翌朝。
スコールのように降っていた毒雨の勢いは、少しだけマシになっていた。
昨夜は本当にひどかった。
大木の根元に身を寄せていても、雨音が常に耳元で鳴り続けていた。
毒の雨が地面を打つ音。
草が溶ける音。
遠くで何かが這い回る音。
その全てが、不安を煽るように響いていた。
それでも、俺たちは眠っていた。
食事を終えた後、気が抜けたのだろう。
腹が満たされ、体が温まり、毒雨をしのげる場所を見つけた。
それだけで、緊張が少し緩んだ。
気づけば、俺は大木の根に背を預けたまま眠っていた。
ブラウスも、ケースを抱えたまま横になっていた。
白い髪は相変わらずぼさぼさで、服も泥と毒雨で汚れている。
けれど、昨日よりは顔色がいい。
やっぱり、食べるというのは大事だ。
腹が減ったままだと、心まで弱っていく。
逆に、何かを食べれば、それだけで人は少し前を向ける。
俺はグルメスモックの表面を確認した。
夜の間、最低限の防御だけ残していたせいで、そこまで摩耗してはいない。
だが、毒の空気を長く受けていたからか、袖の端がわずかに紫がかっている。
後で着替える必要がありそうだ。
毒雨は小降りになっている。
今なら話をする余裕もある。
俺は、膝を抱えて座っているブラウスに目を向けた。
「ブラウス、その……無理やり連れてこられたってのは?」
腹が落ち着いたあと、俺はそう質問した。
昨日は聞かなかった。
聞きたいことは山ほどあった。
なぜこんな危険区に一人でいたのか。
なぜ緊急転送ビーコンも持っていないのか。
なぜ響金包丁ハルシアなんて伝説級の包丁を持っているのか。
だが、昨日はまず食べることが先だった。
食べる前に聞いても、まともに話せなかっただろう。
ブラウスは少し俯いた。
それから、ぽつりと話し始める。
「僕は、妖食界の天狗山に住んでいます。天狗族の末裔です」
「天狗族……?」
俺は思わずブラウスの顔を見た。
天狗。
前世の日本なら、赤い顔に長い鼻、山に住む妖怪のイメージだ。
この世界にも妖食界があり、妖怪じみた種族や特殊な食文化が存在することは授業で習った。
だが、実際に天狗族の末裔に会うのは初めてだ。
俺はブラウスの顔をまじまじと見つめる。
真っ白な髪。
少し赤みのある肌。
整った顔立ち。
でも、鼻は普通だ。
少なくとも俺とほとんど変わらない。
「その割には鼻も俺と変わらないし……ちょっとだけ肌が赤いか?」
思ったことをそのまま言うと、ブラウスは少し身を引いた。
「近いですよ、アマジンさん」
「あ、ごめん」
「天狗族といっても、普通に人と結婚したりしています。僕は特に人間の遺伝子が勝っているようですね」
「なるほどな」
天狗族。
妖食界。
白い髪。
料理人。
俺の頭に、ふと一人の人物が浮かんだ。
ブランチ。
妖食界出身の天狗であり、かつてトリコたちと関わった料理人。
あのブランチの親族だったりしてな。
そんなことを思ったが、口には出さなかった。
この世界では千年も経っている。
子孫や親族がいてもおかしくない。
だが、本人にいきなり言うには少し踏み込みすぎだろう。
ブラウスはケースを抱え直し、話を続けた。
「天狗族は、十五歳になると地球のフルコースを自らの手で集めなければなりません」
「地球のフルコースを?」
「はい。すべてのフルコースを食したら、大人として認められるのです」
俺は思わず息を呑んだ。
地球のフルコース。
美食屋を目指す者にとって、避けて通れない食材。
だが、それを成人の儀式にしている種族がいるとは思わなかった。
「天狗族には、そんな掟があるのか」
「昔からあるそうです。もちろん今はビオトープ化されていますし、昔より安全だと言われています。でも……僕には無理です」
