アールシは、本棚の奥へ消えた。
いや、消えたというより、ページの向こうへ入っていったように見えた。
食材の香りでできた入口。
記録の紙が重なったような道。
そこにアールシの金色の髪がするりと飲み込まれ、姿が見えなくなる。
俺は一人、テーブルの前で待っていた。
食の楽園。
地球内部、エリア0。
目の前には無限みたいに食材が広がっている。
果実が実り、魚が泳ぎ、獣が歩き、鳥が飛ぶ。
だが、妙に静かだ。
原作で見たような、食材が爆発するみたいに湧き出す勢いはない。
それでも、匂いは濃い。
命の匂い。
食材になる前の匂い。
腹が減る。
ものすごく腹が減る。
「センター……」
最後の一皿。
これを飲めば、俺は地球のフルコースをすべて食べることになる。
美食屋になる。
そのはずだ。
でも、今はそれだけではない。
終末の食客。
食霊。
一度捕らえられた魂。
一つの食卓。
アールシが話した言葉が、頭の中でぐるぐる回っている。
俺は一度死んだ。
前世で、地球の終末を見た。
そして食霊になり、誰かに捕らえられた。
フワ爺も。
トキサダも。
アールシも。
それぞれ違う星の終末を見た。
俺は最後の終末の食客。
意味が分からない。
分からないのに、どこかで知っている気もする。
胸の奥に、空いた椅子がある。
そこに誰かが座るはずだったような。
俺が座るはずだったような。
いや、違う。
考えすぎると気持ち悪い。
そんな時だった。
「お待たせしました」
アールシの声がした。
俺は顔を上げた。
アールシが本棚の奥から戻ってくる。
その手には、小さな透明の器があった。
杯。
いや、雫を受けるための皿にも見える。
そこに、ほんの少しだけ液体が入っていた。
透明。
だが、ただの水ではない。
光を受けると、赤にも、金にも、白にも、緑にも見える。
まるで、すべての食材の色を薄く溶かし込んだような液体。
うっすらと細胞のような模様も浮き上がる。
それを見た瞬間、腹の奥が鳴った。
喉が動く。
飲みたい。
今すぐ飲みたい。
「これが……センター?」
「はい」
アールシは静かに器を置いた。
「命がどこから来て、どこへ帰るのか。それを教える食材です」
「復活の食材って聞いてたけど」
「復活とは、戻ることです」
アールシは微笑む。
「ただし、何でも都合よく戻すわけではありません。戻るべき中心を持つ命に、その帰り道を示す。それがセンターです」
「帰り道……」
「飲めば分かります」
そう言われたら、飲むしかない。
俺は器を手に取った。
軽い。
でも重い。
手のひらに乗っているのは、ほんの一口分の液体だ。
なのに、地球の中心を持っているみたいな重さがある。
俺は息を吐いた。
手を合わせる。
「いただきます」
そして、センターを飲んだ。
最初は、味がなかった。
水。
いや、水よりも薄い。
何もない。
そう思った。
次の瞬間。
全身が産声を上げ、勢いよくすべてが生え変わった。
それと同時にすべての味が来た。
「――っ」
声が出なかった。
甘い。
辛い。
苦い。
酸っぱい。
しょっぱい。
うまい。
まずい。
生まれる前の味。
死んだ後の味。
肉になる前の味。
誰かが初めて食べた味。
誰かが最後に食べた味。
すべてが一気に口の中へ流れ込んだ。
舌では受け止められない。
喉でもない。
胃でもない。
細胞でもない。
もっと奥。
俺の中心へ、味が落ちていく。
そして、見えた。
・・・
暗い食卓があった。
どこまでも広いのに、どこまでも狭い。
空も地面も分からない場所。
そこに、長いテーブルが置かれている。
皿が並んでいる。
椅子が並んでいる。
誰かが座るはずの席。
誰かが食べられるはずの席。
いや、違う。
座らせるための椅子。
入れるための器。
ぼんやりとした気配がいくつもある。
その中に、見覚えのある匂いがあった。
深海の泡。
古い定食屋。
アナザと笑う老人。
フワ爺。
花陰のカウンター。
三拍待てと言う老人。
時守トキサダ。
記録の紙。
消えていく味を追う者。
アールシ。
そして、俺。
前世の俺。
終わった世界から拾われた魂。
隕石。
黒く赤く光る空。
白くなる世界。
あの日の俺。
俺たちは、そこにいた。
同じ食卓に並べられていた。
食べるためではない。
食べさせるためでもない。
器に入れられるため。
誰かのために成長させられるため。
使い潰されるため。
そう理解した瞬間、吐き気がした。
だが、体は動かない。
記録が流れてくる。
俺は、それを見ているだけだった。
・・・
次に、光が走った。
誰かがいた。
巨大な背中。
いや、巨大なのは背中ではない。
食欲だ。
その人の食欲が、あまりにも大きかった。
目の前にある暗い食卓。
黒く赤い何か。
支配する食欲。
奪うための口。
そこへ、真正面から立っている。
怖くないのか。
怖いはずだ。
相手は化け物だ。
星を食うような悪魔だ。
それなのに、その人は笑っている気がした。
俺には顔が見えない。
名前も分からない。
でも。
見覚えがある気がした。
前世で何度も読んだ。
憧れた。
その食欲に。
その背中に。
「まさか……」
声にならない声が漏れる。
その人が拳を握った。
いや、拳なのか。
フォークなのか。
釘なのか。
食欲そのものなのか。
分からない。
ただ一撃。
世界が揺れた。
暗い食卓が砕ける。
椅子が飛ぶ。
皿が割れる。
黒く赤い何かが、初めて苦しむ。
咆哮。
怒り。
飢え。
逃げるな。
