全員で行くべきではない。最初にそう言ったのは、切嗣だった。
「目立ちすぎる」
卓の上には、北棟までの経路が描かれていた。
正門ではない。裏門でもない。
資材搬入口から入り、旧使用人棟の横を抜け、使われていない渡り廊下を通って北棟へ至る。
交戦を前提にした経路ではなかった。
見つからず、騒がせず、抱えて戻るための経路だった。
「僕と舞弥で先に入る。状態を確認してから、アイリとセイバーを――」
「いいえ」
アイリスフィールが言った。
声は強くなかったが、引かなかった。
「私は行くわ」
「アイリ」
「イリヤは私の娘よ」
切嗣は黙った。
その一言に対して、作戦上の危険を並べることはできた。
できたが、言わなかった。言えば、また同じになる。
人の関係を、成功率だけで折り畳むことになる。
セイバーもまた、静かに言った。
「私も同行します」
「君は、撤退路の確保だ」
「それは承知しています。ですが、イリヤスフィールの状態次第では、すぐに抱えて退く必要がある。あなたと舞弥だけでは、対応できない可能性があります」
「戦闘になれば」
「戦闘にしないために、私がいます」
切嗣はセイバーを見た。
セイバーも見返した。
以前ならば、そこで切嗣は切り捨てるように言っただろう。
騎士道など不要だ。
正面から行く気はない。
君の理想は邪魔だ。
だが、今のセイバーは正面突破を主張していない。
戦うためではなく、戦わせないために行くと言っている。
切嗣は視線を地図へ戻した。
「……舞弥」
「はい」
「先行偵察は君が行く。異常があれば、即時撤退」
「了解しました」
「交戦は」
「回避します」
「危険を取るな」
「了解しました」
舞弥は、いつも通りの声で答えた。
その返答は以前とは違っていた。
自分を使い切るための「了解」ではない。
戻ることを前提にした「了解」だった。
異常は、すぐに分かった。警備が薄すぎる。
舞弥は、雪の中でしばらく城を見ていた。
見張りはいる。結界もある。魔術的な監視も残っている。
だが、それは侵入者を殺すためのものではない。
城という機能を維持するための最低限。
北棟に至っては、守られているというより、忘れられているに近かった。
舞弥は帰還し、そう報告した。
切嗣は、しばらく黙った。
「罠ではないのか」
「罠としては、雑すぎます」
「雑」
「はい。誘い込むなら、もっと情報の漏らし方を整えるはずです。こちらが北棟に目を向けるように誘導する痕跡がない。むしろ、隠す必要がないから放置されているように見えます」
切嗣の表情は変わらなかった。
だが、机の上の指が、わずかに強く地図を押した。
「イリヤを守る価値がないと判断された」
「その可能性が高いと思います」
アイリスフィールが息を止めた。
セイバーは、目を伏せた。
怒りはあった。だが、怒りを剣に変える場面ではない。
「行く」
切嗣は言った。
「全員で作戦に入る。ただし、同時には行かない」
アイリスフィールが顔を上げる。
「僕とセイバーが先に北棟へ入る。アイリは旧使用人棟で待機。舞弥はアイリの護衛と撤退路の確保だ」
「イリヤに会う時には、呼んでくれるのね」
「必ず呼ぶ」
舞弥が確認する。
「北棟の安全を確認した時点で、私がアイリスフィール様を連れていけばよろしいですか」
「ああ。異常があれば、そのまま撤退してくれ」
「了解しました」
切嗣は地図を畳んだ。
「これは奪還作戦じゃない」
その声は冷たかった。
だが、その冷たさの奥に、別のものがあった。
「引き取りだ」
北棟へ先に進んだのは、切嗣とセイバーだった。
城の内部には、古い石壁に挟まれた白い廊下が続いていた。等間隔に並ぶ長い窓から雪明かりが差し込んでいるが、人の声はほとんど聞こえない。
暖房の入っている区画と、そうでない区画の差があまりにもはっきりしていた。北棟へ近づくほど、空気が冷えていく。
切嗣は先を進み、セイバーは半歩後ろから周囲を見ていた。
アイリスフィールと舞弥は、予定どおり旧使用人棟で待機している。
その時、廊下の向こうから二人のホムンクルスが現れた。
セラ、それにリーゼリット。
