年齢制限で奨励会を退会し、失意のなかで昭和20年代の東京へ転移してしまった主人公・蓮見。

手元にある令和の紙幣や硬貨はすべて使えず、彼は生き延びるために手持ちを質屋へ入れ、当時の紙幣と古びた将棋の駒を手に入れる。

それを種銭に、令和の時代に培った圧倒的な将棋の定跡を武器にし、賭け将棋で日銭を稼ぐ「真剣師」として生きる蓮見。

ある日、立ち寄った将棋席の奥座敷で、身分を隠した若き棋士と平手で対局することになる。

窮地に追い込まれた瞬間、思わず未来の定跡を無意識に繰り出し、プロを圧倒してしまう。

その異次元の思考と冷徹な強さに目をつけたのは、偶然その場に居合わせた「新手一生」の鬼才・升田幸三であった。

型破りな巨人に気に入られたことで、静かに生きようとしていた蓮見の運命は、激動の昭和将棋界へと巻き込まれていく。

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泥臭い光

アスファルトを叩く雨の音が、いつの間にか、乾いた砂を巻き上げる木枯らしの音へと変わっていた。

 

蓮見が目を開けたとき、最初に鼻腔を突いたのは、濃厚な木炭の煙と、饐えたような安煙草の匂いだった。見上げる空には、さっきまであったはずのネオンサインも、高層ビルの輪郭もない。あるのは、夜の闇に不気味に浮かび上がる、半壊したコンクリートの塊と、粗末な木造の家屋がひしめき合う、見たこともない街並みだった。

 

二十六歳。それが、彼が令和の将棋界から突きつけられた「死刑宣告」の年齢だった。奨励会三段リーグ、最終戦。勝てば四段、プロ棋士。負ければ、ただの「将棋が強いだけの引きこもり」。

結果は、劇的な詰みを逃しての逆転負けだった。年齢制限による退会。

人生のすべてを捧げた盤上が、一瞬にして消えてなくなった帰り道、歩道橋の階段を踏み外した記憶を最後に、蓮見はここにいた。

 

ここが昭和二十年代の新宿と呼ばれる場所だと知るのに、さほど時間はかからなかった。行き交う人々は皆、仕立ての悪い着物や国防色の国民服を着ており、すれ違うたびにギラギラとした、飢えた獣のような視線を蓮見の小綺麗なマウンテンパーカーに向けてきた。

 

戸籍などあるはずもない。身分証も使えない。何より絶望的だったのは、財布の中身だった。ジーンズのポケットから取り出したのは、くしゃくしゃになった数枚の千円札と、自動販売機でお釣りとして受け取ったはずのピカピカの五十円硬貨。令和の印刷技術で作られた精巧な紙幣や、見たこともないデザインの金属片など、この戦後の混沌においてはただの「怪しげな偽札」でしかなかった。下手に使おうとすれば、一発で警察に突き出されるのがオチだ。

 

生きるためには、まず今日戦うための「種銭」がいる。一局数円、数十円の賭け将棋に混ざるためにも、最低限の元手がなければ、真剣師たちは蓮見を盤の前に座らせてさえくれない。

 

蓮見は、闇市の外れ、不気味に赤色灯を灯した古びた建物の暖簾をくぐった。白ペンキで「質」とだけ書かれた、格子窓のある狭い受付。奥からは、吝嗇そうな油ぎった顔の主人が、値踏みするような視線を蓮見に投げかけてきた。

 

「おい、若いの。見ない顔だな。何を持ってきた」

 

マウンテンパーカーを脱ぐわけにはいかない。蓮見は無言で、腕から外した日常使いのチープな国産デジタル腕時計を木机の上に置いた。令和の感覚なら、ディスカウントストアで二千円も出せば買える樹脂製の時計だ。

 

しかし、それが置かれた瞬間、主人の目が一変した。主人は眼鏡をずらし、時計を顔に近づけた。文字盤のガラスの透明度。液晶画面に狂いなく表示されるデジタル数字。そして、一秒の狂いもなく進んでいく電子の刻。当時、時計といえばネジを巻いて動く機械式しか存在しない時代だ。

 

