本来なら、第五次聖杯戦争が始まるはずだった冬。
穂群原学園で起きていたのは、昼休みの購買戦争だけだった。
ただし、士郎はそれを戦争とは呼ばなかった。
「早い者勝ちなんだな」
彼は、棚から最後の焼きそばパンが消えるのを見ながら、妙に感心したように言った。
「感心してる場合じゃないでしょ」
凛は隣で腕を組んでいた。
「あんた、さっきから人に譲ってばっかりじゃない」
「いや、あれは後ろのやつが急いでたから」
「全員急いでるのよ、購買なんだから」
士郎は少し考えた。
「そうなのか」
「そうなの」
凛はため息をついた。
士郎は弁当を持ってきていなかった。朝、家の用事で時間を取られ、用意できなかったらしい。購買で買えばいいと本人は言っていた。
それだけなら、凛もここまで言わなかった。
列へ入ってから、急いでいる生徒へ順番を譲り続けている。
桜は静かに、
「士郎さん、それではいつまで経っても買えません」
と言った。
イリヤはもっと直接的だった。
「シロウ、買うつもりがあるなら、ちゃんと取りなさい」
それで、三人そろって購買までついてきた。
「ほら、次に入ったら迷わず取る」
凛が言う。
「でも、後ろにも人が」
「いいから取る」
「士郎さん、姉さんの言う通りです」
桜が穏やかに加勢する。
「今日はちゃんと自分の分を買ってください」
「シロウが買えなかったら、私の分を半分あげるわ」
イリヤが言った。
士郎は首を振る。
「それは悪い」
「じゃあ買いなさい」
「わかった」
凛は思わず眉を上げた。
「あんた、今のは素直なのね」
「三人に同じこと言われたからな」
「私ひとりだと聞かないわけ?」
「そういう意味じゃない」
「どういう意味よ」
士郎が答えようとした時、購買のおばちゃんが新しいパンの籠を置いた。
瞬間、周囲が動く。
凛の目が鋭くなる。
「士郎、右」
「右?」
「今!」
士郎は言われるまま手を伸ばした。
惣菜パンを一つ掴む。
同時に別の男子生徒の手も伸びていたが、士郎は軽く身を引き、ぶつからないように半歩ずれた。
そのせいで、掴んだパンは少し奥へ滑る。
「だから、そこで譲るな!」
「いや、ぶつかりそうだったから」
「購買はぶつかるものなの!」
「そうなのか?」
「違います、姉さん」
桜がすぐに止めた。
「購買はぶつかってはいけません」
「桜、今はそういう正論いらない」
「正論は必要です」
その間に、イリヤが横からひょいと手を伸ばした。白い髪がふわりと揺れ、周囲の視線が一瞬だけ彼女へ集まる。
「取れたわ」
イリヤが持ち上げたのは、惣菜パンが一つと、色鮮やかな菓子パンが三つだった。
「イリヤ、それは」
「こっちがシロウの分」
彼女は惣菜パンだけを士郎へ渡し、残りを自分の胸元へ抱えた。
「ありがとう。でも、自分で買うって話じゃなかったか」
「取ったのは私。でも買うのはシロウ」
「なるほど」
「納得しないで」
凛が頭を抱えた。
士郎はイリヤの抱えたパンを見た。
「それ、全部甘いやつじゃないか」
「そうよ」
「昼飯なら、もう少し栄養のバランスを考えた方がいいぞ」
イリヤは露骨に嫌そうな顔をした。
「ママみたいなこと言わないで」
「アイリさんも言ってるのか」
「野菜も食べなさい、甘い物だけでお昼を済ませないの、って」
「じゃあ、言うことを聞いた方がいいだろ」
「シロウまでママの味方をするの?」
「味方っていうか、正しいからな」
「二人目のママはいらないわ」
「誰がママだ」
桜がくすくす笑い、凛は呆れたように言った。
「そこまで分かってるなら、一つくらい普通のパンに替えなさいよ」
「凛までママみたい」
「誰がよ!」
イリヤは満足そうに笑った。
士郎は代金を払い、ようやく自分の昼食を手に入れた。
その時、購買前を通りかかった慎二が足を止めた。
隣を歩いていた一成も、少し遅れて立ち止まる。
「見ろよ、一成」
「何をだ」
「あれだよ。士郎はパンを一つ買うのにも、三人がかりで世話を焼かれないと駄目なのか?」
一成は慎二の視線を追った。
士郎がパンを持ち、凛が何かを説教し、桜がそれをなだめ、イリヤが士郎の袖を引いている。
