時臣は、雁夜へ近づかなかった。
橋の下には湿った泥の匂いがあった。川の水音。雁夜の荒い呼吸。拘束されたバーサーカーの鎧が軋む音。
そのどれよりも、時臣が警戒したのは、雁夜の皮膚の下で蠢くものだった。
「そのまま動かないでください」
「……命令、すんじゃねえ」
「命令ではありません。警告です」
時臣は懐から小さな宝石を三つ取り出した。赤。琥珀。薄い青。
それを泥の上へ落とす。宝石は水に濡れた地面へ沈む前に砕け、三つの光が雁夜を囲んだ。
炎は上がらなかった。
だが、空気が変わった。
橋の下の冷えた湿気の中に、薄い熱の輪が生まれる。目には見えない。そこに触れた小さな羽虫が、一瞬で灰になって落ちた。
雁夜が目を見開く。
「何を……」
「検分のための場です。あなたを焼くものではありません。ですが、あなたの身体から蟲が出た場合、それはここを越えられません」
「てめえ……!」
「雁夜」
時臣の声は静かだった。
「あなたはすでに、自分の身体を完全には制御できていない」
雁夜の顔が歪む。
怒りより先に、屈辱が来た。
「黙れ……」
「黙りません。今、あなたが咳き込むだけでも、間桐の蟲が外へ出る可能性があります。こちらが受ければ面倒です。あなた自身にも、余計な損傷が出る」
「心配してるつもりかよ」
「処置しているだけです」
雁夜は笑おうとした。
だが、喉の奥で何かが詰まり、ひどい咳になった。黒いものが口元から零れた。
蟲だった。
細く、濡れた糸のような蟲が、唾液と血に混じって這い出ようとする。
瞬間、雁夜の周囲の空気が赤く光った。
蟲は声もなく焼け落ちた。
雁夜が苦悶に身をよじる。
「ぐ、あ……っ!」
「動かないでください」
「殺す気か……!」
「いいえ。殺すなら、もっと簡単に済ませます」
時臣はそう言って、膝をついた。だが、雁夜に触れない。指先に薄い魔力を通し、距離を保ったまま、雁夜の身体をなぞるように診る。
ギルガメッシュが、後ろで愉快そうに笑った。
「徹底しているな、時臣。娘のために来たのではなかったか」
「確認のためです」
「ほう。まだ言うか」
時臣は答えなかった。
雁夜は、そのやり取りに苛立ったように歯を食いしばる。
「桜を……桜を見たのかよ……」
「まだです」
「なら、何も分かってねえ……!」
「だから、あなたに確認しています」
「確認、確認って……あの子は、お前の娘だろうが!」
時臣の指が、ほんの一瞬だけ止まった。
雁夜はそれを見た。
見てしまった。
「……なんだよ」
雁夜の声が、少し変わる。
「お前、分かってんじゃねえか。だったら、だったらなんで――」
「雁夜」
時臣は、静かに遮った。
「質問に答えてください」
その声に、雁夜の顔がまた歪んだ。
期待のようなものが浮かびかけ、すぐに憎悪に戻る。
「やっぱり、てめえは……!」
雁夜の右腕が跳ねた。
それは攻撃と呼ぶにはあまりにも弱い動きだった。だが時臣は反応した。雁夜の袖口から、黒い蟲が数匹、弾かれるように飛ぶ。
赤い輪が光る。
蟲はすべて、時臣に届く前に灰になった。
同時に、ギルガメッシュが退屈そうに片手を動かした。
雁夜の背後で、拘束されていたバーサーカーがわずかに動きかける。だが、空間に浮かぶ輪が一つ増え、黒い騎士の腕は再び止まった。
「学ばぬ犬だ」
ギルガメッシュは言った。
「飼い主も、犬もな」
雁夜は荒く息を吐いた。
蟲を飛ばした反動か、身体がさらに痙攣している。
時臣はその様子を見て、冷静に言った。
「今の蟲は、あなたの意思で出したものですか」
「……だったら、どうした」
「重要です。自発的に出せるのか、間桐の術式が防衛反応として放ったのかで、意味が違う」
「意味だと……!」
「はい」
時臣は、雁夜の腕に視線を落とした。
「あなたの身体には、急造の魔術回路として機能する蟲が埋め込まれている。神経系に食い込ませ、魔力を無理に流している。通常の刻印移植ではありません。肉体を長期的に保存するための処置でもない」
雁夜は黙った。
「消耗前提の改造です。あなたを一年、十年使うつもりはない。聖杯戦争の期間だけ持てばよい。そういう処置です」
「……だったら、何だ」
「桜にも、同じ発想が適用されている可能性があります」
雁夜の目が変わった。
「同じじゃねえ」
声が震えていた。
「あの子は……もっと、もっとひどい。俺はまだ、自分で選んだ。桜は違う。あの子は、何も選んでねえ」
時臣は沈黙した。
雁夜の言葉には感情が混じっている。
憎悪も、自己憐憫も、時臣への攻撃も混じっている。
だが、今の言葉は捨てられない。
「蟲蔵ですか」
時臣が言った。
雁夜の顔から血の気が引いた。
「……知ってんのか」
「名前だけは」
「名前だけ……?」
雁夜が笑った。
