優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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45.終章 救われる必要のなかった少年

 第四次聖杯戦争から、三度目の夏が来ていた。

 

 イリヤスフィールをアインツベルン城から連れ出すまでには、長い時間がかかった。

 協力者を買い、証拠を残し、逃走経路を作り、交渉した。誰か一人を切り捨てれば早くなる局面もあったが、舞弥も、アイリスフィールも、切嗣自身も、作戦の外へは捨てなかった。

 王の残した黒いカードも、移動や医療、協力者への支払いに何度も使った。

 

 セイバーは、イリヤが恐怖にも命令にも縛られず、自分の意思で城を出たことを確かめた。

 その後の保護体制まで見届けてから、ようやく自ら現界を解いた。

 

 遠坂時臣からの連絡も、魔術ではないいくつかの経路を通って届いた。

 冬木の大聖杯を恒久的に停止するのか。封印を続けるのか。いつか解体するのか。

 

 切嗣は、自分一人で決めるべきことではないと返した。

 時臣もまた、当主一人の判断で終わらせるつもりはないらしい。まず停止と観測を続け、記録を残すと書いていた。

 

 だから、結論はまだ出ていない。

 その協議のため、切嗣たちは折に触れて冬木へ戻っていた。

 

 冬木に滞在している間の身体慣らしに、藤村家の道場を借りるようになったのも、その頃からだった。藤村の道場には青い畳の匂いが残り、開け放たれた戸から、湿った風と蝉の声が流れ込んでいた。

 

 その真ん中で、少年が転がった。少年の名は、士郎。藤村道場へ通う、近所の家の子だった。夕方になれば、両親の待つ家へ帰る。

 

 切嗣が一人で身体を動かしているところを、士郎に何度か見つかった。頼まれるうちに、そのまま護身術を教えるようになった。

 それ以上の関係ではない。少なくとも、切嗣はそう考えていた。

 

「っ、痛……」

「受け身が遅い」

 切嗣は、畳の上に立ったまま言った。

 声は淡々としている。昔のような冷たさではない。ただ、余計な熱を混ぜない声だった。

 

 少年――士郎は、顔をしかめながら起き上がる。

「今の、完全に投げる気でしたよね」

「投げた」

「護身術じゃなかったんですか」

「投げられた時に頭を打たないのも護身術だ」

「それはそうですけど」

 士郎は不満そうに言いながら、もう一度構えた。

 

 切嗣はそれを見て、軽く首を振る。

「勝とうとしなくていい」

「でも、勝たないと意味ないんじゃ」

「まず怪我をしない。逃げる。助けを呼ぶ。相手を止める。勝つのはその後だ」

「それ、武術っていうより逃げ方じゃないですか」

「逃げ方を知らない人は、戦い方を覚えない方がいい」

 

 士郎は言い返そうとして、言葉に詰まった。

 たぶん、理屈としては分かっているが、納得はしていない。

 

 その顔を見て、切嗣はほんの少しだけ目を細めた。

「もう一度」

「はい」

 士郎が踏み込む。まっすぐだった。まっすぐすぎる。

 

 切嗣は半歩ずれ、手首を取って、力を逃がす。士郎の身体が前へ流れた。今度は倒れる寸前で手をつき、肩から転がる。

 さっきよりはましだった。

「今のは?」

「前よりはいい」

「前よりは、ですか」

「前よりは」

「厳しいなあ」

 士郎は笑った。

 その笑い方に、切嗣は一瞬だけ視線を止めた。

 

 この少年は、何も知らない。

 自分がかつて、聖杯に世界を投げ込もうとしていたことを知らない。あの夜、願いが別の形で処理されていれば、どこかで失われていたかもしれない日常のことも知らない。

 ただ、転んで、起き上がって、また構える。

 

 その当たり前が、切嗣には少し眩しかった。

 

「切嗣」

 道場の端から声がした。

 アイリスフィールは、長く立っているとまだ疲れるため、道場の端に座っていた。身体は完全には戻っていない。それでも、自分の足でここまで来て、自分の意思で娘の隣に座っている。

 その隣に、イリヤスフィールがいる。三年前よりも背は伸びた。まだ幼い少女ではあるが、城に残されたまま父を待っていた、あの頃の姿ではなかった。年相応に、ゆっくりと時間を得た少女だった。

 

 イリヤは、士郎が畳から起き上がるのをじっと見ていた。

「お父さん、あの子にはずいぶん丁寧に教えるのね」

 イリヤが言った。

「そうかな」

「そうよ。転ぶところまでちゃんと見て、それから自分で立たせてる」

 

 切嗣は、士郎へ目を向けた。

「立てる子なら、自分で立った方がいい」

「ふうん」

 