「士郎が昼食を買えたのなら、よいことではないか」
「結果だけ見て話すな。僕が言ってるのは、どうしてああいう状況になってるのかってことだ」
「仲が良いからだろう」
「だから、それで済ませるなよ」
慎二は呆れたように息を吐いた。
「遠坂凛はまあ分かる。あいつは頼まれてもいないのに、人のやることへ口を出すからな」
「お前も今、頼まれていないのに口を出しているぞ」
「僕は本人に言ってないだろ」
「陰で言う方がよくないのではないか」
「陰じゃない。聞こえない距離で状況を分析してるだけだ」
一成は納得しなかったが、慎二は構わず続けた。
「桜は姉についてきたんだろう。そこまではいい。だが、あの白いのは何なんだ。どうして最初から自分の場所みたいな顔で混ざってるんだよ」
「本人に聞けばよい」
「聞けるなら、とっくに聞いてる」
「では、聞けない理由があるのか」
「あの三人の輪へわざわざ入っていくほど、僕は暇じゃないんだよ」
「今、足を止めて眺めているが」
慎二は一成を睨んだ。
「お前は人間関係の機微というものが本当に分からないな」
「少なくとも、嫉妬している者の言い分は分かりにくい」
「嫉妬じゃない。分析だ」
「そうか」
「そうだ」
慎二は言い切った。少なくとも、言い切ればそういうことになると思っている顔だった。
そこへ、女子生徒が二人通りかかった。
片方が慎二を見て、くすりと笑った。
「間桐くん、また遠坂さんたち見てる」
「見てない!」
慎二は即座に反応した。
「僕は公共空間における不自然な人間関係を観察していただけだ」
「ほら、そういうところ」
女子生徒は友人に小声で言った。
「ちょっと可愛いよね」
友人は本気で嫌そうな顔をした。
「あんた、趣味悪いわよ」
「えー。でも、間桐くんって顔はいいじゃない」
「顔は、って自分で言ってるじゃない」
「あと、すぐむきになるところ」
「それを可愛いって言うの?」
「言うこともあるよね」
慎二は、わざとらしくため息をついた。
「聞こえているよ。評価するなら、本人のいないところでやってくれないか」
「可愛いって言われたの、嬉しいんだ」
「どこをどう聞けばそうなるんだ」
「そういうところかな」
女子生徒は楽しそうに笑った。
「じゃあ、間桐くん。午後も頑張ってね」
「何を頑張るんだよ」
「いろいろ」
二人は笑いながら、そのまま廊下を歩いていった。
一成は静かに慎二を見た。
「よかったな」
「何がだ」
「激励された」
「お前は今の会話の何を聞いてたんだ」
一成は少しだけ首を傾げた。
その声が少し大きかったのか、凛がこちらを見た。
慎二は一瞬で姿勢を正す。
凛は、すっと目を細めた。
「慎二。あんた、士郎が羨ましいなら素直にそう言えば?」
「誰が羨ましいって言った!」
反射的に叫んでから、慎二はしまったという顔をした。
凛は勝ったように笑う。
「ずいぶん必死に否定するのね」
「妙な決めつけをされたら、誰だって否定するだろ!」
「へえ。さっきは嫉妬じゃなくて分析だって言ってたのに」
「聞いてたのかよ!」
「聞こえるように騒いでたのは、あんたでしょ」
「騒いでない。あれは一成と話してただけだ!」
「はいはい。分析、分析」
「その言い方やめろ!」
桜が凛の横で困ったように笑った。
「姉さん、間桐さんをあまりからかわないでください」
「桜は優しいわね」
「間桐さんも、あまり大きな声を出すと目立ちますよ」
慎二は桜を見た。
遠坂桜。
遠坂凛の妹として、昔から知っている。
柔らかく笑うが、慎二の顔色をうかがう理由はない。声を荒らげても、怯えるより先に困った顔をする。
だから慎二は、桜を相手にすると妙に調子が狂う。
桜は柔らかい。
だが、弱くはない。
「べ、別に目立ってない」
「そうですか」
桜は微笑んだ。
その横から、イリヤが慎二をじっと見た。
「あなた、髪が面白いわね」
「君は髪の話だけは他人に振らない方がいいと思うけどね」
「私は面白い髪じゃないわ。きれいな髪よ」
「遠坂、こいつを黙らせてくれないか」
「無理よ。私も同意見だもの」
慎二は言葉に詰まった。
実際、イリヤの髪はきれいだった。
それがまた腹立たしい。
