雁夜の声は、もう聞こえなかった。
橋の下に残した拘束具は、しばらくは解けない。バーサーカーも、雁夜も、今すぐ動ける状態ではない。だが、それは永続するものではないとギルガメッシュは言った。
「急ぐ必要はあるのですな」
「当然であろう」
ギルガメッシュは退屈そうに答えた。
「虫は逃げる。老いた虫ならなおさらだ。己の巣が覗かれると分かれば、奥へ潜る」
「間桐臓硯が、今夜のうちに動くと」
「動かぬと思うか」
時臣は答えなかった。
動くだろう。
臓硯がどこまで今の状況を把握しているかは分からない。だが雁夜が動き、バーサーカーが動き、言峰綺礼が死に、聖杯戦争の流れが変わった。間桐の老翁がそれをまったく知らずにいるはずがない。
そして、桜。
雁夜の証言は、信用できない。
感情が混じりすぎている。憎悪も、執着も、自己憐憫も、すべてが混ざっている。
だが、無視できない。
蟲蔵。
属性変換。
間桐の器。
言葉の一つ一つは粗く、雁夜自身も正確には理解していなかった。だが、彼の身体に施された処置と合わせれば、ひとつの方向を指している。
間桐は、外部から術式を食い込ませる家だ。
それ自体は、魔術の家としてあり得ないことではない。遠坂には遠坂のやり方があり、間桐には間桐のやり方がある。桜を間桐へ出すと決めた時点で、遠坂の術式体系から離れることは分かっていた。
だが、適応と毀損は違う。
教育と改造は違う。
継承と消耗も、違う。
時臣は歩きながら、そこまで考え、そこで思考を止めた。
まだ結論ではない。
まず見る。
「時臣」
「はい」
「また止めたな」
ギルガメッシュが笑っている。
「何をでしょうか」
「言葉にすればよいものを、貴様はすぐ胸の内へ戻す」
「結論に至っていない思考を、言葉にする必要はありません」
「娘が心配だ、と言うだけなら簡単であろう」
時臣はしばらく黙った。
冬木の夜道は静かだった。街灯が一定の間隔で続き、その下を二人の影が進んでいく。片方は外套を整えた魔術師。もう片方は、夜の街にあまりにも不似合いな黄金の王。
「その言葉は、今は用いるべきではありません」
「雁夜には言わぬ。では、老蟲には言うか」
「言いません」
「なぜだ」
「交渉の言葉ではないからです」
ギルガメッシュは、喉の奥で笑った。
「貴様は本当に面白いな。娘を案じている。だが、その言葉を使えば交渉が濁ると見る。父の顔を出せば早い場面で、あえて当主の顔を選ぶか」
「父として行けば、臓硯はそこを突くでしょう」
「であろうな」
「魔術師として行けば、桜を器としてしか見ないことになる」
「それもまた、貴様らしいではないか」
「当主として行きます」
時臣は静かに言った。
「遠坂から間桐へ移した資質が、契約通りに扱われているかを確認する。その名目ならば、少なくとも相手は応じる義務があります」
「義務を守る相手ならな」
「守らないならば、それも答えです」
ギルガメッシュは楽しげに目を細めた。
「よい。契約で娘へ近づくか。父よりも面倒で、魔術師よりも回りくどい。だが、それが今の貴様の足場というわけだ」
時臣は何も言わなかった。
間桐邸の影が見えてきた。
遠坂邸とは違う。遠坂の屋敷には、秩序がある。術式も結界も、整えられた庭も、すべてが家の格式を示すように配置されている。
間桐の屋敷は、沈んでいた。
古い。暗い。ただ古いだけではない。時間に取り残されたような古さではなく、何かが内側から湿らせているような古さだった。
門の前に立った時、時臣はわずかに眉を寄せた。
「王よ」
「分かっておる」
ギルガメッシュが足を止める。
黄金の波紋が、彼の背後に静かに開いた。
出てきたのは、剣ではない。
小さな香炉だった。
香炉の蓋がわずかに開く。白に近い淡い煙が、門の前へ流れた。煙は地面を這い、石畳の隙間、門柱の影、植え込みの下へ入り込む。
次の瞬間、小さな焼ける音がした。
じゅ、と。
ひとつではない。
いくつも。
時臣は、地面の隙間に潜んでいたものが干からび、崩れていくのを見た。
「蟲ですか」
「蟲だ」
ギルガメッシュは不快そうに言った。
「王の前へ這い出るには、ずいぶん粗末な出迎えだな」
「これが間桐の監視でしょう」