「電池……いや、ゼンマイの巻口がない。どうやって動いている」

 

「……特殊な仕組みです。絶対に狂いません。防水です」

 

蓮見はそれ以上余計なことは言わなかった。下手に説明すれば、それこそ未来人だと怪しまれる。ただ『どこかの進駐軍の将校から譲り受けた、未知の国の最新試作品』という雰囲気を、黙秘することで演出するしかなかった。

主人は時計の裏蓋をルーペで覗き込み、見たこともない細密な刻印に息を呑んだ。戦後の焼け跡で、これほどの超微細加工技術を持つ国など、アメリカを含めて世界のどこにも存在しない。

 

「……どこで手に入れたかは聞かねえ。だが、これはタダの品じゃねえな。モノの本質が分からねえ……。アメ公の横流し品か」

 

主人は奥から、ずっしりと重い木箱を取り出し、分厚く、少し埃っぽい紙幣の束を取り出した。戦後インフレの真っ只中にある、当時の「百円札(聖徳太子)」の束だった。

 

「これだけ出す。流すなら、いつでも買い取ってやる」

 

ポン、と机に置かれたのは、当時の物価からすれば、一人の人間が数ヶ月は贅沢に暮らせるほどの額だった。蓮見は、そこから数枚の百円札だけを抜き取り、残りを質屋の主人に押し返した。

 

「これだけでいい。それと……これを貸してくれ」

 

蓮見が指差したのは、質屋の隅に転がっていた、手垢で黒ずんだ安物の「木製の手彫り駒」と、布製の将棋盤だった。

 

「……変わった奴だな」

 

主人は不審がりながらも、数枚の百円札と、古びた将棋道具を蓮見に渡した。腕から時計は消え、代わりに手元に残ったのは、少し饐えた匂いのする昭和の紙幣と、角が丸くなった駒がはいった袋。蓮見はそれをポケットに深くねじ込み、再び新宿の闇へと歩き出した。これで、戦える。未来のロジックを、昭和の重い駒に乗せて放つための、本当の血銭を手に入れたのだ。

 

それから、蓮見は場末の怪しげな居酒屋や、路地の奥にある粗末な碁会所を根城にするようになった。そこには、一局数円から数十、数百円という現金を賭けて盤を挟む「真剣師」たちが巣食っていた。

 

彼らにとって、蓮見の将棋は「化け物」そのものだった。

当時の定跡では「悪手」とされ、誰も顧みなかったような歩の突き捨てや、不自然な自陣角の設置が、十数手進むと恐ろしいまでの合理性を持って襲いかかってくる。

真剣師たちは口々に蓮見を「新宿の若旦那」だの「幽霊」だのと呼び、恐れた。蓮見自身は、プロになる夢を諦めた人間だ。今さら名誉などいらない。ただ、その日の米と、一杯の安酒が買えればそれでよかった。アマチュアでもなく、かといってプロでもない。境界線上に立つセミプロの勝負師。それが、この濁流のような泥臭い時代における彼の居場所だった。

 

 

 

ある日の夕暮れ、蓮見はいつものように、少し小綺麗な佇まいを見せる将棋席、事実上の将棋会館の分室のような場所に足を運んだ。そこの席主は元プロの五段で、時折、本物のプロ棋士もお忍びで顔を出すという噂があった。

 

「おい、若いの。ちょっと奥へ来てもらえんか」

 

煙草の煙で燻された板間の奥から、顔馴染みの席主が声をかけてきた。案内された奥座敷には、上等な木目の将棋盤を前に、一人の男が座っていた。年齢は三十前後だろうか。仕立ての良い紺絣の着物を着て、背筋をピンと伸ばしている。その佇まい、駒を指の腹で弄ぶ所作だけで、蓮見の背筋に冷たいものが走った。

 

(プロだ……それも、並の棋士じゃないな)

 

男の目は、蓮見が今まで相手にしてきた真剣師たちのそれとは決定的に違っていた。濁りがなく、底が深く、そして盤面という宇宙を完全に支配しようとしている者の目だった。

 

「こちら、東都からお見えの元村先生だ。少し手合いを頼まれてな。お前さんなら、いいお相手になると思ってな」

 

