優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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幕間 遠回りの作戦

 第四次聖杯戦争が終わってから、二か月が過ぎていた。

 

 切嗣は、まだアインツベルン城へ直接向かわなかった。

 舞弥は最初、それを当然の判断として受け取った。

 

 正面から乗り込めば、相手は構える。

 こちらがイリヤスフィールを目的としていると知られれば、彼女は盾にされるか、隠されるか、あるいは処分される。

 それを避けるために、遠回りをする。それは、これまでの切嗣もやってきたことだった。

 

 だが、今回の遠回りは、舞弥の知るそれとは少し違っていた。

 以前の切嗣ならば、まず敵の中で弱い場所を探した。買える者。脅せる者。排除できる者。

 協力者の安全も、目的達成に必要な範囲では守った。だが、作戦が終わった後まで責任を負うものとは考えなかった。

 必要なら囮にし、撤退の優先順位から外した。

 

「魔術師を探すな」

 切嗣は、最初にそう言った。

 舞弥は顔を上げた。

「魔術関係者を調べない、という意味ですか」

「違う。まずは、魔術を知らない者から調べる」

 

 切嗣は机の上に地図を広げた。

 アインツベルンの城そのものではない。その周辺の村。古い街道。資材置き場。鉄道駅。燃料の搬入経路。冬期に閉じられる道と、閉じられない道、それに宅配業者の集積所。近隣に住む医師、修道院、猟師、小間物商。聖杯戦争の地図ではなかった。生活の地図だった。

 

「城が機能しているなら、必ず外と接している。食料、燃料、薬品、衣料、修繕、廃棄物。隠しているつもりでも、周辺には痕跡が残る」

「アインツベルンなら、ホムンクルスだけで完結させている可能性もあります」

「完全には無理だ。外部から遮断された魔術工房ほど、外から見れば異常が目立つ」

 

 舞弥は地図を見る。

「噂を拾うのですか」

「ああ。魔術の噂ではなく、普通の噂だ」

 切嗣は淡々と言った。

 

「今年は城から買い付けが少ない。いつも雇われる修繕工が呼ばれていない。薪の量が減った。薬草の注文が変わった。以前は運ばれていた子ども用品が途絶えた。子どもの声を聞かなくなった。使われていないはずの区画にだけ、少量の食料が運ばれている。そういう不自然な変化を拾う」

「子どもの声」

 アイリスフィールが、小さく繰り返した。

 

 切嗣は彼女を見なかった。

「イリヤが聖杯の器として扱われているなら、警備は厚い。使用人も増える。搬入物も増える。だが、もし価値を失ったと判断されているなら、逆になる」

 セイバーの表情が険しくなった。

「価値を失った、とは」

「アインツベルンにとっての価値だ」

 切嗣は言った。

「娘としてではない。聖杯としての価値だ」

 

 アイリスフィールは、静かに息を吸った。

「なら、イリヤは」

「守られていない可能性がある」

 

 切嗣の声は冷たかった。 だが、その冷たさは以前と同じではなかった。

 敵を殺すための冷たさではない。怒りを作戦に変えるための冷たさだった。

 

「舞弥。表の噂を拾う。裏の経路も使う。だが、こちらの目的は伏せる。イリヤの名は出すな」

「では、どう聞きますか」

「城の維持に必要な物資と人の動きを洗え。燃料、薬品、衣類、寝具、冬場の雇用。古い使用人の出入りと、子ども向けの品もだ」

 舞弥は頷いた。

「了解しました」

 

「それと、接触した者は切り捨てない」

 舞弥は、一瞬だけ返答を遅らせた。

 切嗣は彼女を見た。

「情報源を危険に晒さない。金で済むなら金で済ませる。脅す必要があるなら、脅した事実が残らないようにする。だが、用済みだから処理するという選択肢は取らない」

「それでは、接触の痕跡が残ります」

「残る。だから、その痕跡がこちらへ直接繋がらないようにする」

 切嗣は即答した。

 

 舞弥は、しばらく切嗣を見ていた。

「難度が上がります」

「ああ」

「時間もかかります」

「ああ」

「それでも?」

「それでもだ」

 

 切嗣は地図へ視線を戻した。

「今回は、早く終わらせるために誰かを捨てる作戦ではない」

 舞弥は、その言葉を胸の奥で一度だけ反芻した。

 それから、淡々と答えた。

「了解しました」

 

     *

 

 調査を始めて三週間後、セイバーとアイリスフィールは、城から離れた小さな町にいた。

 雪が降っていた。 道は白く、屋根も白く、看板の文字さえ半ば雪に埋もれている。

 だが、人の生活は止まっていなかった。 パン屋の煙突からは煙が上がっている。 古いトラックはゆっくりと通りを進んでいる。

 酒場の戸口では、男たちが昼から酒を飲み、城の悪口とも自慢話ともつかない話をしていた。

 