「監視なら目を持って来い。虫けらを這わせるな」
ギルガメッシュはさらに波紋を開いた。
今度は細い金の針が数本、門の左右へ飛んだ。針は壁に刺さったのではない。壁の中へ吸い込まれるように消えた。
屋敷の奥で、何かが小さく潰れる気配がした。
時臣はその一つ一つを見逃さなかった。
ギルガメッシュは本当に、守っている。
王の気まぐれ。見物を続けるため。つまらない横槍で時臣が倒れるのが不快だから。
理由は何であれ、彼は今、サーヴァントとしてマスターの進路を払っていた。
「王よ。そこまで警戒なさるのですか」
「警戒ではない。掃除だ」
ギルガメッシュはつまらなそうに言った。
「あの老蟲は、剣を抜いて前に出る類ではない。床下を這い、壁の中で聞き、器の中身を腐らせる。そういうものは、戦う前に場から除く」
黄金の波紋が、静かに開く。
そこから現れたものは、剣ではなかった。
鏡。鈴。香炉。小さな天秤。古い封印具。用途の分からぬ細い楔。
「我が今宵定めたのは一つだ。時臣の話を、虫けらに濁らせぬ」
時臣は、王の背後に浮かぶ宝具群を見た。
それらは、ギルガメッシュ自身の意思より先に、周囲の蟲や呪詛を探っているように見えた。
「……自動で動いているのですか」
「王命を代行しているだけだ。王が命じた以上、王の一瞬の気まぐれすら、その命を妨げることは許されぬ」
「では、普段からそれをなされば」
ギルガメッシュは、心底つまらなそうに時臣を見た。
「なぜ勝ちに興味のない時まで、勝つための備えをせねばならぬ」
そして、愉快そうに笑った。
「だが今宵は違う。これは勝敗ではない。王の裁定だ」
「何を見ている」
「いえ」
「言え」
「王が、本当に準備をなさるとは思いませんでした」
「まだ言うか」
ギルガメッシュは笑った。
「準備とは、勝てぬ者がするものではない。王が望む場を整えることもまた、準備よ」
「場、ですか」
「そうだ。ここで虫に噛まれ、呪いを受け、老蟲の巣穴で貴様が膝をつけば、話がつまらぬ。だから整える」
「……感謝いたします」
「礼はまだ早い。これからもっと不愉快なものを見ることになるぞ」
時臣は門へ手をかけた。
開く前に、声がした。
「夜分に騒がしいのう」
門の向こうではない。
植え込みの下でも、屋敷の窓でもない。
声は、足元から聞こえた。
石畳の隙間から、小さな蟲が這い出していた。潰れかけた体を震わせ、そこから老人の声が漏れている。
「遠坂の当主殿。かような時刻に、何用かの」
時臣が口を開く前に、ギルガメッシュが言った。
「虫の声で王の前に出るか」
声は静かだった。
だが、その一言で、周囲の空気が変わった。
蟲が震えた。
「ほう……」
老人の声に、わずかに別の色が混じる。
「これはこれは。英雄王までもお連れとは、ずいぶん物々しい訪問じゃ」
「姿を見せよ、老蟲」
ギルガメッシュは言った。
「王の前に顔を出さぬなら、この屋敷の虫を一匹ずつ潰す。どれが貴様の耳で、どれが貴様の目か、我には興味がない」
沈黙が落ちたが、長くはなかった。
門が、内側から開いた。
屋敷の奥から、ゆっくりと老人が現れた。
間桐臓硯。
小柄で、枯れ枝のような身体。だが、その背には、ただの老人にはない異様な重みがあった。長く生きすぎたものの重み。腐りながら、なお形だけを保っているものの重み。
時臣は一礼した。
「夜分に失礼いたします、臓硯殿」
「まったくじゃ。聖杯戦争の最中とはいえ、遠坂の当主が礼を忘れたわけでもあるまいに」
「礼を失するほどの確認事項が生じました」
臓硯の目が、細くなる。
「確認とな」
「桜の状態を確認させていただきたい」
臓硯はすぐには答えなかった。
皺だらけの顔に、笑みのようなものが浮かぶ。
「桜はもう間桐の子じゃ。遠坂が口を出す筋ではあるまい」
「桜が間桐の子であることは承知しております」
時臣は静かに返した。
「だからこそ、確認が必要です」
「ほう」
「遠坂から間桐へ移した資質が、契約通り、間桐の後継として適切に扱われているか。その確認です」
臓硯の笑みは消えなかった。
「契約、契約か。遠坂の当主殿は、実に変わらぬのう」
「契約を軽んじる家とは、付き合えません」