席主の言葉に、その男は小さく頷いた。

 

「手合いはどうする。平手で良ければ、私が先手を持つぞ。お若いの、遠慮はいらんよ。凄腕と評判の真剣師の腕前、見せてもらおうか」

 

その言葉には、蔑みはなかったが、絶対的な格上の余裕があった。当時、プロとアマの間には越えられない深海のような実力差があると信じられていた。プロが平手で負けるなど、天変地異でも起きない限りあり得ない時代だ。

 

蓮見の胸の奥で、冷え切っていたはずの火種がパチリと音を立てた。自分を撥ね退けた「プロ」という人種が、目の前にいる。

 

「……お願いします。平手で結構です」

 

蓮見は静かに、しかし力強く対局座に腰を下ろした。

 

初手▲7六歩。

男の手つきは美しく、駒が盤に吸い付くようだった。蓮見は△3四歩と応じる。

当時の流行は、じっくりとした矢倉や振飛車が主流だった。男は当然のように居飛車を選択し、矢倉模様の重厚な布陣を築きにかかる。蓮見はそれに対して、あえて自陣を低く構える『雁木』の手順を選んだ。

 

当時の将棋界において、雁木は「プロが指さない邪道」「形を崩した悪手」と一蹴されていた戦法だ。男の眉が、わずかにピクリと動いた。

 

「ほう、変わった形を選ぶのだな」

 

男の指し手は正確無比だった。無駄な攻めは一切せず、蓮見の不整形な陣形をじわじわと咎めにくる。昭和のプロ特有の、圧倒的な「大局観」と「終盤の終盤における絶対的な勘」。

蓮見がどんなに現代的な効率性で受けても、男の繰り出す一手一手には盤面全体を包み込むような重圧があった。

 

四十七手目、男が放った▲4五桂。

これが鋭い一手だった。蓮見の雁木の急所を的確に捉えている。当時の定跡書にはない、その場の深い読みが生み出したプロの一閃。

 

(強い……。これが、昭和のトッププロの力か)

 

蓮見の脳裏に、あの三段リーグ最終戦の光景が蘇る。心臓が早鐘を打ち、指先がわずかに震えた。このままでは負ける。当時の常識的な受け方をしていては、この男の圧倒的な終盤力に押し潰される。プロになれなかったトラウマが、蓮見の思考を麻痺させようとした。

 

その時、彼の脳内の『データベース』が、強制的に回路を繋ぎ替えた。

 

(いや、違う。この局面、AIの評価値はわずかにマイナス二百。だが、ここから数手進んだ局面において、二〇二〇年代の人間が数千ページに及ぶ研究の末に見出した『結論』がある。当時の誰も知らない、重力を無視したような跳躍の筋が――)

 

プロを諦め、ただの真剣師として日銭を稼ぐと決めたはずだった。未来の知識を振り回して勝つなど、卑怯極まりない「カンニング」だとも思っていた。だが、目の前のプロの放つ熱量に当てられた蓮見の肉体は、理屈よりも先に勝負師としての本能を優先させていた。

 

 

パチリ。

 

 

蓮見が指したのは、△6二銀。

 

男の目が、一瞬丸くなった。それは、自陣のバランスをあえて崩し、相手の攻めを「呼び込む」ように見える、当時の感覚からすれば狂気の沙汰とも言える一手だった。

 

「……何だそれは。そんなところに銀を引いて、受かると思っているのか」

 

男の声に、初めて焦燥の色が混じる。男は猛然と攻めかかってきた。

▲5三桂成。

一見、蓮見の陣形は崩壊したかに見えた。しかし、それこそが未来の定跡、いわゆる「AI流の超合理的急戦対策」の罠だった。

 

蓮見の手が加速する。

△同金、▲同銀成、△同玉。

玉を敢えて危険な戦場へ引きずり出し、そこから最小限の駒の配置で相手の攻め駒を「詰み」ではなく「機能停止」に追い込む。それは、大局観や駒の効率という、昭和の棋士たちが神聖視していた概念を、冷徹な数式で解体するような指し回しだった。

 

男の顔から血の気が引いていく。額から大粒の汗が流れ落ち、盤面に一雫のシミを作った。

 

