間桐慎二は、二十七歳になっていた。
高校時代のように、廊下で凛を見つけるたび張り合うこともない。
他人の昼食風景を「分析」と称して、わざわざ足を止めることもなくなった。
少なくとも、人前では。
「……ずいぶん立派になったじゃない、慎二」
冬木の古い洋館を改装した会場で、凛はそう言った。
会場は、間桐ヘリテージが最初に手掛けた洋館だった。
取り壊し寸前だった建物を買い取り、外観と階段を残したまま、耐震補強と配線の更新を行った。普段は宿泊施設と催事場として使われている。
今夜は、慎二が初めて主催する文化財保全のための慈善晩餐会だった。
冬木市内の歴史的建築物の保存と、若い職人や研究者への支援。それが会の趣旨だった。
その中心にいるのが慎二だった。
慎二は、濃紺のスーツを着ていた。
派手ではない。だが、仕立てはよく、立ち姿も悪くない。
昔のような空回りした自意識は、かなり鳴りを潜めている。
それでも、口元に浮かぶ薄い笑みだけは、どこか慎二だった。
「ずいぶん、は余計だよ」
「あら。立派になったことは否定しないのね」
「事実まで謙遜する趣味はないんだ」
「そういうところは変わらないわね」
「全部変わったら、君たちも気味が悪いだろう」
慎二はグラスを軽く掲げた。
「だが、来てくれたことには礼を言うよ。君が顔を出すと、古い連中が勝手に格を感じてくれる」
「私を看板に使うな」
「使える看板を使わない経営者はいない」
「昔よりは賢くなったわね」
「昔から賢かった」
「はいはい」
凛は軽く流した。
その横で、桜が穏やかに微笑んでいる。
柔らかいが、慎二の機嫌を取ろうとはしない。
昔はそれが妙に調子を狂わせた。
今では、そのくらいの距離がちょうどよかった。
「桜も、来てくれてありがとう」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。慎二さん」
慎二は少し苦笑した。
「君にそう丁寧に呼ばれると、昔から妙に落ち着かないんだ」
「では、間桐さんの方が?」
「それはそれで距離がある」
「難しい方ですね」
「よく言われる」
昔なら、そこで嫌味を返しただろう。
今の慎二は、笑って流した。
それだけのことができるようになるまで、案外時間がかかった。
魔術の才能は、結局なかった。
ないものは、最後までなかった。
それでも、家を回す才はあった。
土地の整理。古い資産の再評価。文化財保全を、継続可能な事業へ組み直すこと。旧家同士の社交。起業家や自治体との折衝。
そこに、自分の見栄と口の上手さと、嫌味なほど相手の弱点を見る目を乗せた。
結果として、間桐は魔術の家ではなくなった。
だが、間桐は表の社会で、もう一度名家になろうとしていた。
皮肉なものだと、慎二自身も思う。
魔術にしがみつかなかったから、間桐は残った。
そこへ、薄い図面ケースを抱えた若い社員が近づいてきた。
二十代半ばほどの男性だった。新しいスーツはまだ身体に馴染んでおらず、会場の名士たちを意識しているのか、図面ケースを持つ手に少し力が入っている。
それでも、慎二たちの会話が途切れるまで待ってから、声を落として話しかけた。
「社長。少しよろしいでしょうか」
「何だい」
「市の担当者が、北棟の保存範囲について確認したいと。全面保存案では、改修費が予算を超えるのではないかと言われています」
「二案目は持ってきた?」
「はい。こちらに」
社員が図面ケースから書類を取り出す。
慎二は受け取らず、開かれた図面へ目を落とした。
「これを見せてくれ。外壁と正面階段は残す。内部の水回りは変更していい。補助金の条件にも触れないはずだ」
「そのように説明します」
「条件については、確認できている範囲だけを話すんだ。分からないところを、その場で埋めようとしなくていい」
「分かりました」
社員は頷いたが、まだ立ち去らなかった。
「他にもあるのか?」
「職人組合の方も、社長とお話ししたいと」
「開会の挨拶が終わったら、こちらから伺うと伝えてくれ。北棟の話なら、担当役員にも同席してもらう」
「分かりました」
「それまでに、奨学金を受ける若手の二人を市の担当者へ紹介しておいて」
「僕が、ですか?」
「君がだよ」
慎二は当然のように答えた。
「制度の説明もしておいてくれ。僕が壇上にいる間、誰も説明できないようでは、来年まで続かないだろう」
社員は一瞬だけ目を見開いた。
それから、先ほどより深く頷く。
「分かりました。やってみます」
「分からないことが出たら、役員の誰かを捕まえればいい。勝手に答えを作るよりは、その方がましだ」