ブラウスは膝の上で指を握った。
包丁を持っている時とは、まるで別人のようだった。
「僕は強くない。料理は大好きだけど、調達まで自分でしたいとは思わないです」
その声は、弱々しい。
けれど、嘘ではなかった。
「できることなら、寝る間も惜しんでずっと料理をしておきたい。今までのように。食材を選んで、切って、焼いて、煮て、味を重ねて……それだけをしていたいんです」
俺は黙って聞いた。
その気持ちは、少し分かる気がした。
俺は食材に辿り着きたい。
未知を見たい。
自分で捕って食べたい。
でも、ブラウスは違う。
彼はきっと、食材を最高の形にすることが好きなのだ。
食材を探すより、戦うより、料理そのものに心を奪われている。
それは逃げではない。
立派な食への向き合い方だ。
「でも、そうやって反抗していたら……」
ブラウスの声が震えた。
「無理やり父にこのビオトープまで連れてこられ、この毒雨草原に放り込まれました」
「……マジか」
思わず低い声が出た。
いくら種族の掟とはいえ、毒雨草原に放り込むのはやりすぎではないか。
しかも緊急転送ビーコンもなし。
下手をすれば死ぬ。
俺の感覚で言えば、ありえない親だ。
だが、種族が違う。
文化が違う。
天狗族にとっては、それが当然の試練なのかもしれない。
それでも、納得できるかどうかは別だ。
「ってことは、手前の森まで担がれてかなんかで連れてこられたのか」
「はい。気づいた時には、毒雨草原の手前にいました」
「入口付近なら、すぐに退場してしまうだろうしな」
ブラウスは小さく頷く。
「緊急転送ビーコンとかは、その時没収されてしまいました」
「……それはきついな」
「もう何日もここに居ます……」
ブラウスの声が細くなった。
昨日、あれほど腹を空かせていた理由が分かった。
ポシェットもない。
補給食もない。
毒雨を避けながら、ほとんど動けずに何日も過ごしていたのだろう。
持っているのはケースだけ。
中には、響金包丁ハルシアとメルクの星屑含む小瓶。
伝説級の調理道具を持っていても、食材がなければ料理はできない。
料理人が料理できないまま空腹で座り込んでいる。
それは、きっとかなり辛かったはずだ。
「大変そうだな」
俺は正直に言った。
「俺の感覚でいけばありえない親だけど、種族も違うし、考え方も違うんだろうな」
「……父は、僕のためだと言っていました」
「そうか」
「でも、僕には分からないです」
ブラウスは俯いたまま言う。
その言葉に、俺はすぐには返事ができなかった。
親の期待。
種族の掟。
自分のやりたいこと。
それらが全部ぶつかっている。
簡単に正解を出せる話ではない。
ただ、一つだけは分かる。
「とりあえず、ここにずっと居るわけにはいかないだろう?」
俺がそう言うと、ブラウスの肩が震えた。
「でも……僕は、こんな毒雨にはとても耐えられません」
彼は外の紫の雨を見た。
弱くなったとはいえ、毒雨はまだ降っている。
小降りになっても、普通に浴びれば危険だ。
「結局、僕はここからどこにも行けないんです」
「安心しろ」
俺は立ち上がった。
ブラウスが不安そうに見上げる。
俺は彼の前にしゃがみ込み、両肩に手を置いた。
「え……?」
「ちょっとじっとしてろ」
俺は手に力を込めていく。
グルメスモック。
俺の食欲のエネルギーを、外側に纏う技。
今までは自分自身にしか使ったことがない。
だが、理屈の上では他人にも纏わせられるはずだ。
スモックとは、服の上から着る作業着。
なら、俺が作ったスモックを、ブラウスに着せればいい。
食欲のエネルギーを手のひらから流す。
ブラウスの肩を起点に、薄い膜を広げていく。
体を包む。
袖を作る。
胸元を重ねる。
頭に帽子。
口元にはマスク。
