次に目を開けたとき。
目の前には、食材が無限に広がっていた。
「……」
言葉が出なかった。
大地から野菜が生えている。
木には果実が実っている。
川には魚が泳ぎ、空には鳥が飛び、獣の気配もある。
肉の香り。
果物の甘い匂い。
焼いていないのに、どこか香ばしい空気。
米のような、麦のような、出汁のような。
ありとあらゆる食材が、ここにはあった。
ここが食の楽園。
センターがある場所。
地球内部、エリア0。
そう理解するより先に、俺の腹が鳴った。
「うまそう……」
思わず呟く。
だが、すぐに違和感があった。
おかしい。
俺の記憶にある光景とは少し違う。
もちろん、これは前世で漫画として見た知識だ。
実際に見たわけではない。
それでも、覚えている。
原作で見た時は、もっと食材が次々に生まれて、溢れ出していた。
世界そのものが食材を噴き上げているような、そんな圧倒的な場所だった。
けれど、今は。
「そこまでじゃない気がする……」
十分すごい。
十分異常だ。
食材は無数にある。
空気だけで腹が減る。
でも、溢れ出しているというより、静かに満ちている。
暴れるような生命ではなく、落ち着いた生命。
そんな印象だった。
「それは、すでに地球の膨張は終わっているからですね」
誰かの声がした。
「うわっ!?」
俺はすぐに後ろを振り返った。
そこには、妙な一角があった。
さっきまで、そんなものはなかったはずだ。
大量の本が入った本棚。
それに囲われるように、小さなテーブルが置かれている。
椅子は二つ。
まるで、食の楽園の真ん中に、小さな図書室だけが切り取られて置かれているようだった。
そして、そのテーブルのそばに、一人の人物が立っていた。
「あ、あなたは……」
性別が分からない。
中性的だ。
細い体。
整った顔立ち。
ブロンドのロングヘアーは、艶がすごい。
光を受けるたび、金色というより、熟した果実の蜜のように輝いている。
服装は、白と黒を基調にした長い衣。
料理人のようにも、司書のようにも、旅人のようにも見える。
不思議な人だった。
「さぁ、こちらへどうぞ」
その人はにこりと笑った。
「久しぶりのお客さんだ。色々話を聞きたいですね!」
「いや、聞きたいって、俺も山ほど気になるよ……」
俺は思わず言った。
「なんでこの場所に人がいるんだよ」
「そんなことより、まずは自己紹介です」
「そんなこと!?」
ここ、センターのある場所だぞ。
地球内部の食の楽園だぞ。
人がいるの、普通に大問題じゃないのか。
「私はアールシ」
その人は胸に手を当てた。
「歴史を追求する者です。あなたは?」
「あ、俺はアマジン」
「アマジン君!」
アールシは嬉しそうに目を細めた。
「素晴らしいです。来客は君で二人目なんですよ」
「二人目……?」
「ええ」
アールシは椅子を引く。
俺は言われるがままにテーブルへ招かれた。
何だこの状況。
センターを取りに来たはずなのに、食の楽園でお茶会みたいなことになっている。
「一人目は、メリスタという青年でした」
「メリスタ!?」
思わず声が出た。
やっぱりメリスタはここに来ている。
本人も言っていたが、改めて聞くとすごい。
「センターを山ほど持って帰りましたよ」
「山ほど!?」
「ええ。とても必死でした」
「メリスタ、青年……? いったい何年前の話なんだ……」
俺の知っているメリスタは、青年というより研究所長だ。
もちろん今でも若く見えるが、雰囲気は完全に年上だ。
アールシが言う青年のメリスタとは、かなり昔なのだろう。
「その子は、悪魔共食という技を駆使して無理やり来ていましたね」
アールシはさらっと言った。
「ここに着いた時は瀕死でしたが……センターで一発回復です」
「軽く言うなぁ……」
メリスタは、食欲の記憶を悪魔に喰わせてここへ来た。
その代償に、いくつかの味を置いてきた。
瀕死。
それでもセンターを持ち帰った。
あの人、本当に何をしているんだ。
「あなたは、どうやって来たんでしょうね!」
アールシは、興味津々という顔で俺を見た。
「えっと、俺はなんでか分からないんだ」
「ほう」
「普通に行けたというか……」
「普通に」
アールシの目が細くなる。
笑っているようにも見える。
だが、その奥にあるものは深かった。
彼、いや彼女、いやそのどちらでもないような人は、じっと俺の方を見た。
まるで、本のページを読むように。
俺という人間の表面ではなく、その奥にある記録をめくるように。
「君は四人目の……最後の終末の食客」
アールシは言った。
「この地球の終末を見た者ですね?」
「え、この地球……!?」
俺は思わず立ち上がりかけた。
この地球。
今、俺がいる星。
トリコたちが生きた世界。
地球のフルコースがある星。
その終末?
