『不文律の銀』   作:全てを生成AIにゆだねる者也

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闇の代指しと盤上の密約

ある日の夕暮れトタン屋根を叩く雨音が響く路地裏の碁会所。蓮見がいつものように、しがない真剣師を相手に十円将棋を指し終え、わずかな小銭をポケットにねじ込んだ時のことだった。

店の古びた引戸が静かに開いた。

 

入ってきたのは蓮見と同じか、少し年下に見える若い男だった。

仕立ての良い上等な背広を着ているが、その着こなしはどこか投げやりで、何よりその目が異常だった。ギラギラと飢えた狼のような光を宿し、異様に細く長い指先が感情を殺すように強く握りしめられている。

男は他の客たちには目もくれず、真っ直ぐに盤を片付けている蓮見の前に歩みを進めると、無言で対局座にドカリと腰を下ろした。

 

「蓮見さん、ですね」

 

男の声は低く、解けない氷のように硬かった。

挨拶もそこそこに男は懐から一通の封筒を取り出し、盤の横に置いた。

 

「私は奨励会の二段です。名は……今は名乗る必要もないでしょう。表の将棋には興味がありません。あなたの指した『6二銀』の噂を聞き、いても立ってもいられず、ここへ来ました」

 

蓮見の背筋に冷たいものが走った。

相手は、昭和の将棋界で最もハングリーな存在――プロの一歩手前で、狂ったように勝利を求める奨励会員だった。

それは令和の時代に自分が年齢制限で命を絶たれた、あの残酷な場所に今まさに立っている者、そのものだった。男の放つ焦燥とプライドが入り混じった特異な空気感は、蓮見の古傷を容赦なく抉ってくる。

 

「……プロの卵が、こんな場末の碁会所で何を。ここは真剣師(賭け将棋指し)の吹き溜まりですよ」

 

蓮見が冷たく突き放そうとすると、若い奨励会員は不敵に笑った。

 

「勝負です。十円でも百円でも構わない。あなたの『未来』の将棋とやらを、この目で見せてもらいたい。もし私が負けたら、これをお渡ししましょう」

 

男が背広の内ポケットから取り出したのは、古びた、しかし重厚な革表紙のノートだった。

 

「これは……?」

 

「大山(康晴)先生が、お忍びで検討会をされた時の秘蔵の記録です。本来なら我々のような若輩などが、見ることも外に持ち出すことも許されないものです。どうですか、これでも盤を挟む価値はありませんか」

 

蓮見の指先が無意識にポケットの中の駒袋に触れた。

大山康晴の思考の記録。それは、この時代における最強の「虎の巻」に他ならない。自分が持っている令和のAI定跡と、昭和最強の防壁を築く大山のロジックが激突したら一体どうなるのか。勝負師としての本能が、蓮見の胸の中で静かに沸き立った。

 

「……いいでしょう。手合いは平手。ただし負けても恨まないでください」

 

対局が始まった。

若い奨励会員の指し手は正確で鋭かった。プロの門前にいるだけあって当時の最新定跡を完璧に身につけている。

 

蓮見は今回、あえて現代の「相懸かり」の手順を選んだ。

飛車を5段目へと高く浮かせ、機動力を活かして盤上を広く使う。昭和の二段にとっては見たこともない間合いの取り方だった。飛車の浮き場所一つとっても当時の常識からは「浮きすぎて危ない」とされる形だ。

 

(この人は強い。でも、まだ『形』に囚われている)

 

蓮見は令和の時代に何万回、何億回と繰り返されたAIのシミュレーションの記憶を呼び覚ます。

相手の駒の利きをミリ単位でずらし、相手が「ここが急所だ」と信じている場所に、わざと隙を作る。そして誘い込まれた相手が手を伸ばした瞬間、見えない罠が発動する。

 

 

三十手目。蓮見が放ったのは、△5五歩。

中央の位を取る、一見すると何の変哲もない一手。

しかし、これが数手後に盤面を真っ二つに引き裂く『不文律の急戦』の合図だった。

奨励会員の顔が目に見えて青ざめていく。

 

「……そんな、この歩は……取ればこちらの有利なはずなのに、なぜ手が動かない……。

 どこを読んでも、私の読みが拒絶される……!」

 

それは、AIが導き出した「人間の直感に反する最善手」だった。部分的な駒の損得ではなく、数十手先で相手のすべての駒が完全に機能停止に陥るという、冷徹な数式のようなロジック。

