大規模前哨基地、Aサイト。
最深部。
そこは、食卓だった。
いや、食卓と呼ぶにはあまりにも汚い。
巨大な広間。
赤黒い壁。
鼓動するように脈打つ床。
無数の皿。
無数の肉。
無数の骨。
そこに積まれているのは、外宇宙の食材だけではなかった。
グリーントロルの死体もあった。
腕。
脚。
胴。
頭。
種族を支配した悪魔は、その種族すら食卓に並べていた。
その中心に、彼女はいた。
一見すると、人間の女性だった。
美しい顔。
白い肌。
細い腕。
腰まで伸びた髪。
だが、その背には蝶のような美しい大きな羽が生えている。
耳は尖っていた。
エルフ。
あるいは妖精。
そういうものを思い浮かべる姿だった。
ただし、目の前の食事の仕方は、あまりにも汚い。
手づかみ。
丸のみ。
噛み砕く。
骨ごと。
皮ごと。
内臓ごと。
皿の上のものを、何でも食らう。
美しい顔に、肉汁がべったりとついている。
白い指に、赤黒い血が絡んでいる。
それでも彼女は、食べることをやめない。
マザーグリード。
グリーントロルを食らい、種族ごと支配した悪魔。
支配する食欲。
奪う食欲。
母の顔をした、飢えそのもの。
「次」
マザーグリードが言う。
その声に従い、グリーントロルたちが新たな食事を運んでくる。
巨大な外宇宙食材。
星の生命循環から吸い上げた回復食。
そして、動かなくなった同族の体。
グリーントロルたちは何の疑問も持たない。
何の怒りもない。
何の悲しみもない。
主へ。
主のために。
主の食卓へ。
それだけを考えて動いている。
マザーグリードの背後には、巨大な繭があった。
赤黒く、肉のようで、植物の実のようで、胎内のようでもある繭。
その表面は脈打っている。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
マザーグリードの体から、いくつもの食欲の線が伸びている。
細く、赤く、粘ついた線。
それらは後方の巨大な繭へ繋がり、食卓から得たエネルギーを注ぎ込んでいた。
食う。
送る。
食う。
送る。
その繰り返し。
まるで、母が腹の子へ栄養を送るように。
だが、その光景には温かさなど一つもなかった。
あるのは、支配。
所有。
完成への執着。
マザーグリードは食べ続ける。
次の器を完成させるために。
己の食欲を、再び座らせるために。
・・・
その時。
マザーグリードが、ぴくりと動いた。
食事を止める。
肉を持った手が宙で止まる。
広間にいたグリーントロルたちが、一斉に動きを止めた。
「全員、もうよい」
マザーグリードは静かに言った。
「下がりなさい!」
「はっ!」
グリーントロルたちは即座に頭を下げた。
一人残らず、その場から退散していく。
食材を運んでいた者も。
死体を並べていた者も。
警護の者も。
すべてが広間から消えた。
残されたのは、マザーグリードと巨大な繭だけ。
マザーグリードは恍惚とした表情で繭を見た。
「ついに出来上がる……!」
彼女は両手を広げる。
背の羽が震えた。
「さぁ、いつでも出てきなさい。器となる子よ」
食欲の線が太くなる。
マザーグリードは、全エネルギーを送る勢いで繭へ注ぎ込んだ。
体がわずかに痩せる。
頬がこける。
羽の光が鈍る。
それでも構わない。
完成すればよい。
器が生まれればよい。
自分の食欲を入れる器。
自分の飢えを満たす器。
自分のために食べ、自分のために育ち、自分のために差し出される命。
「もうすぐ……!」
繭が大きく脈打つ。
赤黒い表面に罅が入る。
マザーグリードの目が歓喜に歪む。
その時。
ザンッ!!
赤い食欲の線が切れた。
続けて。
ザシュ!
