ギルガメッシュは、満足げに笑っていた。
「さて」
王は、肘掛けに頬杖をついたまま言った。
「どう動く、マスターよ」
時臣は、小瓶を懐に収めた。霊薬の熱はまだ胸の奥に残っている。痛みは薄れていた。だが、それは痛みが消えたというより、身体が痛みに構うなと命じられたような感覚だった。
「まず、確認すべき相手がいます」
「間桐の老蟲か」
「いえ」
時臣は短く答えた。
「雁夜です」
ギルガメッシュの目が、わずかに細くなった。
「ほう。あの狂犬の飼い主か」
「彼は、間桐の術を直接受けている。証言者としては信用できませんが、身体に残る痕跡は別です」
「証言ではなく、肉を見るか」
「はい」
時臣は平然と言った。
「言葉には感情が混じります。特に彼の場合は、私への私怨、葵への執着、桜への情、それらが絡みすぎている。ですが、身体に施された処置は、隠しようがない」
ギルガメッシュは声を漏らして笑った。
「実に魔術師らしい。娘を案じているくせに、まず見るのは男の腐った肉か」
時臣は答えなかった。
否定すれば、嘘になる。
肯定すれば、言葉が軽くなる。
どちらも選ばず、時臣は地下室の灯りを落とした。
「彼はまだ遠くへは行けないはずです。私と交戦した後の消耗、バーサーカー維持の負荷、間桐の処置による肉体劣化。自力で間桐邸へ戻るには厳しい」
「では、どこにいる」
「人目を避ける。水場に近い。暗く、身を隠せる場所。おそらく、前回倒れた場所からそう離れてはいないでしょう」
「橋の下か」
「おそらく」
時臣は外套を整えた。その動作はいつも通りだった。血の匂いも、弟子を焼いた灰も、大聖杯への疑念も、すべて外套の内側へ押し込めるように整えていた。
ギルガメッシュが立ち上がった。
「ならば、我も準備をしよう」
時臣は、思わず目を上げた。
「王が、準備をなさるのですか」
「何だ、その顔は」
「いえ」
時臣はすぐに一礼した。
「失礼いたしました」
ギルガメッシュは愉快そうに笑った。
「臣下が働くのだ。王も準備くらいはする」
時臣は黙った。
この王は、準備という言葉を使うのか。
そう思った。思ったが、口には出さなかった。
ギルガメッシュは当然のように気づいていた。
「言いたいことがあるなら言え、時臣」
「いえ。ただ、王が準備という言葉をお使いになるのは、少し意外でした」
「ははははは!」
ギルガメッシュは声を上げて笑った。
「よい。そういう顔をするようになったではないか」
王の背後に、黄金の波紋がいくつも開いた。
だが、そこから現れたのは剣でも槍でもなかった。細い金の楔。輪にも見える薄い環。棺の蓋のような板。小さな秤。さらに、名も知らぬ古い封具がいくつか。それらはどれも、英雄の武器には見えなかった。
むしろ、何かを収め、測り、封じ、動かぬように留めるための道具に見えた。
「狂犬が動けば、まともに話もできぬ」
ギルガメッシュは退屈そうに言った。
「殺すだけなら容易い。だが、今は貴様が話を聞くのだろう。ならば、吠える犬は檻に入れておく」
「天の鎖ではないのですね」
「当然だ」
ギルガメッシュは鼻で笑った。
「あれは我が友を縛るためのものだ。あの狂犬に使うには格が違う。そもそも、あれは掴む。奪う。持ったものを己の武器とする。ならば、握る鎖など与えぬ」
時臣は、浮かぶ封具を見た。
「複数の宝具による拘束場、ですか」
「近いな」
「王の財を、随分と細かくお使いになる」
「我の財だ。どう使おうが我の勝手だろう」
「仰る通りです」
ギルガメッシュは機嫌よく笑った。
「剣を投げるだけが宝の使い方と思うな。狂犬を斬れば死ぬ。だが、死ねば貴様の用は足りぬ。ならば収める。棚に戻す。器を閉じる。それだけのことだ」
時臣は、その言葉を聞いて、わずかに目を伏せた。
器。
中身。
封じるもの。
収めるもの。
大聖杯のことを考えないわけにはいかなかった。
ギルガメッシュはそれも見ていた。
「また杯を考えたな」
「……連想しただけです」
「よい。考え続けろ。今宵の貴様は、そのために生かしてある」
「生かしてある、ですか」
「不満か」
「いいえ」
時臣は静かに答えた。
「今夜に限れば、事実でしょう」
「言うようになったではないか」
王は楽しげだった。ひどく楽しげだった。
時臣は、これ以上返せば余計に喜ばせるだけだと判断した。
それもまた、王には伝わっていた。
「では行くぞ、時臣」
「はい」
遠坂邸を出ると、夜気は冷たかった。
冬木の街は静かだった。聖杯戦争の渦中にあっても、すべての市民が異変を知っているわけではない。灯りの落ちた住宅街。遠くの車の音。川の方から流れてくる湿った風。