数分後、男は脂汗を流しながら震える手で深々と頭を下げた。

 

「負けました……。これが升田先生の言っていた『新しい風』ですか。我々が何百年と積み上げてきたものが、まるで紙細工のように破られた……」

 

男は約束通り革表紙のノートを残し、逃げるように碁会所を去っていった。

一人残された蓮見は、煙草の煙にまみれた店内で震えるその手でノートを開いた。

そこには大山康晴の流麗な文字で、ある「未発表の戦法」についての考察が記されていた。

そのページをめくった瞬間、蓮見は息を呑んだ。

 

『――いずれ、盤上には理屈を超えた「異形」が現れるだろう。その時、受けの達人は何をすべきか』

 

まるで、蓮見の出現を予言していたかのような記述。

そしてノートの最後には一通の手紙が挟まれていた。そこには、ただ一言、こう書かれていた。

 

 

『新宿の碁会所で待つ。 ――大山』

 

 

昭和の双璧、そのもう一人の巨人が、ついに蓮見を指名したのだ。

蓮見は、ノートを強く握りしめた。もはや逃げることはできない。

令和の亡霊である自分が、昭和の歴史を書き換えてしまうかもしれないという恐怖。だが、それ以上に「この時代の頂」を見てみたいという、狂おしいほどの勝望が彼を突き動かそうとしていた。

 

しかし、その手紙を前にして蓮見の背中を伝う汗は次第に冷たくなっていった。

 

『新宿の碁会所で待つ』

 

それはあまりにも重い言葉だった。

大山康晴という十五世名人の資格を得る男が本当に場末の真剣師を相手に、ふらりと盤を挟むためにやってくるのだろうか。今の蓮見には、昭和の頂点に君臨する巨人と対峙するだけの『覚悟』も、この時代における『地歩』も、何一つとして備わっていなかった。自分はまだ、戸籍すら持たない、未来からの漂流者に過ぎないのだ。

 

「大山先生が、お前みたいな得体の知れん若造と直接指すわけなかろうが」

 

質屋から借りた安物の駒袋を弄んでいる蓮見の前に、ぬっと大きな影が現れた。

見上げると、そこにはあの日、料亭で蓮見に高額の賭け将棋を持ちかけてきた背広の紳士――裏社会の有力者である淡路(あわじ)が立っていた。

淡路は冷ややかな笑みを浮かべ、手にした高級煙草にマッチで火をつけた。

 

「あの手紙はな、大山先生からの直接の挑戦状じゃあない。先生の周囲にいる有象無象のプロや、我々のような裏の人間に対する『品定め』だ。その若造が本当に本物か、それとも升田のホラ話か、裏の人間がどう扱うか見ているのさ。

 蓮見さん、大山先生の前に立ちたければ、まずは身の程ってやつを証明してもらおうか」

 

淡路が蓮見の前に置いたのは一枚の古びた地図と、ずっしりと重い茶封筒だった。

 

「これは……?」

 

「今度銀座の地下クラブで、関西の興行師連中と大勝負がある。こちらの身代(みしろ)を背負って、戦ってもらいたい相手がいるのさ。いわゆる『代指し(しろさし)』だ」

 

代指し。

当時の裏社会では、莫大な利権や現金、時には土地の所有権すらも、お抱えの強豪による将棋の勝負で決することがあった。プロ棋士が公に指せないような身分の危ない勝負に、身代わりとして盤に就く影の存在。負ければ、淡路のような男たちの面子は丸潰れになり、勝てば、莫大な金が動く。

 

「向こうが立ててきたのは、戦前、関西の将棋界を荒らし回った伝説の元・真剣師だ。そいつを叩き潰してくれ。話はそれからだ。大山先生の元へ行くための『通行手形』、私が用意してやってもいい」

 

断る選択肢など、最初からなかった。蓮見がこの昭和の焼け跡で生きるための資金は、すでに淡路の手の内に握られているも同然だった。

何より、あの革表紙のノートにあった大山の手紙――その真意を確かめるためには、この裏社会の階段を上るしかなかった。

 

「……分かりました。その勝負、引き受けます」

 

蓮見の口から出た言葉は、どこか諦念を含みながらも勝負師としての鋭い響きを帯びていた。

 

 

 

勝負の夜。

雨は一段と激しさを増し、銀座の街灯が濡れた路面に鈍く反射していた。

 

