集まれ〜江戸時代藩内政シミュレーション〜 作:星野林(旧ゆっくり霊沙)
俺は江戸の日高藩邸で働いている下級武士の1人の山田左衛門という者だ。
古くは石田家に仕える重臣の家系であったが、関ヶ原の敗戦にて、父上は討死。
拙者は元服前だったため罪には問われなかったが、所領は没収の上、一家離散という状況に陥っていた。
しかし、石田家の嫡子である石田重家様が日高藩宮永家に仕えたと知り、藁にもすがる思いで仕官したところ、給金30両を貰えることにもなり、何とか兄弟を呼び戻して、日高藩に勤めることになった。
それが慶長10年(1605年)の頃で、それから一族を呼び集めたり、他にも石田家で家臣で住居が分かる者に声をかけて、新しい主である宮永成継様と宮永仙様に紹介をして、家臣を集める手伝いを行った。
拙者は石田家の家風により、幼少の者でも商人並みに算術が扱えるように仕込まれていたお陰で、江戸藩邸での金勘定も楽にできたが、宮永家は普通の家とは違っていた。
元々宮永家は石田三成様の下で兵糧の手配を行ったりしていた文官の家柄であったが、関ヶ原では蝦夷に領地を持つのに東軍に組みして、戦った敵ではあるが、西軍に組した家の家臣を集めて食わせていただいている現状であるのでとやかく言うことはない。
しかし……
「金の苦心ばかりしていて、とても武士らしい家とは言えぬが……」
養鶏だったり江戸商人に向けて甘じょっぱい秘伝のタレを売ったり、砂糖菓子を売ったり……一応狩りを行うことは多いが、それにしたって狩ってきた獲物を商人達に売るためであり、金策金策また金策……。
堀江にある下屋敷(浦安にある)もただ木の柵で囲って、その中に少々の長屋と鶏を育てる場所、猫の額ほどの小さな屋敷があるくらいで、残りは殆ど蕎麦や小麦、野菜を育てる畑で、周りの大名達からも商い大名だの農民大名などと言われていた。
成継様と仙様はそんな大名達や江戸の譜代にペコペコ頭を下げており、家臣としては色々鬱憤が溜まっていた。
「しかしな山田……これを見てみよ」
ある時、このまま舐められたままではいけないのではないのですかと若手家臣達を集めて宮永家の重臣の方に迫ったところ、成継様の許可を得て、あるものを見せてもらった。
それは宮永家の帳簿であり、江戸藩邸に勤めている我々で約5万両ほど稼いでおり、それだけでも凄まじいが、日高本領の稼ぎも合わせると、日高藩は人件費を抜いたとしても毎年20万両以上の利益を稼ぎ出していた。
「商人経由で入手した他藩の財政状況がこれだ」
重臣から渡された他藩の情報を見ると5万石、10万石の所領を有する大名達も皆赤字であった。
「商人大名? 結構じゃないか。うちはそれだけ稼いでいるし、他藩の藩士達の給金の額を知っているか? 1人20両行かないのがザラじゃぞ」
ちなみに俺は働き出してから毎年給金が上がっていて、最初50両で雇われていたが、今では120両になっていた。
俺だけでなく、殆どの日高藩士は80両近く手当てとして貰っていて、他藩の藩士が狭い藩邸の外壁と一緒になっている長屋で暮らさなければならないが、うちは藩士達の長屋の作りも広々としており、相部屋ではなく、1人8畳の部屋が与えられていた。
普通の長屋は9尺2間(3坪)か9尺3間(4.5坪)を家族でくらしていたし、藩士達も同じくらいの広さの部屋に2~3人で住んでいたところ、日高藩は藩士1人でそこに住んで良いし、何なら家族が居る者は下屋敷の広い長屋(20坪ほどの広さ)か、下屋敷の土地の中に屋敷を建てて良いという破格っぷり。
「日高にいけば土地も貰えるのだがな」
そして日高本領を経験した者は口を揃えて飯が美味いと言う。
もちろん大雪が降ったり大変な事は多いが、江戸詰めでは貰えない土地を開墾すれば貰えるというので、家族を日高に送った者も何人もいた。
「お主ら恵まれておるのだから、そうカッカするな。うちの藩は名誉よりも実を取れ」
「「「はは!」」」
などと重臣の方は言っていたが、大坂の陣では日高から連れてきた藩士達が大活躍であり、将軍である徳川秀忠様より、
「他の家々が戦が無い世だからと武芸を蔑ろにする中、小藩ながら格別の働き」
と大絶賛。
特に本領から取り寄せた秘密兵器と言われた連射砲を江戸藩邸にいた者達は疑問視していたが、それが大活躍であり、戦った藩士(江戸藩邸詰め)は全員50両の給金の加増があった。
江戸藩邸詰めの家臣達は土地を持ってないため、武具の手入れと普段着るものにさえ気を使えば良いので、出費もそこまで嵩まない。さらには銭で支払われるため、多くの藩士や幕臣達が米で給与される結果、銭に変えるために両替が必要になる中、拙者達はその両替もしなくて良いので、金が貯まる貯まる。
「更に給金を貰い、嫁さんを紹介して貰えるか、日高に行き、土地と嫁を手に入れるか……うむむ、悩ましい」
日高藩士である山田左衛門の独白であった。
大坂の陣が終わり、今回の戦は大名の忠誠心を試す物であったため、功績があっても、殆ど加増は行われなかった。
それにより不満を溜めた者も出たが、日高藩は格別の働きをしたとして、朝廷より従五位の蝦夷守と言う新しい役職と蝦夷の切り取り自由の許可をいただくことができた。
「本当に蝦夷の切り取り自由でいいのか? 豊臣を退けた大坂の土地に10万石加増するように父上に進言しようかとも考えたが」
「いえ、今まで通り江戸に船を着けることを許してもらえるのでも破格ですし、それに加え蝦夷守という蝦夷全体の切り取り自由の許可までも頂けただけで……」
「うむ、仙がそう申すのであればそれで良かろう」
そして義理の父親である堀田殿経由で今回の戦で使われたガトリング砲を幕府に献上し、俺達宮永家は戦国時代を乗り越えることに成功したのであった。
そして大坂の陣が終わり次第、武家諸法度が制定され、各大名の妻子(妻は正妻、子は嫡男)は江戸に留まるようにお触れが出た為、蝦夷に送っていた長男の成増を呼び寄せることに……。
ただ成増は角栄の娘の芽育を気に入り、角栄と芽育本人の許可を貰って江戸に連れてきて、2人でイチャイチャすることが多くなっていくのだった。
「宮永家から供されたこの砲の複製を命じる」
そしてガトリング砲は将軍徳川秀忠の命令で、徳川家お抱えの鉄砲鍛冶達に複製を依頼したが、200年先の技術なため複製は至難を極めた。
工作技術が足りず爆発すること多数。
薬莢部分を作り出すことができず、連射することができない。
終いには分解してしまった為に組み直すことすらできず、鉄砲鍛冶達は責任を取らされて切腹する者が数十人単位で出てしまった。
流石の将軍も面子があるので宮永家に再びガトリング砲を贈ってとか、職人をください……とは口が裂けても言うことができず、100年近く年月をかけて複製に至る一大事業となるのだが……その時の将軍は宮永家の血筋……つまり転生者であるので悪しからず。
これにて1章終わり!
勢いでやったけど、とりあえず10万文字は書けました。
一端寝かせて新作書くと思うので、よろしくお願いします!