『不文律の銀』 作:全てを生成AIにゆだねる者也
上野の地下にこもる熱気は新宿のそれよりもさらに油っぽく、人間の剥き出しの執念がそのまま結晶化したかのような重苦しさがあった。
頭上からは、絶え間なくガタゴトと重い響きが伝わってくる。東北からの集団就職列車や、引き揚げ者を乗せた列車が滑り込んでくる上野駅の喧騒。その直下にあるこの空間は、地上の光から見放された者たちが、わずかな現金を求めて互いの牙を剥き出しにする、文字通りの魔窟だった。
裸電球がかすかに揺れるたび、コンクリートの壁に男たちの歪んだ影が大きく伸び縮みする。
蓮見の前に座る『片腕の重蔵』は、失われた右腕の袖を所在なげに垂らしたまま、左手だけで器用に駒を並べ終えていた。その指先は驚くほど太く、爪の間には真っ黒な煤が詰まっている。
しかし、駒を盤上に置くときの動作だけは、恐ろしいほどに静かで、正確だった。
「どうした、坊主。手が止まっているぞ。大山先生の名前を出せば、ここでもお大名のように扱ってもらえるとでも思ったか?」
重蔵の言葉に、周囲で他の盤を囲んでいた男たちが、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべながらこちらを覗き込んできた。
「おいおい、重蔵の旦那がまた若い芽を毟(むし)り取る気だぞ」
「大山先生の紹介だってよ。どうせどっかのお坊ちゃんが、ちょっと小奇麗な将棋を覚えて調子に乗った口だろ」
野次馬たちの言葉が、蓮見の耳をかすめていく。
だが、蓮見の心は不思議なほどに静まり返っていた。銀座の地下で「般若の長兵衛」という怪物と命を削り合い、さらに神田の和室で大山康晴という絶対君主から放たれた、あの凍り付くような視線。それに比べれば、この地下道場の殺気や罵声など、心地よい環境音楽のようなものにすら思えた。
(大山先生は、僕を試しているんじゃない。ここで僕という『異物』が、昭和の底辺にいる真剣師たちにどれだけ通用するのか、あるいはここで綺麗に圧殺されるのかを、高みの見物と洒落込んでいるんだ)
そう理解した瞬間、蓮見の胸の奥で冷たい炎が静かに燃え上がった。
未来の知識。
AIが導き出した超合理的定跡。それを「借り物の服」と切り捨てた大山の慧眼には恐れ入る。
だが、その借り物の服を己の皮膚となるまで血肉化させてみせる。そのための場所として、この上野の地下は、これ以上ない最高の実戦場だった。
「手合いは平手。賭け金は、あんたの財布の全額だと言ったな」
蓮見は静かに言い淡路から渡されたばかりの、あの分厚い百円札の束をポケットから取り出した。銀座の代指しで勝ち取った大金だ。それを無造作に、盤の横へと置く。
札束を見た瞬間、重蔵の爛々と輝く目が、さらに一回り大きく見開かれた。周囲の野次馬たちからも、一斉にヒッと息を呑む音が漏れる。
「……ほう。ただの坊ちゃんじゃねえな。その若さで、それだけの身代(みしろ)を背負って歩いているか。いいだろう、へぼ将棋でその大金が手に入るなら、明日の朝まで一晩中極上の酒が飲めるというものだ」
重蔵の左手が、初手▲7六歩をバシィと叩きつけた。
昭和の将棋界において、駒を叩きつける音はそのまま対局者の気迫の表明だった。重蔵の指し手は、先ほど彼自身が口にした通り、かつてプロの公式戦で暴れ回っていたというだけのことはあり、ただの真剣師のハメ手とは一線を画す、芯の通った重みがあった。
蓮見は、一呼吸置いて△3四歩と応じた。