淡路に連れられて向かったのは、とある高級ビルの地下にある看板のない会員制のクラブだった。

重い扉を開けると、モダンなジャズのレコードが低く流れており、紫煙が天井のシャンデリアの光を遮るように立ち込めている。

部屋の四隅には、仕立ての良いスーツを着た強面の男たちが微動だにせず控えており、中央には、最高級の榧(かや)の将棋盤が鎮座していた。

 

 

その盤の前で蓮見を待っていたのは、片目を黒い眼帯で覆った、異様な凄みを放つ老人だった。

白髪交じりの髪をオールバックに撫でつけ、骨張った長い指で、盤上の駒を弄んでいる。

 

男の名は「般若の長兵衛(はんにゃのちょうべい)」。

戦前、関西の賭け将棋界で知らぬ者はいないと言われた伝説の怪物であり、時には若き日のプロを嵌めてその看板を泥に塗れさせたという、文字通りの修羅だった。

 

「あんたが、升田の坊主に気に入られたという若造か」

 

長兵衛の声は、喉の奥から絞り出すようなガラガラとした濁音だった。眼帯のない左目が、値踏みするように蓮見の全身を貫く。

 

「随分と、綺麗な顔をしとるな。東都の将棋は、お上品でいかん。盤の上で命のやり取りをしたこともないようなガキが、代指しとは淡路の旦那も焼きが回ったかね」

 

「口が減らない老人だ。長兵衛、さっさと盤に就け」

 

淡路が冷たく言い放ち、盤の横に厚みのある百円札の束をドサリと置いた。長兵衛の背後に立つ関西の興行師たちも、ニヤニヤと笑いながら同額の現金を積む。

 

手合いは平手。振り駒の結果、長兵衛の先手と決まった。

 

「よろしく、お願いします」

 

蓮見が頭を下げると同時に、長兵衛は挨拶も返さず、初手▲7六歩を凄まじい力で叩きつけた。

駒の音が、地下室の重苦しい空気を震わせる。

 

長兵衛の指し手は、蓮見がこれまで見てきた現代の洗練された将棋や、大山・升田といったプロの定跡とは、根底から異なっていた。

それは、生きるか死ぬかの極限状態で磨かれた「ハメ手」と「ブラフ(威嚇)」の塊だった。

 

 

長兵衛は当時の定跡をわざと外れ、自陣に不自然な隙を作った。

現代のAIの視点から見れば、それは「評価値マイナス三百」の明らかな疑問手だった。蓮見の脳内のデータベースは、即座にその隙を咎める最善手を追加する。

 

(ここだ。ここに角を打ち込めば、一気に優勢になる)

 

蓮見が手を伸ばそうとした、その瞬間だった。

 

「へえ、そこへ打つかね」

 

長兵衛が、低く濁った声で呟いた。眼帯のない左目が、ギラリと妖しく光る。その指先が、まるですでに蓮見の角を捕らえる罠を準備しているかのように、盤の縁をトントンと規則正しく叩いた。

 

蓮見の指が、ピタリと止まった。

 

(待てよ……。もしここに角を打てば、本当に勝てるのか? この老人が、そんな単純なミスをするはずがない。何か、僕の知らない『ハメ手』があるんじゃないか?)

 

脳内のAIは「打て」と言っている。

しかし、目の前の怪物が放つ圧倒的なプレッシャーが、蓮見の思考を激しく揺さぶる。薄暗い部屋の空気、背後の男たちの冷ややかな視線、 柔らかな灯りの下での命のやり取りが、蓮見の頭脳にノイズを混入させていく。

 

長兵衛は、蓮見が既成の知識――それも、この時代には存在しないほど洗練された「綺麗な数式」に頼って指していることを見抜いているかのようだった。

 

「どうした、若造。手が震えとるぞ。あんたの将棋には『欲』も無ければ『命』も無い。

 ただ綺麗なだけの、死人の将棋だ。誰かの作った『虎の巻』を頭の中でなぞっとるだけじゃ、ワシの泥沼には勝てんぞ」

 

 

バシィ!