マザーグリードの体が、斜めに裂けた。
肩から腰へ。
一瞬で両断される。
白い肌。
赤黒い血。
散る羽の鱗粉。
マザーグリードの目が見開かれた。
彼女の背後に、影が立っていた。
薙刀のように長い包丁を握った、緑の男。
「どや?」
男は笑った。
「わいの薙刀包丁の味は」
「グリド……!」
マザーグリードが名を吐き出す。
逃げた味。
九百年前に皿の外へ落ちた食欲。
元総長。
下位戦士。
グリドは、そこにいた。
「出産に近い行動」
グリドは薙刀包丁を構えたまま言った。
「この時が、体力が最高に減っとる時やと踏んだ」
マザーグリードの上半身と下半身がずれ、床へ崩れ落ちる。
それでも彼女の目はグリドを睨んでいた。
「貴様……どこから現れた」
「ずっと近くにおったで」
グリドは肩をすくめる。
「気づかんかったやろ?」
「……」
「借威幻獣――フェイク・プレデター」
グリドの周囲に、薄い気配が揺れる。
それは猛獣の威圧ではない。
マザーグリード自身の食欲に似せた匂い。
支配の線に紛れる味。
主の一部であるかのような、粘ついた気配。
「それで、お前と同じ匂いまとってたからな」
グリドは笑う。
「誰しも、自分の匂いには違和感もたんのや」
「許さぬ……!」
マザーグリードの声が、地の底から響く。
だが、グリドは構わず繭へ向かった。
「話してる場合ちゃうわ」
薙刀包丁を握り直す。
「器とやらも、破壊させてもらうで」
グリドは繭へ近づいた。
食欲の線はすでに切った。
マザーグリードの体も両断した。
今ならいける。
この繭を壊せば、計画は崩れる。
器の完成を止められる。
アマジンに繋がる道も、少しは遠くなる。
そう思った。
だが。
繭は、すでに割れていた。
「……は?」
グリドは足を止めた。
赤黒い繭は、中央から縦に裂けている。
中は空洞。
肉の膜。
ぬめった壁。
乾きかけた液体。
だが、それらしい何かは何もない。
器となる子。
完成するはずだったもの。
それが、どこにもいない。
「は? なんもあらへんやんけ」
グリドは繭の中を覗き込む。
空。
匂いも薄い。
気配もない。
生まれた痕跡はある。
だが、そこにいたものの残り香が、ほとんどない。
「おい、どういうことや!」
グリドは振り返った。
だが、マザーグリードはすでにこと切れていた。
少なくとも、そう見えた。
両断された体は床に崩れ、動かない。
血が広がる。
羽は力を失っている。
「ちっ……一撃で死ぬなや」
グリドは舌打ちした。
聞きたいことは山ほどあった。
器はどこへ行った。
生まれたのか。
逃げたのか。
それとも最初から中にいなかったのか。
アマジンと関係あるのか。
マザーグリードの計画は何なのか。
全部、分からないままだ。
グリドは繭とその近辺を調査する。
割れた膜を剥がす。
床を見る。
周囲の食欲の流れを読む。
だが、何かが落ちているわけでもない。
殻。
液体。
切れた線。
それだけ。
匂いも何も残っていない。
普通なら、こんなことはあり得ない。
どれほど上手く隠れても、食材には匂いが残る。
生まれたものには味が残る。
器なら、なおさらだ。
なのに、ない。
「まさか、裏チャンネルに逃げたか……?」
グリドが呟いた。
地球のニュース。
アナザ。
ワープロード。
裏の道。
別の空間へ逃げた可能性。
そう考えた瞬間。
ザシュ……。
「な……ッ!」
グリドの背中が裂けた。
羽だった。
マザーグリードの羽。
いや、羽の一枚一枚が、鋭利な刃物になっていた。
グリドは反射的に飛び退こうとした。
だが遅い。
腹。
肩。
脚。
胸。
切られる。
裂かれる。
体が崩れる。
グリドは膝をついた。
視界の先で、マザーグリードが立ち上がっていた。
いや、違う。
二人いた。
両断されたはずの上半身と下半身が、それぞれ別のマザーグリードの姿を取っている。
背の羽は四つに分かれ、細い線で繋がれながら宙に浮いている。
そのすべてが刃だった。
