優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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6.雁夜への質問

時臣は、雁夜へ近づかなかった。

橋の下には湿った泥の匂いがあった。川の水音。雁夜の荒い呼吸。拘束されたバーサーカーの鎧が軋む音。

そのどれよりも、時臣が警戒したのは、雁夜の皮膚の下で蠢くものだった。

 

「そのまま動かないでください」

「……命令、すんじゃねえ」

「命令ではありません。警告です」

 

時臣は懐から小さな宝石を三つ取り出した。赤。琥珀。薄い青。

それを泥の上へ落とす。宝石は水に濡れた地面へ沈む前に砕け、三つの光が雁夜を囲んだ。

炎は上がらなかった。

だが、空気が変わった。

橋の下の冷えた湿気の中に、薄い熱の輪が生まれる。目には見えない。そこに触れた小さな羽虫が、一瞬で灰になって落ちた。

 

 雁夜が目を見開く。

「何を……」

「検分のための場です。あなたを焼くものではありません。ですが、あなたの身体から蟲が出た場合、それはここを越えられません」

「てめえ……!」

「雁夜」

 時臣の声は静かだった。

「あなたはすでに、自分の身体を完全には制御できていない」

 

 雁夜の顔が歪む。

 怒りより先に、屈辱が来た。

「黙れ……」

「黙りません。今、あなたが咳き込むだけでも、間桐の蟲が外へ出る可能性があります。こちらが受ければ面倒です。あなた自身にも、余計な損傷が出る」

「心配してるつもりかよ」

「処置しているだけです」

 

 雁夜は笑おうとした。

 だが、喉の奥で何かが詰まり、ひどい咳になった。黒いものが口元から零れた。

 蟲だった。

 細く、濡れた糸のような蟲が、唾液と血に混じって這い出ようとする。

 

 瞬間、雁夜の周囲の空気が赤く光った。

 蟲は声もなく焼け落ちた。

 雁夜が苦悶に身をよじる。

 

「ぐ、あ……っ!」

「動かないでください」

「殺す気か……!」

「いいえ。殺すなら、もっと簡単に済ませます」

 

 時臣はそう言って、膝をついた。だが、雁夜に触れない。指先に薄い魔力を通し、距離を保ったまま、雁夜の身体をなぞるように診る。

 

 ギルガメッシュが、後ろで愉快そうに笑った。

「徹底しているな、時臣。娘のために来たのではなかったか」

「確認のためです」

「ほう。まだ言うか」

 時臣は答えなかった。

 

 雁夜は、そのやり取りに苛立ったように歯を食いしばる。

「桜を……桜を見たのかよ……」

「まだです」

「なら、何も分かってねえ……!」

「だから、あなたに確認しています」

「確認、確認って……あの子は、お前の娘だろうが!」

 

 時臣の指が、ほんの一瞬だけ止まった。

 雁夜はそれを見た。

 見てしまった。

 

「……なんだよ」

 雁夜の声が、少し変わる。

「お前、分かってんじゃねえか。だったら、だったらなんで――」

「雁夜」

 時臣は、静かに遮った。

 

「質問に答えてください」

 その声に、雁夜の顔がまた歪んだ。

 期待のようなものが浮かびかけ、すぐに憎悪に戻る。

「やっぱり、てめえは……!」

 

 雁夜の右腕が跳ねた。

 それは攻撃と呼ぶにはあまりにも弱い動きだった。だが時臣は反応した。雁夜の袖口から、黒い蟲が数匹、弾かれるように飛ぶ。

 赤い輪が光る。

 蟲はすべて、時臣に届く前に灰になった。

 

 同時に、ギルガメッシュが退屈そうに片手を動かした。

 雁夜の背後で、拘束されていたバーサーカーがわずかに動きかける。だが、空間に浮かぶ輪が一つ増え、黒い騎士の腕は再び止まった。

「学ばぬ犬だ」

 ギルガメッシュは言った。

「飼い主も、犬もな」

 

 雁夜は荒く息を吐いた。

 蟲を飛ばした反動か、身体がさらに痙攣している。

 

 時臣はその様子を見て、冷静に言った。

「今の蟲は、あなたの意思で出したものですか」

「……だったら、どうした」

「重要です。自発的に出せるのか、間桐の術式が防衛反応として放ったのかで、意味が違う」

「意味だと……!」

「はい」

 

 時臣は、雁夜の腕に視線を落とした。

「あなたの身体には、急造の魔術回路として機能する蟲が埋め込まれている。神経系に食い込ませ、魔力を無理に流している。通常の刻印移植ではありません。肉体を長期的に保存するための処置でもない」

 雁夜は黙った。

「消耗前提の改造です。あなたを一年、十年使うつもりはない。聖杯戦争の期間だけ持てばよい。そういう処置です」

「……だったら、何だ」

「桜にも、同じ発想が適用されている可能性があります」

 

 雁夜の目が変わった。

「同じじゃねえ」

 声が震えていた。

「あの子は……もっと、もっとひどい。俺はまだ、自分で選んだ。桜は違う。あの子は、何も選んでねえ」

 

 時臣は沈黙した。

 雁夜の言葉には感情が混じっている。

 憎悪も、自己憐憫も、時臣への攻撃も混じっている。

 

 だが、今の言葉は捨てられない。

 

「蟲蔵ですか」

 時臣が言った。

 雁夜の顔から血の気が引いた。

「……知ってんのか」

「名前だけは」

「名前だけ……?」

 

