普段は小説家になろう様でオリジナル小説書いてます!
目を覚ました瞬間、俺は泣いていた。
それは赤ん坊として生まれたから――というだけではない。
狭い視界。ぼやける天井。聞き取れないはずなのに、妙に意味だけが流れ込んでくる大人たちの声。
「元気な男の子ですよ」
「おめでとうございます。では、いつもの予防接種を行いますね」
いつもの予防接種。
その言葉に、俺の意識は一瞬だけ凍りついた。
まだ首も動かせない赤ん坊の体。だが、俺の中には確かに前世の記憶があった。
日本で普通に暮らして、普通に漫画を読んで、普通に会社に行って、普通に疲れて、普通に死んだ。
そして今、俺は知らない世界に生まれ落ちた。
看護師らしき女性が、透明な注射器を手にする。
中には淡く虹色に輝く液体が入っていた。
「新生児用グルメ細胞、異常なし。適合率も問題ありません」
グルメ細胞。
その単語を聞いた瞬間、俺の中で何かが弾けた。
え?
今、何て言った?
グルメ細胞?
いや、まさか。
俺の知っているグルメ細胞は、あの世界に存在するものだ。
猛獣を喰らい、己を進化させ、未知なる食材を求めて命を懸ける美食屋たちの世界。
巨大な獣。危険な植物。空を泳ぐ魚。大地を覆うスープ。星そのものを食卓に変えるような、常識外れの食材たち。
そして、その中心にいた男。
美食屋、トリコ。
俺が子供の頃から憧れた、最高に熱くて、最高に腹の減る物語。
――まさか。
まさか俺は、あの『トリコ』の世界に転生したのか?
注射針が小さな腕に刺さる。
赤ん坊の体は当然のように泣き叫んだ。
けれど、俺の意識は痛みよりも興奮でいっぱいだった。
グルメ細胞が体内に流れ込む。
熱い。
全身の奥底で何かが目覚めるような感覚。
血が巡り、骨が震え、細胞の一つ一つが腹を空かせているような、不思議な感覚。
すごい。
本当に、俺はこの世界に来たんだ。
あのグルメ時代に。
トリコが生きて、ココがいて、サニーがいて、ゼブラがいて、小松が料理を作り、世界中の美食屋たちが未知なる味を求めて旅をしていた、あの世界に――。
そう思っていた。
少なくとも、この時の俺は。
それから数年。
俺はこの世界のことを少しずつ理解していった。
俺の名前は、アマジン。
生まれた国は、人間界の中央大陸にある中規模都市、グラントシティ。
父は食品物流会社の社員で、母はグルメ栄養士。
特別な家系でも、王族でも、伝説の美食屋の末裔でもない。
ごく普通の家庭に生まれた、ごく普通の子供。
ただし、この世界における「普通」は、前世の俺からすれば十分におかしかった。
まず、生まれた時点でグルメ細胞を入れるのが当たり前。
予防接種の一種として、赤ん坊の頃に低刺激のグルメ細胞を投与する。
それによって病気への抵抗力、身体能力、環境適応能力を底上げする。
少し昔は適合率の問題もあったらしいが、現在では医療技術が発達し、ほぼ全員が問題なくグルメ細胞を取り込めるようになっているらしい。
おかげで、この世界の人間はやたら頑丈だった。
幼稚園児が十メートルの木から落ちても、泣くだけで済む。
小学生が体育の授業で崖を登る。
中学生になる頃には、酸素の薄い高山や、灼熱の砂漠、氷点下の雪原でも活動できる者が珍しくない。
そして何より驚いたのは――。
「来週の社会科見学は、グルメ界の第三安全開拓区に行きます。各自、耐熱帽と捕獲レベル三十以下の食材採取キットを忘れないように」
先生がそんなことを、遠足の予定みたいに言ったことだった。
グルメ界。
かつては人間が足を踏み入れるだけで死にかねない、地球最大の魔境。
人間界の常識が一切通じない、怪物と食材の宝庫。
そのグルメ界に、小学生が社会科見学で行く。
俺は椅子から転げ落ちそうになった。
だが、クラスメイトたちは普通に頷いている。
「第三安全区かぁ。去年、家族旅行で行ったな」
「えー、いいなー。うちは第二までしか行ったことない」
「第三って、メロウバナナの群生地あるとこだよね?」
「そうそう。あれ給食に出るやつより甘いらしいよ」
何だこれ。
俺の知っているグルメ界と違う。
いや、俺の知っている時代から見れば、たぶん正しい進歩なのだろう。
あの時代の人間たちが命を懸けて切り開いた場所が、千年の時を経て、安全管理され、観光地となり、学校行事の目的地になっている。
それ自体は、きっと素晴らしいことだ。
平和で、豊かで、誰も飢えない。
美味いものがどこにでもある。
世界中の食材が流通し、危険な猛獣も管理区域で飼育され、天候すら調整される。
未知なる味を求めて命を懸けたグルメ時代は、いつしか完全な飽食時代へと変わっていた。
レストランに行けば、かつて超高級食材だったものがランチセットに並ぶ。
スーパーには、捕獲レベル百を超える食材の加工品が普通に置かれている。
人工培養された宝石肉風ステーキ、家庭用フルコースキット、グルメ細胞対応サプリメント、宇宙食材風味のスナック菓子。
前世の俺なら、どれを見ても泣いて喜んだだろう。
実際、美味い。
めちゃくちゃ美味い。
この世界の給食は、前世の高級料理店を軽く超えている。
だが、俺の胸にはどうしても小さな引っかかりがあった。
俺が憧れたグルメ時代は、もっとこう、腹を空かせていた。
まだ誰も知らない味があり、誰も見たことのない食材があり、そこに辿り着くために美食屋たちが命を燃やしていた。