 

 

長兵衛が放った▲4五桂。それが、蓮見の自陣の急所を猛烈に震撼させた。

 

蓮見の視界が、一瞬にして歪む。

頭の中のAIの評価値が、ガタガタと崩れていくような錯覚に陥った。長兵衛の指し手は、数値上は最善でなくとも、人間の精神を最も破壊する「最悪の揺さぶり」だった。

 

令和の奨励会三段リーグ最終戦、最善手を信じ最善手を指し続けようとした結果、相手の泥臭い執念に逆転負けを喫したあの日の絶望が、長兵衛の気迫と重なって脳裏にフラッシュバックする。

 

(ダメだ……。数値だけじゃ勝てない。この人の、この時代の『野生』に、僕の綺麗なロジックが食い殺される……!)

 

八十手目。蓮見は完全に窮地に追い込まれていた。

自陣の雁木(がんぎ)の構えは崩壊寸前。頭の中のデータベースをいくら検索しても、この泥沼の戦局を鮮やかに打開する手順など出てこない。

未来の天才たちが作り上げたAIの最善手は、このような対局者の精神を物理的に圧殺してくるような場外乱闘(心理戦)を想定していないのだ。

 

「終わりかね、東都の若旦那」

 

長兵衛が勝ち誇ったように、細い指で歩をつまみ上げた。

 

(僕は、また負けるのか。未来の知識という借物の知恵を振り回して調子に乗り、結局は本物の勝負師の気迫に押し潰されるのか……)

 

蓮見の額から、大粒の汗が盤面にポツリと滴り落ちた。

その時だった。蓮見の耳の奥に、あの夜升田幸三が放った地響きのような怒声が、鮮烈に蘇った。

 

『未来の誰かが考えただの、そんなことはどうでもええ! 将棋の真理ちゅうのはな、今、その盤の前に座り、命を削って指しとる人間のものじゃ! ズルだの何だの、そんなセコいことで悩むな!』

 

蓮見の目から、鱗が落ちるように迷いが消えた。

 

(そうだ……。僕は未来の答えをなぞるだけの、ただの機械じゃない。

 今、この薄暗い銀座の地下で、長兵衛という怪物の熱量を受け止め、泥をすすりながら生きているのは――他でもない、僕自身だ!)

 

蓮見は、頭の中のAIの解析画面を完全に消去した。評価値の数字を追うのをやめた。

 

今、この瞬間、目の前にある盤面と長兵衛の呼吸だけに意識を集中させる。

手垢で汚れた駒袋から、一枚の銀を取り出す。それは当時の定跡にも、未来のAIが示す最善手のリストにも存在しない一手だった。しかし目の前の怪物の心をへし折り、その「野生」を飼い慣らすための、蓮見自身の「意志」がこもった一手。

 

 

カチ。

 

 

蓮見が指したのは、△2二銀。

相手の攻め駒から最も遠い、あえて自陣の隅にポツリと打たれた、不気味極まりない「控えの銀」だった。

 

長兵衛の動きが、ピタリと止まった。

 

つまみ上げていた歩が、指先から滑り落ちそうになる。眼帯のない左目が、大きく見開かれた。

当時の感覚からすれば、これは「自陣を狭くするだけの愚手」に見える。

しかし、長兵衛ほどの修羅には分かった。この銀は、長兵衛がここから放とうとする猛烈な攻めの動線を、十手先、二十手先で完全に「窒息」させるための、冷徹な伏線だった。

 

「……ほう」

 

長兵衛の口元が、歪な形に歪んだ。それは、恐怖の裏返しであり極上の歓喜の笑みだった。

 

「死人が、化けて出たかね」

 

そこからの蓮見の手は、迷いがなかった。長兵衛のブラフを一切無視し、ただ盤上の駒の効率だけを極限まで高めていく。

それは、未来の知識(借物)が、蓮見自身の「魂」と融合し、本物の刃へと昇華した瞬間だった。

百二十手目。長兵衛の玉は、逃げ道のない完璧な即詰みに討ち取られていた。

 

「……負けましたわ」

 

長兵衛は静かに駒を投げ出すと、眼帯を外し疲弊しきった顔で天を仰いだ。

 

「淡路の旦那、あんた、とんでもない化け物を連れてきたな。この若造の将棋には、底がない」

 

淡路は満足そうに深く頷き、盤上の百円札の山を蓮見の前に押し出した。

 

「見事だ、蓮見さん。これで、関西の連中も当分は大人しくなるだろう」

 

しかし、蓮見にとっての「本当の勝負」は、ここからだった。

長兵衛が席を立ち、男たちが部屋から引き上げていく中、蓮見はあの大山康晴のノートを盤の上にドンと置いた。

 