 雁夜が笑った。

 壊れた笑いだった。

「名前だけ、かよ。御三家だなんだって言って、あの家が何してるかも知らねえで、桜を渡したのかよ」

 時臣は答えなかった。

 

 ギルガメッシュが、楽しげに時臣を見る。

「答えぬのか」

「今は、彼の話を聞きます」

「娘が心配だと言えば、もっと喋るぞ」

「その言葉で喋らせる情報は、信用できません」

 

 ギルガメッシュが笑った。

「よい。実によい。貴様は父でありながら、父の顔を餌に使わぬか」

 

 雁夜には、その会話の意味が分からなかった。

 分からなかったからこそ、さらに怒りだけが増えた。

 

「ふざけんな……ふざけんなよ、遠坂……!」

「雁夜」

 時臣は、声を低くした。

「蟲蔵で、桜に何が行われたのか。あなたが見た範囲で答えてください」

「見た範囲……?」

「想像や推測は不要です」

「てめえ……」

「あなたの怒りは、今は必要ありません。必要なのは事実です」

 

 雁夜は、歯を食いしばった。

 しばらく、何も言わなかった。橋の下に、川の音だけが残る。

 やがて、雁夜が掠れた声で言った。

 

「……蟲が、食う」

 時臣の表情は動かなかった。

「何を」

「魔力だ。身体だ。回路だ。あの爺は、そう言ってた。遠坂の属性を、間桐に合わせるって……あの子を、間桐の器にするって……」

 

 時臣の指が、静かに握られた。

「属性変換」

「知らねえよ、そんな言葉は……! でも、あの子は泣いてた。泣いて、助けてって……」

 雁夜の声が途切れた。

 

 言ってしまったことで、雁夜自身が壊れかけたのかもしれない。

 時臣は、しばらく何も言わなかった。

 ギルガメッシュも、この時だけは笑わなかった。

 いや、笑みはある。

 だが、声には出さない。

 

 時臣は、雁夜の身体から視線を外し、橋の下の暗がりを見た。

「確認が必要です」

「まだ確認かよ……」

「はい」

 時臣は答えた。

「あなたの証言だけでは足りません。ですが、無視することもできない」

「桜を返せ……」

「それは、今ここであなたと決めることではありません」

「お前は……!」

 

「ですが」

 時臣の声が、わずかに変わった。

「間桐に、正式な確認を入れます」

 

 雁夜は息を止めた。

 時臣は続ける。

「遠坂から移した資質が、契約通り適切に扱われているか。桜の肉体、魔術回路、教育内容、刻印継承計画。そのすべてを確認する」

「資質、だと……」

「その言葉が不快なら、好きに罵ればいい」

 

 時臣は、初めて雁夜を正面から見た。

「今の私が動ける名目は、それです」

 雁夜は何かを言おうとした。

 だが、言葉にならなかった。

 

 ギルガメッシュが、そこでようやく笑った。

「聞いたか、狂犬の飼い主。これが遠坂時臣だ。娘を案じる心を持ちながら、その娘を救うための名目に“資質の確認”を選ぶ」

 雁夜が、ギルを睨む。

 

 ギルガメッシュは気にも留めない。

「醜いか。冷たいか。ならば吠えろ。だが、この男はその言葉でしか今は動けぬ。そして、その言葉でなら動く」

 時臣は不快そうに目を伏せた。

「王よ」

「何だ」

「余計な解説です」

「よいではないか。貴様が言わぬから、我が言ってやったのだ」

 時臣はため息をつきかけ、やめた。

 

 雁夜は、荒い息の中で時臣を見ていた。憎しみは消えていない。消えるはずもない。だが、その奥にほんのわずか、別のものが混じりかけている。

 時臣はそれを見て、むしろ警戒した。この男は危うい。憎悪も、希望も、容易く判断を歪める。だから、これ以上は聞きすぎない方がいい。

 

「雁夜。最後に一つだけ」

「……何だよ」

「臓硯は、あなたに何を約束しましたか」

 

 雁夜の顔が沈んだ。

「聖杯を取れば……桜を解放するって」

「口約束ですか」

「……ああ」

「証文は」

「あるわけねえだろ……」

「そうでしょうね」

 

 時臣は立ち上がった。

「確認すべきことは分かりました」

「待て……桜を……」

「まだ、結論は出しません」

 

 雁夜の目が燃える。

「てめえ……!」

「ですが、調べます」

 時臣はそう言った。

「今夜のうちに」

 雁夜は、何も返せなかった。

 

 時臣は踵を返す。

 ギルガメッシュが、封具をそのままにして歩き出した。

「王よ」

「何だ」

「あの拘束は」

「しばらくすれば解ける。狂犬が暴れぬ程度には保つ」

「雁夜は」

「死にはせぬ。今すぐにはな」

 

 時臣は少しだけ足を止めたが、振り返らなかった。

「……承知しました」

 ギルガメッシュは、笑った。

 

 背後で、雁夜がまだ何かを叫んでいた。

 

 桜を返せ。

 遠坂。

 人でなし。

 父親面をするな。

 

 いくつもの言葉が、橋の下で崩れていく。

 時臣は、そのすべてを背に受けながら、歩いた。

 

 父親の顔ではない。

 魔術師の顔でもない。

 当主の顔でもない。

 あるいは、そのすべてを重ねた顔で。

 

 ギルガメッシュは、心底愉快そうにその横顔を眺めていた。

 

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