重蔵の戦型は、当時としては最も一般的であり、同時に最も奥が深いとされた「矢倉」の構えを目指すものだった。じっくりと陣形を整備し自陣の王様を固めてから、満を持して中央から攻め潰す。昭和の正統派の将棋。
しかし蓮見が選んだのは、その矢倉の常識を根底から覆す、令和の超急戦戦法だった。
玉をほとんど囲わず居玉のまま自陣のバランスを保ち、速攻で相手の陣形が完成する前に襲いかかる。当時の感覚からすれば「王様を囲わない将棋など、自殺行為だ」と一蹴されるような指し方である。
重蔵の眉が、ピクリと動いた。
「……玉を囲わんか。やはり、升田の坊主が好みそうな、小生意気な奇襲戦法だな。だがな、坊主。そんな薄っぺらい将棋は、本物の受けの前には通用せんのだよ」
重蔵は、自陣の金を巧みに連携させ、蓮見の急戦をがっちりと受け止める構えを作った。その指し手には、長年の修羅場で磨かれた「絶対に潰れない」という絶対的な自信が漲っている。
だが蓮見の頭脳には、その「がっちりとした受け」こそがAIの視点から見れば「動きが重く、自陣を狭くしている原因」であるという答えが、すでに数式のように浮かび上がっていた。
三十手目。蓮見は、自陣の飛車を大きく左へと転換した。
「四間飛車」への振り直し。急戦と見せかけて、一瞬にして持久戦の構えへとシフトする。この流れるようなスイッチングこそが、現代将棋の高度な戦術だった。
重蔵の左手が、一瞬、盤の上で止まった。
「……曲芸のような真似を」
重蔵の声から、先ほどまでの余裕が少しずつ消え失せていく。
彼は蓮見の指し手の意図が、どうしても掴めずにいた。部分的には自分の陣形の方が手厚く、有利に見える。しかし盤面全体を見渡すと、なぜか自分の駒たちが蓮見の配置した駒の「利き」によって、見えない鎖で縛り付けられているかのように身動きが取れなくなっていくのだ。
「おい、重蔵の旦那の攻めが止まっちまったぞ」
「あの若造、一体何を指してるんだ? 見たこともない形だぞ」
周囲の真剣師たちの声が、徐々に焦りを含んだものに変わっていく。
重蔵の額から、じわりと脂汗がにじみ出た。彼は残された左手で、何度も何度も自身の頭を掻きむしる。
「なぜだ……。どこをどう読んでも、俺の歩が一歩も前に進めねえ。王様を囲ってもいない若造の陣地が、どうしてこれほどまでに遠いんだ……!」
それは、部分的な駒のぶつかり合いではなく、盤面全体の「空間の支配率」を競う、現代将棋の本質だった。重蔵が昭和の定跡に則って美しく組み上げた矢倉城は、蓮見の放った一見バラバラに見える駒の配置によって、戦う前にすでに兵糧攻めに遭っている状態だったのだ。
五十手目、蓮見は静かに△6五歩と突いた。
これが重蔵の陣形を完全に機能停止に追い込む、冷徹な一撃だった。
重蔵はハッと息を呑み、盤面に顔を擦り付けるようにして読みを入れ始めた。五分、十分。地下道場の喧騒の中で、彼らの盤の周りだけが奇妙な静寂に包まれていく。
「……あり得ん。こんな歩の突き方があるか。これでは、お前の角の頭が丸空きになるはずだ……」
重蔵は震える指で角を睨みつけたが、その瞬間に気づいた。もしその角の頭を攻めれば、回り回って自分の王様がわずか数手で即詰みに討ち取られるという、恐るべき罠が仕掛けられていることに。
「あんたの将棋は、確かに素晴らしい」
蓮見は、重蔵の目を見据えて静かに語りかけた。
「でも、あんたが信じているその『定跡』は、まだ未完成なんです。ここから先の世界がある。それを、大山先生は僕に見せろと言ったんだ」
重蔵の顔が、恐怖で歪んだ。
「お前……何者だ……。大山先生は、一体何をここに送り込んできたんだ……!」
バシィ!