美しい蝶の羽が、肉を裂く包丁になっている。
「ふふ」
二人のマザーグリードが同時に笑った。
「愚かなグリド」
声が重なる。
「私は悪魔」
片方が言う。
「そんな攻撃で死なない」
もう片方が続ける。
そして、二つの姿がゆっくりと一つに戻っていく。
肉が繋がる。
血が戻る。
羽が重なる。
切断面が消える。
先ほどまで両断されていたはずのマザーグリードは、何事もなかったかのように立っていた。
「いや、初耳やでそれ……」
グリドは血を吐きながら言った。
冗談めかしたつもりだった。
だが、声に力が入らない。
致命的だ。
背中も、腹も、脚も深い。
内臓まで届いている。
薙刀包丁を支えにして、どうにか倒れずにいるだけ。
「終わりです、グリド」
マザーグリードは歩いてくる。
美しい顔。
血に汚れた口元。
尖った耳。
蝶の羽。
その姿は、どこまでも綺麗で、どこまでも汚かった。
「怪しいとは思っていましたよ」
マザーグリードは、うっとりと笑う。
「支配の線が薄い。匂いがずれている。皿の外へ落ちた味が、従順なふりをして戻ってきた」
「……」
「けれど、生かしておきました」
マザーグリードの口元が、さらに裂ける。
「あなたを食べるために」
グリドの背筋が、ぞっと冷えた。
「九百年、皿の外で熟した逃げた味。支配を離れ、自分の食欲を持ったまま戻ってきた希少な肉」
マザーグリードは舌で唇を舐める。
「それは、ただの下位戦士よりずっと美味でしょう?」
「わいを熟成肉みたいに言うなや」
「逃げた味は、皿へ戻る」
マザーグリードの口が大きく開いた。
人間の口ではあり得ないほど大きく。
奥に、無数の歯。
喉の奥に、赤黒い食欲。
グリドを食うために。
「へへ……」
グリドは笑った。
「せやけどそうはいかへんで」
彼は懐へ手を入れる。
血で滑る指を無理やり動かし、ひとつのものを取り出した。
筒状のガラスケース。
中には、ビー玉ほどの小さく輝く玉が入っている。
形状は、手榴弾のようだった。
側面には金属のピン。
小さく、しかし異様な存在感を持つ爆弾。
マザーグリードの目が初めて揺れた。
「お前……それは……!」
「超新星爆弾や」
グリドは血まみれの口で笑う。
「下位戦士が持つには、ちょっと物騒すぎるやろ?」
「やめなさい」
マザーグリードの声が変わった。
命令。
支配。
怒り。
焦り。
すべてが混ざる。
「グリド!」
「嫌や」
グリドはピンに指をかけた。
マザーグリードの羽が動く。
だが、遅い。
「九百年ぶりに帰ってきた元総長からの、手土産や」
グリドはピンを抜いた。
その瞬間、あたりが閃光で包まれた。
音が消える。
色が消える。
赤黒い広間が、白に塗りつぶされていく。
マザーグリードの怒号が遠ざかる。
羽が迫る。
食欲の線が暴れる。
だが、もう遅い。
グリドは、光の中で目を閉じた。
思い出したのは、零山脈だった。
寒い場所。
セーフゾーン。
アマジン。
はむまる。
久しぶりの飯。
九百年ぶりに、自分の食欲で笑った食卓。
「アマジン……」
声は、もうほとんど出なかった。
「また修行つける約束、果たせそうにないわ……」
光が強くなる。
体が消えていく。
痛みも薄れていく。
「また一緒に飯、食いたかったな」
長い人生だった。
総長だった。
支配された。
逃げた。
隠れた。
生き延びた。
九百年以上。
あまりにも長い時間。
だが。
「長い人生やったが……」
グリドは笑った。
「あの時が一番おもろかったわ」
Aサイトは、光に包まれた。
その瞬間、グリドは遠い地球に置いてきた小袋を思い出した。
ほんの少しだけ、自分の味がまだ皿の外に残っている。
それだけで十分だった。
大規模前哨基地の最深部から始まった白い閃光は、赤黒い通路を飲み込み、食卓を消し飛ばし、輸送区画を焼き尽くし、監視網を破壊した。
赤い宇宙に、ひとつの星のような光が咲く。
逃げた食欲は、最後まで皿には戻らなかった。
次話は明日の同じくらいの時間予定です。