「淡路さん。勝負は勝ちました。約束通り、大山先生の元へ案内してもらいましょうか」

 

淡路はノートの上に置かれた手紙を見て、ふっと笑みを消した。その目が、裏社会のボスの鋭さを取り戻す。

 

「蓮見さん。お前は本当に、大山先生がどういうお方か分かっていないようだな」

 

淡路は盤の前に座り直し、蓮見に顔を近づけた。

 

「大山先生はな、升田先生のように、お前のような天才を『面白い』と言って抱きしめてくれるような御方じゃあない。先生は……盤上の『絶対君主』だ。自分の地位を脅かす可能性のある芽は、どんなに小さくても、徹底的に再起不能になるまで踏みつぶす。それが先生の『受け』の本質だ」

 

淡路の声は、地下室の冷気よりも冷たかった。

 

「あの手紙は、お前への招待状じゃない。お前という『異物』が、この昭和の将棋界において、どれほどの破壊力を持っているかを見極めるための、罠だ。大山先生はすでに、お前の『6二銀』の譜を見て、お前の弱点を見抜いている。それでも行くというのか?」

 

蓮見は、自分の傷だらけの手のひらを見つめた。

 

令和の時代、自分はプロの門前で挫折し、すべてを失った。だが、この昭和の闇の中で長兵衛の野生とぶつかり合い、升田の熱量に触れたことで、蓮見の胸の中には消えることのない火種が宿っていた。

 

「行きます。僕は、自分の将棋がどこまで通用するのか、この時代の頂点にいる人にぶつけてみたい。それが、僕がここに存在する唯一の理由だからです」

 

淡路はしばらく蓮見の目を見つめていたが、やがて諦めたように溜息をついた。

 

「いいだろう。……だが、これは『密約』だ。お前が大山先生と指す時、それは公式の記録には一切残らない。裏の勝負だ。勝っても名誉はない、負ければお前は二度と駒を握れなくなる。それでもいいな」

 

「望むところです」

 

不文律の銀が、銀座の地下の闇の中で静かに、しかし誰よりも鋭く光を放っていた。

大山康晴という巨大な壁が、すぐ目の前まで迫っていることを感じながら蓮見は次なる盤上へと、確固たる足取りで歩みを進めるのだった。

 

 

 

銀座の地下から這い出た蓮見の前に広がっていたのは、夜明け前の煙るような新宿の街並みだった。雨はいつの間にか霧雨へと変わり、街を覆う闇をじわじわと灰色に染め上げている。

手元にあるのは淡路から渡された重い百円札の束と、大山康晴の影が刻まれたあの革表紙のノート。

 

蓮見は、自らの指先を見つめた。

 

長兵衛との死闘の最中、駒を握りしめ続けた人差し指と中指の腹は、赤く腫れ上がり鈍い痛みを訴えている。だがその痛みこそが、自分がこの「昭和」という時代に肉体を持って存在し、確かに己の意思で戦ったという何よりの証明だった。

 

「借物の知恵」と自嘲し、未来のロジックをカンニングペーパーのように覗き見て勝つことに怯えていた日々。それは完全になくなったわけではない。しかし、今や蓮見の心境は変化していた。

例えそれが未来の天才たちが遺した答えだとしても、それを今、この混沌の時代に具現化し、命がけのブラフを跳ね除けて盤上に叩きつけるのは、他でもない自分自身なのだ。

 

 

 

 

数日後、蓮見は淡路の手引きにより、神田の奥まった場所にある古びた一軒の民家へと案内された。

 

表札には何も書かれていない。周囲は鬱蒼とした木々に囲まれ、都会の喧騒から完全に切り離されたその場所は、まるで時間の流れが止まったエアポケットのようだった。

 

「ここだ」

 

淡路が短い言葉とともに、古びた格子戸を開ける。

中から漂ってきたのは、線香の匂いと、凛と張り詰めた、畳の冷たい空気だった。

 

奥の和室。障子から差し込む淡い光の中に、一人の男が座っていた。

背筋を不自然なほどまっすぐに伸ばし、柔和な、しかし一切の感情を読み取らせない「仏面」のような笑みを浮かべた男。丸顔の奥にあるその双眸は、盤上のすべてを見通し、同時にすべての侵入者を拒絶する深い沼のようだった。

 

 

大山康晴。

 

後に十五世名人の称号を冠し、昭和の将棋界に絶対的な独裁政権を築き上げる巨人が、そこにいた。

 

