本来ならば、再び聖杯戦争が始まるはずだった冬だった。
放課後の校舎には、部活動の掛け声や廊下を走る足音、教師に叱られる生徒の声が絶えず響いていた。窓の外からは弓道場の弦音が混じり、その中に、かん、かん、と場違いな釘打ちの音が続いている。
凛は、廊下の角を曲がったところで足を止めた。
かん、かん、と乾いた音がする。
見るまでもない。
また、あいつだ。
「……何やってるのよ、あんた」
凛が声をかけると、教室の引き戸の前にしゃがみ込んでいた士郎が顔を上げた。
手には金槌。足元には薄い木片と小さな釘、それから、どこから持ってきたのか分からない工具箱。
「戸が引っかかってたから直してる」
「それは見れば分かるわよ」
凛は腕を組んだ。
「私が聞いてるのは、なんであんたが直してるのかってこと」
「頼まれた」
「誰に」
「通りかかった先生に」
「断りなさいよ」
「すぐ終わるし」
「それが変なのよ」
凛はため息をついた。
「普通はね、すぐ終わるかどうかじゃなくて、自分がやることかどうかを考えるの」
士郎は少し考えた。
「壊れてるものを直すのは、できるやつがやればいいんじゃないか」
「ほら、それ」
「それ?」
「そういうところ」
凛は少しだけ眉を寄せる。
腹が立つ、というほどではない。ただ、妙に調子が狂う。
士郎はお人好しだ。
困っている人間を見れば手を貸し、壊れたものがあれば直そうとする。だが、危ないと言えばやり方を変えるし、本当に無理なら断る。
そのうえで、目の前の小さな面倒だけは放っておかない。
凛には、その加減が少し不思議だった。
「姉さん」
背後から声がした。振り返ると、遠坂桜が立っていた。
黒い髪。
凛と同じ色。
同じ黒でも、桜の髪は凛より少し柔らかく見える。
校内では、遠坂凛の妹として知られている。
ただし、近寄りやすいと思って話しかけた者は、たいていすぐに理解する。
柔らかいことと、弱いことは違う。
「また士郎さんを叱っているんですか」
「叱ってないわよ」
「叱っているように見えます」
「桜までそういうこと言うの?」
桜は小さく笑った。
「士郎さん、戸ですか」
「ああ。もう少しで直る」
「手伝います」
「いや、これくらいなら大丈夫だ」
「そう言って、釘を口にくわえたまま返事をするのは危ないと思います」
士郎は、口にくわえていた釘を取った。
「……確かに」
「ほら」
凛が言った。
「桜に言われると素直なの、ちょっと腹立つわね」
「姉さんの言い方が強いからでは」
「桜?」
桜はにこりと微笑んだ。
その笑顔に、凛は言い返す言葉を一瞬失った。
その時、廊下の向こうで、男子生徒たちの話し声が一斉に途切れた。立ち止まる足音が重なり、女子生徒のささやきだけが細く広がっていく。
いくつもの視線が、廊下の角へ吸い寄せられていた。
凛は嫌な予感がした。
桜も、ああ、という顔をした。
士郎だけが分かっていない。
「何だ?」
「来たわね」
凛が言った瞬間、白い髪が廊下の角から現れた。
イリヤだった。
制服はきちんと着ている。
だが、彼女が着ると、同じ制服がどこか別のものに見える。
白い髪。赤い瞳。雪の中からそのまま出てきたような肌。
背丈も伸び、面差しには母親の面影が以前より濃くなっている。校内で目立たない方が無理だった。
本人は、そのことを分かっている。
分かった上で、まったく気にしていない。
「シロウ」
イリヤは、士郎を見つけると迷わず近づいてきた。
廊下の視線が一斉に動く。
「迎えに来たわ。今日は藤村道場へ来る日でしょう」
「まだ行けないぞ」
「どうして?」
「戸を直してるから」
イリヤは引き戸を見た。
それから士郎を見た。
「そんなもの、明日でもいいじゃない」
「使う人が困るだろ」
「シロウが困ってるわけじゃないのに?」
「困ってる人がいるなら、まあ」
イリヤは少しだけ目を細めた。
「そういうところ、切嗣には似てないわね」
士郎は首を傾げた。
「そうか?」
「切嗣なら、まず危なくないか、ほかに任せる人はいないかを考えるもの」
「それは普通じゃないか?」
「シロウは、普通に考える前にもう直してるでしょう」
「……そうかもしれない」
イリヤは満足そうに笑った。
凛は額に手を当てる。
「イリヤ、廊下であんまり目立つことしないでくれる?」
「私、何もしてないわ」
「存在が目立つのよ」
「それは私のせいじゃないもの」
全くその通りだった。
ただ、それを本人が言うと非常に腹が立つ。
廊下の少し離れたところで、男子生徒たちがひそひそ話している。
「また三人そろってるぞ」
「士郎のやつ、何なんだよ」
「遠坂姉妹だけでも意味分からんのに、あの白い子まで」
「ハーレムか?」
「いや、あいつにそんな甲斐性あるか?」
「ないな」
「ないわね」