いや、違う。
俺が見たのは。
「厳密に言うと、この膨張した地球ではありません」
アールシは静かに言った。
「その前の。終わりであり、始まりの日を見た者です」
「終わりであり、始まり……」
背筋が冷えた。
前世の記憶。
古い漫画を読んでいた日。
会社のテラス。
コーヒー。
空。
黒く赤く光る巨大な何か。
そして、世界が白くなる瞬間。
あれ。
俺が一度死んだ日。
「終末の食客は、それぞれ終わりを見ました」
アールシの声は穏やかだった。
けれど、言葉の一つ一つが重い。
「フワは、食材と人が別れた星の終末を見た」
「トキサダは、時が味を失った星の終末を見た」
「私は、記録から食が消えた星の終末を見た」
そして、アールシは俺を見た。
「そして君は……この地球の終末を見た」
「ちょっと待て……話が急すぎるよ」
俺は頭を押さえた。
フワ爺。
トキサダ。
アールシ。
終末の食客。
前にもその言葉は聞いた。
でも、実感なんてなかった。
終末を見た者。
別の星の終わりを見た者たち。
そして俺も、その一人。
「俺もその、終末の食客ってやつなのか?」
「ええ」
アールシはあっさり頷いた。
「終末を見た魂は、食の記録を強く残す」
「食の記録……」
「何を食べたか。何を食べたかったか。誰と食べたかったか。最後に何を思ったか。終末の瞬間、それらは魂へ強く刻まれます」
「……」
「それを、誰かが一か所に集めた」
「何の話だ……?」
俺は思わず呟く。
この人、説明しているようで核心を避ける。
いや、たぶんわざとだ。
全部は言わない。
でも、必要な断片だけを置いていく。
「とにかく、君がここに来られた理由は分かりました」
「えっ、もう分かったのか?」
「はい」
アールシはテーブルの上に指を置く。
すると、何もないはずの空間に、薄い文字のようなものが浮かんだ。
古い記録。
読めない。
でも、食材の香りがした。
「一度死んで、空席になっているからです」
「空席……」
「この道は、ある意味で死んだ者が通る道です。食欲を置いてきた者。肉体から離れた者。命の中心へ戻る者」
アールシは俺を見た。
「君は今、生きています。腹も減っている。食欲もある。ですが、魂の記録としては、一度終末で死に、食霊となった痕跡がある」
「食霊……」
「だから道は、君を死んだ者が通ったと勘違いしているのです」
俺は椅子に座ったまま、手を握った。
食欲を捨てていない。
俺はそう思っていた。
今も腹は減っている。
この場所の食材をうまそうだと思っている。
センターを飲みたいと思っている。
俺は俺だ。
でも、道は俺を通した。
それは、俺が一度死んでいるから。
食霊だったから。
「なぁ、俺はどうなったんだ?」
俺は聞いた。
「確かに、一度死んだ記憶はあるんだ。曖昧な部分も多いけど、確かに残ってる」
あの白い終わり。
あの黒赤い空。
俺は死んだ。
そして、この世界に生まれた。
それだけだと思っていた。
転生。
そういうものだと。
でも違うのか。
俺は、途中で何かに捕まっていたのか。
誰かの皿に乗せられるはずだったのか。
「その回答は簡単です」
アールシは言った。
「あなたは終末を見て、食霊になりました」
「……」
「そして、一度捕らえられ、我々は一か所に集められました」
俺の胸の奥がざわつく。
見たことがある気がした。
どこか、暗い場所。
大きな食卓。
座るはずの椅子。
誰かを待つ皿。
俺だけではない。
他にもいた。
ぼんやりとした気配。
食べたかったもの。
失った食卓。
終わった星の記録。
「ですが、何かの拍子に解放されたのです」
「何かの拍子……」
俺は額に手を当てた。
「なんか、一度一つの食卓に集まったことがある気もする……」
「そうですか」
アールシは微笑んだ。
「ただし、今の君がすべて思い出す必要はありません」
「どうして?」
「思い出すことが、食べることの邪魔になるなら、今は不要です」
変な言い方だった。
でも、少し分かる気もした。
今、全部知ったら。
俺は何者なのか。
俺の食欲は誰のものなのか。
そんなことばかり考えて、目の前の食材を味わえなくなるかもしれない。
それは嫌だ。
めちゃくちゃ嫌だ。
「あの……とりあえずさ」
「はい」
「いい匂いがめちゃくちゃするから、早く飲みたい……センター」
言った瞬間、自分でもどうかと思った。
流れ的には、もっと深刻に悩むべきだろう。
終末の食客。
食霊。
捕らえられた魂。
謎の食卓。
十分重い。
重すぎる。
でも。
センターの匂いがしている。
命の中心みたいな匂い。
飲みたい。
食べたい。
味わいたい。
それが正直な気持ちだった。
アールシは一瞬きょとんとして、それから楽しそうに笑った。
「ふふ。ここに来てもなお、素晴らしい食欲を持っていますね」
「いや、我慢できなくて……」
「いいのです」
アールシは優しく言った。
「その自分自身の食欲。大事にしてください」
「自分自身の……」
「誰かに捕らえられたことがあっても、誰かの皿に並べられる予定だったとしても」
アールシは静かに続ける。
「君がこの世界で食べ、喜び、感謝した記録は、君のものです」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
よかった。
それを聞きたかったのかもしれない。
俺の食欲は、俺のもの。
エアを食べてうまいと思ったこと。
ペアを飲んで喜んだこと。
アトムを味わったこと。
アナザに震えたこと。
ニュースに叫んだこと。
アースあんバターサンドで幸せになったこと。
ゴッドを食べて感謝したこと。
父さんと母さんと食べた飯。
ブラウスの料理。
はむまると囲んだ食卓。
全部、俺の記録。
俺の食欲。
「私が用意しましょう!」
アールシは立ち上がった。
「センターを?」
「もちろんです」
そう言って、アールシは本棚の方へと歩いていく。
本棚の奥に、さらに小さな扉があった。
いや、扉ではない。
食材の香りでできた入口。
記録のページが重なり、そこに道を作っている。
「アマジン君」
アールシは振り返る。
「センターは、命を戻す食材ではありません」
「え?」
「命がどこから来て、どこへ帰るのか。それを教える食材です」
その言葉を残して、アールシは本棚の奥へ歩いていった。
俺はテーブルに座ったまま、周囲を見る。
無限に広がる食材。
静かに満ちた食の楽園。
終わった星の記録。
捕らえられた食霊。
そして、俺自身の食欲。
腹が鳴る。
「……早く飲みたいな」
俺は小さく呟いた。
その声は、食の楽園の空気に溶けていった。