優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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7.契約

 橋の下から、まだ雁夜の声が聞こえていた。

 桜を返せ。

 遠坂。

 人でなし。

 父親面をするな。

 その声は、川音に削られながらも、しつこく時臣の背に届いた。

 

 時臣は足を止めた。

「雁夜」

 振り返らずに、時臣は言った。

「私は、桜を間桐へ捨てたのではありません」

 

 雁夜の罵声が止まった。

「……何を」

「あれは契約です。遠坂と間桐、双方の家の合意に基づいて行われた養子縁組です。桜の資質を、遠坂ではなく間桐の家で継がせる。そのためのものだった」

「ふざけるな……!」

「ふざけてはいません」

 

 時臣の声は静かだった。

 だが、先ほどよりも硬かった。

「契約である以上、間桐には桜を適切に扱う義務があります。桜の魔術的資質を損ない、契約の目的を毀損するような処置が行われているのなら、それは契約違反です」

 雁夜が、泥の中で身をよじった。

「契約……契約だと……! 桜は、物じゃねえ!」

「そうです」

 時臣の返答は、雁夜の怒声よりも早かった。

 

 雁夜が言葉を失う。

 時臣は、そこでようやく振り返った。

「桜は物ではない。だからこそ、契約を無視してよいという話にはならない。魔術師としても許されない。そもそも、人間としても許されない」

 

 その言葉に、ギルガメッシュが目を細めた。

「人間として、か」

 王は、愉快そうに呟いた。

「時臣。貴様、今なかなか面白いことを言ったな」

「何がでしょうか」

「あれは果たして人なのかな」

 

 時臣はすぐには答えなかった。

 雁夜も、声を失っていた。

 ギルガメッシュは、橋脚の影の向こうを見るように、冬木のどこかを見ていた。

「間桐の老翁よ。あれは、まだ人として数えてよいものか。契約を結ぶ。家を名乗る。血筋を保とうとする。なるほど、形は人のそれだ。だが、形が残っているだけで人と呼ぶなら、杯に沈んだ泥も人の願いと言えてしまう」

「王よ」

「何だ」

「臓硯について、何かご存じなのですか」

「見れば分かる」

 ギルガメッシュは軽く言った。

 

「長く生きすぎたものは、己が何を保とうとしていたのか忘れる。器だけを残し、中身を腐らせる。貴様ら魔術師には珍しくもあるまい」

 時臣は沈黙した。

 否定できなかった。

「だがな、時臣」

 

 ギルガメッシュは、上機嫌に続けた。

「腐った器が契約を騙るなら、王は笑うぞ。契約とは互いの名を懸けるものだ。名を懸けるだけの己を失ったものが、約定だけを振り回す。滑稽ではないか」

 時臣は静かに目を伏せた。

「……であれば、なおさら確認が必要です」

「確認?」

「はい。間桐臓硯が、契約を履行する意思と資格を保っているかを」

 

 ギルガメッシュは声を上げて笑った。

「ははははは! 資格か。よいぞ、時臣。貴様はやはりその言葉で行くか」

「他に、今の私が用いるべき言葉はありません」

「娘が心配だ、と言えばよい」

「それは、雁夜に対して使う言葉ではありません」

 

 雁夜が、泥の中で時臣を睨んだ。今度は叫ばなかった。時臣はそれを見て、かえって警戒した。憎悪が弱まったわけではない。怒りの形が、変わりかけている。それは信用できない。

「雁夜。あなたの証言は受け取ります。ただし、そのまま証拠とはしません」

「……勝手にしろ」

「そうします」

 

 時臣は背を向けた。

「桜の状態は、私の目で確認します」

「時臣」

 ギルガメッシュが呼んだ。

「はい」

「間桐の老翁が人ではないとして、それでも貴様は契約を持ち出すか」

「持ち出します」

「なぜだ」

「人でないものにも、人の名を用いるならば、人の約定を守らせるべきです」

 

 ギルガメッシュの笑みが、深くなった。

「ほう」

「それができないならば、名を返していただく」

 その言葉に、雁夜がかすかに息を呑んだ。

 

 ギルガメッシュは、満足そうに笑った。

「よい。実によい。貴様、父の顔ではなく、当主の顔で娘を取り返しに行くか」

「取り返すとは申しておりません」

「まだな」

 王は愉快そうに言った。

 

「今はまだ、確認だ。契約の履行だ。資質の保全だ。実に退屈で、実に魔術師らしい。だが時臣、歩く先が同じなら、どの名で呼ぼうが、足はそこへ向かう」

 時臣は答えなかった。

 ギルガメッシュは続ける。

「父として行けば、貴様は雁夜と同じ泥に足を取られる。魔術師として行けば、娘を器としてしか見られぬ。当主として行けば、家の名で己を覆える」

 

 黄金の瞳が、時臣を見据えた。

「だが貴様は、その三つの顔をすべて持っている。どれか一つだけなら、つまらぬ。三つ持ったまま、どこまで欺けるか見せてみよ」

「欺くつもりはありません」

「自分を、だ」

 時臣は、そこで初めて言葉を失った。

 

 ギルガメッシュは笑った。

「行くぞ、時臣。契約の相手が人か蟲か、王も見てやろう」

 時臣は一礼した。

「お付き合いいただき、感謝いたします」

「勘違いするな。これは見物だ」

「承知しております」

「ならばよい」

 