「ならば安心せい。桜は間桐の術を受け、間桐の者として育っておる」
「どのように」
「それは間桐の秘奥じゃ」
「秘奥であることは理解します。しかし、養子契約は桜の資質を継がせるためのものです。資質そのものを毀損する処置が行われているなら、それは契約の目的に反します」
臓硯の目が、初めてわずかに冷えた。
「誰から何を聞いた」
「雁夜からは証言を。彼の身体からは術式の痕跡を」
「雁夜か」
臓硯は、喉の奥で笑った。
「あれは壊れておる。あの男の言葉を聞くとは、遠坂も落ちたものよ」
「証言は信用しておりません」
時臣は即答した。
「ですが、彼の身体に施された処置は確認しました。急造の魔術回路。蟲による神経系への侵食。消耗前提の運用。あれは通常の鍛錬ではありません」
「雁夜は特別じゃ。あれは間桐を捨てた男。聖杯戦争のために無理を通しただけのこと」
「その発想が桜へ適用されていない保証を確認したい」
「疑うか」
「確認です」
ギルガメッシュが笑った。
「疑っておるのだ、老蟲。言葉を飾るな」
「王よ」
時臣が静かにたしなめる。
「余計なことを申すな、という顔だな」
「はい」
「よい。続けよ」
臓硯は、ギルガメッシュをちらりと見た。その視線に、一瞬だけ警戒が浮かんだ。間桐邸の内部から、何かが動く気配がする。
蟲か。
罠か。
それとも、ただの気配か。
ギルガメッシュの背後で、黄金の波紋が一つ開いた。小さな鈴が出てきた。ちりん、と鳴る。その音が鳴った瞬間、屋敷の内側で這っていた気配が止まった。
臓硯の顔が、わずかに歪む。
「つまらぬ横槍を入れるな」
ギルガメッシュは言った。
「時臣が話している。虫は黙っていろ」
時臣は、臓硯を見た。
「桜を見せてください」
「夜も遅い。幼子は休ませるものじゃ」
「短時間で構いません」
「何を確認するつもりじゃ」
「魔術回路の状態。属性変質の有無。肉体への外部術式干渉。教育内容と刻印継承計画。それだけです」
「それだけ、か。ずいぶん多いのう」
「契約の目的を確認するために必要です」
臓硯は笑った。笑っていたが、時臣はその笑いの内側に、別のものを見た。時間を稼いでいる。桜を整えるためか。隠すためか。あるいは、今この場で見せてもよい形へ作り替えるためか。
時臣の中で、結論が一つだけ固まった。ここで引いてはならない。
「臓硯殿」
「何じゃ」
「今、見せていただけない場合、遠坂は間桐に対し、養子契約の履行確認を正式に求めます」
「正式に、とな」
「はい。教会の記録、御三家の契約記録、必要であれば第三者の立ち会いも含めて」
臓硯の笑みが、少しだけ消えた。
ギルガメッシュは上機嫌だった。
「ほう。契約書で娘を取り返すか」
「取り返すとは申しておりません」
「まだな」
臓硯が、低く笑った。
「遠坂時臣。お主、何か勘違いしておらぬか」
「何をでしょう」
「魔術の家に入った者は、その家の色に染まる。桜は間桐の子じゃ。遠坂の色のまま置くわけにはいかぬ」
「理解しています」
「理解してなお、このような夜更けに来るか」
「適応と毀損は違います」
時臣の声は、静かだった。
「私は、その違いを確認しに来ました」
臓硯は時臣を見た。
時臣も臓硯を見た。
父親として怒鳴るわけではない。
魔術師として目を逸らすわけでもない。
当主として、契約の言葉で迫っている。
ギルガメッシュは、その横顔を見て笑っていた。その時、屋敷の奥で、小さな物音がした。ほんのわずかな足音。
時臣の目が動いた。臓硯は動かない。ギルガメッシュは、楽しげに目を細めた。
「どうする、老蟲」
王が言った。
「器の中身を、見せるか。隠すか」
間桐臓硯は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと横へ退いた。
「よかろう」
その声は、まだ笑っていた。
「遠坂の当主殿が、そこまで言うならば。少しだけ、見せてやろう」
時臣は、表情を変えなかった。
だが、ギルガメッシュには分かった。
彼の指が、ほんのわずかに動いたことを。
父でも、魔術師でも、当主でもある男が、どの顔でその子を見るのか。
王は、それを見逃すつもりはなかった。