優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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8.王命を代行するための宝具

雁夜の声は、もう聞こえなかった。

橋の下に残した拘束具は、しばらくは解けない。バーサーカーも、雁夜も、今すぐ動ける状態ではない。だが、それは永続するものではないとギルガメッシュは言った。

 

「急ぐ必要はあるのですな」

「当然であろう」

 ギルガメッシュは退屈そうに答えた。

「虫は逃げる。老いた虫ならなおさらだ。己の巣が覗かれると分かれば、奥へ潜る」

「間桐臓硯が、今夜のうちに動くと」

「動かぬと思うか」

 

 時臣は答えなかった。

 動くだろう。

 臓硯がどこまで今の状況を把握しているかは分からない。だが雁夜が動き、バーサーカーが動き、言峰綺礼が死に、聖杯戦争の流れが変わった。間桐の老翁がそれをまったく知らずにいるはずがない。

 

 そして、桜。

 雁夜の証言は、信用できない。

 感情が混じりすぎている。憎悪も、執着も、自己憐憫も、すべてが混ざっている。

 だが、無視できない。

 

 蟲蔵。

 属性変換。

 間桐の器。

 

 言葉の一つ一つは粗く、雁夜自身も正確には理解していなかった。だが、彼の身体に施された処置と合わせれば、ひとつの方向を指している。

 間桐は、外部から術式を食い込ませる家だ。

 

 それ自体は、魔術の家としてあり得ないことではない。遠坂には遠坂のやり方があり、間桐には間桐のやり方がある。桜を間桐へ出すと決めた時点で、遠坂の術式体系から離れることは分かっていた。

 

 だが、適応と毀損は違う。

 教育と改造は違う。

 継承と消耗も、違う。

 時臣は歩きながら、そこまで考え、そこで思考を止めた。

 

 まだ結論ではない。

 まず見る。

「時臣」

「はい」

「また止めたな」

 

 ギルガメッシュが笑っている。

「何をでしょうか」

「言葉にすればよいものを、貴様はすぐ胸の内へ戻す」

「結論に至っていない思考を、言葉にする必要はありません」

「娘が心配だ、と言うだけなら簡単であろう」

 

 時臣はしばらく黙った。

 冬木の夜道は静かだった。街灯が一定の間隔で続き、その下を二人の影が進んでいく。片方は外套を整えた魔術師。もう片方は、夜の街にあまりにも不似合いな黄金の王。

「その言葉は、今は用いるべきではありません」

「雁夜には言わぬ。では、老蟲には言うか」

「言いません」

「なぜだ」

「交渉の言葉ではないからです」

 

 ギルガメッシュは、喉の奥で笑った。

「貴様は本当に面白いな。娘を案じている。だが、その言葉を使えば交渉が濁ると見る。父の顔を出せば早い場面で、あえて当主の顔を選ぶか」

「父として行けば、臓硯はそこを突くでしょう」

「であろうな」

「魔術師として行けば、桜を器としてしか見ないことになる」

「それもまた、貴様らしいではないか」

「当主として行きます」

 

 時臣は静かに言った。

「遠坂から間桐へ移した資質が、契約通りに扱われているかを確認する。その名目ならば、少なくとも相手は応じる義務があります」

「義務を守る相手ならな」

「守らないならば、それも答えです」

 

 ギルガメッシュは楽しげに目を細めた。

「よい。契約で娘へ近づくか。父よりも面倒で、魔術師よりも回りくどい。だが、それが今の貴様の足場というわけだ」

 時臣は何も言わなかった。

 

 間桐邸の影が見えてきた。

 遠坂邸とは違う。遠坂の屋敷には、秩序がある。術式も結界も、整えられた庭も、すべてが家の格式を示すように配置されている。

 間桐の屋敷は、沈んでいた。

 古い。暗い。ただ古いだけではない。時間に取り残されたような古さではなく、何かが内側から湿らせているような古さだった。

 

 門の前に立った時、時臣はわずかに眉を寄せた。

「王よ」

「分かっておる」

 ギルガメッシュが足を止める。

 

 黄金の波紋が、彼の背後に静かに開いた。

 出てきたのは、剣ではない。

 小さな香炉だった。

 

 香炉の蓋がわずかに開く。白に近い淡い煙が、門の前へ流れた。煙は地面を這い、石畳の隙間、門柱の影、植え込みの下へ入り込む。

 次の瞬間、小さな焼ける音がした。

 じゅ、と。

 ひとつではない。

 いくつも。

 

 時臣は、地面の隙間に潜んでいたものが干からび、崩れていくのを見た。

「蟲ですか」

「蟲だ」

 ギルガメッシュは不快そうに言った。

「王の前へ這い出るには、ずいぶん粗末な出迎えだな」

「これが間桐の監視でしょう」

「監視なら目を持って来い。虫けらを這わせるな」

 