 ギルガメッシュは、封じられたバーサーカーを一瞥した。

「しばらくそこに収まっていろ、狂犬。貴様の出番はまだ先だ」

 黒い騎士が、低く唸った。

 橋の下に残された雁夜は、時臣の背を睨み続けていた。

 

 時臣は振り返らなかった。

 契約。

 確認。

 資質。

 履行。

 そういう言葉を胸の前に並べながら、彼は歩いた。

 

 その内側に別の言葉があることを、彼自身ももう知っていた。

 だが、それを今口にすれば、何かが崩れる。

 だから言わない。

 言わないまま、間桐邸へ向かう。

 ギルガメッシュは、その横顔を見て、ひどく上機嫌だった。

 

 橋の下の声が遠ざかっていく。

 雁夜はまだ何かを叫んでいた。

 桜を返せ。

 父親面をするな。

 お前があの子を捨てた。

 その声は、川音に混じり、夜の湿気にほどけていった。

 

 時臣は歩き続けた。

 ギルガメッシュは、横ではなく少し後ろを歩いている。その位置が、ひどく気に障った。

 

 見物されている。言峰を殺した時も。大聖杯を疑った時も。雁夜の身体を検分した時も。

 そして今、桜の名を口にせず、父親の顔を使わず、当主の名目で動こうとしている自分も。

 すべて見られている。

 

「時臣」

「はい」

「今の男は、貴様を父とは認めぬようだな」

 

 時臣は足を止めなかった。

「でしょうな」

「腹は立たぬか」

「立ちます」

 返答は早かった。

 

 ギルガメッシュの笑みが深くなる。

「ほう」

「ですが、彼の言葉は証言として信用できません」

「またそれか。貴様は怒りまで分類せねば気が済まぬのか」

 

 時臣は黙った。

 それから、ふと足を止めた。

 橋の上を、夜の車が一台通り過ぎる。振動が橋脚を伝い、足元の水たまりをわずかに揺らした。

 

 時臣は、振り返らずに言った。

「王よ」

「何だ」

「父親にもなったことがない方が、父親の苦労を知った気にならないでいただきたい」

 言ってから、時臣自身がわずかに息を止めた。

 

 失言だった。

 少なくとも、これまでの遠坂時臣ならば口にしなかった言葉だった。英雄王に対して、あまりに不敬で、あまりに個人的だった。

 だが、もう言葉は戻らない。

 

 ギルガメッシュは黙っていた。

 一拍。

 二拍。

 

 そして、夜気を裂くように笑った。

「はは」

 短い笑いだった。

 だがすぐに、それは大きくなった。

「はははははははは!」

 橋の下に、王の笑いが響いた。

 

 時臣は振り返った。

 ギルガメッシュは、心底愉快そうだった。

「よい。実によいぞ、時臣」

「……失礼を申し上げました」

「許す」

 

 ギルガメッシュは、上機嫌に片手を振った。

「今のは許す。いや、褒美を与えてもよいほどだ」

「褒美はすでに頂戴しました」

「ならば、もう一つくれてやるか」

「結構です」

 

 ギルガメッシュはさらに笑った。

「言うではないか。弟子を焼き、杯を疑い、狂犬の飼い主を検分し、ようやく王に噛みついたか」

 時臣は目を伏せた。

「噛みついたつもりはありません」

「そうであろうな。貴様はそう言う。いつでも、そう言えるように言葉を整える」

 

 ギルガメッシュは歩き出した。今度は時臣の横に並ぶ。

「だが、今の言葉は整っておらなんだ」

「……承知しております」

「だからよい」

 

 王は、愉悦を隠さなかった。

「貴様は父であり、魔術師であり、当主である。どの顔も本物だ。だが、どれか一つに逃げ込めぬ。ゆえに苛立つ。ゆえに、王へそのような口を利く」

「王よ」

「何だ」

「楽しそうですな」

「楽しいとも」

 ギルガメッシュは即答した。

 

「綺礼は空であった。雁夜は一つの情に溺れている。切嗣は理想に己を削る。セイバーの小娘は王の形に己を押し込めた。だが貴様は違う」

 黄金の眼が、時臣を見る。

「貴様はどれにもなりきれぬ。父だけにも、魔術師だけにも、当主だけにもなれぬ。どの顔も捨てられぬまま、それでも優雅に立とうとする」

 ギルガメッシュは笑った。

「なんと面白いことか」

 

 時臣は、しばらく何も言わなかった。言い返す言葉はあった。

 だが、言えばさらに喜ばせるだけだと分かっていた。

 だから、時臣は歩き出した。

 

「間桐邸へ向かいます」

「ほう。すぐ行くか」

「時間が惜しい。雁夜の証言は偏っていますが、無視できるものではありません。桜の状態を確認する必要があります」

「娘が心配だから、ではないのだな」

 時臣は、今度はすぐに答えなかった。

 

「遠坂から移した資質が、契約通り扱われているかを確認するためです」

 ギルガメッシュは満足げに笑った。

「そう言っておけ。今はな」

 時臣は答えなかった。

 

 橋の下から、雁夜の声はもう聞こえない。

 残っているのは、川の音と、夜の冷たさと、王の笑いの余韻だけだった。

 

 

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