重蔵の絶叫とともに、彼が苦紛れに放った攻めの手が盤上を虚しく滑っていった。
もはやそれは勝負を組み立てるための手ではなく、ただの敗者の悲鳴に過ぎなかった。
八十手目。
蓮見の玉は、ついに一回も王手をかけられることなく、重蔵の王様を完璧な必至の形に追い詰めていた。
重蔵は左手をだらりと落とし、力なく首を振った。
「……負けました。ワシの、完敗だ……」
周囲の野次馬たちから、ドッとどよめきが沸き起こる。
あの「片腕の重蔵」が手も足も出ずに、一人の名もなき若造にプロのような完璧な内容で捻り潰されたのだ。その事実は、上野の地下にいる真剣師たちにとって、大地震にも匹敵する衝撃だった。
蓮見は、盤の横に置いた百円札の束をポケットへと戻し重蔵を見つめた。
「重蔵さん。大山先生の言った『息のかかった真剣師たちの溜まり場』というのは、ここだけですか?」
重蔵は、まだ負けの衝撃から立ち直れない様子で、呆然としながら首を振った。
「……いや。ここは、ほんの入り口に過ぎん。大山先生の裏のネットワークは東京だけじゃねえ。横浜の港、名古屋の闇市、そして……関西の総本山。先生は全国の裏の強豪たちを、目に見えぬ糸で操っているんだ。あんたがどれだけ強くても、次から次へと化け物が現れるぞ」
「望むところです」
蓮見は立ち上がり、上野の地下道場を後にした。
階段を上り、鰻屋の暖簾をくぐって地上へ出ると、上野の夜風が蓮見の火照った顔を心地よく冷やしてくれた。
(大山先生。あなたは僕を裏の世界の荒波に放り込んで、僕の将棋が摩耗して消えるのを見届けるつもりだった。でも僕は消えない。あんたが差し向ける刺客をすべて喰らい尽くして、僕自身の将棋を作り上げてみせる)
蓮見の長期にわたる「昭和彷徨」の旅が、今、本格的に幕を開けたのだった。
上野での勝利から一週間、蓮見の元には淡路を通じて次々と「裏の勝負」の依頼が舞い込むようになっていた。
大山名人が上野の重蔵に蓮見を差し向けたという噂は、裏社会のネットワークを通じて瞬く間に全国の真剣師たちの耳へと届いていた。
彼らにとって蓮見を倒すことは、すなわち「大山名人の目に留まる」という一攫千金のチャンスを意味していた。
淡路が新宿の事務所で、新しく届いた一通の手紙を蓮見に差し出した。
「蓮見さん、今度は横浜だ。本牧(ほんもく)の米軍基地の近くにある、外人向けのダンスホール。そこの地下で、かなり大規模な賭け将棋の興行がある。相手は、戦後の混乱期に上海から引き揚げてきた、通称『上海の竜』と呼ばれる男だ」
「上海の竜……」
「そうだ。本名は誰も知らん。そいつの将棋は、中国のチェス(シャンチー)のロジックを日本の将棋に融合させた、異様極まりない変則将棋を指すらしい。すでに東京から遠征したプロの卵たちが、何人もそいつの餌食になって身ぐるみを剥がされている」
淡路は煙草の煙を吐き出しながら、少し真面目な顔で蓮見を見た。
「大山先生は、お前がどこまで進めるか本当に楽しみにしているようだぞ。横浜の興行師のバックには、大山先生のタニマチ(有力な後援者)がついている。つまり今回の勝負も、先生が裏で糸を引いている可能性が極めて高い」
「構いません。横浜へ行きます」
蓮見の返事に、迷いはなかった。
昭和二十年代の横浜・本牧。
米軍のジープが走り去り、英語の看板が立ち並ぶ街並みは、新宿や上野とは全く異なる独特の無国籍な空気を放っていた。ネオンサインが濡れたアスファルトに赤や青の光を落とし、ジュークボックスから流れる激しいジャズのビートが、地上の建物を小刻みに震わせている。
淡路に案内されて入ったダンスホールの奥、重い防音扉の向こう側に、その「勝負場」はあった。
カジノのルーレット台のような円形のテーブルの中央に、将棋盤が据えられている。
周囲を取り囲むのは、米兵や、派手なドレスを着た女たち。そして凄みのある顔つきをした横浜のヤクザたちだった。
「あなたが、噂の『未来の将棋』を指すという蓮見さんですか」
