優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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幕間 くるみの冬芽

 寒い。

 

 イリヤスフィールは、最初にそう思った。

 痛い、ではなかった。

 苦しい、でもなかった。

 怖い、でもなかった。

 

 ただ、寒かった。

 広い部屋だった。

 以前は、客間として使われていたのかもしれない。壁には古い織物が掛けられている。大きな窓があり、その向こうには白い森が広がっていた。雪は音もなく降っている。

 

 暖炉はあった。火は入っていない。薪もない。

 火掻き棒だけが、長い間使われなかったもののように、壁際に寄せられている。

 

 ベッドもあった。

 椅子もあった。

 机もあった。

 牢ではない。

 鍵も、かかっていない。

 

 けれど、どこにも行けなかった。行く場所がなかった。

 

 イリヤは毛布にくるまったまま、自分の手を見た。

 小さい手だった。

 

 昨日までと変わらないはずの、自分の手だったが、身体の奥にあった重みが消えている。

 胸の奥にあった熱も、額の奥にあった圧迫も、もう感じなかった。

 イリヤは、自分に起きたことを理解していた。

 

 自分はもう、小聖杯ではない。

 器ではない。

 次の聖杯戦争のために調整されたものでもない。

 

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 その名前は残っている。

 でも、アインツベルンがその名に見ていた価値は、もう残っていない。

 

 すべてが、ある日突然なくなったわけではなかった。

 最初に変わったのは、身体ではない。

 周囲の目だった。

 

 セラは、以前と同じように部屋へ入ってきた。

 白い服に整った所作。冷たいが、決して乱れない声。

 

 いつもなら、セラはイリヤを見ていた。

 監督する目だった。守る目でもあった。

 小聖杯としての状態を確認する目。

 

 イリヤスフィール様、と呼ぶ声には、敬意と管理が混じっていた。

 セラは、扉の前で足を止めた。

 イリヤの顔を見ている。

 髪も、声も、表情も知っているはずだった。

 

 それでも、いつものようには近づいてこなかった。

「……イリヤスフィール様、ですか」

 呼びかけではなかった。確認する声だった。

 

「セラ。私よ」

「外見と音声は一致しています。記憶については、これから確認します」

 セラはイリヤの手首へ触れ、魔術的な反応を確かめた。

 その眉が、わずかに寄った。

 

「小聖杯機能の反応がありません。命令系も、回収経路も確認できない」

「だから、私じゃないの?」

 セラはすぐには答えなかった。

「別人と判断する根拠もありません。正式な判断が下るまで、現状の管理を維持します」

 

 イリヤは笑いそうになった。笑えなかった。

 自分が自分であることを、誰かに判断してもらわなければならない。

 それがアインツベルンなのだと、イリヤは知っていた。

 知っていたはずだった。

 でも、知っていることと、そう扱われることは違った。

 

 リーゼリットは、もっと分かりやすかった。

 彼女は部屋に入ってきて、イリヤをじっと見た。

 いつもなら、無表情の奥に少しだけ柔らかいものがあった。

 

 セラより不器用で、セラより言葉が少なく、それでもイリヤの近くにいた。

 イリヤが転べば抱き上げた。

 雪の中で遊びたいと言えば、セラに叱られる前に外套を持ってきた。

 そういうリーゼリットだった。

 けれど、今のリーゼリットは、首を傾げただけだった。

 

「……イリヤ?」

 イリヤは顔を上げた。

「そうよ。リーゼ」

 リーゼリットは近づき、イリヤの身体を軽く持ち上げた。

 

 以前と同じように。だが、すぐに首を傾げた。

「違う」

「違わない」

「前と、中が違う」

 

 イリヤは何も言えなかった。

 リーゼリットは、イリヤの胸元へ耳を寄せるようにして、しばらく動かなかった。

「静かになった」

「……そうなのかもしれないわ」

「でも、イリヤ」

 

 リーゼリットはイリヤをベッドへ戻し、ずれていた毛布を肩まで引き上げた。

「寒い?」

「少し」

 リーゼリットは暖炉を見た。

 暖炉には、まだ火が残っていた。

 リーゼリットは無言で薪を数本くべた

 