切嗣は即座に銃へ手を伸ばしかけた。
だが、セイバーがわずかに手を上げる。
敵意がない。少なくとも、今すぐ戦う意志はない。
セラは切嗣とセイバーを見た。
冷たいというより、二人が何のために来たのかを確かめる目だった。
「衛宮切嗣ですね」
「ああ」
「イリヤスフィール様を迎えに来たのですね」
「そうだ」
セラは、すぐには答えなかった。
「正式な同一性判断は、現在も下りていません」
「なら、止めるのか」
「いいえ」
セラは静かに首を振った。
「現在の私たちには、イリヤスフィール様の管理を以前の状態で継続する権限も、必要な物資を要求する権限も与えられていません」
その声は平坦だった。
けれど、何も感じていない声ではなかった。
「本人が城外へ出ることを望み、あなた方が引き取るのであれば、私は妨げません」
切嗣は懐から通信機を取り出した。
「舞弥。北棟まで来てくれ。アイリも一緒に」
『了解しました』
セラは止めなかった。
リーゼリットも、廊下の奥を見たまま動かなかった。
ほどなく、舞弥に支えられたアイリスフィールが現れた。
長い距離を歩いたためか、呼吸は浅い。それでも、足は止めなかった。
セラの視線が、アイリスフィールへ移った。
「アイリスフィール・フォン・アインツベルン」
かつて仕えるべき存在だった白い女を、セラはしばらく見ていた。
だが、膝はつかなかった。
「現在、あなたを城の管理対象として認識していません」
「そう」
アイリスフィールの声は震えなかった。
リーゼリットも、じっと彼女を見ていた。
「アイリ……?」
それから、首を傾げる。
「でも、違う」
アイリスフィールは静かに微笑んだ。
「ええ。前と同じではないわ」
それでも、リーゼリットから目を逸らさなかった。
「でも、私はアイリよ」
切嗣は、セラを見た。
彼女はイリヤを別人だと言ったわけではない。
止めるとも言わなかった。
ただ、自分にはもう守り続けるための権限がないと告げた。
リーゼリットは、セラの横で黙っていた。
その視線は北棟の方へ向いたままだった。
切嗣は、胸の奥に生じた怒りを押し込んだ。
それは、目の前の二人へ向けるものではなかった。
「案内してくれ」
「承知しました」
セラは踵を返した。その背筋は、以前と同じように整っていた。
命令どおりに動いているだけではない。
自分に残された手順の中で、イリヤを城の外へ送り出そうとしているようにも見えた。
リーゼリットは、その後を歩きながら、一度だけ北棟の扉を見た。
北棟の扉は、閉じていた。
鍵はかかっていなかった。
そのことが、何より残酷だった。
セラが扉を開くと、冷え切った空気が廊下へ流れ出した。
中は広い部屋だった。大きな窓の向こうには雪景色があり、壁には古い織物が掛けられている。暖炉も備えられていたが、火は消え、灰だけが冷たく残っていた。
その隅に、毛布にくるまった小さな影があった。
イリヤスフィールは顔を上げた。
扉口に立つセラとリーゼリットへ視線を走らせ、その後ろにいる男を見つけたところで、目を動かさなくなった。
信じてよいのか確かめるように、切嗣の顔をじっと見つめた。
「……キリツグ?」
声は小さかった。
疑うような声だった。
信じたい声でもあった。
「……ああ」
声がうまく出なかった。
それでも、もう一度言った。
「イリヤ。迎えに来た」
イリヤの目がアイリスフィールへ移る。
「ママ」
その一言で、アイリスフィールは歩き出しかけた。
だが、イリヤがわずかに身を強張らせたため、その場で足を止めた。
切嗣は一歩前へ出た。
イリヤがびくりと肩を震わせる。
切嗣はその場で止まった。
急に近づかなかった。
走り寄らなかった。
自分が許されたいから、先に抱くわけにはいかなかった。
イリヤが望む前に、触れない。
だから、まず外套を脱いだ。
イリヤの前へ差し出す。
「使ってくれるか」
イリヤが小さく頷いた。
切嗣は、それを見てから外套をイリヤの肩へ掛けた。
暖かかった。
煙草と火薬、それから雪の匂いがした。
昔と同じ、キリツグの匂いだった。
「寒かったな」
切嗣は言った。
謝罪ではなかった。
