優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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余話一 お爺ちゃん

 間桐邸の奥の部屋は、午後になっても薄暗かった。

 窓は開いているのに、風が入ってこない。古い木と、湿った畳と、どこか土に近い匂いがする。

 

 慎二は盆を持ったまま、部屋の入口で足を止めた。

「お爺ちゃん。遅くなったけど、昼飯だよ」

 

 椅子に沈むように座っていた老人が、ゆっくりと顔を上げる。

 間桐臓硯。

 昔は、冬木の魔術師なら誰もが恐れた名だったらしい。

 慎二にとっては、奥の部屋でぶつぶつと昔の話をしている老人だった。

 

「……聖杯戦争は」

 臓硯が言った。

「もう、始まったかの」

 慎二はため息をついた。

「始まってないよ。もう起きないって、何度も言っただろ、お爺ちゃん」

「ああ、そうじゃったかの」

 臓硯は、少しだけ笑ったように見えた。

 皺だらけの顔が、湿った紙のように歪む。

 

「第五次はまだかの?」

「だから、ないんだって」

「ない」

 臓硯はその言葉を口の中で転がした。

「ない、か」

 慎二は盆を机に置いた。

「いい加減覚えてよ。聖杯戦争なんて、もう起きないんだろ」

「起きぬ」

 臓硯は呟いた。

「起きぬなら、何のために……」

 

 そこで言葉が切れた。

 老人の目が、部屋の隅へ向く。

 そこには何もない。臓硯には、何かが見えているようだった。

 

「桜は」

 慎二は一瞬だけ顔をしかめた。

「遠坂だよ」

「遠坂」

「遠坂桜。凛の妹。学校にいる」

「そうか。遠坂のままか」

 

 臓硯は目を細めた。

 悔しそうにも見えた。

 懐かしそうにも見えた。

 あるいは、何も感じていないようにも見えた。

 

「惜しいことをした」

 慎二は黙った。

 その言い方が嫌だった。

 それでも、臓硯が何かをすることはもうない。

 惜しいと言うだけだ。

 昔のものを欲しがる老人のように、ただ言うだけ。

 

「お前は――」

 不意に、臓硯の目が慎二へ向いた。

 慎二の背筋が少しだけ伸びた。

 この老人は、普段は壊れかけた置物のようなのに、時々だけ目が戻る。その瞬間だけ、古い蟲蔵の底がこちらを見ているような気がする。

 

「お前に魔術はない」

「……知ってるよ」

「ないものを、あるふりで埋めるな」

 慎二は唇を噛んだ。

「説教かよ」

「そうすれば、もう少し長く残る」

 

「何が」

「間桐が」

 

 言い終えると、臓硯の目から光が抜けた。

 また、いつもの老人に戻る。

 

 慎二は盆の上の椀を、臓硯の手が届くところへ置いた。

「こぼすなよ。畳についた染み、なかなか落ちないんだから」

「ここは、儂の屋敷じゃが」

「今、掃除してるのは僕だよ」

 

 慎二は窓際に置かれていた空の湯呑みを盆へ戻し、机の端に積もった埃を布で拭った。

 部屋の隅まで片づけるつもりはない。臓硯が余計なものへ触れるなとうるさい棚にも、手を出さなかった。

 目についたところだけを整えると、慎二は壁際へ置いていた鞄を取った。

「食べ終わるまでは、ここにいるからな。喉に詰まらせられたら面倒だ」

 

 低い机へ英語の問題集を広げ、鉛筆を持つ。問題集の表紙には、難関大学向けと小さく印刷されていた。

 先週返された校内模試では、学年三位だった。悪い成績ではない、と教師には言われた。慎二はその言い方が嫌いだった。上に二人いるのに、何が悪くないのか分からない。

 

 魔術がないから、代わりに勉強しているわけではない。

 そんなふうに考えるのは、魔術に負けたようで気に入らなかった。

 自分にできることをやっているだけだ。

 そして、やるからには他人より上にいたい。

 

 慎二は長文の末尾近くにある一文へ目を移した。

 Not until the experiment had been repeated under different conditions did the researchers notice that the apparent rule depended on a hidden assumption.