「はい」
若い社員は図面を抱え直し、来た時よりも少しだけ背筋を伸ばして歩いていった。
「ちゃんと社長してるのね」
凛が言った。
「だから、さっきからそう言ってるだろ」
「意外と部下にはまともなのね」
「意外は余計だよ。失敗されて困るのは僕なんだから、仕事を覚えさせるのは当然だろう」
「はいはい。そういうことにしておくわ」
「慎二さん」
背後から、柔らかい声がした。
慎二の表情が、少しだけ変わる。
凛はそれに気づいた。
慎二が、こういう顔をするのか。
振り向いた先に、ひとりの女性が立っていた。黒い髪に、穏やかな目。派手な美人ではないが、所作が静かで、古い洋館の宴席にも自然と馴染んでいる。
今夜は主催者側として、招待客への挨拶や会場スタッフとの調整を取り仕切っていたらしい。慎二と話す時にも、周囲へ向けていた落ち着きは変わらなかった。
「ご挨拶は済みましたか?」
「ああ。今、遠坂姉妹に馬鹿にされていたところだ」
「それは、あなたが何か言ったからでは?」
「僕を信用していないな」
「していますよ。だから分かるんです」
女性はそう言って微笑んだ。
慎二は小さく息を吐き、凛たちへ向き直る。
「紹介しておくよ。こちらが遠坂凛。その隣が妹の桜。学生の頃からの付き合いだ」
「ずいぶん無難な紹介ね」
「紹介の途中で面倒は増やす必要はないだろう?」
慎二は女性の方へ手を向けた。
「こちらは妻の真帆だ」
「初めまして。間桐真帆です」
真帆は二人へ丁寧に頭を下げた。
「お二人のお話は、慎二さんから伺っています」
「ろくな話じゃなさそうね」
凛が言うと、慎二は眉を寄せた。
「君たちについて、事実を話しただけだよ」
「それが一番信用できないのよ」
桜が隣で小さく笑う。
「初めまして、真帆さん。桜です」
「ええ。お会いできて嬉しいです」
真帆が微笑んだ。
その穏やかな間の取り方に、凛は一瞬だけ母を思い出した。
顔立ちが似ているわけではない。ただ、人の言葉を急がせずに受け止めるところが、少し似ていた。
凛はもう一度、真帆を見る。
そして、少しだけ肩の力を抜いた。
「……悪くない人を選んだじゃない」
慎二は一瞬だけ目を細めた。
「君にそう言われると、妙に腹が立つな」
「褒めてるのよ」
「分かっている。だから腹が立つ」
真帆は不思議そうに二人を見比べた。
「私、何か?」
「すみません。少し、母を思い出しただけです」
「お母様を?」
「ええ。雰囲気が少しだけ」
真帆は驚いたように瞬きをしてから、静かに微笑んだ。
「それなら、悪いことではなさそうですね」
「ええ。悪いことではありません」
凛はそう答えてから、わずかに口元を緩めた。
「真帆さん、苦労してない?」
真帆は少しだけ慎二を見た。
「します」
「即答かよ」
慎二が低く言った。
「ですが、面白い方です」
「それは褒めてるのか?」
「もちろん」
「間があった」
「考えてから褒める方が誠実でしょう?」
慎二は黙った。
凛は少し笑った。
「負けてるじゃない」
「勝ち負けではない」
「昔のあんたなら、絶対に勝ち負けにしてたわよ」
「昔の僕は若かったんだ」
「便利な言葉ね」
「二十七になると使えるようになる」
真帆は、桜へ向き直った。
「桜さん、お噂は慎二さんから伺っています」
「私の?」
「はい。遠坂家のもう一人の才女だと」
「ちょっと、慎二」
凛が声を上げた。
「私のことは何て言ってるのよ」
「言う必要があるか?」
「あるわよ」
慎二は少し考えた。
「遠坂凛は、敵に回すと面倒で、味方にしても面倒だが、同じ街にいるなら敵に回さない方がいい女だと」
「褒めてないわね」
「最大級に褒めている」
桜は笑った。
「姉さんらしい評価ですね」
「桜まで」
そこへ、白い髪のイリヤが近づいてきた。
会場のどこにいても目立つ髪だったが、本人は相変わらず気にしていない。
「慎二」
イリヤは遠慮なく言った。
「あなた、社交界だとちゃんとしてるのね」
「君は相変わらず一言多いな」
「褒めてるのよ」
「それで褒めているつもりなら、アインツベルンは教育に失敗している」
「失敗したから、私がここにいるのよ」
慎二は一拍だけ黙った。
「……それを切り札にするのは反則だろ」
「効いたでしょう?」
「効いたから言ってるんだよ」
イリヤは白い髪を指先で横へ払い、勝ち誇ったように顎を上げた。
真帆が小さく笑った。
「慎二さん、お友達が多いんですね」
「古い付き合いだよ。切ろうとしても、なかなか切れない類の」
「それを友達っていうのよ」
凛が言った。
