優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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9.桜の確認

 臓硯は、しばらく時臣を見ていた。

 笑っている。

 だが、その笑みは承諾のものではなかった。相手がどこまで踏み込んでくるかを測る、古い獣の目だった。

 

「よかろう」

 臓硯は、ようやく言った。

「そこまで言うならば、見せてやろう」

 時臣は礼を返した。

「感謝いたします」

「ただし、短くじゃ。桜はもう休んでおる。幼子を夜更けに引きずり出すなど、遠坂の当主殿ともあろう者が、随分と乱暴なことをする」

「確認が済めば、すぐに終わります」

「確認、確認か」

 

 臓硯は喉の奥で笑った。

「お主は本当に、言葉を選ぶ男じゃのう」

 時臣は答えなかった。

 屋敷の奥へ、臓硯が小さく指を動かす。

 それだけで、廊下の奥に気配が生じた。

 

 ギルガメッシュの背後で、黄金の波紋がわずかに揺れる。

 だが、王は何もしなかった。ただ見ている。

 

 ほどなく、廊下の暗がりから小さな足音が聞こえた。桜だった。薄い寝間着ではない。きちんと着替えさせられている。髪も整えられていた。顔に目立つ傷はない。腕も首も、露出している部分には何もない。

 遠坂時臣は、まずそこを見た。外傷はない。

次に、歩き方を見た。足取りは乱れていない。だが、幼子が夜中に父を見つけた時の動きではなかった。駆け寄らない。怯えて後ずさることもない。戸惑いもない。

 ただ、命じられた場所へ置かれる人形のように歩いてくる。

 

 時臣の中で、何かが静かに冷えた。

「桜」

 彼は名を呼んだ。

 桜は顔を上げた。

 目が合う。

 

 その瞬間、時臣は確信した。

 これは、怯えではない。

 怯えなら、もっと揺れる。

 泣くなら、もっと崩れる。

 父を忘れたなら、もっと空白になる。

 今の桜は、揺れないようにされている。

 

「私が分かりますか」

 桜は、すぐには答えなかった。

 臓硯が、横で静かに笑っている。

 長い沈黙の後、桜の唇が動いた。

 

「……お父様」

 声は小さかった。

 だが、それは確かに桜の声だった。

 

 時臣の指が、ほんのわずかに動いた。

 ギルガメッシュは、それを見逃さなかった。

 

「ふむ」

 王が楽しげに目を細める。

 

 時臣は桜へ近づいた。

 臓硯は止めない。

 時臣は、桜の額に触れようとして、やめた。

 

 触れれば父になる。

 触れずに見るなら、魔術師でいられる。

 そういう区別が、今の自分にとってどれほど滑稽か、時臣自身にも分かっていた。

 それでも、彼はまず魔術師として見た。

 

「桜。少しだけ確認します」

「……はい」

 返事は従順だった。

 従順すぎた。

 時臣は懐から小さな無色の宝石を取り出した。魔力を通し、光を桜の胸元へ向ける。肉体を傷つけるものではない。魔術回路の反応を見るための、遠坂の簡易診断だった。

 薄い光が桜の周囲を包む。

 

 すぐに、時臣は眉を寄せた。

 流れが見えない。いや、ないのではない。覆われている。

 魔力の流れそのものはある。桜の資質は残っている。むしろ、残っていなければおかしい。遠坂の娘として生まれた才能は、そう簡単に消えるものではない。

 

 だが、その流れの上に、別の術式が重ねられている。

 蓋のように。網のように。

 あるいは、檻のように。

 

「臓硯殿」

「何じゃ」

「これは、確認になりません」

 

 臓硯は笑った。

「何を見た」

「桜の反応が外部術式によって抑制されています。魔術回路の状態も、属性適応の進行も、この状態では正確に確認できない」

「幼子を夜更けに呼び出したのじゃ。動揺せぬよう、少し整えてやっただけじゃよ」

「整える、ですか」

「間桐には間桐のやり方がある。遠坂の術式で見えぬからといって、異常と決めつけるのは早計ではないかの」

 

 時臣は、桜を見た。

 桜は何も言わない。

 ただ、立っている。

 父の前で。間桐の屋敷の中で。

 自分がどう扱われているのかも、どう扱われるべきなのかも、言葉にできないまま。

 

 時臣は息を吸った。

「間桐の術式体系が遠坂と異なることは理解しています」

「ならば」

「ですが、適応と隠蔽は違います」

 

 臓硯の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。

「隠蔽とは、聞き捨てならぬのう」

「では、今この場で外部抑制を解いてください」

「幼子に負担をかける」

「私が判断します」

「ここは間桐の家じゃ」

「桜は、遠坂から間桐へ移した資質です」

 時臣の声は、静かだった。

 

「その資質が、契約目的に沿って保全されているかを確認しに来ました。確認不能な状態で提示されるなら、本確認は成立しません」

 臓硯の目が、細くなる。

「本確認」

「はい」

「では、どうするつもりじゃ」

 

 時臣は、一瞬だけ桜を見た。

 桜の目が、かすかに揺れた。

 それは、抑えきれなかった反応だった。

 命じられた表情の奥から、ほんのわずかに漏れたものだった。

 時臣は、それを見た。見てしまった。

 