最後の声は、美綴綾子だった。
彼女は弓道場へ向かう途中だったらしく、弓袋を肩にかけている。
男子生徒たちの背後に立ち、呆れた顔をしていた。
「人のことを勝手にハーレム扱いする前に、部活行け、部活」
男子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げた。
美綴は士郎を見る。
「で、あんたはまた修理か」
「ああ」
「弓道場の棚も、あとで見てくれる?」
「壊れてるのか」
「ちょっとね」
「分かった。これが終わったら行く」
凛が横から口を挟んだ。
「だから、なんでそう即答するのよ」
「棚なら危なくないだろ」
「危ないかどうかの問題じゃないわよ」
美綴は凛と桜とイリヤを順番に見た。
それから、士郎を見て、少しだけ笑った。
「まあ、あんたがこういうやつなのは分かるけどさ」
「どういうやつだよ」
「美少女三人に囲まれても、戸の修理を優先するやつ」
士郎は本気で困った顔をした。
「戸は今直さないと」
「ほら、そういうところ」
美綴は笑いながら去っていった。
凛は深いため息をつく。
「本当に、外から見るとひどい絵面ね」
「何が?」
士郎はまだ分かっていない。
桜は少し困ったように笑った。
「士郎さんの周りに、私たち三人がいつもいるように見えるということでは」
「いつもいるか?」
「いるわよ」
凛が即答した。
「というか、あんたが変なところで変なことしてるから、こっちが見つけるのよ」
「俺のせいなのか」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
凛は桜とイリヤを見た。
桜は微笑んだ。
イリヤは胸を張った。
「シロウに会いに来てるからよ」
「言い切るんじゃないわよ」
「事実だもの」
「その言い方が誤解を招くって言ってるの」
イリヤは凛を見た。
「凛は違うの?」
「何がよ」
「シロウに会いに来てるんじゃないの?」
「私は、桜を迎えに来ただけよ」
「姉さん、今日は私が姉さんを迎えに行く予定でした」
「桜」
凛が妹を見る。
桜は、少しだけ楽しそうだった。
「では、姉さんも士郎さんに会いに来たのかもしれませんね」
「桜までイリヤ側に回らないで」
士郎は金槌を置いた。
「何の話をしてるんだ?」
「何でもないわよ」
「そうか」
士郎はそう言って、引き戸を二、三度動かした。
戸は滑らかに開閉し、もう引っかからない。
「よし」
士郎は満足そうに頷いた。
凛はその顔を見て、もう一度だけため息をつく。
こういう性分は、たぶん直らない。
ならば、無理を始めそうな時だけ止めればいい。
今のところ、その必要はなさそうだった。
「じゃあ、まず弓道場の棚を見に行くか」
「その後は藤村道場よ」
「分かってる」
士郎が工具箱を持ち上げようとした。
桜がすぐに言う。
「士郎さん、釘が落ちています」
「あ、本当だ」
士郎が拾う。
イリヤが工具箱を覗き込む。
「重い?」
「少しな」
「じゃあ、シロウが持ちなさい」
「普通逆じゃないか?」
「私に持たせるつもり?」
「いや、ないけど」
凛が横から工具箱の底へ手を添えた。
「半分持つわ」
「いいよ、これくらい」
「あんたはすぐそう言う」
「でも本当に大丈夫だぞ」
「大丈夫かどうかは私が決めるわ」
「それはおかしくないか?」
「おかしくない」
桜がくすりと笑った。
「では、私は鞄を持ちます」
「桜まで」
「重そうですから」
イリヤは士郎の袖を掴んだ。
「じゃあ、私はシロウを持つわ」
「持つって何だ」
「逃げないように」
「逃げないよ」
イリヤが士郎の袖を引いた。
「シロウは、ちゃんと帰ってくるならいいのよ」
その声は、少しだけ違った。
軽く言っている。けれど、軽くはなかった。
凛も桜も、それに気づいた。
士郎も、たぶん気づいた。
彼は少しだけ真面目な顔になって、頷いた。
「ああ。帰る」
イリヤは満足そうに笑った。
「ならいいわ」
四人は廊下を歩き出した。
士郎と凛が工具箱を支え合い、桜は士郎の鞄を持っている。イリヤは士郎の空いた袖を掴んでいた。
窓の外では、短い冬の日が校庭を橙色に照らしていた。
部活動の声が、遠くから聞こえている。
「士郎」
「何だ?」
「あんた、次からは先生に頼まれても少しは断りなさい」
「分かった」
凛は足を止めた。
「……今、分かったって言った?」
「ああ。危ない時とか、時間がない時は断る」
「本当に?」
「本当に」
凛は、なぜか負けた気がした。
桜が笑う。
イリヤも笑う。
士郎だけが、やっぱり分かっていない顔をしている。
「何で笑ってるんだ?」
「何でもないわよ」
凛はそう言って歩き出した。
その声は少しだけ柔らかかった。
四人の影が、何でもない放課後の廊下を並んで進んでいった。