「君に人間関係を定義されたくないな」
慎二は苦笑した。
会場の奥で、役員の一人が慎二へ目配せした。
「社長、保存会の理事が少しお話をしたいと」
「分かった」
慎二は真帆へグラスを預け、役員の後についていった。
待っていたのは、地元でいくつもの土地を所有する年配の男性だった。今夜の晩餐会にも、少なくない額を寄付している。
「間桐君。君のところは、古い屋敷を宿や催事場へ変えているそうだね」
「ええ。ここもその一つです」
「保存と言いながら、結局は商売ではないのかね」
「商売ですよ」
慎二はあっさり答えた。
相手が少し意外そうに眉を上げる。
「残して眺めるだけでは、次の修繕費が出ません。屋根を直せば配管が傷み、配管を替えれば、今度は壁の補修が必要になる。寄付だけに頼れば、寄付が切れた時に建物も終わります」
「だから、宿として使うと」
「使って稼ぎ、その利益で次の修繕をする。間桐ヘリテージが残すのは、建物だけではありません。使い続けられる仕組みまでです」
男性は、天井を見上げた。
古い梁は残されている。照明や空調は新しくなっているが、客の目につく場所では建物の姿を崩していない。
「しかし、若い職人に任せるのは不安だという声もある」
「古い技術を残したいなら、若い職人へ仕事を渡すしかないでしょう」
慎二は会場の一角へ目を向けた。
先ほど社員に紹介させた若い職人二人が、市の担当者や職人組合の関係者に囲まれて話している。
「熟練者だけに任せていれば、十年後には建物より先に、直せる人間がいなくなります。その時になって保存を叫んでも遅い」
「なるほど」
男性はしばらく考えてから、わずかに口元を緩めた。
「では、次の事業にもいくらか出そう。もっとも、寄付者の名くらいは残してもらいたいがね」
「もちろんです」
慎二も笑った。
「建物より目立たない大きさでよろしければ」
男性は一瞬黙り、それから声を立てて笑った。
「君は、なかなか言う男だな」
「古い名前の価値は、僕もよく知っていますから」
「いいだろう。詳しい話は、後日聞かせてもらう」
「こちらから伺います」
慎二は役員へ視線を送った。
「日程を押さえておいてくれ。次の物件の資料も一緒に」
「承知しました」
慎二が戻ってくると、凛が片方の眉を上げた。
「昔なら、途中で喧嘩になってたわね」
「今も言っていることは同じだよ」
「そうかしら」
「相手が怒らない順番を覚えただけだ」
凛は少し考えてから、口元を緩めた。
「それを成長っていうんじゃない?」
「技術だよ」
桜は、改めて会場を見回した。
古い梁も、正面の階段も残されている。それでいて、湿った古さはなく、人が集まり、灯りが入り、今も使われていた。
「間桐のお屋敷も、いつかこのようにするのですか?」
慎二は少しだけ考えた。
「使えるところはね。庭も、表の棟も、手を入れればどうにかなる。だけど、奥はまだ触れない」
「まだ?」
凛が聞いた。
「住んでいる人がいるからさ」
慎二の声から、先ほどまでの軽さが少し消えた。
桜は、その意味に気づいたように慎二を見た。
「臓硯さんは?」
桜が静かに聞いた。
慎二は一瞬だけ目を伏せた。
「まだ生きている」
「そうですか」
「第五次はまだか、と今日も聞いていたよ」
凛の顔から笑みが消えた。
イリヤも黙る。
慎二はグラスを見つめた。
「来ないと答えた。いつも通りにね」
「……そう」
凛は短く言った。
慎二は肩をすくめる。
「魔術の家としての間桐は、あそこで止まっている。奥の部屋で、来ない聖杯戦争を待っている老人がいる。それだけだ」
「あなたは?」
真帆が聞いた。
慎二は真帆を見た。口元に残っていた笑みが、少しだけ薄くなる。
「僕は、明日の支払いと来月の総会と来年の保存計画で手一杯だ」
「よろしい」
真帆は満足そうに頷いた。
凛は、そのやり取りを見て少し笑った。
「本当に、名家の当主みたいになったわね」
「みたい、ではない」
慎二は言った。
「なったんだよ」
そこへ、会場係が近づいてきた。
「社長。そろそろ、ご挨拶のお時間です」
「分かった」
「呼ばれてるわよ、当主様」
凛が言った。
「君に言われると、嫌味にしか聞こえないな」
慎二は真帆へグラスを預けた。
「行ってらっしゃい」
「ああ」
慎二は会場の中央を抜け、壇上へ向かった。
役員も、職人も、市の担当者も、古い家の名士たちも、その姿へ目を向ける。
嫌味ったらしい少年は、嫌味を社交辞令に変えた。
見栄っ張りの若者は、見栄を看板に変えた。
魔術師になれなかった跡取りは、魔術の家を畳むことで、間桐の名を残した。