 そして四日前から、暖炉の中には、冷えきった灰がわずかに残っていた。

 扉は閉められていた。鍵は、かかっていない。

 逃げることを警戒する者さえ、もういなかった。

 そこに至るまで、すべてが一度に失われたわけではなかった。

 

 イリヤは、見棄てられたのだと思った。

 閉じ込められたのではない。

 罰を受けたのでもない。

 敵として扱われたのでもない。

 ただ、見棄てられた。

 

 世界から。

 アインツベルンから。

 自分を作ったものたちから。

 

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは、聖杯の器である限り守られていた。

 愛されていたのかは、イリヤには分からなかった。

 セラは決められた時刻に来た。

 リーゼリットは、決められていない時にも来た。

 それを愛と呼んでよいのか、イリヤには分からなかった。

 

 ただ、以前は二人の目が自分へ向いていた。

 今は、その目さえ少しずつ遠ざけられていた。

 

 最初の二週間、セラは以前と同じ時刻に部屋へ来た。

 朝には体調を確認し、夜には暖炉の火と寝具を確かめた。

 食事が冷めていれば、運んできたホムンクルスへやり直しを命じた。

 

「上位判断が下るまで、現状の管理を維持します」

 それがセラの答えだった。

 判断は下りなかった。

 

 三週間目、子ども用衣類の補充が止められた。

 セラは再申請した。

 返ってきたのは、小聖杯としての識別が成立していない対象へ、新たな物資を支給する根拠はないという回答だった。

 次の週には、燃料の割当も減った。

「これは城内設備の維持にも必要です」

 

 セラはそう申し立てた。

 だが、北棟は現在使用されていない区画として処理されていた。

 

 客間として使われていたらしい、広い部屋だった。

 ベッドも、机も、暖炉もある。

 誰かが長く暮らすことを考えて整えられた部屋ではなかった。

 

 それから一月半ほどかけて、暖炉へ入れられる薪は少しずつ減った。

 朝と夜だったものが、朝だけになった。

 やがて二日に一度になり、さらに数日おきになった。

 

 食事はまだ運ばれてきた。

 ただ、温かいまま届くことは少なくなった。

 スープは冷め、パンは硬くなった。

 

 寝具を替える者も来なくなった。

 誰かが、イリヤを見棄てろと命じたわけではなかった。

 

 ただ、イリヤのために薪を使えと命じる者がいなくなった。

 新しい衣服を用意せよと言う者も、温かい食事を運べと言う者もいなくなった。

 管理すべき項目から、一つずつ外されていった。

 

 そして四日前、薪の割り当ては完全に途絶えた。

 

 セラが来なくなったのは、上位判断が下りたからではなかった。

 判断が下りないまま、確認の回数だけが減らされたからだった。

 

 リーゼリットは、それでも何度か来た。

 言葉は少なく、何を考えているのかは分からない。

 

 ただ、冷えた食事を持ち帰り、まだ温かいパンと取り替えて戻ってきたことがあった。

 そのリーゼリットも、ある日から姿を見せなくなった。

 

 廊下の向こうで、廊下の向こうで、セラの声を一度だけ聞いた。

「命令にない行動を続ければ、あなたまで北棟への立ち入りを禁じられます」

「でも、イリヤ、寒い」

 しばらく沈黙があった。

「……分かっています」

 

 鍵は、かかっていなかった。

 逃げることを警戒する者さえ、もういなかった。

 

 イリヤは、毛布の中で丸くなった。

 寒さで指が痛い。息を吐くと白くなる。

 

 窓の隙間から風が入ってきた。

 部屋は広すぎた。

 広い部屋は、暖かければきれいなのかもしれない。

 でも、寒い部屋は、ただ広いだけだった。

 

 イリヤは手を開いた。

 掌の中には、小さな冬芽があった。

 いつか見つけたものだった。

 くるみの冬芽。

 