 ギルガメッシュはさらに波紋を開いた。

 今度は細い金の針が数本、門の左右へ飛んだ。針は壁に刺さったのではない。壁の中へ吸い込まれるように消えた。

 屋敷の奥で、何かが小さく潰れる気配がした。

 時臣はその一つ一つを見逃さなかった。

 

 ギルガメッシュは本当に、守っている。

 王の気まぐれ。見物を続けるため。つまらない横槍で時臣が倒れるのが不快だから。

 理由は何であれ、彼は今、サーヴァントとしてマスターの進路を払っていた。

 

「王よ。そこまで警戒なさるのですか」

「警戒ではない。掃除だ」

 ギルガメッシュはつまらなそうに言った。

「あの老蟲は、剣を抜いて前に出る類ではない。床下を這い、壁の中で聞き、器の中身を腐らせる。そういうものは、戦う前に場から除く」

 

 黄金の波紋が、静かに開く。

 そこから現れたものは、剣ではなかった。

 鏡。鈴。香炉。小さな天秤。古い封印具。用途の分からぬ細い楔。

「我が今宵定めたのは一つだ。時臣の話を、虫けらに濁らせぬ」

 

 時臣は、王の背後に浮かぶ宝具群を見た。

 それらは、ギルガメッシュ自身の意思より先に、周囲の蟲や呪詛を探っているように見えた。

「……自動で動いているのですか」

「王命を代行しているだけだ。王が命じた以上、王の一瞬の気まぐれすら、その命を妨げることは許されぬ」

「では、普段からそれをなされば」

 

 ギルガメッシュは、心底つまらなそうに時臣を見た。

「なぜ勝ちに興味のない時まで、勝つための備えをせねばならぬ」

 そして、愉快そうに笑った。

「だが今宵は違う。これは勝敗ではない。王の裁定だ」

 

「何を見ている」

「いえ」

「言え」

「王が、本当に準備をなさるとは思いませんでした」

「まだ言うか」

 

 ギルガメッシュは笑った。

「準備とは、勝てぬ者がするものではない。王が望む場を整えることもまた、準備よ」

「場、ですか」

「そうだ。ここで虫に噛まれ、呪いを受け、老蟲の巣穴で貴様が膝をつけば、話がつまらぬ。だから整える」

「……感謝いたします」

「礼はまだ早い。これからもっと不愉快なものを見ることになるぞ」

 

 時臣は門へ手をかけた。

 開く前に、声がした。

「夜分に騒がしいのう」

 門の向こうではない。

 植え込みの下でも、屋敷の窓でもない。

 

 声は、足元から聞こえた。

 石畳の隙間から、小さな蟲が這い出していた。潰れかけた体を震わせ、そこから老人の声が漏れている。

「遠坂の当主殿。かような時刻に、何用かの」

 

 時臣が口を開く前に、ギルガメッシュが言った。

「虫の声で王の前に出るか」

 声は静かだった。

 だが、その一言で、周囲の空気が変わった。

 

 蟲が震えた。

「ほう……」

 老人の声に、わずかに別の色が混じる。

「これはこれは。英雄王までもお連れとは、ずいぶん物々しい訪問じゃ」

「姿を見せよ、老蟲」

 

 ギルガメッシュは言った。

「王の前に顔を出さぬなら、この屋敷の虫を一匹ずつ潰す。どれが貴様の耳で、どれが貴様の目か、我には興味がない」

 沈黙が落ちたが、長くはなかった。

 

 門が、内側から開いた。

 屋敷の奥から、ゆっくりと老人が現れた。

 間桐臓硯。

 小柄で、枯れ枝のような身体。だが、その背には、ただの老人にはない異様な重みがあった。長く生きすぎたものの重み。腐りながら、なお形だけを保っているものの重み。

 

 時臣は一礼した。

「夜分に失礼いたします、臓硯殿」

「まったくじゃ。聖杯戦争の最中とはいえ、遠坂の当主が礼を忘れたわけでもあるまいに」

「礼を失するほどの確認事項が生じました」

 

 臓硯の目が、細くなる。

「確認とな」

「桜の状態を確認させていただきたい」

 臓硯はすぐには答えなかった。

 

 皺だらけの顔に、笑みのようなものが浮かぶ。

「桜はもう間桐の子じゃ。遠坂が口を出す筋ではあるまい」

「桜が間桐の子であることは承知しております」

 時臣は静かに返した。

「だからこそ、確認が必要です」

「ほう」

「遠坂から間桐へ移した資質が、契約通り、間桐の後継として適切に扱われているか。その確認です」

 