 イリヤは、切嗣の顔を覗き込み、悪戯っぽく目を細めた。

「少しは、お父さんらしくなったのね」

 アイリが小さく笑った。

「切嗣が?」

「僕が」

「それは大変ね。明日は雪かしら」

「夏だよ、アイリ」

 

 イリヤは頬を膨らませる。

「私にも逃げ方ばっかり教えたわよね」

「一番大事だから」

「士郎にも同じこと言ってた」

「大事なことは、何度でも言う」

「そういうところよ、切嗣」

「今はお父さんじゃなかったのかい」

「それは都合によるわ」

 

 切嗣は黙った。

 イリヤは、少しだけ勝ち誇ったように笑う。

 アイリはその横顔を見て、柔らかく目を細めた。

 

 そこへ、道場の戸が勢いよく開いた。

「こらーっ、士郎くん! また切嗣さんにばっかり教わってる! ここは藤村道場! この私、藤村大河師範代代理補佐見習い予定候補を差し置いて、何事かなーっ!」

 大河が両手を腰に当てて立っていた。

 相変わらずだった。

 肩まで伸びた髪を揺らし、竹刀袋を背負い、なぜか自信だけは道場いっぱいに満ちている。

 

 士郎が畳の上で正座する。

「いや、藤ねえ。それ、役職が長すぎませんか」

「長い方が偉そうでしょう!」

「偉そうって自分で言うんですか」

「士郎くん、口答えとはいい度胸ね。よろしい。今から私が直々に稽古をつけてあげよう!」

 

 士郎の顔が引きつった。

「え、今からですか」

「若者は一日三回稽古しても死なない!」

「死なないかもしれないけど、明日動けなくなります」

「大丈夫! 動けなくなったら根性で動く!」

「それ、大丈夫じゃないです」

 

 イリヤがくすくす笑った。

「タイガって、いつもああなの?」

 アイリが微笑む。

「ええ。相変わらずね」

 

 切嗣も、ほんの少しだけ笑った。

 大河はそれを見逃さなかった。

「あっ、切嗣さん笑った! 今、私の名采配に感動しましたね!」

「いや」

「否定が早い!」

 道場に笑い声が広がった。

 士郎は結局、大河に引っ張られるように竹刀を持たされた。切嗣は少し下がり、アイリとイリヤのそばへ戻る。

 

 イリヤは士郎を見ていた。

 まっすぐ踏み込んで、大河に軽くいなされ、悔しそうにまた構える少年を。

「ねえ、お父さん」

「何だい」

「あの子、いい子ね」

「そうだね」

 

「あの子を救いたくなる?」

 切嗣は少しだけ黙った。

 

 道場の中央で、士郎がまた転んだ。今度は受け身を取り、大河に「おお、今のはよし!」と褒められている。

 切嗣はその様子を見て、静かに言った。

「救わなくていい子どもがいるのは、悪いことじゃない」

 

 イリヤは父を見た。

 アイリも、何も言わずに切嗣を見ている。

「でも」

 切嗣は続けた。

「転び方くらいは、教えてもいい」

 

 イリヤは少し考えてから、笑った。

「それくらいなら、いいと思う」

 

 大河の声が飛ぶ。

「そこ! 家族会議してないで見て見て! 今から士郎くんが必殺の踏み込みを見せます!」

「えっ、僕そんなこと言ってませんよ!」

「言った! 目が言ってた!」

「目で勝手に宣言しないでください!」

 

 アイリが笑い、イリヤも笑った。

 切嗣は、その二人の声を聞きながら、道場の向こうにいる少年を見ていた。

 

 冬木の空は青い。火の手は上がっていない。

 士郎が呆れ、イリヤが笑い、アイリが目を細める。

 切嗣は、その光景をただ見ていた。

 

 世界は救われていない。

 

 それでも、救われる必要のなかった少年が、受け身を取り、自分の足でまた立っている。

 悔しそうに、もう一度構え直している。

 

「切嗣」

 アイリが、そっと言った。

「うん」

「よかったわね」

 

 切嗣は、すぐには答えなかった。

 それから、小さく頷いた。

 

「ああ」

 切嗣はようやく、その光景を失敗とは思わなかった。

 




 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

 本編としては、今回でひとまず完結です。

 ただ、切嗣がどうやってイリヤを迎えに行ったのか、聖杯の器でなくなったイリヤがアインツベルンでどう扱われたのか、この世界の士郎が高校生になるとどう育つのか、そして臓硯がその後どうなったのかなど、まだ書いておきたい話が少し残っています。

 もうちょっとだけ、幕間として続きます。
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