 アイリスフィールは長く歩けなかった。店から店への移動には車を使い、雪道ではセイバーが半歩横についていた。それでも、切嗣に任せて待つことだけは選ばなかった。

 セイバーは、旅装の外套をまとい、アイリスフィールの少し後ろを歩いていた。

 剣は持っていない。少なくとも、見えるところには。

 

 アイリスフィールは、どこかの没落貴族の未亡人のように振る舞っていた。

 白い髪を目立たぬよう帽子で隠し、柔らかい口調で店の女主人と話す。

「この辺りは、冬が厳しいのね」

「ええ、奥様。城の方なんか、もっと冷えますよ。昔はよく薪の注文があったんですがねえ」

「今は違うの?」

「最近はめっきり。あのお城、まだ人が住んでるんだかどうだか」

 女主人は声を潜める。

 

「ああでも、たまに子どものものを買いに来る者はいましたよ。ずっと前はね。小さな手袋とか、毛布とか」

「今は?」

「見ませんねえ」

 

 アイリスフィールは、表情を変えなかった。

 ただ、指先だけが少し強く握られていた。

 

 セイバーは、その横顔を見ていた。

 自分なら、この場で問い詰めたかもしれない。

 あるいは、城へ向かったかもしれない。

 剣を抜き、門を破り、そこにいる者へ名乗りを上げたかもしれない。

 

 だが、それでは届かない情報がある。

 人は、剣を向けられれば口を閉ざす。恐怖すれば、嘘をつく。怯えれば、記憶も歪む。

 

 アイリスフィールは、ただ少し寂しそうに微笑んでいた。

「そう。ありがとう。少し、暖かい布を見せてもらえるかしら」

 彼女は買い物を続けた。毛布。子ども用の手袋。小さな靴下。

 

 店の女主人は、どこか嬉しそうにそれを包んだ。

 外へ出ると、アイリスフィールはしばらく黙っていた。

 セイバーも、何も言わなかった。

 雪だけが降っていた。

 

「切嗣は、こういうことも見ていたのですね」

 セイバーが言った。

 アイリスフィールは少し顔を向ける。

「こういうこと?」

「城を攻めるのではなく、城の外を見ることです。剣を向ける相手ではなく、その周りで生きている者を見ること」

 

 セイバーは、雪の中の通りを見た。

「兵糧、燃料、噂、恐れ、習慣、季節。王であれば、当然知っていなければならないものでした」

 彼女の声には、自嘲が混じっていた。

 アイリスフィールは何も言わなかった。

 セイバーは続ける。

 

「私は、あの男の方法を正しいとは思いません。ですが、あの男が見ていたものまで、卑劣の一言で退けるべきではなかった」

 言った後で、セイバーは自分の言葉にわずかに驚いた。

 あれほど嫌った男の見方にも、認めるべきものがあったと言っている。

「あら」

 アイリスフィールは、少しだけ笑った。

 

「あなたが切嗣をそんなふうに言う日が来るとは思わなかったわ」

「褒めているわけではありません」

 セイバーはすぐに答えた。

「私自身、奇襲も、諜報も、兵站も、内応も知らずに王であったわけではない。必要ならば、それらを用いることもありました」

 雪が外套に積もる。セイバーはそれを払わなかった。

 

「それでも、この聖杯戦争では、いつしか戦いを騎士の戦場としてだけ見ようとしていたのかもしれません。剣を交えること。名乗ること。正面から勝つこと。それらが間違いだったとは思いません。ですが、それだけが王の戦いではなかった」

 アイリスフィールは、少し考えた。

「やっぱり、あなたたちは似ているのかもしれないわね」

「私と切嗣が、ですか」

「ええ。自分が正しいと思ったもののために、たくさんのものを置き去りにしてしまうところが」

 セイバーは、すぐには否定できなかった。

 

 今の自分は、切嗣の戦い方の中に、王として見るべきものがあったと認めている。

 そしておそらく、切嗣もまた、自分の騎士道の中に、切り捨ててはならないものを見始めている。

「……今は、否定しません」

 アイリスフィールは、目を丸くした。それから、少しだけ嬉しそうに笑った。

「そう」

「ただ」

「分かっているわ」

 

 アイリスフィールは言った。

「切嗣の前では言わない」

「ありがとうございます、アイリ」

「でも、いつか言うかもしれないわよ」

「その時は、私が剣を抜く前に止めてください」

「切嗣が逃げる方が早そうね」

 

 セイバーは、ほんのわずかに口元を緩めた。

 その表情は、すぐに消えた。

 道の向こうから、ひとりの男が歩いてくる。荷運びの男だった。

 城へ物を運んだことがあると、店の女主人が話していた人物。

 セイバーは、アイリスフィールの半歩後ろへ下がった。

 剣ではなく、言葉で道を開くために。

 