「馬鹿な……そんな筋が、成立するはずが……」

 

男の指し手が目に見えて鈍くなる。一手の考慮時間が、五分、十分と伸びていく。

時計のない奥座敷で、沈黙だけが重苦しく支配していた。男の読みの網の目を、蓮見の「未来の定跡」はするりと潜り抜け、逆に男の玉を最短の手順で追い詰めていく。

 

 

そして、八十八手目。蓮見が△7九飛成と、鋭く竜を作った瞬間、男の手が止まった。

 

 

そこから先は、どう転んでも男の玉が即詰みになる。男は数分間、虚空を見つめた後、深く頭を下げた。

 

「……負けました。見事な、いや、恐ろしい将棋だ。君は一体、どこの誰だ」

 

プロが、素性も知れない若者に、平手で、それも完膚なきまでに叩きのめされたのだ。男の震える声には、敗北の悔しさと同時に、未知の怪物を目撃した恐怖が混じっていた。

 

蓮見は何も答えず、ただ静かに一礼した。勝ってしまった。使ってはいけない禁断の果実を口にしてしまったという、奇妙な罪悪感が胸を満たしていた。

 

その時だった。

 

 

「わはははは! おもろい! じつにおもろい将棋じゃ!」

 

 

奥座敷の襖が、大きな音を立てて荒々しく開け放たれた。

 

そこに立っていたのは、長身で、鋭い眼光を爛々と輝かせ、口髭を蓄えた男だった。仕立てのいい、しかしどこか着崩した着物を羽織り、扇子をパチパチと鳴らしている。

その男の顔を見た瞬間、蓮見の心臓は、プロ棋士と対峙した時以上の衝撃で跳ね上がった。

 

(升田……幸三……!?)

 

写真や動画でしか見たことのなかった、将棋界の歴史にその名を刻む不世出の天才が、地響きを立てるような威圧感を放ちながら、そこに立っていた。

 

升田はドカリと蓮見の横に座り込むと、盤上の駒をものすごい勢いで手で払い、初手の状態に戻し始めた。

 

「おい、お前さん。今の将棋、もういっぺん初手から並べてみぃ。ワシが直々に見てやるわ」

 

蓮見は圧倒されながらも、記憶の通りに駒を並べ直した。升田の目が、蓮見の指し手が△6二銀に達した瞬間、狂気じみた光を放った。

 

「これや! この銀や! 木村よ、お前はこの銀を変調の悪手と思うたんじゃろう。だが違う。この若造はな、お前が4五に桂を跳ねた瞬間から、この銀の引き場所を、いや、その先の三十手先を完全に読み切っとったんじゃ!」

 

升田はバシバシと扇子で畳を叩きながら、興奮を隠せない様子で叫んだ。

 

「新手一生を掲げるワシでも、こんな不気味な銀の使い方は思いつかん。おい、若造。誰に習った。それとも、お前が自分で考えたんか」

 

升田の顔が、蓮見の鼻先数センチのところまで迫る。酒の匂いと、圧倒的な人間の熱量が押し寄せてくる。蓮見は生唾を飲み込み、震える声を絞り出した。

 

「……自分で、考えました。この形が、一番合理的だと」

 

嘘だった。未来の数多の天才たちが、AIと共に磨き上げた結晶を横取りしただけだ。しかし、この時代においてそう答えるしかなかった。

 

升田は蓮見の目をじっと見つめ、数秒の沈黙の後、今度は腹の底から大笑いした。

 

「わははは! 自分で考えただと! 愉快、痛快じゃ! 定跡の奴隷になっとるそこらのプロどもが聞いたら、腰を抜かして逃げ出すわい! 元村、お前の負けじゃ。この若造は、既存の型なんぞハナから相手にしとらん」

 

負けたプロ棋士は、悔しそうに唇を噛み締めながらも、升田の言葉を否定できなかった。

 

升田は蓮見の肩をがっしりと掴んだ。その手のひらは驚くほど熱く、分厚かった。

 

「おい、若造。名前はなんちゅうんや」

 

「……蓮見、です」

 