 

 一度読んで、慎二は鉛筆を動かした。

 否定語句が先頭へ出たことによる倒置。途中のthat以下を目的語として切り分け、解答欄へ訳を書いていく。

『異なる条件で実験を繰り返して初めて、研究者たちは、その見かけ上の法則が隠れた前提に依存していることに気づいた』

 

 巻末の解答を確かめる。表現は少し違ったが、意味は合っていた。

 慎二は当然のように丸をつけ、次の問題へ進んだ。

 

 臓硯が椀を見たまま、ぼそりと言った。

「何を読んでおる」

「英語。来週、試験なんだよ」

「魔術ではないのか」

 

 慎二は問題集から顔を上げた。

「僕に魔術はないって、今言ったのはお爺ちゃんだろ」

「そうじゃったかの」

「そうだよ」

 慎二は小さく舌打ちして、問題集へ視線を戻した。

 

 しばらくすると、廊下の電話が鳴った。

 慎二は鉛筆を置き、部屋の外へ出る。

「もしもし、間桐だけど」

 

 受話器の向こうから、女子生徒の明るい声がした。

『慎二くん? 今から駅前の新しい店、行かない?』

「今日? 無理だよ。試験前だって言っただろ」

『この前も三位だったんでしょ。少しくらい勉強しなくても平気じゃない?』

「三位だからやるんだよ。上に二人いるだろ」

『そこを気にするんだ』

「当たり前だろ」

『じゃあ、日曜日は?』

「予定が空いていたら、行ってあげてもいいけど」

『慎二くんが来たいなら、二時に駅前ね』

「君が誘ったんだろ」

『勉強、頑張ってね。目指せ一位』

「言われなくても分かってるよ」

 電話は、楽しそうな笑い声とともに切れた。

「まったく……」

 

 慎二は受話器を戻し、部屋へ戻った。

「女か」

 臓硯が言った。

「ただのクラスメイトだよ」

「そうか」

 

 慎二は再び机へ座り、鉛筆を取った。

 開いたままの問題集には、まだ解いていない英文が並んでいる。

 臓硯はそれ以上尋ねず、ゆっくりと箸を動かしていた。

 慎二も、次の問題を読み始めた。

 

 その時、窓の外から、下校中の生徒たちの声が聞こえた。

 

 表通りを、凛と桜とイリヤスフィールが歩いている。

 凛が何かを言い、イリヤが手にした小さな袋を見せびらかし、桜が笑っていた。

「……あれだよ」

 慎二は窓の外を顎で示した。

「桜。隣が凛。白いのがイリヤスフィール」

 

 臓硯は、ゆっくりと窓の方へ顔を向けた。

 慎二は少しだけ身構えた。

 桜を見て、また惜しいと言うかもしれない。聖杯だの器だの、慎二にはよく分からない古い言葉を並べるかもしれない。

 

 臓硯は何も言わなかった。

 三人は、屋敷の前を通り過ぎていく。

 凛が何かを言い、イリヤがふくれ、桜が笑った。

 臓硯の目が、ほんの少しだけ細くなる。

 

「女学生じゃの」

 慎二は、肩の力が抜けるのを感じた。

「……そうだよ」

「仲がよいのか」

「まあ、よく一緒にいるな」

「そうか」

 

 通りの角で、イリヤが何かを落とした。

 桜が拾い、凛が呆れたように腕を組む。イリヤは笑って、桜の腕に抱きついた。

 三人は、そのまま角を曲がって見えなくなった。

 

「遠坂のままか」

 臓硯が言った。

「そうだよ」

 慎二は答えた。

「遠坂のままだ」

「そうか」

 臓硯の両手は、膝の上に置かれたままだった。

 

 しばらくして、老人がまた口を開いた。

「第五次は、まだかの」

 慎二はため息をついた。

「だから、ないって言ってるだろ」

「ああ、そうじゃったかの」

 臓硯は、同じ返事をした。

 

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