食べることが、冒険だった。
味わうことが、戦いだった。
食卓に並ぶ一皿の裏に、汗と血と涙と友情があった。
でも、この時代では違う。
美味いものはある。
いくらでもある。
けれど、それらの多くは誰かがすでに見つけ、誰かがすでに安全にし、誰かがすでに商品化したものだった。
俺が憧れた世界は、もう千年前に終わっていたのだ。
・・・
・・
・
十歳の誕生日。
俺は両親に頼み込み、グラントシティ中央図書館の特別資料室へ連れて行ってもらった。
目的は一つ。
トリコについて調べるためだ。
この世界に転生してから、俺は何度もその名を探した。
だが、子供向けの授業で出てくるのは、せいぜい「伝説の美食屋」の一人としての簡単な紹介程度。
千年前の偉人。
グルメ新世紀の開拓者。
世界食材流通網の基礎を築いた英雄。
そんな、教科書の中の人物として扱われていた。
俺はそれが嫌だった。
トリコは教科書の偉人じゃない。
もっと近くて、もっと熱くて、もっと腹の減る存在だったはずだ。
分厚い資料を読み漁る。
古い映像記録を再生する。
しかし、そこに書かれていたのは、俺にとってあまりにも残酷な事実だった。
『美食屋トリコ。約千年前に活躍した伝説の美食屋。後年、宇宙食材探査計画に参加した記録が残されているが、その後の詳細な足取りは不明――』
約千年前の伝説。
当然だ。
分かっていた。
分かっていたはずなのに、胸の奥がずしりと重くなった。
トリコは人間だった。
この世界の歴史に実在した、人間だった。
ならば千年後の今、普通に考えればもう生きてはいない。
あの強靭な肉体を持つ美食屋でも、あの時代の英雄でも、人間である以上、時間からは逃れられない。
「……そっか」
小さく呟いた声が、資料室の静けさに溶けた。
会えない。
俺がこの世界に来た時点で、トリコの時代は終わっていた。
俺は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
夢を見ていたのだ。
この世界に生まれたなら、いつかトリコに会えるかもしれない。
小松の料理を食べられるかもしれない。
四天王の背中を見て、自分も美食屋になれるかもしれない。
そんな都合のいい夢を。
けれど現実は千年後。
人間界も、グルメ界も、ほとんど開拓され尽くした世界。
冒険は観光になり、伝説は授業になり、未知は商品棚に並んでいる。
俺は、少しだけこの世界が残念になった。
こんなにも美味いものに囲まれているのに。
こんなにも豊かな時代に生まれたのに。
贅沢な話だと分かっている。
それでも、俺が憧れたのは飽食の楽園ではなく、腹を空かせた冒険者たちの背中だった。
その時だった。
古い資料の一文が、俺の目に留まった。
『宇宙食材探査計画において、地球時間と宇宙各域の時間経過には大きな差異が確認されている。一部宙域では時間流の歪み、停滞、逆行に近い現象も報告されており――』
俺は息を止めた。
宇宙。
そうだ。
トリコの世界は、地球だけで完結していない。
あの先には宇宙がある。
地球の食材がどれほど開拓され尽くしても、宇宙の全てが解明されたわけではない。
いや、むしろ本当の未知は、まだ空の向こうに広がっているはずだ。
宇宙の時間軸は未知な部分が多い。
地球では千年経っていても、宇宙のどこかでは違う時間が流れているかもしれない。
もしかしたら。
本当に、もしかしたら。
トリコは今も宇宙のどこかで冒険しているのかもしれない。
未知なる食材を求めて、どこかの星を駆け、どこかの怪物と戦い、どこかの食卓で笑っているのかもしれない。
「……まだ、終わってない」
俺の中で、消えかけていた火が小さく燃えた。
地球の開拓が終わった?
グルメ界に誰でも行ける?
未知の食材なんてもうほとんど残っていない?
だから何だ。
地球にないなら、宇宙に行けばいい。
トリコたちが地球を飛び出したように、俺もいつか宇宙へ行けばいい。
会える保証なんてない。
生きている保証もない。
そもそも、俺はまだ十歳の子供で、特別な才能があるかどうかも分からない。
でも、目標は決まった。
情報を集める。
体を鍛える。
食材を知る。
料理を学ぶ。
グルメ細胞を育てる。
この飽食時代で、それでも腹を空かせ続ける。
そしていつか、美食屋になる。
ただの観光客ではなく、ただの消費者でもなく、未知なる味を探す者になる。
千年前の伝説を追いかけて。
宇宙のどこかにいるかもしれない、あの美食屋たちに会うために。
俺は資料室の窓から空を見上げた。
そこには、前世と同じようで、まるで違う青空が広がっていた。
この空の向こうに、本当のグルメ時代がまだ残っているかもしれない。
そう思った瞬間、腹が鳴った。
ぐう、と情けない音が静かな資料室に響く。
近くにいた司書さんが、くすりと笑った。
「調べものの後は、お腹が空くでしょう? 一階の食堂で、本日の星屑ベリータルトが出ていますよ」
星屑ベリータルト。
名前からして、もう前世の常識では意味が分からない。
俺は立ち上がり、資料を丁寧に戻した。
まずは食べよう。
この世界を知るために。
この時代を味わうために。
そしていつか、まだ誰も知らない味に辿り着くために。
「いただきます」
千年後のグルメ時代。
飽食の世界に生まれた俺の冒険は、腹の音と共に始まった。