が組まれていることも、魔力の流れを見れば理解できる。

 だが、桜が言う「奥」を感じることはできなかった。

 凛も、三つ目の箱を見つめている。

 

「私には分からない」

 凛が言った。

 桜が振り返る。

「お姉ちゃんにも?」

「魔力が流れていることは分かる。でも、その先に何かあるとは感じないわ」

 桜の表情が揺れた。自分だけが違うものを感じたことを、不安に思ったらしい。

 

「私が用意した状態と一致しています」

 アデラインが言った。

 桜が彼女を見る。

「銀片は、この箱の中にはありません。ですが、箱へ組んだ術式を通じて、現在の空間から外れた位置に残っています」

 

 アデラインは帳面へ記録した。

「あなたは、空の箱と、こちらに存在しないものへつながる箱を区別しました」

「本当に?」

「はい」

 桜は時臣を見た。

「お父様にも、分かりましたか」

「いや」

 時臣は答えた。

 

「私には、術式があることしか分からない。君が感じたものと同じものは見えていない」

「お父様にも見えないのに、合っているのですか」

「ああ」

 

 時臣はアデラインを見る。

「だから、この者を探した」

 アデラインは記録を終えると、帳面を閉じた。

「今日は、ここまでにします」

 

 凛が驚く。

「箱を開けないのですか」

「一つ目を開ければ、普通の銀片があると確かめられるだけです。三つ目を開けても、あなたが感じた先は目では見えません」

「桜が触れば、もっと分かるかもしれません」

「だから触れさせません」

 アデラインは即座に答えた。

 

「何があるかを見分けることと、それへ手を伸ばすことは別の訓練です。帰還方法も、異常時の遮断も教えていない者へ、触れさせる理由はありません」

 

 時臣は黙ってアデラインを見た。

 慎重さを演じている可能性はある。契約した初日だから、規則を守っているだけかもしれない。

 それでも、少なくとも今は、桜の成果を急いで大きく見せようとはしなかった。

 

「桜さん」

 アデラインが呼んだ。

「はい」

「手首へ触れてもよいですか。脈を確認します」

 

 桜は自分の手首を見た。

 少し考えてから、袖口を上げる。

「はい。いいです」

 

 アデラインは桜の手首へ指を置いた。

 強く握らない。

 黄金の留め具にも触れなかった。

 懐中時計を見ながら脈を数え、次に桜の目と呼吸を確認する。

 

「気分が悪いところはありますか」

「ありません」

「頭が遠くなる感じは?」

「少しだけ、箱の方へ引かれる感じがしました」

「今もありますか」

「もうありません」

 

 アデラインは帳面を開き、その言葉を書き加えた。

「次回から、何かを感じた時は、正しい言葉を探そうとしなくて構いません」

「でも、説明できないと」

「説明は必要です。ですが、先に上手な説明を作ろうとすると、実際に感じたことを変えてしまう場合があります。奥がある。引かれる。箱の中で終わっていない。今日はそれで十分です」

 

 桜は小さく頷いた。

「分からない時も、分からないと言ってください。私が期待している答えを考える必要はありません」

「間違えてもよいのですか」

「間違えたことが分かれば、それも記録になります」

「怒りませんか」

「同じことを何度も尋ねますね」

 アデラインは少しだけ目を細めた。

 笑ったのかもしれない。

 

「間違えたことでは怒りません。分からないのに、分かったふりをした場合は注意します」

 桜が時臣を見る。

 時臣は昨日、自分には分からないと言った。

 桜もそれを思い出したのだろう。

「はい」

 今度の返事は、先ほどより少し大きかった。

 

     *

 

 授業が終わった後、アデラインは時臣と葵へ記録を渡した。

 三つの箱を見分けたこと。

 虚数側へわずかに引かれる感覚があったこと。

 呼吸、脈拍、魔力の流れに大きな変化はなかったこと。

 次回も、接触は行わず、距離と位置を変えた識別だけを行うこと。

 

「すぐに術式を使わせるつもりはないのか」

 時臣が尋ねた。

「自分が何を感じているか説明できない者に、入口を開かせるおつもりですか」

「いや」

「では、先に識別を教えます」

 

 アデラインは鞄を閉じた。

「開く方法より、閉じている状態を知る方が先です。本人が、何も起きていない時の感覚を知らなければ、異常が始まったことにも気づけません」

「妥当だ」

 時臣は答えた。

 