言い訳でもなかった。
最初に出たのは、それだけだった。
イリヤの目が揺れる。
「キリツグ」
「ああ」
「イリヤ、もう……聖杯じゃないよ」
「ああ」
「違うの」
「ああ」
「セラは、まだ決められないって」
「リーゼは、前と中が違うって」
「違わない」
切嗣は、初めてはっきりと言った。
「君からなくなったのは、聖杯として使うための機能だ。君自身じゃない。聖杯戦争は終わった。君の記憶も、意思も、命も残っている」
切嗣は、イリヤを見た。
「君はイリヤだ」
イリヤの顔が歪んだ。
それでも、まだ泣かなかった。
アイリスフィールが隣に膝をついた。
彼女もまた、急に抱きしめなかった。
ただ、イリヤの前へ自分の手を差し出した。
イリヤの指が、恐る恐るその手に重なった。
アイリスフィールは、それを見てから小さな手を包んだ。
「イリヤ」
「ママ」
「あなたは、私の娘よ」
セラは、母と娘を見ていた。
何かを言いかけたが、口にはしなかった。
アイリスフィールは一度だけセラを見て、イリヤの手を握り続けた。
リーゼリットは、部屋の入口に立っていた。
イリヤを見ている。
変わったものと、変わっていないものを、もう一度確かめるように。
「リーゼ」
リーゼリットは近づき、毛布から出ていたイリヤの手を包んだ。
「うん」
少しだけ首を傾げる。
「イリヤ」
イリヤの目に、涙がたまった。
セラは、リーゼリットとイリヤを見ていた。
「私も、イリヤスフィール様を別人と判断したことはありません」
イリヤがセラを見る。
「外見、音声、記憶、自己認識は一致しています。ただ、正式な同一性判断を下す権限が、私にはありません」
「必要ない」
切嗣は言った。
「アインツベルンの正式な判断を待つために来たわけじゃない」
セラの眉が、わずかに動いた。
「イリヤが自分をイリヤだと知っている。僕たちも、彼女がイリヤだと知っている」
切嗣はイリヤへ向き直った。
「君が望むなら、僕たちと一緒に行ける」
「行ける……?」
イリヤが小さく繰り返した。
「どこに」
切嗣はすぐに答えられなかった。
家。
そう言いたかった。しかし、自分がその言葉を使っていいのか分からなかった。
アイリスフィールが、代わりに言った。
「暖かいところよ」
イリヤがアイリを見る。
「暖かいところ?」
「ええ」
アイリスフィールは、少しだけ笑った。
「暖炉に火があって、毛布があって、朝になったら誰かが起こしに来るところ」
「……イリヤ、そこにいていいの?」
「もちろん」
イリヤの手が震えた。
その手の中から、小さなものが落ちそうになる。
セイバーが気づいた。
「それは」
イリヤは慌てて握り直した。
「くるみの冬芽」
声は小さかった。
「捨てないで」
「捨てません」
セイバーは即座に答えた。
「それも一緒に持っていきましょう」
「いいの?」
「はい。春を待つものを、ここに置いていく理由はありません」
イリヤは冬芽を胸へ押し当てた。
セイバーは、その姿を見てから改めて目線を合わせた。
その声には、慰めではなく、約束を守る者の硬さがあった。
「誰かから、ここに残れと命じられていますか」
「ううん」
「私たちについて行けと命じられましたか」
「ううん」
「では、あなた自身はどうしたいのですか」
イリヤは切嗣を見た。
アイリスフィールを見た。
それから、セイバーへ向き直った。
「キリツグと、ママと行く」
セイバーは深く頷いた。
「確認しました。あなたのその意思を、私は守ります」
その瞬間、涙がこぼれた。
一粒だけ。
それを見て、切嗣は息を止めた。
アイリスフィールは、イリヤを抱きしめた。
今度は、もう待たなかった。
イリヤの身体は冷たかった。
腕の中へ隠れてしまいそうなほど、小さかった。
アイリスフィールは、その冷たさに顔を歪めた。
「ごめんね」
イリヤは首を振った。
泣きながら、何度も首を振った。
「イリヤ、違うの?」
「違わない」
アイリスフィールは言った。
「違わないわ」
切嗣も言った。
「違わない」
セイバーも、静かに続けた。
「あなたはイリヤスフィールです」
