優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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余話三 家は、まだあるか

 間桐邸の奥の部屋は、今日も薄暗かった。

 窓は開けている。カーテンも替えた。湿気取りも置いた。

 昔のような腐った蟲蔵の匂いは、もうずいぶん薄くなっている。

 

 それでも、この部屋だけは何かが残っていた。

 古い木と湿った土、それに死に損なったものの匂い。

 

 慎二は盆を持って、襖の前で足を止めた。

「爺さん。夕飯だ」

 

 返事はない。

 いつものことだった。

 慎二はため息をついて、襖を開ける。

 

 間桐臓硯は、いつもの椅子に沈むように座っていた。

 小さくなった。そう思う。

 

 慎二が物心ついた頃から、臓硯は老人だった。

 それでも、以前はもっと大きかったように思う。

 冬木の魔術師が恐れた名。

 間桐を何百年も引きずってきた執念。

 聖杯に手を伸ばし続けた怪物。

 

 その成れの果てが、今は膝掛けをかけられ、ぼんやりと庭を見ている。

 

「聞こえてるか?」

 慎二は盆を置いた。

「今日は粥だ。文句言うなよ。医者が言ってんだからな」

 

 臓硯はしばらく動かなかった。

 慎二が椀を近づけると、ようやく目だけが動いた。

「……慎二か」

「他に誰がいるんだよ」

「雁夜は」

「いないよ」

「そうか」

 

 何度目か分からないやり取りだった。

 臓硯は、時々時間を間違える。

 

 雁夜がまだ戻ってくると思っている日もある。

 桜がこれから間桐へ来ると思い込んでいる日もある。

 第五次聖杯戦争を待っている日もある。

 そして、全部を思い出しているような日もある。

 今日がどれなのか、慎二には分からなかった。

 

「慎二」

「何だよ」

「家は」

 臓硯は、掠れた声で言った。

「家は、まだあるか」

 

 慎二は眉をひそめた。

「あるよ。なかったら俺がここに飯持ってきてないだろ」

「間桐は」

「ああ?」

「間桐は、残ったか」

 

 慎二は少し黙った。

 それから、椅子を引いて臓硯の前に座る。

「残ったよ」

 

 臓硯の濁った目が、慎二を見る。

 慎二は肩をすくめた。

「魔術の家としてじゃないけどな。そんなもの、とっくに終わってる。あんたも分かってるだろ」

「魔術は」

「ないよ。少なくとも、俺にはない」

 

 昔なら、この言葉を言うだけで喉が焼けるようだった。

 今は違う。

 少し苦い。少し腹立たしい。

 でも、それだけだ。

 

「だけど、家は残った。土地も整理した。古い屋敷も直した。会社も回ってる。冬木の連中は、間桐を古い名家だと思ってる。多少は尊重もしてる。……まあ、遠坂ほどじゃないけどな」

 

 最後の一言は、つい出た。

 臓硯は笑ったようだった。

 湿った紙が擦れるような音だった。

 

「遠坂」

「ああ。遠坂は相変わらずだ。凛も桜も、腹が立つくらいちゃんとしてる」

「桜」

「遠坂桜だよ」

 慎二は言った。

 

「間桐じゃない。遠坂のままだ」

「そうか」

 臓硯は目を閉じた。

「遠坂のままか」

「そうだよ」

 

 しばらく、臓硯は動かなかった。

 何を考えているのか、慎二には分からなかった。

「慎二」

「何だよ」

「よくやった」

 慎二は眉をひそめた。

「……何がだよ」

 

 臓硯は答えなかった。

 分かって言ったのか、別の何かと取り違えたのか、それすら慎二には判断できなかった。

 

「あんたがそういうこと言うと、すぐ死にそうじゃねえか」

「死ぬか」

「死ねよ、そろそろ」

「死ねぬ」

「知ってるよ」

 慎二は乱暴に息を吐いた。

 

「慎二」

「今度は何だよ」

「第五次は、まだかの」

「出たよ」

「何がじゃ」

「いつものだよ。第五次は起きない。遠坂が大聖杯を解体した」

「遠坂が」

「ああ」

「そうじゃったかの」

「そうだよ」

 臓硯はゆっくり頷いた。

 先ほど慎二へ何を言ったのかも、もう覚えていないようだった。

 

 慎二は乱暴に息を吐いてから、椅子に座り直した。

 臓硯の前に椀を置く。

「食えよ」

「腹は減らぬ」

「減らなくても食え。医者に怒られるのは俺なんだよ」

「医者」

「ああ。医者」

「魔術師ではないのか」

「医者だよ。普通の」

「そうか」

 

 臓硯は、匙を持とうとして、うまく持てなかった。

 慎二は一瞬だけ迷った。

 それから、匙を取って粥をすくう。

 

「ほら」

「いらぬ」

「食え」

「粥は好かぬ」

「知ってるよ。文句は医者に言え」

 

 臓硯は答えなかった。

 慎二は粥を差し出したまま、少しだけ笑った。

 嫌な笑いではなかった。

 諦めたような、疲れたような、それでもどこか柔らかい笑いだった。

「ったく。ほんと、最後まで面倒くさい爺さんだよ」

 

 臓硯は、ゆっくり口を開けた。

 慎二は匙を運ぶ。

 

 奥の部屋は、相変わらず薄暗い。

 湿った匂いも、まだ少し残っている。

 けれど、昔よりはましだった。

 

 襖の向こうには、改装された廊下がある。

 その先には、会社の資料が置かれた書斎がある。

 外には、間桐の名で招いた職人や研究者たちが出入りする庭がある。

 

 聖杯戦争は来ない。

 第五次は起きない。

 

 桜は遠坂のまま。

 遠坂は大聖杯を解体した。

 

 そして、間桐はまだ残っている。

 魔術の家としてではなく。

 ただの、しかし今を生きる家として。

 

 臓硯は半分ほど粥を食べたところで、また庭を見ていた。

「慎二」

「何だよ」

「第五次は」

「ない」

「そうじゃったかの」

「そうだよ」

 

 何度目か分からないやり取りだった。

 慎二は立ち上がり、盆を持った。

 襖へ向かいかけて、ふと足を止める。

 

「爺さん」

「何じゃ」

「長生きしろよ」

 言ってから、慎二は自分で嫌な顔をした。

「……いや、もう十分してるけどな」

 

 臓硯は、ゆっくり慎二を見た。

 濁った目のまま、わずかに首を傾げる。

「嫌ではないのか」

「嫌だよ」

 慎二は即答した。

 

「正直、面倒だし、気味も悪いし、たまに本気で腹が立つ」

「ならば」

「でも」

 慎二は、少しだけ視線を逸らした。

「間桐が残ったことを、あんたがたまに思い出すなら。まあ、もう少し生きててもいい」

 

 臓硯は、皺だらけの顔を歪めた。

 笑ったのかもしれない。

 

 慎二は襖を開けた。

 外の廊下には、夕方の光が差していた。

 改装された床板は明るく、昔の湿った匂いはほとんどない。

 背後で、臓硯が小さく呟く。

 

「第五次は、まだかの」

 慎二は振り返らなかった。

「来ないよ」

「そうじゃったかの」

「ああ」

 少しだけ間を置いて、慎二は言った。

「だから、安心してぼけてろ。お爺ちゃん」

 

 臓硯は返事をしなかった。

 ただ、奥の部屋から、湿った笑い声のようなものが聞こえた。

 

 慎二は顔をしかめる。

「笑うなよ。気持ち悪い」

 

 それでも、襖を閉める手つきは、少しだけ丁寧だった。

 

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