 庭の端で拾った。

 雪が降る前だったと思う。

 枝から落ちたそれは、茶色くて、丸くて、少しだけ毛が生えていた。葉の落ちた痕が、小さな顔のように見えた。

 

 羊みたい。

 そう言ったら、リーゼリットがじっと見た。

 セラは、汚れたものを拾わないでくださいと言った。

 

 イリヤは隠した。

 小さな宝物だった。

 

 くるみの冬芽は、春になるために冬を越す。

 

 セラに教えられたわけではない。

 庭師が話しているのを聞いただけだった。

 冬の間、枝の先でじっとしている。

 雪をかぶって、風に吹かれて、それでも中に次の葉を持っている。

 

 イリヤは、それが好きだった。

 自分もそうなのだと思ったことがあった。

 アインツベルンの冬の中で、自分はいつか何かになる。

 

 聖杯になる。

 願いを叶えるものになる。

 キリツグが帰ってくる理由になる。

 

 そう思っていた。

 今は違う。

 聖杯にはならない。

 器にもならない。

 

 なら、何になるのだろう。

 ただの子ども。

 年相応の女の子。

 それがどんなものなのか、イリヤには分からなかった。

 

 普通の女の子は、寒い部屋にひとりで置かれたりしないのだろうか。

 普通の女の子は、自分が自分であることを確認してもらう必要がないのだろうか。

 普通の女の子は、父親を待っていてもいいのだろうか。

 

「キリツグ」

 名前を呼んでみた。

 返事はなかった。

 それも、知っていた。

 

 キリツグは帰ってこない。

 そう思っていた。

 何度も思った。

 

 それでも、心のどこかで、帰ってくると思っていた。

 でも今は、分からない。

 

 自分が聖杯でなくなったことを、キリツグが知ったらどうするのだろう。

 ほっとするのだろうか。

 困るのだろうか。

 それとも、もう自分にも価値がないと思うのだろうか。

 

 イリヤは首を振った。

 違う。そう思いたかった。

 でも、アインツベルンはそうだった。

 セラとリーゼリットだけは違うと思いたかった。

 それでも、最後には二人とも来なくなった。

 

 世界がそうなら、キリツグだけ違うと、どうして思えるのだろう。

 

 掌の中の冬芽を握る。

 小さくて、硬い。

 でも、強く握ると壊れそうだった。

 

 イリヤは力を抜いた。

 冬芽を壊したくなかった。

 

 それは、今のイリヤが持っている、唯一の春の形だった。

 

 窓の外で、雪が降っている。

 森は白い。城も白い。

 世界の全部が、同じ色になっていく。

 

 イリヤは毛布を引き寄せた。

 

 寒い。

 寒い。

 寒い。

 

 けれど、眠ってしまうのは怖かった。

 眠れば、次に目を覚ました時、自分がもっと薄くなっている気がした。

 器ではなくなった自分。

 価値を失った自分。

 誰の管理対象でもなく、誰の目的でもなくなった自分。

 

 それは自由なのかもしれない。

 でも、自由はこんなに寒いものなのだろうか。

 

 イリヤは、冬芽を胸に当てた。

 小さな茶色の芽。

 春を持っているかもしれないもの。

 

 聖杯として入れられていたものは、もうない。

 では、そのあとに何が残っているのか。

 イリヤには、まだ分からなかった。

 

 それでも、この小さな芽の中には、次の季節が入っているのかもしれない。

 そう思うと、少しだけ息がしやすかった。

 

「ねえ」

 誰に言ったのか分からなかった。

 セラにか。

 リーゼにか。

 キリツグにか。

 それとも、掌の中の冬芽にか。

 

「春って、ほんとに来るのかな」

 返事はなかった。

 

 窓の外で、雪が降り続けている。

 扉の向こうにも、足音はない。

 

 イリヤは、ひとりだった。

 見棄てられたのだと思っていた。

 

 それでも、手の中の冬芽だけは離さなかった。

 自分にも春が来るのかは分からない。

 ただ、凍えた指の中で、くるみの冬芽はまだ壊れていなかった。

 

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