     *

 

 一行が拠点としていた町外れの貸家に舞弥が戻ったのは、夜だった。

 机の上には、切嗣が作った資料が積まれていた。

 表からは税記録を取り寄せ、燃料商の帳簿と駅の貨物記録を照合した。医師の往診簿や周辺の雇用記録、古い土地台帳も机に並んでいる。

 裏からは、偽名で雇われた運び屋の証言を取り、横流しされた薬品の行き先を追った。酒場で拾った噂に、盗まれた手紙の写し、城から出た廃棄物の中身まで加わっていた。

 

 そして、そのどちらにも属さない資料。

 町の女たちが覚えていた、白い髪の小さな子の話。

 以前は買われていた子ども用の衣類。

 最近は途絶えた毛布の注文。

 暖房用燃料の搬入量の減少。

 使われていないはずの北棟にだけ、わずかに食料が運ばれているという話。

 切嗣は、そのすべてをつなげていた。

 

「北棟」

 舞弥が言った。

「ああ」

 切嗣は地図に赤ではなく青の印をつけた。

「工房や倉庫へ運ばれる物資ではない。牢として管理されている痕跡も薄い。おそらく、使われなくなった居住区画だ」

「警備は」

「巡回と搬入の記録を見る限り、薄い」

「罠の可能性は」

「ある。だが、罠としては不自然だ」

 

 切嗣は資料を一枚、舞弥へ渡した。

「燃料が足りない」

 舞弥は目を通す。

「暖房が入っていない?」

「少なくとも、十分ではない」

 

 アイリスフィールの顔が青ざめた。

 セイバーは何も言わなかった。ただ、拳を握った。

 

「なぜです」

 セイバーの声は低かった。

「イリヤスフィールは、彼らにとって重要な存在だったはずです」

「だった、ということだ」

 切嗣は言った。

 

「聖杯としての価値を失った。あるいは、失ったと判断された。だから、守る理由がなくなった」

「ならば」

 セイバーの声に怒りが宿る。

「彼女は今、敵に囚われているのではなく、見捨てられているということですか」

「その可能性が高い」

 切嗣は、静かに答えた。

 

 アイリスフィールは椅子に座ったまま、両手を握りしめていた。

「イリヤ……」

 舞弥は資料を置いた。

「作戦を修正しますか」

「する」

 切嗣は即答した。

 

「正面突破はしない。殺さない。騒がせない。北棟へ入る。イリヤの状態を確認する。意思疎通が可能なら、何が起きたのかを説明する」

「その後は」

「城を出るか、本人に選ばせる」

 セイバーが切嗣を見る。

「命令や恐怖による選択ではないことは、私が確認します」

「頼む」

 

 舞弥が続けた。

「交戦した場合は」

「無力化する。殺すのは最後だ」

 セイバーが、わずかに目を細めた。

 

「不満か」

「いいえ」

 セイバーは答えた。

「今のあなたは、騎士のようなことを言いますね」

「違う」

「分かっています。あなたは、そう呼ばれることを好まない」

「好まないというより、事実ではない」

「ですが、今の作戦には規律があります」

 

 切嗣は黙った。

 セイバーは続ける。

「誰を守るか。誰を傷つけないか。どこで退くか。何をしてはならないか。それを先に決めている」

「失敗条件を減らしているだけだ」

「ええ」

 セイバーは静かに頷いた。

「それを、人は節度と呼ぶこともあります」

 

 切嗣は、反論しなかった。

 舞弥はその様子を見て、ほんの少しだけ口元を動かした。

「やはり、仲良くなっていますね」

「なっていない」

「なっていません」

 切嗣とセイバーの声が重なった。

 

 アイリスフィールは笑わなかった。今は、笑えなかった。

 だが、その沈黙は冷たくはなかった。

 

 切嗣は地図に撤退線を引いた。

 一本。

 もう一本。

 さらに、失敗した場合の線。

 誰かを捨てる線ではない。

 誰を抱えて、どこへ戻るかの線だった。

 

「行くぞ」

 切嗣は言った。

「イリヤを迎えに行く」

 セイバーは頷いた。

「はい」

 

 アイリスフィールは椅子の背に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。

「私も行くわ」

「北棟の安全を確保するまでは、後方で待ってもらう」

「ええ。でも、イリヤに会う時は私も行く」

 切嗣は頷き、舞弥へ視線を移した。

「舞弥は車両と撤退路を確保してくれ。セイバーが先行し、僕が北棟へ入る」

「了解しました」

 

 その作戦は、切嗣らしく遠回りだった。

 だが、以前の切嗣とは違っていた。

 誰かを切り捨てるための遠回りではない。

 誰も切り捨てないために、最短ではない道を選ぶ作戦だった。

 

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