士郎が間に入るように言った。
「慎二も昼飯か?」
「違う!」
「違うのか」
「僕は購買なんかに並ばない」
「じゃあ何しに来たんだ?」
慎二は口を開いた。
そして閉じた。
言えるはずがない。
遠坂姉妹と白い美少女に囲まれている士郎を見に来た、などと。
一成が静かに言った。
「観察だそうだ」
「一成!」
士郎は納得したように頷いた。
「そうか」
「納得するな!」
凛が笑った。
「よかったじゃない、慎二。趣味が悪いとは言われてたけど、顔は評価されてたみたいよ」
「君に言われなくても知ってるよ」
慎二は髪をかき上げ、ようやく少しだけ余裕を取り戻した。
「そこは否定しないのね」
「事実まで謙遜する趣味はないんだ」
「でも、可愛いって言われた方は?」
「あれは評価じゃない。面白がられてただけだ」
「違いは分かってるんだ」
「分かるに決まってるだろ。僕を何だと思ってるんだ」
「すぐむきになる、顔のいい面倒な男子」
「本人の前でまとめるな!」
桜が小さく笑った。
「でも、だいたい合っていますね」
「桜まで乗るな!」
慎二は不満そうに鼻を鳴らした。
「そういえば慎二」
士郎が言った。
「今日は部活に出るのか?」
「そうだね。今日は顔を出してあげるよ」
「顔を出してあげるって、お前、副主将だろ」
「君にだけは言われたくないね」
慎二は肩をすくめた。
「士郎こそ、また誰かに頼まれたから部活へ行けない、なんて言い訳するなよ。今日は僕も出るんだから」
士郎は少し考えた。
「ああ。そうだな。今日はちゃんと行く」
「最初からそう言えばいいんだ」
慎二は満足そうに言った。
「じゃあ、放課後に余計な頼まれ事を増やさないことね」
凛が念を押す。
「弓道場の棚は頼まれているけどな」
「それは部活のついでに直せばいいだろ。何でも一人で先に片づけようとするなよ」
「分かった」
「……今日は妙に素直だな」
「慎二も同じことを言うんだな」
「僕をあの三人と一緒にするな」
桜が小さく笑った。
「では、放課後は皆さん弓道場ですね」
「私は違うわよ」
凛が即座に訂正した。
慎二は一成の肩を押し、歩き出した。
「ほら、行くぞ。一成」
「昼食はいいのか」
「もう食べた。お前も見てただろ」
「そうだったか」
慎二は足を止め、一成の顔をまじまじと見た。
「やめろよ。爺さんを思い出す」
「何の話だ」
「最近、同じことを二度聞くんだよ。まったく、家でも学校でもこれか」
「それは大変だな」
「他人事みたいに言うな。今のお前の話だ!」
慎二は前を向き直り、少し足早に歩き出した。
一成は何事もなかったように、その隣へ並んだ。
凛は、慎二と一成の背中を見送った。
「あれで本当に部活へ行くのかしら」
「行くだろ」
士郎が答えた。
「慎二は、ああ言った時はちゃんと来るから」
「ずいぶん信用してるのね」
「長い付き合いだからな」
桜が小さく笑った。
「姉さんも、間桐さんのことをよくご存じですね」
「私は、あいつが分かりやすいだけよ」
「凛も分かりやすいわ」
イリヤが言った。
凛は片眉を上げると、腰に手を当てた。
「イリヤには言われたくないわね」
イリヤは楽しそうに笑った。
士郎は二人を見比べた。
「何の話だ?」
「あんたは分からなくていいの」
今度は桜も笑った。
イリヤが士郎のパンを覗き込む。
「シロウ、それ少しちょうだい」
「いいぞ」
「即答しない」
凛と桜の声が重なった。
士郎はパンをちぎりかけた手を止めた。
「……そういえば、自分の分はどうした」
「食べたわ」
「もう全部か?」
「おいしかったわ」
イリヤは満足そうに答えた。
凛が呆れたように息を吐く。
「だからって、士郎の分まで食べようとしないの」
イリヤは不満そうに唇を尖らせた。
「けち」
桜がにこやかに続けた。
「士郎さんは今日、ちゃんと一人分食べてください」
「分かってる。これは俺が食べるよ」
「本当に?」
「本当だ」
凛はそのやり取りを見て、また少し負けた気がした。
だが、悪い気分ではなかった。
購買前のざわめきは、まだ続いている。
昼休みは、何でもない顔で過ぎていく。
士郎はようやく、自分のために買ったパンを一口食べた。