橋の下から、まだ雁夜の声が聞こえていた。
桜を返せ。
遠坂。
人でなし。
父親面をするな。
その声は、川音に削られながらも、しつこく時臣の背に届いた。
時臣は足を止めた。
「雁夜」
振り返らずに、時臣は言った。
「私は、桜を間桐へ捨てたのではありません」
雁夜の罵声が止まった。
「……何を」
「あれは契約です。遠坂と間桐、双方の家の合意に基づいて行われた養子縁組です。桜の資質を、遠坂ではなく間桐の家で継がせる。そのためのものだった」
「ふざけるな……!」
「ふざけてはいません」
時臣の声は静かだった。
だが、先ほどよりも硬かった。
「契約である以上、間桐には桜を適切に扱う義務があります。桜の魔術的資質を損ない、契約の目的を毀損するような処置が行われているのなら、それは契約違反です」
雁夜が、泥の中で身をよじった。
「契約……契約だと……! 桜は、物じゃねえ!」
「そうです」
時臣の返答は、雁夜の怒声よりも早かった。
雁夜が言葉を失う。
時臣は、そこでようやく振り返った。
「桜は物ではない。だからこそ、契約を無視してよいという話にはならない。魔術師としても許されない。そもそも、人間としても許されない」
その言葉に、ギルガメッシュが目を細めた。
「人間として、か」
王は、愉快そうに呟いた。
「時臣。貴様、今なかなか面白いことを言ったな」
「何がでしょうか」
「あれは果たして人なのかな」
時臣はすぐには答えなかった。
雁夜も、声を失っていた。
ギルガメッシュは、橋脚の影の向こうを見るように、冬木のどこかを見ていた。
「間桐の老翁よ。あれは、まだ人として数えてよいものか。契約を結ぶ。家を名乗る。血筋を保とうとする。なるほど、形は人のそれだ。だが、形が残っているだけで人と呼ぶなら、杯に沈んだ泥も人の願いと言えてしまう」
「王よ」
「何だ」
「臓硯について、何かご存じなのですか」
「見れば分かる」
ギルガメッシュは軽く言った。
「長く生きすぎたものは、己が何を保とうとしていたのか忘れる。器だけを残し、中身を腐らせる。貴様ら魔術師には珍しくもあるまい」
時臣は沈黙した。
否定できなかった。
「だがな、時臣」
ギルガメッシュは、上機嫌に続けた。
「腐った器が契約を騙るなら、王は笑うぞ。契約とは互いの名を懸けるものだ。名を懸けるだけの己を失ったものが、約定だけを振り回す。滑稽ではないか」
時臣は静かに目を伏せた。
「……であれば、なおさら確認が必要です」
「確認?」
「はい。間桐臓硯が、契約を履行する意思と資格を保っているかを」
ギルガメッシュは声を上げて笑った。
「ははははは! 資格か。よいぞ、時臣。貴様はやはりその言葉で行くか」
「他に、今の私が用いるべき言葉はありません」
「娘が心配だ、と言えばよい」
「それは、雁夜に対して使う言葉ではありません」
雁夜が、泥の中で時臣を睨んだ。今度は叫ばなかった。時臣はそれを見て、かえって警戒した。憎悪が弱まったわけではない。怒りの形が、変わりかけている。それは信用できない。
「雁夜。あなたの証言は受け取ります。ただし、そのまま証拠とはしません」
「……勝手にしろ」
「そうします」
時臣は背を向けた。
「桜の状態は、私の目で確認します」
「時臣」
ギルガメッシュが呼んだ。
「はい」
「間桐の老翁が人ではないとして、それでも貴様は契約を持ち出すか」
「持ち出します」
「なぜだ」
「人でないものにも、人の名を用いるならば、人の約定を守らせるべきです」
ギルガメッシュの笑みが、深くなった。
「ほう」
「それができないならば、名を返していただく」
その言葉に、雁夜がかすかに息を呑んだ。
ギルガメッシュは、満足そうに笑った。
「よい。実によい。貴様、父の顔ではなく、当主の顔で娘を取り返しに行くか」
「取り返すとは申しておりません」
「まだな」
王は愉快そうに言った。
「今はまだ、確認だ。契約の履行だ。資質の保全だ。実に退屈で、実に魔術師らしい。だが時臣、歩く先が同じなら、どの名で呼ぼうが、足はそこへ向かう」
時臣は答えなかった。
ギルガメッシュは続ける。
「父として行けば、貴様は雁夜と同じ泥に足を取られる。魔術師として行けば、娘を器としてしか見られぬ。当主として行けば、家の名で己を覆える」
黄金の瞳が、時臣を見据えた。
「だが貴様は、その三つの顔をすべて持っている。どれか一つだけなら、つまらぬ。三つ持ったまま、どこまで欺けるか見せてみよ」
「欺くつもりはありません」
「自分を、だ」
時臣は、そこで初めて言葉を失った。
ギルガメッシュは笑った。
「行くぞ、時臣。契約の相手が人か蟲か、王も見てやろう」
時臣は一礼した。