「蓮見か。泥の中に咲く蓮の花、か。ええ名前じゃ。おい蓮見、ワシの家へ来い。美味い酒を飲ませたる。その代わり、さっきの銀の先の変化、ワシに全部吐き出してもらうぞ。断るとは言わせん」

 

 

おもわず蓮見は天を仰いだ。

静かに、目立たず、この昭和の片隅で真剣師として日銭を稼いで生きる。質屋に時計を入れ、数枚の百円札から始めたささやかな計画は、この日、将棋の神様によって木端微塵に打ち砕かれた。

 

 

既存の枠組みを破壊し、常に新しい地平を追い求める男・升田幸三。

その怪物の目に留まってしまった蓮見の運命は、彼自身の意思とは無関係に、まだ見ぬ激動の盤上へと引きずり込まれていくのだった。

 

 

 

升田の自宅へと連行された蓮見を待っていたのは、文字通りの「盤上の地獄」だった。

 

小綺麗な日本家屋の一室、座敷の中央に据えられた将棋盤の前に、さっそく升田は胡坐をかいて座った。周りには一升瓶が転がっており、部屋には酒と煙草の匂いが充満している。

 

「さあ、蓮見。並べろ。さっきの雁木の続きじゃ。ワシなら、元村のようには生ぬるく攻めん。

 ここで▲4五桂ではなく、▲2六歩と突いたらどうする。お前のその『合理的』な頭なら、どう受けるんや」

 

升田の目は、昼間の興奮冷めやらぬまま、むしろ夜が更けるにつれて妖しく輝きを増していた。

 

蓮見は覚悟を決めて対座した。令和の時代、AIの解析画面を見ながら「この手は評価値が低い」「この形は無理筋だ」と冷徹に判断していた感覚を呼び覚ます。だが、目の前にいるのは、その数式すらも己の直感と勝負勘で凌駕しようとする、昭和将棋界の生ける伝説だ。

 

蓮見は駒を動かした。△3二金。

 

「ほう、そう受けるか。ならばワシはこうじゃ!」

 

バシィ、と凄まじい音を立てて升田が歩を突き出す。盤面が割れるかと思うほどの力強さだ。

 

そこからの時間は、蓮見にとって、ある種のトランス状態だった。升田の繰り出す「新手」は、現代のAIの視点から見れば、時に疑問手や無理筋に分類されるものもあった。しかし、それを指す升田の気迫、そして部分的な不利を終盤のねじり合いで引っ繰り返すという圧倒的な「勝負力」が、数値上の有利など簡単に吹き飛ばしてしまう。

 

(これが……これが本物の勝負師の将棋なのか)

 

奨励会時代、蓮見は常に画面の中の数字と戦っていた。最善手を指せば勝てる。悪手を指せば評価値が下がる。将棋とは、そうした冷徹なパズルの最適解を競うものだと思っていた。

だが、升田の指し手には「意志」があった。「お前がその澄ました顔で合理性を語るなら、ワシは泥沼に引きずり込んで首を絞めてやる」と言わんばかりの、執念が宿っていた。

 

蓮見も負けじと、二〇二〇年代の知識を総動員して応戦した。

当時は未発達だった「居飛車穴熊」の概念を、部分的な駒組みの端々で見せる。玉を最も安全な隅に囲い、手数をかけてでも絶対的な不落の城を築く。その発想に、升田は途中で指す手を止め、顎を撫でながら盤面を凝視した。

 

「なんじゃそれは……。玉をそんな隅っこに押し込めて、身動きが取れんようになるだけじゃろうが」

 

「いえ、升田先生。この囲いは、手数はかかりますが、横からの攻めに対して絶対的な強度を誇ります。自玉が絶対に詰まないという安心感があれば、攻めに全力を傾けられる。これが、僕の考える究極の効率です」

 

 

升田はしばらく考え込んでいたが、やがて不敵な笑みを浮かべた。

 

「面白い。じつに面白い。固めて攻める、か。小賢しいようじゃが、一理ある。

 だがな、蓮見。そんな引き籠りのような玉の囲い方、ワシの『駅馬車』で粉々に粉砕してやるわい!」

 