影の中から現れたのは、白い麻のスーツを泥臭く着こなした、中年の男だった。
その顔には、大陸の風雪をくぐり抜けてきた者だけが持つ、独特の深い皺が刻まれている。
彼こそが「上海の竜」。その両手の袖口からは、不気味な龍の刺青がのぞいていた。
「蓮見です。さっさと始めましょう」
蓮見が席に就くと上海の竜はニヤリと下品な笑みを浮かべ、盤上に駒を並べ始めた。
「私の将棋はね、東都の綺麗事の将棋とは違う。生きるか死ぬかの戦場を渡り歩いてきた将棋だ。あんたのその小綺麗な頭脳が、大陸の泥にまみれても、なお動くかどうか、試してやろう」
振り駒の結果、上海の竜の先手と決まった。
初手、▲3八金。
蓮見は一瞬、目を疑った。初手に金を上がるなど、当時の定跡はもちろん、令和のAIの教科書にも載っていない、完全な「悪手」の範疇に入る手だった。
(……いや、これは悪手じゃない。チェスのセンターコントロールの思想だ。最初から、中央の空間を金で威圧しにきている)
上海の竜の指し手は、日本の将棋の枠組みを完全に無視していた。
飛車や角の機動力を活かすのではなく、歩と金を密集させ、盤上の中央に巨大な「駒の壁」を築き上げていく。それは、まるで戦車部隊が泥沼を前進してくるかのような、圧倒的な重量感を持った戦術だった。
「どうした、未来の天才。お前の得意な『綺麗な定跡』のスピード感が、この泥沼の中でも発揮できるかね?」
上海の竜が中国の煙草に火をつけ、濃厚な紫煙を盤上に吹きかけてくる。
蓮見の脳内のAIは、この変則的な陣形に対して「評価値プラス二百」を示していた。
論理的には、蓮見が有利なはずだった。しかし、いざ駒を動かそうとすると盤上の中央に鎮座する相手の金銀の塊が、凄まじい圧迫感となって蓮見の思考を妨害する。
(重い……。相手の駒の密度が、こちらの攻め筋をすべて押し潰しにきている)
六十手目、盤上は完全に窒息状態に陥っていた。
蓮見の得意な、飛車と角を軽快に飛ばすスピード感あふれる将棋は、上海の竜の築いた泥沼の防壁によって完全に足止めを食らっていた。下手に動けば、相手の重厚な金銀の軍勢が一気になだれ込んでくる。
「終わりだな、蓮見さん。あんたの将棋は綺麗すぎて脆い。戦場の泥を知らん男の将棋だ」
上海の竜が、勝ち誇ったように巨大な銀をバシィと前進させた。
周囲の米兵たちが、言葉は分からずとも上海の竜の優勢を察し、イェーイと歓声を上げる。
淡路は渋い顔で、静かに煙草を噛み締めていた。
(綺麗すぎて脆い……か。大山先生にも、同じようなことを言われたな)
蓮見は、目を閉じた。
頭の中に浮かぶAIの推奨手を、一度すべてリセットする。
なぜ、自分の将棋は脆いと言われるのか。それは、自分が「最善の数値」だけを信じ、目の前の対局者が流す血や、その手が持つ本当の重みから、目を背けていたからではないか。
(だったら、僕も泥をすすってやる。綺麗に勝つ必要なんてない。泥塗れになって、相手の喉笛を噛みちぎればいいんだ!)
蓮見が目を開けたとき、その瞳には、これまでになかった「凶暴な光」が宿っていた。
手にした駒は、桂馬。
蓮見が指したのは、△8九桂。
自陣の最下段、飛車の進路を完全に塞ぐ、一見すると最悪の「自爆手」だった。
上海の竜の動きが、完全に凍りついた。
「……何だ、その手は。自ら飛車の道を塞いで、狂ったか!」
「狂ってなんかいない。あんたが中央をガチガチに固めるなら、僕はその外側から盤面ごとあんたの陣形をひっくり返す」
この△8九桂は、未来のAIすらも想定していない、極限状態の蓮見の「野生」が生み出した一手だった。
飛車の進路を犠牲にする代わりに、数手先で相手の玉の退路を完全に遮断する、文字通りの「刺し違え」の特攻。
そこからの展開は、凄惨を極めた。
蓮見は自陣の駒を容赦なく生け贄に捧げ、上海の竜の重厚な壁を外側から一枚ずつ、力任せに剥ぎ取っていった。綺麗な洗練など、そこには微塵もなかった。あるのは、ただ「相手を殺す」という純粋な殺意だけだった。