戻れ。
私の皿へ。
私の器へ。
私の味へ。
そんな声が聞こえた気がした。
だが、光は止まらない。
食卓が壊れる。
食霊たちが散る。
俺も、その中にいた。
落ちていく。
飛ばされる。
逃がされたのか。
落とされたのか。
解放されたのか。
分からない。
ただ、その一撃がなければ、俺たちは今もあの皿の上にいた。
そう思った。
・・・
さらに記録が流れる。
器が砕けた。
巨大な器。
誰かを入れるための器。
誰かの食欲を座らせるための空席。
それが、砕けて散っていく。
粒。
種。
微細な欠片。
それらは地球へ降り注いだ。
長い時間。
種は眠った。
地球の中に潜った。
食材の流れに混ざった。
誰にも気づかれず、眠り続けた。
そして。
どこかで、誰かの命へ触れた。
温かい腹。
母の鼓動。
父の声。
生まれる前の命。
そこへ、何かが混ざる。
だが、それは俺そのものではない。
俺を作ったものではない。
俺の魂ではない。
それは器の種。
空席の形。
座らせるための構造。
俺は、それに重なった。
普通の両親の子。
それらが、ひとつになって生まれた。
アマジンとして。
・・・
次に見えたのは、家だった。
普通の家。
普通の食卓。
母さんが料理を並べている。
父さんが適当なことを言っている。
小さい俺が、皿を覗き込んでいる。
「熱いから気をつけてね」
「まずは一口食べてみなさい」
湯気。
白いご飯。
味噌汁。
焼いた肉。
野菜。
普通の食事。
でも、その普通が、胸に痛いくらい温かかった。
俺は食べる。
うまいと言う。
母さんが笑う。
父さんが笑う。
何度も見た食卓。
何でもない日の食卓。
俺が俺になった場所。
俺は、父さんと母さんの子だ。
この食卓で育った。
この飯で育った。
この世界で、食べて、笑って、泣いて、腹を空かせてきた。
それは、誰にも奪わせない。
そう思った瞬間、胸の奥の空席に、温かい料理が置かれた気がした。
誰かを待っていた椅子。
そこに、母さんの味噌汁が置かれる。
父さんの適当な言葉が乗る。
ブラウスの料理が並ぶ。
はむまるの頬袋が膨らむ。
グリドの笑い声が遠くで響く。
フワ爺の深海定食。
トキサダの時調べの一杯。
アールシの記録。
全部が、俺の食卓に置かれていく。
・・・
さらに、何かが流れてきた気がした。
黒く赤い空。
巨大な口。
母のような声。
主。
器。
戻れ。
誰かの笑い声。
誰かの悲鳴。
俺の中の空席に、何かが無理やり座ろうとする気配。
もっと奥。
もっと深く。
見なければいけない気がした。
思い出さなければいけない気がした。
だが。
「ストップ」
アールシの声が響いた。
次の瞬間、流れ込んでいた記録が止まった。
俺は、息を吸った。
いつの間にか、テーブルに両手をついていた。
目の前にはアールシがいる。
食の楽園。
本棚。
小さなテーブル。
俺は戻ってきていた。
「今は、それ以上思い出そうとしなくていいです」
アールシは静かに言った。
「でも……」
「記録は、味と同じです。順番を間違えれば、毒になります」
「毒……」
「君は今、大切なことを思い出しました」
アールシは指を一本立てる。
「自分が一度、終末を見た食霊だったこと」
二本目。
「捕らえられ、食卓に並べられていたこと」
三本目。
「何かの一撃で、そこから解放されたこと」
四本目。
「器の種が散り、それが長い時を経て君と重なったこと」
そして、アールシは柔らかく笑った。
「それから、君が父と母の子として食卓で育ったこと」
俺は唇を噛んだ。
胸がいっぱいだった。
怖い。
分からない。
でも、最後の記憶が一番強かった。
父さんと母さんの食卓。
俺を育てた味。
それがあったから、俺はまだ立っている。
「そうだな……」
俺は息を吐いた。
「今は、それでいい気がする」
「はい」
「全部知るのは……たぶん、まだ早い」
「そういうことです」
アールシは満足そうに頷いた。
俺は自分の腹に手を当てる。
センターの味が、まだ中にある。
無味だった。
すべての味だった。
命の中心だった。
そして、俺の中心を教えてくれた。
「アールシ」
「はい」
「これで俺、センターを食べたことになるのか?」
「なりますよ」
「美食屋になれる?」
「制度上の手続きは外でどうぞ」
「急に現実的!」
思わずツッコむ。
アールシは楽しそうに笑った。
「そんなことより、まだまだありますよ」
「え?」
アールシは本棚の奥から、今度は少し大きめの器を取り出した。
そこには、先ほどより多めのセンターが入っている。
透明なのに、光が揺れている。
匂いがすごい。
さっき飲んだばかりなのに、また腹が減る。
「飲みますか?」
「飲むー!」
即答だった。
自分でも早いと思った。
だが、仕方ない。
うまいのだ。
まだ飲みたい。
もっと味わいたい。
「ふふ」
アールシが笑う。
「本当に素晴らしい食欲です」
「いただきます!」
俺は再び器を受け取る。
重い記憶。
怖い真実。
分からないこと。
全部ある。
でも、今は飲む。
センターを味わう。
俺の食欲で。
俺の中心で。
俺は二杯目のセンターを、勢いよく飲み干した。
100話まで行けたのは、見ていただいた皆様もおかげです。
感想もお返事がほぼ出来ておりませんが……見てニヤニヤさせてもらってます。
本当にありがとうございます。
引き続きよろしくお願いいたします!
次話 第102話 間話 アマジンの検査報告 夜更新します。