朝を迎える頃には、一升瓶は空になり、盤の上には無数の駒が乱雑に散らばっていた。

結局、二人が何局指し、どちらが何勝したのか、蓮見にはもう分からなくなっていた。ただ、升田の顔には、極上の玩具を見つけた子供のような、満足気な笑みが浮かんでいた。

 

「蓮見、お前はプロの試験を受けろ。ワシが推薦人になってやる。お前のような奴が、真剣師の吹き溜まりで燻っとるのは国の損失じゃ。大山らの手堅い将棋を、お前のそのケッタイな将棋でひっくり返して見せろ」

 

その言葉に、蓮見は小さく首を振った。

 

「いえ、先生。僕はプロにはなりません」

 

「何だと? なぜじゃ。お前ほどの腕があれば、名人位だって夢じゃなかろうに」

 

升田が怪訝そうに目を細める。蓮見は、自分の傷だらけの手のひらを見つめた。

 

「僕は、一度プロへの道を閉ざされた人間なんです。……いえ、これには深い理由があるのですが、とにかく、僕は表舞台に立つ資格のない男なんです。僕はただのセミプロ。真剣師として、影の勝負師として生きていくのがお似合いなんです」

 

嘘偽りのない本心だった。令和の奨励会での挫折は、蓮見の心にそれほど深い傷を残していた。

未来の知識を使って昭和のプロをなぎ倒し、名人の座に就いたとして、それは本当に「蓮見の強さ」と言えるのか。それは、先人たちの遺産を盗み取っただけの、不誠実な勝利ではないのか。

 

升田はしばらく蓮見の顔をじっと見つめていたが、やがてフンと鼻を鳴らした。

 

「格好つけおって。まあええわ。お前が日陰の身でいたいと言うなら、無理強いはせん。

 だがな、蓮見。ワシがお前を放っておくと思うなよ。ワシが新しい戦法を思いついたら、いつでも実験台になってもらう。それと……」

 

升田は悪戯っぽく笑った。

 

「ワシの周りにはな、お前みたいな『わけのわからん強さ』を持った奴と命を懸けて指したがる、頭の狂ったプロや真剣師がゴロゴロおるんじゃ。そいつらが、お前の噂を聞いて黙っとるわけがない。嫌でも、お前は盤の上に引っ張り出されることになるぞ」

 

その言葉は、予言となって蓮見の前に現実として現れることになる。

 

 

 

升田幸三に目をかけられたという噂は、瞬く間に東京中の将棋界の裏表へと広がっていった。

「升田の隠し玉」「全てを見透かすような奇妙な将棋を指す男」「プロを平手で破った謎の真剣師」。

 

 

 

蓮見がいつものように新宿の路地裏にある碁会所で、しがない真剣師を相手に十円将棋を指していると、店の入り口の引戸が静かに開いた。

 

入ってきたのは、初老の、しかし仕立ての良いスーツを着こなした紳士だった。その背後には、体格のいい、鋭い目つきをした男たちが数人控えている。一目で、裏社会の有力者であることが分かった。

 

紳士は蓮見の対局が終わるのを待ち、目の前に厚みのある封筒を置いた。

 

「蓮見さん、とお呼びすればいいのかな。お噂はかねがね。升田先生が絶賛されるほどの天才勝負師だとか」

 

蓮見は眉をひそめた。

 

「何の用ですか。僕は、一局数十円の安い将棋しか指しませんよ」

 

紳士は不敵に微笑んだ。

 

「そう言わずに、この話を聞いていただきたい。今度、ある大物の座敷で、高額の賭け将棋が開かれることになりましてね。こちらの身代を背負って、戦っていただきたい相手がいるのです。相手は……プロのA級棋士、あるいはそれ以上の男を、向こう側が用意してくるという話です。勝てば、この封筒の十倍の金額をお渡しする」

 

蓮見は断ろうとした。しかし、紳士が次に口にした名前に、彼の思考は完全にフリーズした。

 

「相手の陣営が裏で手引きしているアドバイザーの名前は……大山康晴、というらしい」

 

大山康晴。

昭和将棋界において、升田幸三最大のライバルであり、後に十五世名人の資格を得る、絶対的な「受けの達人」。その怪物の影が、裏社会の賭け将棋の盤面にまで伸びているというのだ。