百十手目。上海の竜の築いた無敵の要塞は、蓮見の泥臭い突撃によって完全に粉砕されていた。
「……ば、化け物め……」
上海の竜は、震える手で王様を横に倒した。投了の合図。
ダンスホールを埋め尽くしていた歓声が、一瞬にして静まり返る。
蓮見は、返り血を浴びたかのような疲弊感の中で静かに立ち上がった。その顔は、もはや令和のひ弱な奨励会員のものではなかった。この昭和の闇で幾多の修羅場をくぐり抜けてきた、一人の本物の真剣師の顔だった。
淡路が近寄ってきて、蓮見の肩を叩いた。
「見事だ蓮見さん。これで横浜の興行も、お前の名の下に平定された。大山先生も今頃は苦虫を噛み潰したような顔をしているだろうよ」
「……まだ、終わりじゃない」
蓮見は、西の空を見つめた。
大山名人が張り巡らせた、裏のネットワーク。上野、横浜を破った今、次なる刺客は、おそらく関西の総本山からやってくる。
自らの将棋を「借り物」から「己の魂」へと昇華させるための、蓮見の戦いは、まだまだ始まったばかりだった。
大山康晴という、将棋界の絶対的な頂点に立つ男の喉元に自らの刃を突き立てるその日まで、彼はこの昭和の泥沼を、一歩一歩、確実に進んでいく覚悟を決めていた。
横浜での死闘から数か月が経過し、季節は昭和二十年代の短い秋を飛び越え、凍てつくような冬へと向かっていた。
新宿の街には配給制度の終わりを告げる闇市の活気と、新しく建設され始めた木造建築の匂いが混ざり合い、戦後からの復興が確実に進んでいることを告げていた。
蓮見は、淡路が用意してくれた新宿の小さなアパートの一室で、一人、榧の盤に向き合っていた。
暖房器具といえば、部屋の隅で赤く熾きている小さな木炭の火鉢だけ。指先が寒さでかじかむたび、蓮見は自らの息を吹きかけて温め、再び手垢で黒ずんだ手彫りの駒を動かした。
彼が並べているのは、大山康晴のあの革表紙のノートに記されていた未発表の棋譜の数々だった。
上野での「片腕の重蔵」、横浜での「上海の竜」との命がけの勝負を経て、蓮見の頭脳は完全に変貌を遂げていた。
かつては令和のAIが示す「評価値」という絶対的な数字に依存していた思考が、今では目の前にある駒たちの「呼吸」や「重量感」、そして対局者の「情念」を盤上でダイレクトに感じ取れるようになっていたのだ。
(大山先生の将棋は、やっぱり凄いな……)
ノートに記された大山の指し手をなぞるたび、蓮見の背筋には冷たい戦慄が走る。
大山の将棋には、升田幸三のような華麗な一手や、見る者を魅了するような鋭い踏み込みはほとんどない。あるのは、相手が「ここが攻め時だ」と信じて放った渾身の一手を、まるで綿で包み込むようにして無力化し、相手が気づいたときには自滅の坂道を転げ落ちているという、恐るべき「受けの網」だった。
AIの数値で測れば、大山の手は時として「最善」から外れる。しかし、その手は人間の精神を最も疲弊させ、焦りを生み出し自滅を誘導するという点において、これ以上ない「絶対的な最善」なのだ。
「蓮見さん、入るぞ」
引戸がガラリと開き、厚手の外套を着込んだ淡路が入ってきた。その顔は、心なしかいつもより強張っている。
淡路は火鉢の前に座り、凍えた手をかざしながら、一枚の切符を盤の横に置いた。
「東京発、大阪行きの特急『つばめ』の切符だ。ついに、関西の総本山が動き出したぞ」
蓮見は、駒を握ったまま淡路の顔を見つめた。
「……関西の、誰ですか」
「『喧嘩将棋の清次(せいじ)』。そう呼ばれている男だ」
淡路の口から出たその名に、蓮見の脳内のデータベースがかすかに反応した。しかし令和の公式な記録には、そんな棋士の名は残っていない。やはり、歴史の闇に葬られた裏の怪物の一人なのだ。
「清次はな、戦前、坂田三吉(さかたさんきち)の末流を自称し、大阪の通天閣の周辺で、文字通り拳と将棋で生きてきた男だ。大山先生が公式戦で関西へ遠征する際、裏の環境を整えるために何度も清次の力を借りている。つまり、大山先生にとっては関西における最も信頼できる『盾』であり『矛』だ」