俺のグルメスモックと同じ形。
白い給食着のようなエネルギーが、ブラウスの体を包んだ。
「うお。初めてやったけど、できたわ……」
自分で言って、自分で驚いた。
本当にできた。
多少不安定ではあるが、形にはなっている。
ブラウスは目を丸くし、自分の袖を見下ろした。
「これは……?」
「グルメスモック。俺の技だ」
俺は少し胸を張る。
「見た目はあれだけど、毒雨なら容易に対処できるぜ」
ブラウスはそっと袖に触れた。
白いエネルギーの布が、淡く揺れる。
「暖かい……守られてる感じがします」
「だろ?」
言われて、少し嬉しくなった。
自分では給食着にしか見えなかった技が、誰かにとっては守られている感覚になるらしい。
それは悪くない。
「ただ、離れすぎんなよ」
俺はブラウスのスモックの端を指差した。
よく見ると、俺のスモックとブラウスのスモックの間には、細い白い紐のようなものが伸びていた。
食欲のエネルギーでできた接続線。
「これ、ひもでつながってるだろ? 俺からカロリーを供給しなきゃ、すぐにダメになる」
自分に纏う時とは違う。
ブラウス自身のエネルギーで維持しているわけではない。
あくまで俺が作り、俺が維持している。
つまり、二人分のグルメスモックを俺のカロリーで支える必要がある。
消耗はかなり増えるだろう。
長時間は厳しいかもしれない。
だが、ここでブラウスを置いていく選択肢はない。
「わかりました……!」
ブラウスは力強く頷いた。
昨日までの弱々しさとは少し違う。
白いスモックを着たことで、安心したのかもしれない。
俺は改めて自分たちの姿を見た。
白いスモック。
白い帽子。
白いマスク。
しかも二人。
はたから見れば、給食着を着た少年が二人である。
間に鍋でも持っていれば、完全に給食当番だ。
毒雨草原に現れた、謎の給食当番コンビ。
うん。
ものすごく締まらない。
俺は思わず笑ってしまった。
「何か、おかしいですか?」
ブラウスが不思議そうに聞く。
「いや、なぜだか二人で着てると心強いなと思って」
これは本音だった。
一人で着ていた時は、どうしても間抜けさが目立った。
だが、二人で着ていると違う。
同じ格好で、同じ雨の中に立つ。
それだけで、少しだけ勇気が湧いた。
ブラウスも小さく笑った。
「僕も……一人じゃないと思うと、少し安心します」
「よし。じゃあ行こう」
俺はポシェットを確認する。
簡易食材鑑定キット。
グルメID同期端末。
緊急転送ビーコン。
携帯用調理ナイフ。
冒険ノート。
ブラウスはケースをしっかりと抱えた。
中には、響金包丁ハルシアとメルクの星屑。
俺は食材を探し、仕留める。
ブラウスは料理をする。
まだ正式にそう決めたわけではない。
けれど、昨日の食事で分かった。
俺たちはたぶん、相性がいい。
「目指すは、のろま雨の丘。エアだ」
「はい」
「途中で食材を見つけたら、できるだけ確保する。俺のカロリーも必要だし、ブラウスも腹減るだろ?」
「料理なら、任せてください」
その言葉には、さっきまでより少し力があった。
料理の話になると、本当に顔が変わる。
俺は笑って頷いた。
「頼りにしてる」
大木の根元を出る。
毒雨はまだ降っている。
紫の草原は相変わらず不気味で、遠くには黒い霧が広がっている。
足元には毒の泥。
どこかに底なし沼もある。
大型モンスターが出ない保証もない。
そして、俺のカロリー消費は二人分に増えた。
状況は、決して楽ではない。
それでも、不思議と昨日より怖くなかった。
俺とブラウスの間で、白い紐が淡く光る。
給食当番みたいな二人組が、毒雨草原を歩き出す。
目指すは、のろま雨の丘。
地球のフルコース、エア。
飽食時代の危険区で、俺たちの二人旅が始まった。