舞弥は入口で周囲を警戒しながら、携帯していた小型カメラを取り出した。
火の消えた暖炉。空になった薪置き場。薄い寝具。机に残された、冷えた食事。
それらを順に記録する。
セラは止めなかった。
「現在の管理状況についても、私の名で記録を残します」
舞弥はセラを見た。
「写しをいただけますか」
「用意します」
舞弥は一度だけ頷き、イリヤの手の中の冬芽を見た。
それから切嗣へ言う。
「記録は終わりました。長居は避けるべきです」
「ああ」
切嗣は頷いた。
アイリスフィールがイリヤを抱き上げようとした。
だが、イリヤは切嗣を見た。
「キリツグ」
切嗣は一瞬、動けなかった。
アイリスフィールが小さく頷く。
切嗣は膝をつき、イリヤへ手を伸ばした。
「抱いてもいいか」
イリヤは、泣きながら頷いた。
切嗣は、イリヤを抱き上げた。
軽かった。
あまりにも軽かった。
自分が置いていった時間の分だけ、軽い気がした。
イリヤは切嗣の外套にくるまり、片手で冬芽を握り、もう片方の手で切嗣の服を掴んだ。
切嗣は、その手を見た。
「帰ろう」
イリヤは、小さく頷いた。
セラは、携えていた二通の記録用紙を取り出した。
「正式な同一性判断は未了です。ただし、外見、音声、記憶、自己認識の一致と、本人が自ら城外への移動を望んだことを記録します」
セラは二通へ同じ内容を記し、それぞれに署名した。
一通を舞弥へ渡す。
「暫定的に、イリヤスフィール様本人の意思による城外移動として扱います」
舞弥は文面を確認し、鞄へ収めた。
切嗣が尋ねる。
「後から回収命令が出た場合は」
「この記録は残ります」
セラは静かに答えた。
「少なくとも、本人の意思を確認せずに連れ去られたことにはできません」
切嗣は、しばらくセラを見た。
「分かった」
それ以上は言わなかった。
セラが残した記録は、完全な保護にはならない。
それでも、イリヤ自身が城を出ることを望んだという事実は残る。
今のセラにできる、最大限の手続きなのだろう。
今ここでやるべきことは、イリヤを暖かい場所へ連れていくことだけだった。
廊下へ出る時、リーゼリットが一歩だけ動いた。
「イリヤ」
切嗣は足を止めた。
イリヤも顔を上げた。
リーゼリットは、しばらくイリヤを見ていた。
「……寒かった?」
「うん」
リーゼリットはしばらく黙った。
「ごめん。薪、持ってこられなかった」
「リーゼも来る?」
リーゼリットはセラを見た。
「私たちには、城外へ出る許可がありません」
セラが答えた。
「……行けない」
リーゼリットが言った。
切嗣は短く頷き、イリヤを抱いたまま歩き出した。
アイリスフィールとセイバーも、その後に続く。
最後尾の舞弥が北棟を出る直前、背後で衣擦れの音がした。
振り返ると、セラが背筋を伸ばし、静かに頭を下げていた。
その隣では、リーゼリットも一拍遅れて、少しぎこちなく同じように頭を下げている。
何のための礼か、舞弥には尋ねる必要がなかった。
舞弥も小さく頭を下げた。
確かに引き受けたと、それだけを返すように。
舞弥が一行を追うと、北棟の扉は静かに閉じた。
切嗣たちは城を出た。
誰も追ってこなかった。
城は静かなままだった。
雪はまだ降っていた。
外へ出ると、冷たいはずの空気が、部屋の中より少しだけましに感じられた。
イリヤは切嗣の腕の中で、冬芽を握っている。
「キリツグ」
「何だ」
「春、来る?」
切嗣は、すぐには答えなかった。
嘘をつくことはできた。
大丈夫だ、と。
必ず来る、と。
だが、彼はもう、そういう嘘で終わらせることができなかった。
だから、短く答えた。
「来させる」
イリヤは、少しだけ目を閉じた。
舞弥が鞄から、町で買った毛布を取り出した。
アイリスフィールがそれを受け取り、切嗣の外套にくるまったイリヤへ重ねて掛けた。
セイバーは前を歩いた。
舞弥は後ろを守った。
切嗣は、イリヤを抱えたまま雪の中を進む。
誰かを捨てるための道ではない。
イリヤを城から連れ出して終わるための道でもない。
これは、ここから始めるための道だった。
くるみの冬芽は、イリヤの手の中でまだ壊れていなかった。