 

(大山康晴……。もし相手が大山の研究を引っ提げてくるとしたら、並の現代定跡では通用しないかもしれない)

 

大山の将棋は、相手の攻めを完璧に受け潰し、自滅を待つという、文字通りの「鉄壁」だ。

AIの時代においても、大山の受けの技術は高く評価されている。その絶対的な防壁を前に、令和の三段リーグで挫折した自分が、どこまで通用するのか。

 

「……分かりました。その勝負、僕が引き受けます」

 

蓮見の口から、勝手に言葉が溢れ出ていた。プロを諦めたはずなのに、歴史上の巨人たちの名前を聞くたびに、彼の勝負師としての血が激しく沸き立つのを抑えられなかった。

 

 

勝負の日は、それから一週間後の夜だった。

場所は、都心から少し離れた、緑豊かな高級料亭の奥座敷。

床の間には見事な掛け軸が飾られ、部屋の四隅には、目の肥えた裏社会の人間たちが静かに座り込んでいる。その中心に据えられていたのは、最高級の榧の将棋盤だった。

 

蓮見の対面に着座したのは、現役のB級1組に所属する、新進気鋭のプロ棋士だった。

大山康晴の門下、あるいは強い繋がりを持つとされるその男は、冷徹な目で蓮見を見据えた。

 

「アマチュアの真剣師風情が、升田先生の威を借る狐となって調子に乗っていると聞いた。

 ここで、プロの本当の厳しさを教えてやる」

 

男の言葉には、プロとしてのプライドと、蓮見に対する明確な敵意が満ちていた。

 

手合は平手。振り駒の結果、蓮見の先手と決まった。

 

蓮見は初手▲2六歩と突いた。

男は数手進んだところで、不敵な笑みを浮かべ、△3四歩から「四間飛車」の形を選択した。大山得意の、鉄壁の振り飛車だ。

 

(大山流の振り飛車……。受けて立とうじゃないか)

 

蓮見が選択したのは、現代将棋の粋を集めた戦法――「藤井システム」を彷彿とさせる、居飛車穴熊を明示しながらも、相手の出方によって急戦に切り替える、変幻自在の構えだった。

 

 

男の顔から、徐々に余裕が消えていく。蓮見の指し手は、当時の「振り飛車に対する居飛車の戦い方」の常識を完全に逸脱していた。玉を囲う前に、どんどん端歩を突き、敵陣の隙を小突いていく。

 

「な、何だその筋は……。玉を囲わずに攻めかかってくるなど、無謀極まりない!」

 

男は激しく反発し、大山譲りの重厚な受けで対抗しようとする。しかし、蓮見の脳内にあるのは、数十年分の「対振り飛車穴熊・急戦の歴史」だ。男が「ここに駒を打てば受かる」と確信して放った一手に対して、蓮見は一切の迷いなく、さらにその上を行く「未来の切り返し」を放つ。

 

バシィ。

 

蓮見の指し手が盤面に響くたびに、座敷の空気が凍りついていく。見守る裏社会の人間たちには、将棋の細かい手順までは分からない。しかし、現役のプロ棋士が、見たこともないような冷や汗を流し、手が震えているその事実だけで、蓮見の異常な強さを察知していた。

 

「バカな……あり得ん……。こんな受けが、攻めの繋ぎ方があるわけがない!」

 

男は必死に大山康晴の研究の記憶を辿り、鉄壁の防陣を築こうとする。だが、蓮見の将棋は、その防陣が完成するよりも数手早く、敵陣の急所を的確に撃ち抜いていた。

当時の感覚では「命綱」であるはずの飛車を、蓮見はあっさりと切り捨て、代わりに相手の陣形のわずかな綻びを利用してと金を作った。

 

終盤戦。男の玉は、すでに蜘蛛の巣に捕まった羽虫のようだった。どう足掻いても、蓮見の計算され尽くした「即詰み」の網から逃れることはできない。

 

「……そこまでだ」

 

座敷の隅から、低い、しかしよく通る声が響いた。

見れば、いつの間にか襖の隙間から、あの升田幸三が姿を現していた。升田は腕を組み、ニヤニヤと笑いながら盤面を見下ろしていた。

 