 臓硯の笑みは消えなかった。

「契約、契約か。遠坂の当主殿は、実に変わらぬのう」

「契約を軽んじる家とは、付き合えません」

「ならば安心せい。桜は間桐の術を受け、間桐の者として育っておる」

「どのように」

「それは間桐の秘奥じゃ」

「秘奥であることは理解します。しかし、養子契約は桜の資質を継がせるためのものです。資質そのものを毀損する処置が行われているなら、それは契約の目的に反します」

 

 臓硯の目が、初めてわずかに冷えた。

「誰から何を聞いた」

「雁夜からは証言を。彼の身体からは術式の痕跡を」

「雁夜か」

 

 臓硯は、喉の奥で笑った。

「あれは壊れておる。あの男の言葉を聞くとは、遠坂も落ちたものよ」

「証言は信用しておりません」

 時臣は即答した。

「ですが、彼の身体に施された処置は確認しました。急造の魔術回路。蟲による神経系への侵食。消耗前提の運用。あれは通常の鍛錬ではありません」

「雁夜は特別じゃ。あれは間桐を捨てた男。聖杯戦争のために無理を通しただけのこと」

「その発想が桜へ適用されていない保証を確認したい」

「疑うか」

「確認です」

 

 ギルガメッシュが笑った。

「疑っておるのだ、老蟲。言葉を飾るな」

「王よ」

 時臣が静かにたしなめる。

「余計なことを申すな、という顔だな」

「はい」

「よい。続けよ」

 

 臓硯は、ギルガメッシュをちらりと見た。その視線に、一瞬だけ警戒が浮かんだ。間桐邸の内部から、何かが動く気配がする。

 蟲か。

 罠か。

 それとも、ただの気配か。

 

 ギルガメッシュの背後で、黄金の波紋が一つ開いた。小さな鈴が出てきた。ちりん、と鳴る。その音が鳴った瞬間、屋敷の内側で這っていた気配が止まった。

 臓硯の顔が、わずかに歪む。

「つまらぬ横槍を入れるな」

 ギルガメッシュは言った。

「時臣が話している。虫は黙っていろ」

 

 時臣は、臓硯を見た。

「桜を見せてください」

「夜も遅い。幼子は休ませるものじゃ」

「短時間で構いません」

「何を確認するつもりじゃ」

「魔術回路の状態。属性変質の有無。肉体への外部術式干渉。教育内容と刻印継承計画。それだけです」

「それだけ、か。ずいぶん多いのう」

「契約の目的を確認するために必要です」

 

 臓硯は笑った。笑っていたが、時臣はその笑いの内側に、別のものを見た。時間を稼いでいる。桜を整えるためか。隠すためか。あるいは、今この場で見せてもよい形へ作り替えるためか。

 

 時臣の中で、結論が一つだけ固まった。ここで引いてはならない。

 

「臓硯殿」

「何じゃ」

「今、見せていただけない場合、遠坂は間桐に対し、養子契約の履行確認を正式に求めます」

「正式に、とな」

「はい。教会の記録、御三家の契約記録、必要であれば第三者の立ち会いも含めて」

 

 臓硯の笑みが、少しだけ消えた。

 

 ギルガメッシュは上機嫌だった。

「ほう。契約書で娘を取り返すか」

「取り返すとは申しておりません」

「まだな」

 

 臓硯が、低く笑った。

「遠坂時臣。お主、何か勘違いしておらぬか」

「何をでしょう」

「魔術の家に入った者は、その家の色に染まる。桜は間桐の子じゃ。遠坂の色のまま置くわけにはいかぬ」

「理解しています」

「理解してなお、このような夜更けに来るか」

「適応と毀損は違います」

 

 時臣の声は、静かだった。

「私は、その違いを確認しに来ました」

 

 臓硯は時臣を見た。

 時臣も臓硯を見た。

 

 父親として怒鳴るわけではない。

 魔術師として目を逸らすわけでもない。

 当主として、契約の言葉で迫っている。

 ギルガメッシュは、その横顔を見て笑っていた。その時、屋敷の奥で、小さな物音がした。ほんのわずかな足音。

 

 時臣の目が動いた。臓硯は動かない。ギルガメッシュは、楽しげに目を細めた。

「どうする、老蟲」

 王が言った。

「器の中身を、見せるか。隠すか」

 

 間桐臓硯は、しばらく黙っていた。

 やがて、ゆっくりと横へ退いた。

「よかろう」

 その声は、まだ笑っていた。

「遠坂の当主殿が、そこまで言うならば。少しだけ、見せてやろう」

 

 時臣は、表情を変えなかった。

 だが、ギルガメッシュには分かった。

 彼の指が、ほんのわずかに動いたことを。

 父でも、魔術師でも、当主でもある男が、どの顔でその子を見るのか。

 王は、それを見逃すつもりはなかった。

 

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