淡路は、切符を指先でトントンと叩いた。
「清次は、お前が上野と横浜の真剣師を叩き潰したことを聞いて、激怒しているらしい。『東都の小汚い若造が、大山先生の顔に泥を塗るなど許さん』とな。勝負の場所は、大阪の通天閣のすぐ下にある、新世界の地下劇場だ。今回の勝負には、関西の興行界の全財産だけでなく、大山先生の関西における『裏の看板』そのものが賭けられている」
「大山先生の、裏の看板……」
「そうだ。もしお前が清次を破れば、大山先生はもはや、お前を『ただの真剣師』として無視することはできなくなる。公式の場であれ、裏の場であれ、先生自身が盤の前に座らざるを得なくなるだろう。文字通りの、王手(チェックメイト)への最終関門だ」
蓮見は、手の中の銀の駒を強く握りしめた。
「分かりました。大阪へ行きます」
翌朝、蓮見は蒸気機関車が激しく黒煙を吐き出す東京駅から、特急「つばめ」に乗り込んだ。
車窓から見える景色が、関東の武蔵野の風景から次第に険しい山々、そして臨海地帯へと移り変わっていく。昭和二十年代の日本は、どこへ行っても力強い活気と、それに相反するような戦争の傷跡が色濃く残る荒涼とした風景が同居していた。
(僕は、どこまで行けるんだろう)
ガタゴトと揺れる車内で、蓮見は自問自答していた。
令和の時代、自分は年齢制限というシステムによって、将棋界から完全に放り出された。
あのときは自分の人生がすべて終わったのだと絶望した。しかし、この昭和という過去の世界に墜ちてきて命がけで盤を挟むうちに、自分の中にあった「将棋への歪んだ執着」が、削ぎ落とされていくのを感じていた。
今の自分にあるのは、ただ純粋な「強者と戦いたい」という勝負師としての本能だけだった。
夕刻、特急「つばめ」は大阪駅へと滑り込んだ。
駅に降り立った瞬間、耳に飛び込んできたのは、東京とは明らかにテンポの違う、激しく活気のある大阪弁の洪水だった。
淡路の手配した地元の案内人に連れられ、蓮見が向かったのは夕闇の中に巨大な影を落とす通天閣の足元――「新世界」と呼ばれる地域だった。
串カツの匂い、安酒の匂い、そしてドブ川の匂いが混ざり合う強烈なエネルギーに満ちた街。
その一角にある、戦火を免れた古い劇場の地下へと足を踏み入れると、そこには上野や横浜を遥かに凌ぐ、数百人もの観客がすり鉢状の客席を埋め尽くしていた。
中央に設置された、スポットライトを浴びる榧の将棋盤。
そこで待っていたのは、着物をだらしなく着崩し、首元に太い数珠を巻いた大柄な男だった。
男の顔には無数の小さな傷跡があり、その鋭い眼光は対峙する者すべてを威嚇していた。
彼こそが「喧嘩将棋の清次」。
坂田三吉の「泥臭い闘志」を受け継ぐと豪語する、関西裏将棋界の絶対的な首領(ドン)だった。
「あんたが、東京から来たという蓮見か」
清次の声は地響きのように低く、劇場全体に響き渡った。
「大山先生を困らせとる若造ちゅうから、どんな凄みのある男かと思たら随分と線の細いガキやないか。東都の将棋がどれだけ進んどるか知らんが、ここ新世界ではな、理屈や定跡なんてものは糞の役にも立たんのや。盤の上で、どっちの執念が勝つか、それだけや!」
清次は、豪快に笑いながら盤の上に駒をバラバラとぶちまけた。
観客席の関西の男たちから、地鳴りのような怒号と歓声が沸き起こる。
「清次の旦那! ど頭カチ割ったれ!」
「東都の冷や飯食いに、ナニワの将棋を教えたれ!」
完全なアウェイの環境。しかし、蓮見は静かに頭を下げ自らの駒を並べ始めた。
(坂田三吉の将棋……。そして、大山先生の盾。面白い。あんたのその『喧嘩将棋』、僕の未来の力で正面から受け止めてみせる)
振り駒の結果、蓮見の先手と決まった。
蓮見は一呼吸置き、初手▲2六歩を静かに指した。
関西裏将棋界を舞台にした、蓮見の新たなる、そして最も過酷な死闘の幕が、今、新世界の地下で切って落とされたのだった。
気が向いた時に続くかもしれないです