臓硯は、しばらく時臣を見ていた。
笑っている。
だが、その笑みは承諾のものではなかった。相手がどこまで踏み込んでくるかを測る、古い獣の目だった。
「よかろう」
臓硯は、ようやく言った。
「そこまで言うならば、見せてやろう」
時臣は礼を返した。
「感謝いたします」
「ただし、短くじゃ。桜はもう休んでおる。幼子を夜更けに引きずり出すなど、遠坂の当主殿ともあろう者が、随分と乱暴なことをする」
「確認が済めば、すぐに終わります」
「確認、確認か」
臓硯は喉の奥で笑った。
「お主は本当に、言葉を選ぶ男じゃのう」
時臣は答えなかった。
屋敷の奥へ、臓硯が小さく指を動かす。
それだけで、廊下の奥に気配が生じた。
ギルガメッシュの背後で、黄金の波紋がわずかに揺れる。
だが、王は何もしなかった。ただ見ている。
ほどなく、廊下の暗がりから小さな足音が聞こえた。桜だった。薄い寝間着ではない。きちんと着替えさせられている。髪も整えられていた。顔に目立つ傷はない。腕も首も、露出している部分には何もない。
遠坂時臣は、まずそこを見た。外傷はない。
次に、歩き方を見た。足取りは乱れていない。だが、幼子が夜中に父を見つけた時の動きではなかった。駆け寄らない。怯えて後ずさることもない。戸惑いもない。
ただ、命じられた場所へ置かれる人形のように歩いてくる。
時臣の中で、何かが静かに冷えた。
「桜」
彼は名を呼んだ。
桜は顔を上げた。
目が合う。
その瞬間、時臣は確信した。
これは、怯えではない。
怯えなら、もっと揺れる。
泣くなら、もっと崩れる。
父を忘れたなら、もっと空白になる。
今の桜は、揺れないようにされている。
「私が分かりますか」
桜は、すぐには答えなかった。
臓硯が、横で静かに笑っている。
長い沈黙の後、桜の唇が動いた。
「……お父様」
声は小さかった。
だが、それは確かに桜の声だった。
時臣の指が、ほんのわずかに動いた。
ギルガメッシュは、それを見逃さなかった。
「ふむ」
王が楽しげに目を細める。
時臣は桜へ近づいた。
臓硯は止めない。
時臣は、桜の額に触れようとして、やめた。
触れれば父になる。
触れずに見るなら、魔術師でいられる。
そういう区別が、今の自分にとってどれほど滑稽か、時臣自身にも分かっていた。
それでも、彼はまず魔術師として見た。
「桜。少しだけ確認します」
「……はい」
返事は従順だった。
従順すぎた。
時臣は懐から小さな無色の宝石を取り出した。魔力を通し、光を桜の胸元へ向ける。肉体を傷つけるものではない。魔術回路の反応を見るための、遠坂の簡易診断だった。
薄い光が桜の周囲を包む。
すぐに、時臣は眉を寄せた。
流れが見えない。いや、ないのではない。覆われている。
魔力の流れそのものはある。桜の資質は残っている。むしろ、残っていなければおかしい。遠坂の娘として生まれた才能は、そう簡単に消えるものではない。
だが、その流れの上に、別の術式が重ねられている。
蓋のように。網のように。
あるいは、檻のように。
「臓硯殿」
「何じゃ」
「これは、確認になりません」
臓硯は笑った。
「何を見た」
「桜の反応が外部術式によって抑制されています。魔術回路の状態も、属性適応の進行も、この状態では正確に確認できない」
「幼子を夜更けに呼び出したのじゃ。動揺せぬよう、少し整えてやっただけじゃよ」
「整える、ですか」
「間桐には間桐のやり方がある。遠坂の術式で見えぬからといって、異常と決めつけるのは早計ではないかの」
時臣は、桜を見た。
桜は何も言わない。
ただ、立っている。
父の前で。間桐の屋敷の中で。
自分がどう扱われているのかも、どう扱われるべきなのかも、言葉にできないまま。
時臣は息を吸った。
「間桐の術式体系が遠坂と異なることは理解しています」
「ならば」
「ですが、適応と隠蔽は違います」
臓硯の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「隠蔽とは、聞き捨てならぬのう」
「では、今この場で外部抑制を解いてください」
「幼子に負担をかける」
「私が判断します」
「ここは間桐の家じゃ」
「桜は、遠坂から間桐へ移した資質です」
時臣の声は、静かだった。
「その資質が、契約目的に沿って保全されているかを確認しに来ました。確認不能な状態で提示されるなら、本確認は成立しません」
臓硯の目が、細くなる。
「本確認」
「はい」
「では、どうするつもりじゃ」
時臣は、一瞬だけ桜を見た。
桜の目が、かすかに揺れた。
それは、抑えきれなかった反応だった。
