間桐邸の奥の部屋は、今日も薄暗かった。
窓は開けている。カーテンも替えた。湿気取りも置いた。
昔のような腐った蟲蔵の匂いは、もうずいぶん薄くなっている。
それでも、この部屋だけは何かが残っていた。
古い木と湿った土、それに死に損なったものの匂い。
慎二は盆を持って、襖の前で足を止めた。
「爺さん。夕飯だ」
返事はない。
いつものことだった。
慎二はため息をついて、襖を開ける。
間桐臓硯は、いつもの椅子に沈むように座っていた。
小さくなった。そう思う。
慎二が物心ついた頃から、臓硯は老人だった。
それでも、以前はもっと大きかったように思う。
冬木の魔術師が恐れた名。
間桐を何百年も引きずってきた執念。
聖杯に手を伸ばし続けた怪物。
その成れの果てが、今は膝掛けをかけられ、ぼんやりと庭を見ている。
「聞こえてるか?」
慎二は盆を置いた。
「今日は粥だ。文句言うなよ。医者が言ってんだからな」
臓硯はしばらく動かなかった。
慎二が椀を近づけると、ようやく目だけが動いた。
「……慎二か」
「他に誰がいるんだよ」
「雁夜は」
「いないよ」
「そうか」
何度目か分からないやり取りだった。
臓硯は、時々時間を間違える。
雁夜がまだ戻ってくると思っている日もある。
桜がこれから間桐へ来ると思い込んでいる日もある。
第五次聖杯戦争を待っている日もある。
そして、全部を思い出しているような日もある。
今日がどれなのか、慎二には分からなかった。
「慎二」
「何だよ」
「家は」
臓硯は、掠れた声で言った。
「家は、まだあるか」
慎二は眉をひそめた。
「あるよ。なかったら俺がここに飯持ってきてないだろ」
「間桐は」
「ああ?」
「間桐は、残ったか」
慎二は少し黙った。
それから、椅子を引いて臓硯の前に座る。
「残ったよ」
臓硯の濁った目が、慎二を見る。
慎二は肩をすくめた。
「魔術の家としてじゃないけどな。そんなもの、とっくに終わってる。あんたも分かってるだろ」
「魔術は」
「ないよ。少なくとも、俺にはない」
昔なら、この言葉を言うだけで喉が焼けるようだった。
今は違う。
少し苦い。少し腹立たしい。
でも、それだけだ。
「だけど、家は残った。土地も整理した。古い屋敷も直した。会社も回ってる。冬木の連中は、間桐を古い名家だと思ってる。多少は尊重もしてる。……まあ、遠坂ほどじゃないけどな」
最後の一言は、つい出た。
臓硯は笑ったようだった。
湿った紙が擦れるような音だった。
「遠坂」
「ああ。遠坂は相変わらずだ。凛も桜も、腹が立つくらいちゃんとしてる」
「桜」
「遠坂桜だよ」
慎二は言った。
「間桐じゃない。遠坂のままだ」
「そうか」
臓硯は目を閉じた。
「遠坂のままか」
「そうだよ」
しばらく、臓硯は動かなかった。
何を考えているのか、慎二には分からなかった。
「慎二」
「何だよ」
「よくやった」
慎二は眉をひそめた。
「……何がだよ」
臓硯は答えなかった。
分かって言ったのか、別の何かと取り違えたのか、それすら慎二には判断できなかった。
「あんたがそういうこと言うと、すぐ死にそうじゃねえか」
「死ぬか」
「死ねよ、そろそろ」
「死ねぬ」
「知ってるよ」
慎二は乱暴に息を吐いた。
「慎二」
「今度は何だよ」
「第五次は、まだかの」
「出たよ」
「何がじゃ」
「いつものだよ。第五次は起きない。遠坂が大聖杯を解体した」
「遠坂が」
「ああ」
「そうじゃったかの」
「そうだよ」
臓硯はゆっくり頷いた。
先ほど慎二へ何を言ったのかも、もう覚えていないようだった。
慎二は乱暴に息を吐いてから、椅子に座り直した。
臓硯の前に椀を置く。
「食えよ」
「腹は減らぬ」
「減らなくても食え。医者に怒られるのは俺なんだよ」
「医者」
「ああ。医者」
「魔術師ではないのか」
「医者だよ。普通の」
「そうか」
臓硯は、匙を持とうとして、うまく持てなかった。
慎二は一瞬だけ迷った。
それから、匙を取って粥をすくう。
「ほら」
「いらぬ」
「食え」
「粥は好かぬ」
「知ってるよ。文句は医者に言え」
臓硯は答えなかった。
慎二は粥を差し出したまま、少しだけ笑った。
嫌な笑いではなかった。
諦めたような、疲れたような、それでもどこか柔らかい笑いだった。
「ったく。ほんと、最後まで面倒くさい爺さんだよ」
臓硯は、ゆっくり口を開けた。
慎二は匙を運ぶ。
奥の部屋は、相変わらず薄暗い。
湿った匂いも、まだ少し残っている。
けれど、昔よりはましだった。
襖の向こうには、改装された廊下がある。
その先には、会社の資料が置かれた書斎がある。
外には、間桐の名で招いた職人や研究者たちが出入りする庭がある。
聖杯戦争は来ない。
第五次は起きない。
桜は遠坂のまま。
遠坂は大聖杯を解体した。
そして、間桐はまだ残っている。
魔術の家としてではなく。
ただの、しかし今を生きる家として。
臓硯は半分ほど粥を食べたところで、また庭を見ていた。
「慎二」
「何だよ」
「第五次は」
「ない」
「そうじゃったかの」
「そうだよ」
何度目か分からないやり取りだった。
慎二は立ち上がり、盆を持った。
襖へ向かいかけて、ふと足を止める。
「爺さん」
「何じゃ」
「長生きしろよ」
言ってから、慎二は自分で嫌な顔をした。
「……いや、もう十分してるけどな」
臓硯は、ゆっくり慎二を見た。
濁った目のまま、わずかに首を傾げる。
「嫌ではないのか」
「嫌だよ」
慎二は即答した。
「正直、面倒だし、気味も悪いし、たまに本気で腹が立つ」
「ならば」
「でも」
慎二は、少しだけ視線を逸らした。
「間桐が残ったことを、あんたがたまに思い出すなら。まあ、もう少し生きててもいい」
臓硯は、皺だらけの顔を歪めた。
笑ったのかもしれない。
慎二は襖を開けた。
外の廊下には、夕方の光が差していた。
改装された床板は明るく、昔の湿った匂いはほとんどない。
背後で、臓硯が小さく呟く。
「第五次は、まだかの」
慎二は振り返らなかった。
「来ないよ」
「そうじゃったかの」
「ああ」
少しだけ間を置いて、慎二は言った。
「だから、安心してぼけてろ。お爺ちゃん」
臓硯は返事をしなかった。
ただ、奥の部屋から、湿った笑い声のようなものが聞こえた。
慎二は顔をしかめる。
「笑うなよ。気持ち悪い」
それでも、襖を閉める手つきは、少しだけ丁寧だった。