「桜は、遠坂側で一時保全します」

 

 臓硯の笑みが消えた。

 屋敷の空気が、沈む。

「何を言う」

「確認が成立しない以上、契約目的の毀損を防ぐため、対象者を一時的に遠坂側で保全します。後日、正式な場で契約履行能力について協議を求めます」

「桜は間桐の子じゃ」

「だからこそ、間桐が契約を履行していることを示す必要があります」

「遠坂時臣」

 

 臓硯の声が低くなった。

「お主、自分が何をしているか分かっておるのか」

「分かっています」

「それは、娘を取り返すということか」

「違います」

 

 時臣は即座に答えた。

「契約履行確認が不能であるための、一時保全です」

 ギルガメッシュが笑った。

「はは」

 

 短い笑いだった。

「よいぞ、時臣。父として奪うのではなく、契約書で娘を持ち帰るか」

「王よ」

「余計なことを言うな、であろう。分かっておる」

 

 ギルガメッシュはまったく分かっていない顔で笑っていた。

 臓硯は、時臣とギルガメッシュを交互に見た。正面から争うべきではない。それは、臓硯にも分かっていたはずだった。今の英雄王は、遊んでいない。

 少なくとも、この場を汚させないという一点においては、本気だった。屋敷中の蟲も、呪詛も、覗き見る目も、先ほどからことごとく封じられている。

 

 だが、それでも臓硯は退かなかった。長く生きたものは、退き方を知っている。そして、退いたふりをする術も知っている。

「……よかろう」

 臓硯は、やがて言った。

「今宵は、遠坂の顔を立ててやる」

 

 時臣は黙っていた。

 信じてはいない。

「ただし、桜は間桐の子じゃ。一時預かりに過ぎぬ。確認が済めば、返してもらう」

「契約履行が確認できれば、そのように扱います」

「確認、確認。最後までそれか」

「はい」

 

 臓硯は、乾いた笑いを漏らした。

「まったく、つまらぬ男よ」

「結構です」

 時臣は桜へ向き直った。

「桜。こちらへ」

 

 桜が一歩、動いた。

 その瞬間だった。

 ギルガメッシュが、ほんのわずかに横を向いた。隙とは呼べない。普通なら、誰もそこを隙とは見ない。

 だが、臓硯にはそれで十分だった。

 

 床板の隙間から、細い黒い蟲が跳ねた。桜へ向かったのではない。時臣へでもない。桜の影へ、滑り込もうとした。

 だが、届かなかった。ちりん、と鈴が鳴った。音は小さかった。しかし、その音が鳴った瞬間、蟲は空中で止まった。黄金の楔が、床に落ちる。蟲は乾いた灰になり、崩れた。

 臓硯の笑みが止まる。

 

 ギルガメッシュは、ゆっくりと顔を戻した。

「まったく」

 王は、不愉快そうに笑っていた。

「この身体も不便なものよな」

 

 時臣は一瞬、その言葉の意味を測りかねた。

 ギルガメッシュは、臓硯を見ている。

「貴様もそうであろう、老蟲」

 

 臓硯の顔に、初めて笑みではないものが浮かんだ。

「……何のことかの」

「高潔な願いも、長く器に入れれば腐る。魂を救うなどと掲げたものが、今や生き永らえることに形を引かれ、虫けらの巣となった。まったく、身体とは不便なものだ」

 

 臓硯は黙った。

 そして、ほんのわずかに苦笑した。

「英雄王ともあろう者が、よく喋る」

「今宵は機嫌がよい」

 ギルガメッシュは言った。

 

「だが、勘違いするな。貴様のために喋っているのではない」

 黄金の鈴が、もう一度鳴った。屋敷の奥で、何かが一斉に静まる気配がした。

「時臣の邪魔をするなと言ったはずだ」

 

 時臣は、床に残った灰を見た。

 それから、臓硯を見た。

「臓硯殿」

「何じゃ」

「今の行為により、間桐側が本確認の妨害を試みたものと判断します」

「虫が一匹、這っただけじゃ」

「それを桜の影へ向けた」

 

 臓硯は答えなかった。

「桜は遠坂側で一時保全します。後日、契約履行能力について正式な協議を求めます」

「遠坂時臣」

「はい」

「それは、間桐への侮辱じゃ」

「契約妨害への対応です」

 

 ギルガメッシュが、実に楽しそうに笑った。

「よかったな、老蟲。遠坂時臣はまだ、契約の言葉で話してくれている」

 臓硯は、もう笑わなかった。

 

 時臣は、桜の肩へ手を置いた。

 桜は小さく震えたが、逃げなかった。

 

「行きましょう」

 桜は、ほんのわずかに頷いた。

 時臣は桜を連れ、門へ向かう。

 

 その背に、臓硯の声が落ちた。

「後悔するぞ、遠坂」

 時臣は振り返らなかった。

「それを判断するためにも、確認が必要です」

 

 ギルガメッシュが声を上げて笑った。

 間桐邸の暗がりの中で、臓硯は立ち尽くしていた。

 その顔には、怒りと、苦笑と、ほんのわずかな古い疲れが混ざっていた。

 そして桜は、父に手を引かれたまま、間桐の屋敷を出た。

 

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