「おい、そこらのプロかしらんが、お前の負けじゃ。もうその玉は、どうひっくり返っても助からん。蓮見の奴、お前が大山の受けを真似てくることを見越して、ハナからその受けの形を『無効化』するような未来の刃を用意しとったんじゃ」

 

 

対局者のプロ棋士は、真っ白な灰になったかのように項垂れ、「……負けました」と蚊の鳴くような声で呟いた。

 

裏社会の有力者たちがどよめく中、蓮見は静かに駒を片付け始めた。勝負に勝った高揚感よりも、やはり、どこか冷めた自分がそこにいた。自分はただ、質屋に預けたデジタル時計から始まったこの昭和の生活の中で、令和の時代の遺産をここで再現したに過ぎない。

 

 

 

「蓮見、見事な将棋じゃったぞ」

 

料亭の帰り道、月明かりが照らす夜道を、升田と蓮見は並んで歩いていた。升田は満足そうに何度も頷いていた。

 

「お前が指したあの形、大山の奴が見たら、間違いなく夜も眠れんようになるわい。どうだ、蓮見。これでもまだ、プロの世界が恐ろしいか」

 

蓮見は立ち止まり、夜空を見上げた。

 

「恐ろしいわけではありません、先生。ただ……僕は、自分の将棋を指している気がしないんです。僕が今日指した手は、僕が必死に考えたものではなく、僕のいた……僕が知っている未来の、たくさんの天才たちが作り上げた答えなんです。僕はそれをなぞっている側に過ぎない」

 

初めて明かした、自身の葛藤。もちろん「未来から紛れ込んだ」という事実をそのまま伝えたわけではないが、升田はその言葉の裏にある、蓮見の深い苦悩を敏感に察知したようだった。

 

升田は立ち止まり、蓮見の前に回ると、その太い眉を吊り上げた。

 

 

「アホウ。お前はとんでもない勘違いをしとるぞ」

 

「勘違い……ですか?」

 

「そうじゃ。未来の誰かが考えただの、そんなことはどうでもええ。

 それを今、この瞬間、あの緊迫した盤上で、己の責任で指した人間は誰じゃ。大山やプロの重圧に耐えながら、指先を震わせて駒を置いたのは、おのれ自身じゃろうが!」

 

 

升田の言葉が、夜の静寂を切り裂く。

 

「将棋の真理ちゅうのはな、誰のものでもない。過去の人間のものでもなければ、未来の人間のものでもない。今、その盤の前に座り、命を削って指しとる人間のものじゃ。

 お前がその知識を持っとるなら、それを使って命懸けで戦えばええ。その古びた駒袋の中にはな、もうお前の魂が詰まった駒が入っとるんじゃ。ズルだの何だの、そんなセコいことで悩むな。お前は紛れもなく、一人の堂々たる『勝負師』じゃ」

 

 

その言葉は、令和の三段リーグで挫折し、己の存在価値を完全に見失っていた蓮見の心に、激しい衝撃となって突き刺さった。

未来の定跡をなぞるだけではない。それをこの時代で指し、昭和の怪物たちの熱量を受け止め、それでもなお勝ち切るためには、蓮見自身の「勝負師としての魂」が必要だったのだ。

 

 

「……先生、僕はプロの資格はいりません。でも、この時代で、僕にしか指せない将棋を、もっと指してみたいと思います。

 真剣師として、あるいはあなたの遊び相手として」

 

蓮見の言葉に、升田は再び、豪快に笑った。

 

「そうこなくては面白くないわい! よし、蓮見。明日はワシの家で、また新しい形の研究じゃ。

 大山を腰抜けにさせるような、とんでもない新手をお前と一緒に作ってやるわ!」

 

 

 

昭和の新宿。ネオンもない、荒々しくも熱い風が吹き抜ける街並みの中で、蓮見は初めて、自分がこの時代に生きている実感を得ていた。プロになれなかった青年は、令和の知性と昭和の野生が交差するこの盤上で、自らの足で歩みを進める覚悟を決めたのだった。

不文律の銀が、闇の中で静かに、しかし誰よりも鋭く光を放っていた。




気が向いたら続くかも?

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