大山の前には、脚付きの重厚な榧の盤が置かれていた。その上には、すでにいくつかの駒が並べられている。蓮見が長兵衛との一戦で指した、あの「△2二銀」の局面だった。

 

「よく来ましたね、蓮見さん」

 

大山の声は、驚くほど高く、そして穏やかだった。それは、近所の子供に話しかけるかのような、無害な響きを帯びている。

しかし、その手つきが盤上の銀に触れた瞬間、室内の空気が一瞬で氷点下へと叩き落とされた。

 

「この銀、実に見事だ。長兵衛の荒っぽい攻めを、見事に受け流している。ですがね……」

 

大山は、穏やかな笑みを浮かべたまま、蓮見の目をじっと見つめた。

 

「これは、あなたの心から生まれた駒ではない。あなたは、どこか遠い場所にある『正解』を、ただここに持ってきただけだ。違いますか?」

 

蓮見の心臓が、大きく跳ね上がった。

 

大山は、蓮見が「未来人」であることなど知る由もない。しかし、勝負師としての異常なまでの大局観と直感が、蓮見の将棋の根底にある『不自然なまでの完成度』を見抜いていたのだ。

それは、自分で血を流して築き上げたものではない『どこかから与えられた最適解』の匂いだった。

 

「大山先生。僕は……」

 

「言葉はいりません」

 

大山は静かに手を挙げ蓮見の言葉を遮った。

そして盤上の駒を一つずつ、流れるような動作で駒箱へと収めていく。その所作には、一ミリの無駄も、一瞬の迷いもなかった。

 

「升田さんは、あなたを『新しい風』だと言った。ですが、私にとって盤上を乱す風など必要ないのです。必要なのは、揺るぎない絶対の秩序だけだ」

 

大山は、すべての駒を収め終えると、空になった盤を蓮見の前に押し出した。

 

「始めましょう。あなたの持っているその『正解』が、私の秩序を壊せるかどうか、ここで試して差し上げます。ただし淡路から聞いた通り、これは裏の勝負。負けた方は、この東京の将棋界から静かに消えてもらう」

 

 

大山の手が、駒箱から一握りの駒を取り出し、盤上にパラパラと撒いた。

畳の上に転がった歩の裏表を、大山は見ることもせず、ただ柔和な笑みを湛えたまま蓮見を見つめている。

張り詰めた沈黙の中、大山はふっと息を漏らすと、撒いた駒を再び静かに手元へと引き寄せた。

 

「……いや、やめておきましょう」

 

大山のその一言に、和室の空気が奇妙に弛緩し、直後に張り詰めた。蓮見は思わず目を見開く。

 

「先生、それは……」

 

「今のあなたと指しても、私の時間が無駄になるだけだ」

 

大山の声はどこまでも穏やかだったが、その言葉に含まれた拒絶は、刃物よりも鋭く蓮見のプライドを切り裂いた。

大山は手元に引き寄せた駒を、パチ、パチと几帳面な動作で駒箱へと戻していく。その目は、すでに蓮見を「対局相手」としては捉えていなかった。

 

「升田さんが買い被るのも無理はない。あなたの指し手には、確かに見たこともないような奇妙な洗練がある。

 ですがね蓮見さん。あなたの将棋には、この昭和の泥をすすった人間の『業(ごう)』がない。どこか遠くの、安全な特等席から盤上を見下ろしているような……そんな薄っぺらさを感じるのですよ」

 

大山は立ち上がり、障子の向こうに広がる神田の庭へと目を向けた。その背中は、まるで行く手を阻む巨大な山脈のように、蓮見の視界を圧倒する。

 

「私と指したければ、まずはその『借り物の服』を脱ぎ捨てて、この時代の本当の地獄をくぐり抜けてきなさい。東京のプロの世界も、裏の真剣師の世界も、あなたが思っているほど底が浅くはない」

 

大山が懐から取り出したのは、一筆認められた小さな紙片だった。それを、まだ盤の前に硬直している蓮見の足元へ、滑らせるように置く。

 

「そこに、私の息がかかった真剣師たちの溜まり場がある。まずはそこで、その小綺麗で不気味な将棋が本物の命のやり取りにどこまで耐えられるか、証明して見せなさい。生きてそこを出られたら、また会いましょう」

 

 