命じられた表情の奥から、ほんのわずかに漏れたものだった。
時臣は、それを見た。見てしまった。
「桜は、遠坂側で一時保全します」
臓硯の笑みが消えた。
屋敷の空気が、沈む。
「何を言う」
「確認が成立しない以上、契約目的の毀損を防ぐため、対象者を一時的に遠坂側で保全します。後日、正式な場で契約履行能力について協議を求めます」
「桜は間桐の子じゃ」
「だからこそ、間桐が契約を履行していることを示す必要があります」
「遠坂時臣」
臓硯の声が低くなった。
「お主、自分が何をしているか分かっておるのか」
「分かっています」
「それは、娘を取り返すということか」
「違います」
時臣は即座に答えた。
「契約履行確認が不能であるための、一時保全です」
ギルガメッシュが笑った。
「はは」
短い笑いだった。
「よいぞ、時臣。父として奪うのではなく、契約書で娘を持ち帰るか」
「王よ」
「余計なことを言うな、であろう。分かっておる」
ギルガメッシュはまったく分かっていない顔で笑っていた。
臓硯は、時臣とギルガメッシュを交互に見た。正面から争うべきではない。それは、臓硯にも分かっていたはずだった。今の英雄王は、遊んでいない。
少なくとも、この場を汚させないという一点においては、本気だった。屋敷中の蟲も、呪詛も、覗き見る目も、先ほどからことごとく封じられている。
だが、それでも臓硯は退かなかった。長く生きたものは、退き方を知っている。そして、退いたふりをする術も知っている。
「……よかろう」
臓硯は、やがて言った。
「今宵は、遠坂の顔を立ててやる」
時臣は黙っていた。
信じてはいない。
「ただし、桜は間桐の子じゃ。一時預かりに過ぎぬ。確認が済めば、返してもらう」
「契約履行が確認できれば、そのように扱います」
「確認、確認。最後までそれか」
「はい」
臓硯は、乾いた笑いを漏らした。
「まったく、つまらぬ男よ」
「結構です」
時臣は桜へ向き直った。
「桜。こちらへ」
桜が一歩、動いた。
その瞬間だった。
ギルガメッシュが、ほんのわずかに横を向いた。隙とは呼べない。普通なら、誰もそこを隙とは見ない。
だが、臓硯にはそれで十分だった。
床板の隙間から、細い黒い蟲が跳ねた。桜へ向かったのではない。時臣へでもない。桜の影へ、滑り込もうとした。
だが、届かなかった。ちりん、と鈴が鳴った。音は小さかった。しかし、その音が鳴った瞬間、蟲は空中で止まった。黄金の楔が、床に落ちる。蟲は乾いた灰になり、崩れた。
臓硯の笑みが止まる。
ギルガメッシュは、ゆっくりと顔を戻した。
「まったく」
王は、不愉快そうに笑っていた。
「この身体も不便なものよな」
時臣は一瞬、その言葉の意味を測りかねた。
ギルガメッシュは、臓硯を見ている。
「貴様もそうであろう、老蟲」
臓硯の顔に、初めて笑みではないものが浮かんだ。
「……何のことかの」
「高潔な願いも、長く器に入れれば腐る。魂を救うなどと掲げたものが、今や生き永らえることに形を引かれ、虫けらの巣となった。まったく、身体とは不便なものだ」
臓硯は黙った。
そして、ほんのわずかに苦笑した。
「英雄王ともあろう者が、よく喋る」
「今宵は機嫌がよい」
ギルガメッシュは言った。
「だが、勘違いするな。貴様のために喋っているのではない」
黄金の鈴が、もう一度鳴った。屋敷の奥で、何かが一斉に静まる気配がした。
「時臣の邪魔をするなと言ったはずだ」
時臣は、床に残った灰を見た。
それから、臓硯を見た。
「臓硯殿」
「何じゃ」
「今の行為により、間桐側が本確認の妨害を試みたものと判断します」
「虫が一匹、這っただけじゃ」
「それを桜の影へ向けた」
臓硯は答えなかった。
「桜は遠坂側で一時保全します。後日、契約履行能力について正式な協議を求めます」
「遠坂時臣」
「はい」
「それは、間桐への侮辱じゃ」
「契約妨害への対応です」
ギルガメッシュが、実に楽しそうに笑った。
「よかったな、老蟲。遠坂時臣はまだ、契約の言葉で話してくれている」
臓硯は、もう笑わなかった。
時臣は、桜の肩へ手を置いた。
桜は小さく震えたが、逃げなかった。
「行きましょう」
桜は、ほんのわずかに頷いた。
時臣は桜を連れ、門へ向かう。
その背に、臓硯の声が落ちた。
「後悔するぞ、遠坂」
時臣は振り返らなかった。
「それを判断するためにも、確認が必要です」
ギルガメッシュが声を上げて笑った。
間桐邸の暗がりの中で、臓硯は立ち尽くしていた。
その顔には、怒りと、苦笑と、ほんのわずかな古い疲れが混ざっていた。
そして桜は、父に手を引かれたまま、間桐の屋敷を出た。