時臣は足を止めなかった。傷は痛まない。痛まないのではなく、痛みを感じる余裕を霊薬が奪っている。
それでも、身体の奥には疲労が残っていた。言峰綺礼を殺した。大聖杯を疑った。桜の名を思い浮かべた。
そして今から、間桐雁夜に会いに行く。
もっとも会いたくない男の一人だった。
ギルガメッシュは、そんな時臣の横ではなく、少し後ろを歩いていた。従っているのではない。見物しているのだ。
「時臣」
「はい」
「あの男に、娘が心配だと言えば早いぞ」
時臣は足を止めなかった。
「分かっております」
「分かっていて言わぬか」
「はい」
「なぜだ」
「その言葉を聞いた雁夜は、私の言葉を別の形で受け取るでしょう。憎悪が緩むかもしれない。あるいは、逆により激しくなるかもしれない。いずれにせよ、証言の質は変わる」
「証言の質か」
ギルガメッシュが笑う。
「貴様、娘の名すら証言誘導の要素として扱うか」
「扱わざるを得ません」
時臣の声は静かだった。
「彼は私を憎んでいる。私が父親としての言葉を口にすれば、その憎しみの形が変わる。私は彼と和解しに行くのではありません。間桐が何をしているかを確認しに行くのです」
「だが、心配ではあるのだろう」
時臣は答えなかった。
それは沈黙であり、肯定でもあった。
ギルガメッシュは愉悦を隠さなかった。
「面白い考えだ。父であり、魔術師であり、当主でありながら、どの顔だけにもならぬ。情に逃げず、理にも逃げず、家の名にも逃げきれぬ。よいぞ、時臣。貴様は実によく揺れる」
「揺れているつもりはありません」
「ならばなおよい。揺れている者ほど、自分が揺れているとは言わぬ」
時臣は黙って歩いた。
やがて、川の匂いが濃くなった。橋が見えた。その下に、影があった。人が倒れている、と見ればそう見えた。
だが、ただの負傷者ではない。黒ずんだ血の跡。白く変色した髪。浅く荒い呼吸。皮膚の下で、何かが蠢くような微細な動き。
間桐雁夜は、まだそこにいた。
時臣は橋の下へ降りた。
泥と水の匂いがした。
雁夜は、顔を上げるのに時間がかかった。
そして、時臣を見た。その瞬間、死にかけた男の目に、憎悪だけが戻った。
「……とお、さか……」
時臣は、彼を見下ろした。
「まだ、ここにいたのか」
雁夜の喉が鳴った。笑おうとしたのかもしれない。呪おうとしたのかもしれない。だが出てきたのは、掠れた息だけだった。
「お前が……桜を……」
「雁夜」
時臣は遮った。
「あなたの身体に施された処置について、確認させていただきたい」
雁夜の顔が歪んだ。
「処置……だと……?」
「間桐の術式を受けた身体は、貴重な情報源です。あなたの証言には感情が混じる。ですが、身体に残った痕跡は別です」
雁夜の目が、さらに濁った。
「桜は……情報源じゃねえ……」
「桜の名を出すなら、なおさら確認が必要です」
「ふざけるな……!」
その怒りに反応して、雁夜の背後の闇が膨れた。
黒い霧。歪んだ甲冑。声にならない咆哮。バーサーカー。
時臣は身構えた。
だが、その前にギルガメッシュが一歩出た。
「邪魔だ」
黄金の波紋が開いた。七つ。いや、十を超えていた。そこから放たれたのは、剣ではない。槍でもない。
楔が床へ刺さる。輪が空間に浮く。薄い板が橋脚に貼りつく。棺の蓋めいたものが、黒い騎士の背後へ落ちる。
バーサーカーが吠えた。腕が動く。何かを掴もうとする。だが、掴むべき本体がなかった。拘束は鎖ではなかった。武器でもなかった。
足場、空間、影、魔力の流れ。そのすべてが、別々の宝具によって、わずかずつずらされ、押さえ込まれている。
黒い騎士の腕が、途中で止まった。指が震える。鎧が軋む。
しかし、それ以上動けない。
「無駄だ、狂犬」
ギルガメッシュはつまらなそうに言った。
「これは貴様に与える武器ではない。貴様を収める棚だ。我の財を握れば己のものになるなどと思うな」
バーサーカーがさらに唸った。
ギルガメッシュは、もはや見てすらいなかった。
「話を続けよ、時臣。犬の吠え声に構うな」
時臣は、封じられたバーサーカーを一瞥した。
その拘束の精緻さに、一瞬だけ意識を奪われそうになる。
だが今は、それを見る時ではない。
時臣は雁夜へ向き直った。
「雁夜。あなたに何が施されたのか、話していただきたい」
雁夜は、荒い息の間から時臣を睨んだ。
「……桜を、返せ」
時臣は答えなかった。言えば早い言葉があった。
娘が心配だ、と。
だが、言わない。
その沈黙を、ギルガメッシュだけが愉快そうに見ていた。