「次回も、葵が同席する」

「承知しています」

「私は?」

 凛が尋ねる。

 

「学校と自分の授業に支障がない範囲でなら、見学を認める」

 時臣が言うと、凛はアデラインを見る。

「私にも、虚数は使えるようになりますか」

「おそらく、桜さんと同じ形では使えません」

 アデラインは答えた。

 

「五大元素すべてに適性があっても?」

「すべてに適性があることと、すべての資質を持つことは違います」

 

 凛は少し残念そうだった。

「ですが、学ぶことはあります」

「何をですか?」

「自分に見えないものが、ほかの者にも見えないとは限らないことを」

 

 凛は桜を見る。

 桜も姉を見た。

 

「それは、今朝お父様から教わりました」

「では、覚えているか確かめられますね」

 

 アデラインは立ち上がった。

 桜も椅子から立つ。

「次も、来てくれるのですか」

「あなたが望むなら」

「先生は来たいのですか」

 

 アデラインは少し考えた。

「来たいです」

「研究のため?」

「それもあります」

「ほかにも?」

「今日より多くのことを、次は知ることができるからです」

 

 桜はその答えを聞いて、葵を見た。

 葵は穏やかに尋ねる。

「桜は、どうしたいの?」

 

 誰も先に答えなかった。

 桜はアデラインを見上げる。

「次も、教えてください」

「分かりました」

 アデラインは頭を下げた。

 

「次回も、嫌になったら途中で終わりにしてください」

「はい」

 

 玄関まで教師を見送った後、四人はもう一度居間へ戻った。

 三つの箱が置かれていた場所には、何もない。

 

 凛はそこをしばらく見ていた。

「本当に、私には何も分からなかったわ」

「私も、銀のものは見えなかったよ」

 桜が言う。

「でも、何もないのとは違ったの」

「どう違ったの?」

「上手く言えない」

 桜は困った顔をした。

 

「箱の後ろに、もう一つ箱があるみたいな。でも、後ろを見てもないの」

「分からないわ」

「うん」

 桜は少し俯く。

 凛はすぐに続けた。

「だから、分かるようになったら教えて」

 

 桜が顔を上げる。

「お姉ちゃんに?」

「私には見えないんでしょう。なら、あなたが言わないと分からないじゃない」

「信じてくれるの?」

「今日、本当に当てたでしょう」

 凛は言った。

「次も全部当たるとは限らないけど」

 

「凛」

 葵がたしなめる。

「間違えることもあるって、先生も言っていたもの」

 凛は続けた。

「間違えたら一緒に戻って、お父様かお母様を呼べばいいのよ」

 

 桜はしばらく姉を見ていた。

「お姉ちゃんが、できそうだから何でもしようとした時は?」

「それは」

 凛が時臣を見る。

「桜が止めてよい」

 時臣は答えた。

 

「でも、私の方が魔術を知っているわ」

「今朝も同じ話をしたな」

「……止めてよいわ」

 凛は桜へ言った。

 

「ただし、理由は教えて」

「戻ってから?」

「そう。先に戻ってから」

 桜は頷いた。

「分かりました」

 

 葵が娘二人を見ている。

 時臣も見ていた。

 同じ家に暮らしていても、同じものが見えるとは限らない。

 ならば、見えた者が伝え、見えない者は聞けばよい。

 分からない時は、分からないまま先に戻ればよい。

 

 先ほどまで三つの箱が並んでいた場所には、もう何もなかった。

 机の端には、それとは別に、朝から置かれたままの黒い箱がある。

 本当に空の箱だった。

 

「これは、何もないのよね」

「ああ」

 時臣は答えた。

 

 桜が箱を見る。

 少しだけ考えてから、頷いた。

「これは、空です」

 

 凛には、朝と同じ箱にしか見えなかった。

 時臣にも同じだった。

 桜にも、そこには何も見えない。先ほどの箱のように、その向こうへ続くものも感じなかった。

 空に見えることと、何もないことは同じではない。

 そして、何もないものを、無理にあると言う必要もなかった。

 




アデライン・フェンウィックは本作のオリジナルキャラクターです。
桜の虚数属性を教えられる人物が原作内では見当たらなかったため、家庭教師として登場してもらいました。
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