壊れた笑いだった。
「名前だけ、かよ。御三家だなんだって言って、あの家が何してるかも知らねえで、桜を渡したのかよ」
時臣は答えなかった。
ギルガメッシュが、楽しげに時臣を見る。
「答えぬのか」
「今は、彼の話を聞きます」
「娘が心配だと言えば、もっと喋るぞ」
「その言葉で喋らせる情報は、信用できません」
ギルガメッシュが笑った。
「よい。実によい。貴様は父でありながら、父の顔を餌に使わぬか」
雁夜には、その会話の意味が分からなかった。
分からなかったからこそ、さらに怒りだけが増えた。
「ふざけんな……ふざけんなよ、遠坂……!」
「雁夜」
時臣は、声を低くした。
「蟲蔵で、桜に何が行われたのか。あなたが見た範囲で答えてください」
「見た範囲……?」
「想像や推測は不要です」
「てめえ……」
「あなたの怒りは、今は必要ありません。必要なのは事実です」
雁夜は、歯を食いしばった。
しばらく、何も言わなかった。橋の下に、川の音だけが残る。
やがて、雁夜が掠れた声で言った。
「……蟲が、食う」
時臣の表情は動かなかった。
「何を」
「魔力だ。身体だ。回路だ。あの爺は、そう言ってた。遠坂の属性を、間桐に合わせるって……あの子を、間桐の器にするって……」
時臣の指が、静かに握られた。
「属性変換」
「知らねえよ、そんな言葉は……! でも、あの子は泣いてた。泣いて、助けてって……」
雁夜の声が途切れた。
言ってしまったことで、雁夜自身が壊れかけたのかもしれない。
時臣は、しばらく何も言わなかった。
ギルガメッシュも、この時だけは笑わなかった。
いや、笑みはある。
だが、声には出さない。
時臣は、雁夜の身体から視線を外し、橋の下の暗がりを見た。
「確認が必要です」
「まだ確認かよ……」
「はい」
時臣は答えた。
「あなたの証言だけでは足りません。ですが、無視することもできない」
「桜を返せ……」
「それは、今ここであなたと決めることではありません」
「お前は……!」
「ですが」
時臣の声が、わずかに変わった。
「間桐に、正式な確認を入れます」
雁夜は息を止めた。
時臣は続ける。
「遠坂から移した資質が、契約通り適切に扱われているか。桜の肉体、魔術回路、教育内容、刻印継承計画。そのすべてを確認する」
「資質、だと……」
「その言葉が不快なら、好きに罵ればいい」
時臣は、初めて雁夜を正面から見た。
「今の私が動ける名目は、それです」
雁夜は何かを言おうとした。
だが、言葉にならなかった。
ギルガメッシュが、そこでようやく笑った。
「聞いたか、狂犬の飼い主。これが遠坂時臣だ。娘を案じる心を持ちながら、その娘を救うための名目に“資質の確認”を選ぶ」
雁夜が、ギルを睨む。
ギルガメッシュは気にも留めない。
「醜いか。冷たいか。ならば吠えろ。だが、この男はその言葉でしか今は動けぬ。そして、その言葉でなら動く」
時臣は不快そうに目を伏せた。
「王よ」
「何だ」
「余計な解説です」
「よいではないか。貴様が言わぬから、我が言ってやったのだ」
時臣はため息をつきかけ、やめた。
雁夜は、荒い息の中で時臣を見ていた。憎しみは消えていない。消えるはずもない。だが、その奥にほんのわずか、別のものが混じりかけている。
時臣はそれを見て、むしろ警戒した。この男は危うい。憎悪も、希望も、容易く判断を歪める。だから、これ以上は聞きすぎない方がいい。
「雁夜。最後に一つだけ」
「……何だよ」
「臓硯は、あなたに何を約束しましたか」
雁夜の顔が沈んだ。
「聖杯を取れば……桜を解放するって」
「口約束ですか」
「……ああ」
「証文は」
「あるわけねえだろ……」
「そうでしょうね」
時臣は立ち上がった。
「確認すべきことは分かりました」
「待て……桜を……」
「まだ、結論は出しません」
雁夜の目が燃える。
「てめえ……!」
「ですが、調べます」
時臣はそう言った。
「今夜のうちに」
雁夜は、何も返せなかった。
時臣は踵を返す。
ギルガメッシュが、封具をそのままにして歩き出した。
「王よ」
「何だ」
「あの拘束は」
「しばらくすれば解ける。狂犬が暴れぬ程度には保つ」
「雁夜は」
「死にはせぬ。今すぐにはな」
時臣は少しだけ足を止めたが、振り返らなかった。
「……承知しました」
ギルガメッシュは、笑った。
背後で、雁夜がまだ何かを叫んでいた。
桜を返せ。
遠坂。
人でなし。
父親面をするな。
いくつもの言葉が、橋の下で崩れていく。
時臣は、そのすべてを背に受けながら、歩いた。
父親の顔ではない。
魔術師の顔でもない。
当主の顔でもない。
あるいは、そのすべてを重ねた顔で。
ギルガメッシュは、心底愉快そうにその横顔を眺めていた。