間桐邸の奥の部屋は、午後になっても薄暗かった。
窓は開いているのに、風が入ってこない。古い木と、湿った畳と、どこか土に近い匂いがする。
慎二は盆を持ったまま、部屋の入口で足を止めた。
「お爺ちゃん。遅くなったけど、昼飯だよ」
椅子に沈むように座っていた老人が、ゆっくりと顔を上げる。
間桐臓硯。
昔は、冬木の魔術師なら誰もが恐れた名だったらしい。
慎二にとっては、奥の部屋でぶつぶつと昔の話をしている老人だった。
「……聖杯戦争は」
臓硯が言った。
「もう、始まったかの」
慎二はため息をついた。
「始まってないよ。もう起きないって、何度も言っただろ、お爺ちゃん」
「ああ、そうじゃったかの」
臓硯は、少しだけ笑ったように見えた。
皺だらけの顔が、湿った紙のように歪む。
「第五次はまだかの?」
「だから、ないんだって」
「ない」
臓硯はその言葉を口の中で転がした。
「ない、か」
慎二は盆を机に置いた。
「いい加減覚えてよ。聖杯戦争なんて、もう起きないんだろ」
「起きぬ」
臓硯は呟いた。
「起きぬなら、何のために……」
そこで言葉が切れた。
老人の目が、部屋の隅へ向く。
そこには何もない。臓硯には、何かが見えているようだった。
「桜は」
慎二は一瞬だけ顔をしかめた。
「遠坂だよ」
「遠坂」
「遠坂桜。凛の妹。学校にいる」
「そうか。遠坂のままか」
臓硯は目を細めた。
悔しそうにも見えた。
懐かしそうにも見えた。
あるいは、何も感じていないようにも見えた。
「惜しいことをした」
慎二は黙った。
その言い方が嫌だった。
それでも、臓硯が何かをすることはもうない。
惜しいと言うだけだ。
昔のものを欲しがる老人のように、ただ言うだけ。
「お前は――」
不意に、臓硯の目が慎二へ向いた。
慎二の背筋が少しだけ伸びた。
この老人は、普段は壊れかけた置物のようなのに、時々だけ目が戻る。その瞬間だけ、古い蟲蔵の底がこちらを見ているような気がする。
「お前に魔術はない」
「……知ってるよ」
「ないものを、あるふりで埋めるな」
慎二は唇を噛んだ。
「説教かよ」
「そうすれば、もう少し長く残る」
「何が」
「間桐が」
言い終えると、臓硯の目から光が抜けた。
また、いつもの老人に戻る。
慎二は盆の上の椀を、臓硯の手が届くところへ置いた。
「こぼすなよ。畳についた染み、なかなか落ちないんだから」
「ここは、儂の屋敷じゃが」
「今、掃除してるのは僕だよ」
慎二は窓際に置かれていた空の湯呑みを盆へ戻し、机の端に積もった埃を布で拭った。
部屋の隅まで片づけるつもりはない。臓硯が余計なものへ触れるなとうるさい棚にも、手を出さなかった。
目についたところだけを整えると、慎二は壁際へ置いていた鞄を取った。
「食べ終わるまでは、ここにいるからな。喉に詰まらせられたら面倒だ」
低い机へ英語の問題集を広げ、鉛筆を持つ。問題集の表紙には、難関大学向けと小さく印刷されていた。
先週返された校内模試では、学年三位だった。悪い成績ではない、と教師には言われた。慎二はその言い方が嫌いだった。上に二人いるのに、何が悪くないのか分からない。
魔術がないから、代わりに勉強しているわけではない。
そんなふうに考えるのは、魔術に負けたようで気に入らなかった。
自分にできることをやっているだけだ。
そして、やるからには他人より上にいたい。
慎二は長文の末尾近くにある一文へ目を移した。
Not until the experiment had been repeated under different conditions did the researchers notice that the apparent rule depended on a hidden assumption.
一度読んで、慎二は鉛筆を動かした。
否定語句が先頭へ出たことによる倒置。途中のthat以下を目的語として切り分け、解答欄へ訳を書いていく。
『異なる条件で実験を繰り返して初めて、研究者たちは、その見かけ上の法則が隠れた前提に依存していることに気づいた』
巻末の解答を確かめる。表現は少し違ったが、意味は合っていた。
慎二は当然のように丸をつけ、次の問題へ進んだ。
臓硯が椀を見たまま、ぼそりと言った。
「何を読んでおる」
「英語。来週、試験なんだよ」
「魔術ではないのか」
慎二は問題集から顔を上げた。
「僕に魔術はないって、今言ったのはお爺ちゃんだろ」
「そうじゃったかの」
「そうだよ」
慎二は小さく舌打ちして、問題集へ視線を戻した。
しばらくすると、廊下の電話が鳴った。
慎二は鉛筆を置き、部屋の外へ出る。
「もしもし、間桐だけど」
受話器の向こうから、女子生徒の明るい声がした。
『慎二くん? 今から駅前の新しい店、行かない?』
「今日? 無理だよ。試験前だって言っただろ」
『この前も三位だったんでしょ。少しくらい勉強しなくても平気じゃない?』
「三位だからやるんだよ。上に二人いるだろ」
『そこを気にするんだ』
「当たり前だろ」
『じゃあ、日曜日は?』
「予定が空いていたら、行ってあげてもいいけど」
『慎二くんが来たいなら、二時に駅前ね』
「君が誘ったんだろ」
『勉強、頑張ってね。目指せ一位』
「言われなくても分かってるよ」
電話は、楽しそうな笑い声とともに切れた。
「まったく……」
慎二は受話器を戻し、部屋へ戻った。
「女か」
臓硯が言った。
「ただのクラスメイトだよ」
「そうか」
慎二は再び机へ座り、鉛筆を取った。
開いたままの問題集には、まだ解いていない英文が並んでいる。
臓硯はそれ以上尋ねず、ゆっくりと箸を動かしていた。
慎二も、次の問題を読み始めた。
その時、窓の外から、下校中の生徒たちの声が聞こえた。
表通りを、凛と桜とイリヤスフィールが歩いている。
凛が何かを言い、イリヤが手にした小さな袋を見せびらかし、桜が笑っていた。
「……あれだよ」
慎二は窓の外を顎で示した。
「桜。隣が凛。白いのがイリヤスフィール」
臓硯は、ゆっくりと窓の方へ顔を向けた。
慎二は少しだけ身構えた。
桜を見て、また惜しいと言うかもしれない。聖杯だの器だの、慎二にはよく分からない古い言葉を並べるかもしれない。
臓硯は何も言わなかった。
三人は、屋敷の前を通り過ぎていく。
凛が何かを言い、イリヤがふくれ、桜が笑った。
臓硯の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「女学生じゃの」
慎二は、肩の力が抜けるのを感じた。
「……そうだよ」
「仲がよいのか」
「まあ、よく一緒にいるな」
「そうか」
通りの角で、イリヤが何かを落とした。
桜が拾い、凛が呆れたように腕を組む。イリヤは笑って、桜の腕に抱きついた。
三人は、そのまま角を曲がって見えなくなった。
「遠坂のままか」
臓硯が言った。
「そうだよ」
慎二は答えた。
「遠坂のままだ」
「そうか」
臓硯の両手は、膝の上に置かれたままだった。
しばらくして、老人がまた口を開いた。
「第五次は、まだかの」
慎二はため息をついた。
「だから、ないって言ってるだろ」
「ああ、そうじゃったかの」
臓硯は、同じ返事をした。