「お付き合いいただき、感謝いたします」
「勘違いするな。これは見物だ」
「承知しております」
「ならばよい」
ギルガメッシュは、封じられたバーサーカーを一瞥した。
「しばらくそこに収まっていろ、狂犬。貴様の出番はまだ先だ」
黒い騎士が、低く唸った。
橋の下に残された雁夜は、時臣の背を睨み続けていた。
時臣は振り返らなかった。
契約。
確認。
資質。
履行。
そういう言葉を胸の前に並べながら、彼は歩いた。
その内側に別の言葉があることを、彼自身ももう知っていた。
だが、それを今口にすれば、何かが崩れる。
だから言わない。
言わないまま、間桐邸へ向かう。
ギルガメッシュは、その横顔を見て、ひどく上機嫌だった。
橋の下の声が遠ざかっていく。
雁夜はまだ何かを叫んでいた。
桜を返せ。
父親面をするな。
お前があの子を捨てた。
その声は、川音に混じり、夜の湿気にほどけていった。
時臣は歩き続けた。
ギルガメッシュは、横ではなく少し後ろを歩いている。その位置が、ひどく気に障った。
見物されている。言峰を殺した時も。大聖杯を疑った時も。雁夜の身体を検分した時も。
そして今、桜の名を口にせず、父親の顔を使わず、当主の名目で動こうとしている自分も。
すべて見られている。
「時臣」
「はい」
「今の男は、貴様を父とは認めぬようだな」
時臣は足を止めなかった。
「でしょうな」
「腹は立たぬか」
「立ちます」
返答は早かった。
ギルガメッシュの笑みが深くなる。
「ほう」
「ですが、彼の言葉は証言として信用できません」
「またそれか。貴様は怒りまで分類せねば気が済まぬのか」
時臣は黙った。
それから、ふと足を止めた。
橋の上を、夜の車が一台通り過ぎる。振動が橋脚を伝い、足元の水たまりをわずかに揺らした。
時臣は、振り返らずに言った。
「王よ」
「何だ」
「父親にもなったことがない方が、父親の苦労を知った気にならないでいただきたい」
言ってから、時臣自身がわずかに息を止めた。
失言だった。
少なくとも、これまでの遠坂時臣ならば口にしなかった言葉だった。英雄王に対して、あまりに不敬で、あまりに個人的だった。
だが、もう言葉は戻らない。
ギルガメッシュは黙っていた。
一拍。
二拍。
そして、夜気を裂くように笑った。
「はは」
短い笑いだった。
だがすぐに、それは大きくなった。
「はははははははは!」
橋の下に、王の笑いが響いた。
時臣は振り返った。
ギルガメッシュは、心底愉快そうだった。
「よい。実によいぞ、時臣」
「……失礼を申し上げました」
「許す」
ギルガメッシュは、上機嫌に片手を振った。
「今のは許す。いや、褒美を与えてもよいほどだ」
「褒美はすでに頂戴しました」
「ならば、もう一つくれてやるか」
「結構です」
ギルガメッシュはさらに笑った。
「言うではないか。弟子を焼き、杯を疑い、狂犬の飼い主を検分し、ようやく王に噛みついたか」
時臣は目を伏せた。
「噛みついたつもりはありません」
「そうであろうな。貴様はそう言う。いつでも、そう言えるように言葉を整える」
ギルガメッシュは歩き出した。今度は時臣の横に並ぶ。
「だが、今の言葉は整っておらなんだ」
「……承知しております」
「だからよい」
王は、愉悦を隠さなかった。
「貴様は父であり、魔術師であり、当主である。どの顔も本物だ。だが、どれか一つに逃げ込めぬ。ゆえに苛立つ。ゆえに、王へそのような口を利く」
「王よ」
「何だ」
「楽しそうですな」
「楽しいとも」
ギルガメッシュは即答した。
「綺礼は空であった。雁夜は一つの情に溺れている。切嗣は理想に己を削る。セイバーの小娘は王の形に己を押し込めた。だが貴様は違う」
黄金の眼が、時臣を見る。
「貴様はどれにもなりきれぬ。父だけにも、魔術師だけにも、当主だけにもなれぬ。どの顔も捨てられぬまま、それでも優雅に立とうとする」
ギルガメッシュは笑った。
「なんと面白いことか」
時臣は、しばらく何も言わなかった。言い返す言葉はあった。
だが、言えばさらに喜ばせるだけだと分かっていた。
だから、時臣は歩き出した。
「間桐邸へ向かいます」
「ほう。すぐ行くか」
「時間が惜しい。雁夜の証言は偏っていますが、無視できるものではありません。桜の状態を確認する必要があります」
「娘が心配だから、ではないのだな」
時臣は、今度はすぐに答えなかった。
「遠坂から移した資質が、契約通り扱われているかを確認するためです」
ギルガメッシュは満足げに笑った。
「そう言っておけ。今はな」
時臣は答えなかった。
橋の下から、雁夜の声はもう聞こえない。
残っているのは、川の音と、夜の冷たさと、王の笑いの余韻だけだった。