それが絶対君主からの明確な「追放」であり、同時に「試練」の始まりだった。

淡路は何も言わず、蓮見の肩をポンと叩くと部屋を出るよう促した。大山名人は一度も振り返ることはなかった。

 

 

 

神田の民家を後にした蓮見の胸には、これまでにない激しい屈辱と、それを上回るほどのゾクゾクとするような高揚感が突き上げていた。

 

見抜かれていた。自分が令和のAIという「答え」をズルをしているだけの存在だということを。

大山康晴という怪物は、一局も交えることなく直感だけで看破してみせたのだ。

 

「……面白いじゃないか」

 

蓮見は、大山から渡された紙片を強く握りしめた。

そこに書かれていたのは上野のガード下にある、とある古びた鰻屋の奥にあるという「地下将棋道場」の住所だった。

 

 

淡路は新宿へ戻る車中で、煙草を燻らせながら蓮見に語りかけた。

 

「大山先生に泳がされたな、蓮見さん。

 あの人はそうやって、自分の驚脅になりそうな芽を、直接手を汚さずに裏の連中に潰させる。

 あそこは通称『百鬼夜行(ひゃっきやこう)』と呼ばれる、プロ崩れや一癖も二癖もある真剣師たちが、明日の飯のために文字通り命を削っている魔窟だ。先生は、お前がそこで潰されるのを楽しみにしているのさ」

 

「潰されるつもりはありませんよ、淡路さん」

 

蓮見の目は、かつて三段リーグで絶望していた時の死んだ魚のような目ではなかった。この昭和の熱量に、彼の魂は完全に呼び覚まされつつあった。

 

 

 

 

上野。

闇市の活気と、東北からの集団就職列車が吐き出す人々の熱気、そして煤煙が混ざり合う混沌の街。

 

蓮見が指定された鰻屋の暖簾をくぐり、店主の不審そうな目をすり抜けて厨房の奥にある地下への階段を下りると、そこには新宿や銀座とも違う、異様な熱気と殺気が渦巻く空間が広がっていた。

 

 

薄暗い裸電球の下、何十枚もの将棋盤が並び、男たちが怒号を上げ、あるいは無言で盤を睨みつけている。

 

ここにいるのは、お上品なプロの将棋ではない。一歩間違えれば五寸釘が飛んでくるような、文字通りの無法地帯。大山名人が蓮見に突きつけた第一の試練――それは、令和の洗練された知識が、昭和の最も泥臭い「底辺の暴力」にどこまで通用するかという、過酷な実験場だった。

 

「新顔だな、坊主」

 

蓮見が足を踏み入れた瞬間、道場の奥から、異様に背の高い、痩せこけた男が近づいてきた。

 

男の右腕は、衣服の袖が不自然に垂れ下がっており、左手一本で手彫りの駒を弄んでいる。

男の目は、獲物を見つけた猛禽類のように爛々と輝いていた。

 

「私は大山先生の紹介で来ました」

 

蓮見が紙片を見せると、男は低く笑った。その笑い声は錆びた鉄板をこするような不快な音だった。

 

「へえ、大山先生のな。あのお方がわざわざ裏の道場へ人を送り込んでくるときは、二つの意味しかない。

 一つは、本当に見込みのある身内。もう一つは……ここで徹底的にハメ殺して、二度と表へ出られないようにしてほしい『邪魔者』だ。

 あんたは、どっちかね?」

 

男は左手で、盤の上にぽんと駒を置いた。

 

「俺の名は『片腕の重蔵(じゅうぞう)』。昔、プロのリーグで暴れ回ったが、手癖が悪くて破門された男さ。大山先生からの手紙代わりに、まずは俺が、あんたのその綺麗な将棋を骨の髄までしゃぶり尽くしてやろう」

 

 

蓮見は無言で重蔵の前に座った。

大山名人への道は、あまりにも遠く、そして険しい。

だが、この昭和の深淵に潜む猛者たちをすべて薙ぎ倒した時、自分の将棋は『借り物』ではなく、本当の『己の武器』になるはずだ。

 

 

「手合いは平手、賭け金はあんたの持っているその財布の全額だ」

 

重蔵が左手で不敵に駒を並べ始める。

蓮見はポケットから駒袋を取り出し、静かに盤上へと視線を落とした。

 

上野の地下、裸電球の光の下で長期にわたる蓮見の『昭和彷徨』の本当の第一歩が今、静かに踏み出されようとしていた。




続きました
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